「はぁ、はぁ……ぁぐっ……!? ぅっ、うぅっ、ぇぇ……!!」
「ナツメ!?」
山の上半分を覆う"闇の吹き溜まり"にある程度近づいた、その時。
先ほどから苦しげだったナツメがとうとう口を抑えて蹲り、朝食べたものを吐き出し始めた。
ローランがナツメの背を撫でさするも、嘔吐はいっこうに収まらない。
もう吐き出すものが腹に残っていないにも関わらず、それでもえづき続けている。
「だ、だめ……この、魔力……暗くて、ぅぐ、たくさん、蠢いてて……ぅぇっ……!」
おそらく"吹き溜まり"の中に潜む闇の魔物のおぞましい気配が、尋常ならざる魔力感知能力を持つナツメにとっては、猛毒にも等しいのだ。
ここまでよく耐えたが、流石にこれ以上は近づけられない。
遠ざけるしかない。
ローランはナツメを抱きかかえて、斜面を下った。
「ロ、ローランさん……お父さんが……ウチの、ぉ、お父さん、を……!」
「……待ってろ。"吹き溜まり"を消してくる」
「気をつけ、て……ぅっ」
顔を真っ青にしていたナツメが、ローランの腕の中で気を失う。
そのまま麓まで下りると、少女の顔色が少しだけ良くなった。
それでも、気絶したままだ。
ローランはぐったりとしたナツメを優しく木陰に横たえ、上方の暗黒を見上げた。
"闇の吹き溜まり"。闇の魔物が形作る巣。
闇の魔物が現れるのは、人間の屍に残った怨念を啜るためだ。
こんな山奥に捨て置かれた屍が誰のものであるかなど、もう分かりきっている。
「ふざけやがって……屍漁りどもが」
ローランは外套を脱いでナツメにかけ、漆黒の胴鎧を露わにした。
吼える獅子の意匠。
闇の魔物の始末など、戦神に捧げる戦にもならない。
だが、それでもローランの内からは、闘志が際限なく沸き上がる。
白銀の大剣を肩に担いで、斜面を矢のように駆け上がった。
そしてそのまま、闇の中へと突っ込んだ。
『オォ……オ……』
夜よりもなお深い暗闇に目を慣らす前に、闇の魔物達が現れた。
暗闇の中にすら浮かび上がるほどに、真っ黒な人型。
しかしそれが人間に類するものでないことは、武器を携えた歪な三本腕が証明している。
魔物達は滅茶苦茶な体勢で、しかし鋭く一斉に打ちかかってくる。
「どけ雑魚共っ!!」
ローランは気炎を吐き、大剣のひと振りで全てを薙ぎ払った。
ただの武器では傷つかぬ闇の住人達も、戦神の加護を受けた武器の前にはひとたまりもない。
一蹴された同族や彼我の実力差などまるで気にもかけず、暗闇から次々に魔物達が出現する。
ローランは一切の容赦なく大剣を振るい、不快な寒気が漂う山の斜面を上っていった。
闇の魔物が啜っている屍と、"吹き溜まり"を支えている"要"。
その両方を探す必要がある。
だが、うっすらと見える前方にはまだ、ナツメが父親と暮らしていたという家は見えてこない。
隣の山頂から眺めた時にも感じたが、一人の屍に沸いた闇の魔物達の巣にしては、規模が大きすぎる。
ナツメの父親は、複数人の人攫いと相討ちになったのか。
いや、そう考えてもなお大きい。
数十人以上が広範囲で死んで、かつ相当な時間が経過していないと、これほどの大きさの"吹き溜まり"にはならないはずだ。
ナツメが攫われ、自分と出会い、山に戻ってくるまでの間に、ここまでの規模に育つだろうか。
なぜ、これほどの闇が──
フォルラザ時代から"闇の吹き溜まり"をいくつも処理してきたローランは、己の経験にない闇の有り様に、僅かに戦慄していた。
しかし歩みを止めるわけにもいかず、魔物を斬り伏せながら、どんどん山を上っていく。
「どこだ、屍は……闇の"要"は……一体ど……っっ!?」
ローランは前方を見上げたまま、言葉を失った。
深い暗闇の中。
山の開けた場所に立つ、飾り気のない家屋。
その傍の枯れ木に、異常な数の闇の魔物の幼体が群がっている。
魔物達の僅かな隙間から覗いているのは、吊るされた屍。
やはり、ナツメの父親なのか。
『グォ……ォォ……!』
枯れ木の周囲に座り込んでいた魔物達が、次々に立ち上がった。
フォルラザの同朋の廃砦で戦った、大きく分厚い個体。
それが複数匹いる。五匹、いや六匹。
こいつらだって、本来はそうそう徒党を組めるほどの数にならないはずだ。
この"吹き溜まり"は一体、どうなっている。
『グオォッ!!』
「くっ」
六匹全てが投擲した。大斧。大剣。槍。
それらを躱し、巨木を盾にしたところへ、一斉に魔物達が押し寄せてくる。
ローランが斜面を転がり降りた直後、太い木の幹が木っ端微塵に斬り砕かれた。
「っ……ぐっ!」
『オオオ、グォォォォッッ!!!』
立て直す間もなく、次から次へと振るわれる猛攻。
必死に大剣を盾にして防ぎ、いなし、弾き、しかし反撃の刃を振るう隙さえ与えてくれない。
正面から一対一でかち合えば、楽に打ち勝てる相手だ。
だが、数の多さがそれを妨げる。
家屋から、かなり遠ざけられた。
六匹だった敵が、気づけば増えている。八匹。
「っ」
後ろに沸いた違和感に、ローランは反射的に横へ跳んだ。
寸前まで脳天があった場所へ、三本の大剣が振り下ろされる。
これで九匹目。
『グオォ、オオォ、ォヒヒ……』
『ォヒヒ……ヒヒ……』
十匹目。気づけば、囲まれていた。
笑ってやがる。屍漁りの分際で。闇の魔物の分際で。
人間の屍を啜って、肥え太って、笑ってやがる。
「……もういい。黙れ」
白銀の大剣が、闇の中で強い輝きを帯びる。
主の昂りに、戦神の加護が応じているのだ。
全身に力が漲ってくる。
それは、オズワルドの飛竜兵に相対した時よりも、なお激しかった。
『オヒヒヒヒィィィッ!!!』
「黙れっつってんだよっっ!!!」
ズドゴッッ。
地面にぶっ刺された渾身の刃が、莫大な白銀の衝撃波を全方位に放った。
闇の魔物達が、闇そのものが、森の木々が、あらゆる全てが消し飛び、山がズズンと揺れた。
「はぁ、はぁ……ゴミ共がっ……!!」
一瞬晴れた闇が、性懲りもなく不快に纏わりついてくる。
ローランは荒く息を吐きながら、山を再び上がった。
枯れ木の枝を斬り払い、屍を下ろす。
そして纏わりついていた幼い魔物達を全部払いのけた。
屍は至って普通の村人のような、素朴な格好をしていた。
方々から露出した骨に、腐肉がまだこびりついている。
武装も旅装は一切していない。だから、人攫いの屍ではない。
ナツメの父親に、違いなかった。
「っ……! くそっ、"要"はどこだ……!?」
"闇の吹き溜まり"を支える"要"。
それは何故か必ず、その場にそぐわない歪な人工物だと決まっていた。
だが、家の周囲を探しても、他の屍も"要"もどこにも見当たらない。
一つだけ、何やら奇妙な形の鍵が枯れ木の近くに落ちていた。
ならばと、ローランは家の中に入り。
そして。
『……ナ、ツ、メ……』
信じられないものを見た。
大人の男ほどの背丈の、闇の魔物。
しかし三本腕でなく、二本腕。
その二本腕が、女と思しき歪な彫像にすがりついている。
『……ナ、ツ、メ……』
闇の魔物は、人間の屍に残留した怨念を啜る。
だが決してその怨念の中身を、屍の追憶を得ることはない。
ただの餌。奴らにとって屍の怨念は、それ以上でもそれ以下でもない。
ローランは同朋の魔術士達からそう教わっていたし、自分の経験の中でもそれは間違いないことだと感じていた。
しかし。
『……ナ、ツ、メ……ワタシ、ノ……ナ、ツ、メ……』
ローランは口元を抑えた。
吐き気がする。
ナツメの父親の怨念が、闇の魔物を乗っ取って、変質させている。
そうとしか思えない。
子を想う、親の愛。
この怨念は、そんな生優しいものではない。
もっと病的で、狂的で、異常な──
『……ナ、ツ、メ……チボ、シン、サマ、ノ……オヒ、オヒヒヒッ……!』
それ以上耐えられなくなり、ローランは闇の魔物を彫像ごと大剣で貫いた。
歪な女の彫像にヒビが入り、溶けるように砕けて、周辺の闇が薄らいでいく。
やはりこれが"要"だったようだ。
『……チ、ボ……』
変質した魔物もまた、"闇の吹き溜まり"と共に消え去っていった。
陽の光が、窓から差し込んでくる。
「はぁっ、はぁっ……っ、ぅ……はぁっ、はぁっ……!」
ローランはその場に膝から崩れ落ち、大剣を手放した。
吐き気が収まらない。噴き出す汗が止まらない。
全身に、重たい疲労がのしかかっている。
しばらく、身動きが取れそうになかった。
この"吹き溜まり"の規模はおそらく、屍の多さや時間経過によるものではない。
闇の魔物すら乗っ取るほどの、一人の怨念によるものだったのだ。
ナツメの父親の、あまりにも激烈な怨念。
何故、これほどの怨念を。
ローランは息を整えながら、明るくなった家屋の中を見渡した。
炉があり、机があり、壁際には大量に積み上げられた本の山、そして扉が二つ。
本がやたらと多いだけの、普通の家だ。
ナツメを、迎えに行かなければ。
そう思った矢先だった。
「お父さん!? おとっ……っ、いやあぁぁぁっっ!!!」
ローランは思わず目を瞑り、歯を食いしばった。
………
……
…
翌朝。
ローランは薪に適した木を山中から拾い集めて、適当な大きさに切って積み重ねた。
そして家の中にあった薄手の外套にくるんだナツメの父親の屍を、ナツメと一緒に捧げ置く。
火をつけたのは、ナツメだった。
最初はくすぶるほどだった火は、しかしやがてしっかりと燃え上がり、屍を焼き始める。
ナツメはそこへ死人のような顔で、薪を追加で焚べていった。
外套はもう身に着けていない。
少女は家にあった自身の素朴な衣服を着ていた。
純白の短髪も、真紅の瞳も、さらけ出したままだ。
ローランが"闇の吹き溜まり"を片づけてから一晩中、ナツメは半ば骨と化した父親の腐った死体にすがりついて泣いていた。
白目が充血し、目には隈が出来ている。
「……分かってました」
ナツメが、ポツリと言った。
"吹き溜まり"への突入以来、初めて交わす言葉だった。
「あの森で……ローランさんがウチに、『楽な死か辛い生かを選べ』って言ってくださった時に……こうなるって分かってました」
「…………」
「ウチが攫われていく時、後ろでお父さんが叫んでました。何を言ってるか分からないくらいに、大きな声で滅茶苦茶に叫んでました。それで、何人かの人攫いが振り返って……だから、分かってたんです」
屍を焼く火が、空に煙を大きく噴き上げる。
充血しきった少女の瞳からは、涙が流れない。
もう、流し尽くしたのだろう。
「でも、もしかしたらって……思ってました。あの時……もう死ぬしかなかったウチを、ローランさんが拾ってくれたみたいに……もしかしたら、もしかしたらって……」
「…………」
「でもこれが、現実なんですね。これがあの時、ウチが自分の意思で選んだ『辛い生』なんですね」
違う。
俺が選ばせたのだ。
俺が出会ったばかりのお前に、選べるはずもない選択肢をつきつけ、無理やり選ばせた。
その結果が、これなのだ。
ローランはそう言おうとして、言えなかった。
今そう言えば、あの時のナツメ自身の意思を、覚悟を踏みにじることになる。
だが、あの時自分は、この少女に「生きます」と言わせてしまった。
生きていけるわけが、ないではないか。
武の才能も無く、魔力感知と手先の器用さだけが取り柄の十二歳の少女が、一人この山で、生きていけるわけがないではないか。
またいずれ、人攫いがやってくる。
必死に逃げ隠れしても、所詮はただの非力な少女。
呆気なく捕まって、それで何もかも終わりだ。
人としての尊厳すら踏みにじられ、死を乞うても許されずに飼われ辱められ、そしてやがて惨めに死ぬ。
そんなことは、あの雨宿りの木の下にいた時でさえ、薄々と分かっていたことではないのか。
それなのに、必死に生きていけば、生きてさえいればと、自分の考えを押し付け、少女に残酷な選択を迫った。
選択を手助けするだと。
こんなヴァルゲンから近い山の中に非力な少女を送り届けて、一体何を手助けしたというのだ。
何が「辛い生」だ。
生というのは、生きているのだと、自分自身で思えてこそのものだ。
これから先、ナツメを待つものは「辛い生」ではない。
「最も残酷な死」だけだ。
そしてその道のりをこの少女に辿らせるのは、自分なのだ。
「っ……!」
「ローランさん」
ナツメの呼ぶ声に、ローランは怯えた。
「約束通りにウチをここまで送り届けてくださって……本当にありがとうございます」
「……ぅ、ぁ」
「でも……三日だけ。あと三日だけ……一緒にいてくれませんか」
ナツメはあの時のように、ひれ伏した。
「私とあと三日だけ、一緒にいてください。ローラン様、お願いします」
ローランは立ち昇る煙を見上げ、顔をしかめた。
溢れる涙が、抑えられなかった。
いっそナツメの首を刎ねて、自分も自決しようかとすら思った。
しかし、両手は硬く拳を握るだけで、大剣に向かわなかった。
………
……
…
一日目。
ナツメに連れていかれた山中の開けた場所でローランは穴を掘り、ナツメが自分で父親の灰と遺品を埋めて、墓をこしらえた。
ナツメは家に戻ると、ローランが枯れ木の傍で拾った奇妙な形の鍵を使って、二つの扉の内の片方へと入っていき、そして、出てこなかった。
ローランは何もせず、ただ家の広間の机に突っ伏しているだけだった。
お互いに、食事は一切取らなかった。
二日目。
朝早くに、ナツメが扉の奥から出てきた。
目の隈が、さらに大きくなっている。
顔は真っ青だ。
ローランは、ナツメが何かを語り出すのを待った。
お腹が空きましたね、とだけナツメは言った。
家の中にあった保存食は、闇に侵されて腐っていた。
二人で、残っていた手持ちの保存食を全て食べきった。
これでもう川の民の村で貰った大袋の中身は縄数本だけになってしまった。
ナツメは腹を満たすと再び、扉の奥に消えていった。
………
……
…
三日目の朝。
「ローラン様、お見せしたいものがあります」
扉の奥から出てきたナツメが、そう言った。
促されるままにローランは奥の部屋に入り、絶句した。
机。椅子。本棚。梯子。
それらが一つずつと、画材一式。
それはいい。
だが。
「……なんだよ、これ」
紙に描かれた、何かに跨る金髪の白い人影の絵。
それが、床も壁面も天井も埋め尽くすほどに貼り尽くされている。
白紙に描かれた絵だけではない。
破りちぎった本の頁に描かれたようなものすらも、大量にある。
同じだ。
女のような歪な彫像にすがりついていた、変異した闇の魔物。
この部屋は、あれと同じだ。
似通う異常性を、ローランは感じ取った。
おそらくは、ナツメの父親の部屋なのだろう。
しかし一体何が、彼をここまで駆り立てたというのか。
大量の白い人影の絵のうちの一枚を、ローランは思わずじっと見つめた。
女か。金髪で白肌の女が、何かに跨っているのか。
跨っているのは、おそらく──
ローランがそこまで考えた時。
後ろでナツメが扉を閉じて、奇妙な鍵を使って錠をかけた。
「……ナツメ?」
「少し、離れていただけますか」
訝しみながら部屋の隅に移動したローラン。
その前でナツメが、抜き身の小刀を取り出した。
「つっ!」
「!? おい何をっ!!」
「来ないで!!」
刃で掌を浅く切った少女。
すぐに駆け寄ろうとしたローランを、悲鳴のような高音が押し留めた。
「大丈夫です。自分でつけた傷なら、ウチは……私はすぐに治りますから……」
「……!?」
状況に追いつけないローランの前で、少女は片膝を突き、血まみれの掌を床についた。
すると、鮮やかな血が床に貼られた絵に染み込み始めた。
浅く切ったはずなのに、尋常な出血量ではない。
広がる血溜まりは、あっという間に部屋の半分ほどを覆った。
やめろ、死んじまうぞと叫んだローランに、ナツメは首を振った。
「この血は、大丈夫なんです。だってこの血は……"地母神"様の血ですから」
ナツメが目を閉じて念じると、赤い血溜まりが、純白に輝き始めた。
そしてその上に、何かが浮かび上がる。
大きな起伏が複数ある何か。その中央には、青い点が二個。
その周囲に、細かく動いている緑の点が数十個。数個の緑は宙に浮いている。
ローランはそれが何なのか、すぐには分からなかった。
しかし、じっと見つめている内に、何となくその正体に気づいた。
「……地図か、これは」
「そうです。これは私達が今いる山周辺の地図。そして、中央の青い点は私とローラン様。動いてる緑の点は、動物達です」
ローランは大きな衝撃を受けた。
これは、明らかに高度な魔術だ。
だがナツメは、杖もスクロールも使っていない。
人間の魔術士は基本的に杖かスクロールがなければ、魔術を行使できない。
その常識を覆すには、"探究者"のヴァッセルが老境になるまで熾烈な試行錯誤と研鑽を続けて、ようやく可能となる。
そういう偉大な業のはずだ。
「ちょっと待てよ……ナツメ、お前は」
「この地図は」
ナツメが、ローランの言葉を遮って語り始める。
「私が血を多く注ぎ込めば注ぎ込んだだけ、広範囲を長時間映すことができます。浅く切ったら山数個分を数時間くらいしか映せませんが、頑張ればもっと広く、もっと長く。映せるのは人間、動物、魔物……その全てです。見ての通り、空を飛んでいても分かります。……試したことはありませんが多分、亜人も映せるんだと思います」
「……!」
「この山の外でも、問題なく使えます。ヴァルゲンで買われて、隙をついて逃げ出した時に……森の中でこれを大きく広げて使って、追っ手や魔物を避けましたから。その時は、私に敵意を持つ追っ手は赤い点で映せました。魔物も、どの点がそれなのかその時の私には分かりました。……今映している範囲には、間違いなくいません」
ナツメの真紅の瞳が、ローランに向いてきた。
「ローラン様。今までずっと隠していて、ごめんなさい。これが私の、本当の力です。私は魔物の気配を感じるだけじゃなくて、周囲の地形と、生物全ての居場所と動きと敵意を、こうして魔術で知ることできます。私は……世の中のことは全然知りませんけど、この魔術が戦争に役立つことは分かります。ローラン様には……戦争で復讐すべき相手がいるんでしょう?」
一度目を伏せた少女が、悲壮な顔を見せる。
「この三日間ずっと、考えました。ずっと教えてもらえなかったお父さんの秘密も自分の秘密も、お父さんの遺した鍵で知りました。……だけどこの力があっても、この力で悪い人達から逃げ隠れ出来ても、やっぱり私は一人で生きていくなんて無理です。死んだお父さんを見て、その遺体を焼いて、改めて思いました。この山にたった一人ぼっちなんて、無理なんです」
「…………」
「『人間は結局孤独ではいられない。認めてくれる他者が、どうしようもなく欲しくなる』……ヴァッセルさんはそう言ってました。私だって、多分あの人と同じです。一人ぼっちでいる内に、いずれ耐えられなくなって結局はどこかで、この力を他人に売ってしまうと思います」
「……っ」
「ローラン様。私はこの魔術で必ず、ローラン様のお役に立てます。立ってみせます。いいえ、ローラン様がお命じになるなら、どんなことだってします。……ローラン様、お願いします。私をどうか、あなたの旅にお伴させてください」
ナツメはひれ伏し、頭を血溜まりの床にこすりつけた。
ローランはみっともなく呻き、頭を抱えて、へたり込んだ。
「……消せ」
「え?」
「この地図を消せ! 今すぐ!!」
ローランの怒声に、顔を上げたナツメがびくっと怯え、すぐに地図を消した。
白色に輝いていた血溜まりがさっと引いていき、ナツメが掌を押しつけていた一枚以外、床に貼り散らかされた絵には血痕一つ残ってない。
血溜まりにつけていたナツメの髪も、純白のままだった。
「この血は、"地母神"様の血……お前さっきそう言ったな」
「……はい」
「何なんだ、それは。この部屋と……いや、ここに貼られまくってる絵と何か関係があるのか? ……父親の秘密や、お前の秘密とも」
「それは……」
語りたくないならば、語らなくていい。
今までならば、ローランの側からそう言って話をやめただろう。
だが、今となってはそうするわけにはいかなかった。
「ナツメ、話してくれ」
ナツメが細い人差し指で、机を差した。
ローランが見ると机の上には、分厚い一冊の本がある。
「私は生まれてからずっと、この部屋に入ったことがありませんでした。お父さんに『絶対に入るな』と言われてました。お父さんはいつも優しくて、穏やかに笑ってたけど……私が育つにつれて、時折怖い顔を見せるようになっていきました。そして、そんな時は決まってこの部屋に入っていって、鍵をかけて閉じこもってたんです」
ナツメが立ち上がって机に近づき、本を手に取る。
「一年くらい前からお父さんは、怖い顔をすることがすごく増えました。一日中この部屋に閉じこもることも、増えました。どうしてだろうって、ずっと思ってました。その答えが……この手記だったんです」
分厚い手記を開き、へたり込んだままのローランに、最初の一頁目を見せてきたナツメ。
そこには、この部屋にくまなく貼られているものと同じ、何かに跨った金髪で白肌の女の絵が描かれていた。
乱暴な筆致だった。
まるで自分の中の理想を形にしきれず、苛立ちながら何度も何度も線を重ねたような、乱暴な絵だった。
そして頁の下には、一文だけが書かれていた。
夢の中で女神様と交わった、と。
「女神様は、夢の中でお父さんに赤子を下賜されたそうです。名前は"ナツメ"にしてほしいとおっしゃって。そしてお父さんが朝目覚めた時にはもう、赤子の私が隣で泣いていた……」
ローランは、言葉に窮した。
そんなことが、本当にありえるのか。
ありえたとして、その女神はなぜナツメの父親にそんなことを。
「……その女神が、"地母神"って奴なのか?」
「お父さんの手記を読み進めていく内に、色々なことが分かりました。初めはヴァルゲンで平凡な市民として暮らしていたこと。赤子の私を得てからすぐにヴァルゲンを出て、この山に身を寄せたこと。そしてある日……エルフのお婆さんが訪ねてきたこと」
「エルフが?」
「お婆さんは言ったそうです。『その女神は、エルフの祖である"地母神"様だ』と。『その赤子は"地母神"様の子で、本来はエルフの輪に属するべき子だ』と。だけど、お父さんは自分で私を育てると言い張って、エルフのお婆さんを追い返したみたいでした」
エルフの祖。地母神。
ローランにとっては、初めて聞く神の名だ。
だが、ナツメがその地母神の子として生まれたのならば、納得のいくことが多くあった。
幼い頃から山で育った少女の肌が、何故こうも日に焼けずに白いのか。
老いや病と全く関係がない純白の髪は、なんなのか。
人並み外れた非常に端正な容貌は、なんなのか。
戦神の魔術士すら超越した、尋常でない魔力感知能力を持つのは、何故なのか。
魔術もスクロールもなしに、先ほどの地図の魔術を容易く行使できるのは、何故なのか。
それらは全て、地母神の胎から生まれたが故なのだ。
勿論、ナツメの父親の前に現れたエルフの老婆が、気まぐれに適当な嘘を吐いてからかおうとした可能性だってある。
しかし、そんな仮定が無理筋に思えるほどに、ローランはナツメの異常性をこの旅の中で既に実感してしまっている。
おそらく、そのエルフの言ったことは事実だ。
ナツメは、人の種で孕んだ地母神が産み落とした、神の子なのだ。
「さっきの地図の魔術……父親には見せたのか?」
「……はい。最初に気づいたのは八歳の時でした。鋭い木の枝で指先を切って、溢れ出てきた血を見ている内に、何かが出来るような気がして……それで、お父さんの前であの術を使いました」
「父親は、何て言った?」
「それは、"地母神様の瞳"だと。決して、他人に見せてはならないと。容易く使ってはならないと、そう言われました。……でも、お父さんが山を下りていった時なんかにこっそり使って、何がどこまで出来るか試してました。それで、地図を広げられることや映す時間を伸ばせること、自分でつけた傷はすぐに治ることを知りました」
「……父親に止められてたのに、俺に見せたのか」
へたり込んだまま、ナツメを見上げたローラン。
少女の真紅の瞳は、濁っていた。
どこか、穢れていた。
「このお父さんの手記は」
ナツメが手にもった本の頁をめくって、呟いた。
「初めは、私のことばかり書いていました。『今日、ナツメが笑った』『今日、ナツメが泣いた』『今日、ナツメが文字の読み書きを覚え始めた』」
「…………」
「でも途中から私の話に混じって、地母神様の話が書かれ始めました。私が成長するにつれて、私と地母神様を比較するような、重ね合わせるような」
ナツメが父親の手記の、後半の頁を開いたまま、ローランに差し出してきた。
『ナツメが、十一歳になった』
『ナツメの笑顔が、もはや耐えられない』
『忘れられない、地母神様の笑顔そっくりなのだ』
『何枚あの夢の絵を描いても、気持ちが抑えらない』
『気が狂いそうで、たまらない』
『ナツメは、私の子だ。私だけの子だ。だが、地母神様の子でもあるのだ』
『ナツメ、ナツメ、ナツメナツメナツメ』
隣の頁に大きく、例の何かに跨る白い人影の女が描かれている。
だが、その髪は金髪ではなく。
白髪だった。
そしてその頁は、不自然なまでにガビガビにかさつき、何かの染みの跡があった。
「っっ……!!」
ローランは猛烈に怒りと嫌悪が沸き上がり、その絵に爪を立てて、引き裂いた。
それでも気が収まらずに、醜悪な手記を部屋の向こうへと乱暴に投げ捨てる。
「くそっ、ふざけるな……くそ、くそくそっ……!!」
ローランは悪態をつきながら蹲って、床の絵を片っ端から破り散らした。
これが世間知らずで純粋で繊細な少女の、生まれ育った場所か。
これがナツメの、あの莫大な"闇の吹き溜まり"を生んだ父親の正体か。
人攫いがやって来なくても、遠からずナツメには悲劇が待っていた。
そうとしか思えなかった。
「……ローラン様。私はもう、一人では生きていけません。あの雨の中で『生きます』と、私は確かに言いました。それで、ローラン様は私を救ってくれて、この山まで送り届けてくれました。それでも、もう……この家で、こんな場所で一人でなんて……っ!」
ナツメが自らの身体を両腕で抱きしめ、恐怖と絶望にぶるぶると震え出す。
「ローラン様、お願いです……私を……」
「……ナツメ、よく話してくれた。辛かっただろうに、よく話してくれた。だから俺も、お前に全ての秘密を明かす」
ローランはそう言って立ち上がった。
そして外套を脱ぎ捨て漆黒の胴鎧を露わにし、エルフの老婆に貰った首飾りを外した。
ナツメの目が大きく見開かれ、息を呑む。
「やっぱり、分かるんだな?」
「っ……はい。神聖な、すごく大きな力……それでいて、とても雄々しいような……」
「俺は、戦神騎士ローラン。大陸南方の覇者……戦神の国フォルラザで、戦神の託宣によって選ばれて特別な武具を賜った、戦神騎士だ」
「フォルラザ……戦神、騎士……」
「世間のことを何も知らないお前には、いきなりこんなことを言っても分からないと思う。ただ、俺達の国はある時、大陸中央に君臨する竜神の国オズワルドに攻め込み、敗れた。そして、オズワルドの侵攻を逆に受けて、そのまま滅び去った」
「……オズワルド」
「生き残った戦神騎士は、俺含めてたったの十人。それに僅かな兵士達と同盟者達。『手前らの自業自得だろうが』と言われれば、それまでかもしれない。『散々攻め滅ぼしてきた側が、攻め滅ぼされる側になっただけだ』と言われれば、その通りだろう」
「…………」
「それでも俺は同朋と一緒に、戦神の軍の再起と竜神の国への復讐を誓った。俺の旅はその再起と復讐を果たすための……険しくて惨めで、遥かに長い道のりだ。何の正義も大義もない、ただ信仰と意地と怨嗟を背負う、人殺しの道だ」
だったら、とナツメが声を張り上げた。
「だったら絶対に、私の魔術はローラン様の役に立ちます! 自分達よりずっと強い敵を相手に、何度も何度も戦争をしないといけないんでしょう!? だったら!!」
「ああそうだ! だからっ! だからこそお前の力がっ……お前を余計に不幸にするんだ!!」
「!?」
理解出来ない、という顔でナツメはローランを見上げてきた。
ローランは、ナツメの両肩を強めに抑えた。
そしてしっかりと、視線を合わせる。
「よく聞け、ナツメ。お前の地図の魔術は……"地母神の瞳"は、確かに凄まじい魔術だ。成人してからずっと戦争の中で生きてきた俺には、その有用性がよく分かる。周辺の地形、自軍と敵軍の兵数・陣形・動き、伏兵の有無……凡庸な騎兵の俺が今思いつくだけでも、戦争で把握しておくべき多くの情報がお前の血一つで容易く、そして持続的に手に入る。確実に戦争の勝敗に大きく影響を及ぼすほどの、強大な魔術だ」
「……分かります。だから私は!」
「戦争だけじゃない。俺の浅い頭じゃ考えつかないが、政治や商売にだっていくらでも活用できるかもしれない。神の子の為す業に相応しく、あらゆる国家、あらゆる組織が欲しがるだろう力だ。そして……」
ローランは荒く息を吐いた。
「存在を知ってしまった以上、絶対に自分達で保持しておくべき力だ」
「だったら……!」
「だからそれが問題なんだよっ! 俺は生き残った戦神騎士の中では、ただの一騎兵だ。軍の指揮も取れず、大局を見る目もない。そんな俺がお前を役立てようとするならば、お前の力を最大限発揮できる他の仲間に、お前を預けるしかなくなる……!」
「っ!」
「俺の同朋は決して、宿願を遂げるまでの過程で、お前を軽々しくは扱わないだろう。……だが、使える以上は必ず常に使うべき魔術だ。全ての行動の前提に、"地母神の瞳"が据えられる。それほどの魔術だ。お前の血と傷痕が、渇く暇は決してない。そして他の国の者達がお前の存在に気づけば、何が何でも奪いにやって来る」
「……っ」
「やがて俺達の復讐が成し遂げられたとしても、その時にはもう俺達にとってお前は……お前は、ただのっ……ただの危険で不要な存在に、なっている。その時が来れば『存在しない方が世のためだ』と、『始末すべきだ』と、冷徹に言う同朋も出てくる……と俺は思う」
「…………」
「そんな人生は、便利な使い捨ての道具と何が違う? 弄ばれて捨てられる奴隷と、何が違う?」
ナツメの真紅の瞳から、枯れ果てたはずの涙が溢れた。
父の屍を焼いたあの日から、目は充血したままだ。
「"地母神の瞳"は使わずに、ただの魔力感知の得意な従者として、お前を連れ歩く。俺がお前の幸福を考えてしてやれる最大のことは、それだ。ただそれでも、襲ってきた魔物の死すら悼むような心優しいお前に、たくさんの惨たらしい死を見せてしまう。……いや、違う。そんなことじゃない。俺が言いたいのは、そんな上辺だけの綺麗ごとじゃない。……何よりも」
ローランは俯き、食いしばった自分の歯を無理やりこじ開けて、想いを吐き出した。
「く、ぅっ……何よりも、俺はっ……! 俺はフォルラザの戦神騎士なんだよっ!! 祖国を滅ぼした仇敵が憎い、軍人なんだっ!! 懐に抱え込んだお前の圧倒的な力の誘惑に……抗える自信がないんだ!! ……それに、使えるはずの力を使わないのは、果敢に戦っている同朋の皆への裏切りだ。だから俺と来ればお前は……どの道不幸だ。この山で一人でいて、いずれ攫われて奴隷に落ちるのと何も変わらない。すまない……すまない、すまない……!!」
涙で頬を濡らしながら、何度もナツメに詫びた。
やがて、ナツメが膝から崩れ落ち、顔を両手で覆って嗚咽する。
「ぅぐ、ひぐっ……ならもう、いっそ殺してください。もう、いやです……うぅ、もうウチ、死にたい……! ローランさん、ウチを……殺してっ……殺してください……うあぁ、ぁぁぁぁっっ……!!!」
ローランは泣き叫ぶナツメの前へ再び、へたり込んだ。
もう、そうするしかないのか。
楽な死。辛い生。
あの時選ばせた選択は、何だったのだ。
結局俺は、この少女を無駄に長々と苦しめただけだった。
知りたくもなかった穢らわしい秘密を知り、己の力を強大さと危うさ故に拒絶され、深い絶望の中で、死を乞い願うしかない。
何という人生だ。
この少女が一体、何をしたというのか。
この世に生まれて、たった十二年を無垢に生きてきた。
ただそれだけで、ここまでの悲しみを背負わねばならないのか。
背負わせたのは誰だ。
地母神。父親。人攫い。
違う。誰よりも、俺自身だ。
俺があの雨の中、雨宿りの木の下で声をかけなければよかったではないか。
あの時野垂れ死にさせてやるか、有無を言わさずに首を刎ねてやればよかったではないか。
あるいはさっき、俺がその力を役に立ててやると、ただ言えばよかったではないか。
無責任でもそう言って笑ってやれば、ナツメはとりあえず救われたではないか。
今からでも、そう言うか。
だけど、先ほどナツメに語った言葉は全て、俺の本心だ。
ナツメの末路だって、俺が語ったようになる未来しか浮かばない。
だから結局、俺と共に歩めば、ナツメはその分苦しむだけなんだ。
もう、殺してやるしかない。
もう、死をもって、最後の救いを与えてやるしかなくなってしまった。
殺そう。
ナツメを殺して、苦しめた償いとして、俺も死のう。
同朋には、ノーラには、戦神には、到底申し訳が立たない。
ただもうそれだけしか、この少女にしてやれることがない。
一人孤独には、死なせてやれない。
せめて、共に死んでやらねば。
そう思うほどにもう、情を移してしまっていた。
ローランは朦朧とする意識の中で、ふらふらと立ち上がった。
そして広間の机に立てかけてあった大剣を取りに行くために、「鍵を寄越せ」とナツメに言おうとして。
「やれやれ……何じゃ、お主ら。そろいもそろって何を絶望に浸っておる?」
錠がかかっているはずの、部屋の入り口。
その前に緑の外套を纏った老婆が立っていた。
輝く金髪、煌めく青い瞳、白い肌。
深い皺が刻まれ、老い衰えてなお美しさを残す容貌。
人ならざる、長い耳。
「久しいのう。ナツメよ、戦神の使徒よ」
赤い舌をちろっと出して、ころころと笑う老婆。
かつてローランに首飾りをくれた、エルフだった。