戦神の軍がノックスの街で月の国マーブリスの返事を待ち始めて、三日目。
「すいませーん。ノーラ先輩、ちょっといいですか?」
「んー」
「先輩、この単語ってどういう意味なんです?」
「んー?」
朝食の後でノーラの寝室に入ってきたニコルが、開いた本を見せてきた。
子供向けの絵本だ。外出中にノックスの本屋で買ったのだろう。
これだけ大きな街ならば、本を専門に売る店くらいはある。
ノーラは兵士達には決して見せられない、寝台でだらけきった姿のまま答えを教えてやった。
「なるほど。やっぱり頭良いですね先輩」
「馬鹿にしてるのかクソガキ。大山脈からここに来る程度の時間で割と読み書き出来るようになった癖に……」
「まあ、そんなものですよ」
「本当に可愛くない奴」
ノーラは寝そべったまま毒づいて、寝台の端に座って絵本の続きを読むニコルの背中を、ぺしっと軽く蹴った。
初日に決めた通り、昨日はニコルが宿に残る当番だったし、今日はノーラがその当番である。
しかし、街に出ていた同朋の兵士達曰く、どうやらニコルは初日の自由行動でどこに行ってもひたすら揉みくちゃにされて、ちやほやされていたらしい。
そういう扱われ方が煩わしくて、この少年は当番でもないのにノーラと一緒に宿に残って、文字を読む練習に絵本を読んでいるのだろう。
ノーラも昨日、謝罪のために月影騎士ナギッサを探そうと軽率に街に出て色々と面倒な目にあったから、それはよく理解できる。
ヴェント王子はもう月の都に跳んだらしい。
"砂粒"達にナギッサを探してもらおうかとも思ったが、たかが私用のためにわざわざ同盟者を頼むのはやめた。
「にしても、あれから露骨に僕への態度が雑になりましたね。ノーラ先輩」
「ふん、知るか。ふわぁぁ……自業自得だろ」
ジトっとした目で振り返って見てくるニコルを、ノーラは欠伸をかきながらもう一度、足のつま先で小突いた。
この生意気で小賢しくて年齢不相応に聡い少年は腹立たしいことに、ノーラが毎朝ため息を吐いているのにも気づいていたし、今まで頑張って溌剌とした表情を作っていたのにも気づいていたのだ。
『疲れませんか? それ』
昨日の夜、兵士達が寝室に行った後。
食堂でいつも通りノーラが一対一で読み書きを教えてやっている時にこのガキは、まだ声変わりが済んでいない若干かすれた高音で急にぽつりと、そう言ったのだ。
『どうせローラン先輩の前でも、ずっとそんなだったんでしょ?』
思わず殴った。
強めに殴り返された。
思いっきり、ぶん殴った。
思いっきり、ぶん殴り返された。
長く、殴り合い続けた。
気を失ったのは、流石にニコルの方だった。
朝になって起きてきた同朋の兵士達は皆、大きく腫れ上がり痣と血だらけになったノーラとニコルの顔面を見て、特に何も言わなかった。
同じ建物で戦神騎士同士が殴り合っている気配など、鍛え上げられた戦神の民ならば分かって当然なのだ。
そしてその結果、ノーラとニコルの間に確執が生まれたわけではないことも。
それでもうノーラは、ニコルと二人きりの時は気を張るのをやめた。
腫れた頬が、まだじんじんと痛い。
ニコルは何の遠慮も無く、ノーラの顔をぶん殴ってきた。
ノーラ自身も頭に血が上って、一切の遠慮をしなかった。
顔だけでなく全身万遍なく、笑ってしまうくらいお互いにボロボロだ。
何故こういうことが同期のローランとは出来なかったのかと、ノーラは心底思った。
いや、同朋として武を競う中で殴り合いくらいはそれなりにやっていたのだ。
ただ、どこか互いに拳に遠慮があった──気がする。
ローランという男はこちらを慮るような優しい瞳でじっと見つめてくる時があったし、明らかに女として見ている時があったし、なんだかんだビードを滅ぼした宴の後、二人で酔っぱらって宿に入るくらいまでは行ったのだ。
『旗槍が、重くはないのか?』
『重くなどない。戦神の旗槍はこの上ない、名誉の証だからだ』
それなのに、私があの時。
いや違う。あれはローランが悪い。
ローランが肝心なところでヘタレたからだ。
ローランの馬鹿が──
「先輩、じゃあこっちは?」
「んもー、めんどくさいな……ちょっと寄越せ。全部読んでやるから耳で聞いて、後で振り返って確認しろ」
「えー、それが健気に道行きを支える後輩への接し方ですか」
「本当に健気な奴は、自分で『健気』なんて言わん。どれどれ……」
ノーラは身体を起こして胡坐をかき、ニコルから奪い取った絵本を眺めた。
どこにでもある、素朴な単色の絵本だ。
かつてフォルラザの都でも子供が基本的な読み書きを覚えるために、英雄譚が絵本として使われていた。
「ほう、これは……」
ニコルが買ってきた絵本は一見して、思ったより興味深いものだった。
最初の頁まで戻り、ノーラは朗々と読み上げていく。
とてもとても昔、大陸の真ん中に仲良しな兄妹が住んでいました。
兄妹は両方とても賢く、力持ちで、魔術も使えて、そしてたくさんの友達がいました。
しかし、仲良しな兄妹には一つだけ、大きな違いがありました。
兄はよく言いました。
「俺は夜の月が好きだ。光りながら傾いていく月が大好きだ。"月の女神"さまを信じている」
妹もよく言いました。
「私は朝の太陽が好きです。光りながら昇ってくる太陽が大好きです。"太陽神"さまを信じています」
やがて、兄妹は成長して、大人になりました。
しかし、やっぱり兄は夜の月が好きで、妹は朝の太陽が好きでした。
そこで、兄妹は自分達が喧嘩をしないように、大陸の東と西に分かれて生きることにしました。
兄は、月が傾いていく西へ。
妹は、太陽が昇ってくる東へ。
兄妹はそれぞれ、たくさんの友達と一緒に、国を作りました。
兄は、月の国マーブリスを。
妹は、太陽の国シンガを。
やがて、マーブリスもシンガも、とても大きな国になっていきました。
しかし、二つの国はいつまでも、喧嘩はしません。
仲良しな兄妹のままです。
いつまでも、いつまでも。
「……おしまい」
「パチパチパチパチ。いい読みっぷりでした、ノーラ先輩。復讐が終わった後は、吟遊詩人にでもなったらどうですか?」
「冗談だろ。一切関わりの無い人間に纏わりつかれて持て囃されるのは、性に合わない。昨日街に出てそれがよく分かったよ」
「へー、持て囃される人気者になる自信はあるんですね」
「いちいち舐め腐りやがってこのクソガキがー!」
「ひょぼぼぼ」
ニコルの頬を両側から掌で挟み込んで捏ね潰しつつ、ノーラは頭の中で絵本の内容を反芻した。
月の国と太陽の国の成り立ち、そして関係性。
この絵本の話が、どこまで実際の歴史を反映しているのかは分からない。
それでも「昔から月と太陽は相互不干渉だ」と、ノックスを訪れた最初の夜に月影騎士ナギッサは、ヴェント王子の横で確かに言っていた。
「『仲良し』なんですね、月の国と太陽の国は。『お互いに知らんぷり』じゃなくて」
「……子供が読むための絵本なんだ。『仲良し』としておいた方が教育に良いんだろう」
「まあ、ヴェント様の態度でもう全然あっちには興味無いというか、交流も同族意識も存在しないのは伝わってきましたしね」
「そうだったな。それに絵本の限りでは"月の女神"と"太陽神"とで、信仰も違うように読める。ナギッサもそういうようなことを言っていた。私は太陽の国シンガの実態をあまりよく知らないが、古の同朋が信仰の違いで分かれたのだったとしたら、相互不干渉の現状がお互いにとってちょうど良いのかもしれないな」
「そもそも大陸の正反対ですしね。仮にエルフの魔術であっちまで一気に跳べたとしても、わざわざ関わりを持つ意味もあまり無いですし。……大陸中央のオズワルドをどうこうするとか考えない限りは、ですけど」
ポツリと呟いたニコルが、意味深な笑みを向けてきた。
ノーラは、ヴェント王子との会談で見せられた大陸全土の詳細な地図を思い出す。
月と太陽を動かし、大陸東西からの挟み撃ちをさせるか。
現在の実態がどうであれ、月の国と太陽の国が古の同朋であろうということは、子供への教育に使われる絵本にすら書かれているのだ。
そんな東西の大国が大陸の乱れに乗じて、互いに連携して大陸中央を狙う。
あくまで牽制程度の動きでも、諜報の質が悪いオズワルドには大きな動揺が走ることだろう。
その動揺の隙を突き、一気に竜神の都に攻めかかる。
出来れば都に近い、北方からの攻撃が望ましいか。
南方から再び軍勢を揃えて大砂漠を越えて都まで北上するとなると、東西から揺さぶったとしても大砂漠の縦断中に迎撃体制を整えられて、飛竜兵や数多の将兵相手に厳しい野戦を繰り返さなければならなくなる。
砂漠の下の"砂粒"の隠れ里は、まとまった数の軍勢が通れるような構造ではないのだ。
だから飛竜への対抗策が見つかっていない現状はやはり、北から攻めるしかないように思う。
とはいえ、飛竜の首は何としても取りたい。
都の混乱の中で王の首一つ取っても、皆それで復讐を成し遂げたと納得はできないだろう。
あの二度の大戦で、戦神の民は竜神の民ではなく、飛竜に敗れたのだから。
大陸東西から圧力をかけて、南北のどちらかから速攻をかける。
作戦としてはありかもしれないが、現実的な北方から攻める際の問題は大河川とその支流、そして大河川の都と言われる大商業都市ク・アリエの存在だ。
ノーラはク・アリエの名前こそ知っているが、大陸での立ち位置がどういうものなのかは一切知らない。
"砂粒"に聞いてみるか、東方に入った戦神騎士を誰か一人、向かわせてもいいかもしれない。
「とはいえ、結局はこの月の国の回答次第ですね」
「そうだな。今日を除いてあと二日……短いが、長い時間だ」
そうしてニコルがそのまま、ノーラの寝室にあった机で朗読を振り返りながら読み書きの練習をしていた時。
扉の前に、戦神の民の気配が突如現れた。
"砂粒"だ。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのは最初の浮ついた優男ではなく、まとめ役の老婆でもなく、ニコルよりいくつか年上くらいの青年だった。
なかなか勤勉そうな顔立ちで、それでいてよく日焼けしている。
普段は"海"で魚でも取っているのだろうか。
ただ、出迎えたノーラ達の痣だらけの顔を見て、少し驚いたようだった。
「……何かあったんですか?」
「いや、特に何も」
「そうそう。ちょっと武を競っただけです」
「……結構な数の報告があります。お時間を貰っても大丈夫ですか?」
机を少し移動させて、それを三人で囲んだ。
「まず、ケイト殿とノア殿の居場所が見つかりました」
「どこにいた?」
「大山脈の中央部です。鉱物を調べに入ってきたオズワルドの南方総督府の兵三百を殲滅して、それで色々総督府は揺れたみたいです」
「三百を殲滅……か。ケイトさんのことだから、屍は撒き餌にするためにそのまま野晒しだろう?」
「はい。総督府も被害の拡大を恐れて屍を焼却しなかった結果、大きめの"闇の吹き溜まり"が発生したとか」
「まあ、魔術士でもない二人が屍を三百も後始末するなんて現実的じゃないし、撒き餌にしてやろうというケイト先輩の考えはわかりますけどね……はぁ」
ニコルは複雑そうな表情で、茶髪をかいた。
この少年は山岳国家ビードの山騎士レオンを、命の恩人としているのである。
ノーラもレオンとは、言葉と武で想いをぶつけあった仲だ。
「飛竜も大山脈の上を盛んに飛び始めるだろうし、山の民には迷惑をかけてしまうな……」
「これはケイト殿からの手紙です。今はノア殿共々、ウィルフレッド殿と合流しています」
"砂粒"が持ってきたケイトの手紙には「今後はウィルフレッドの指揮下に入って南方を攪乱し、情勢次第でノーラ達に合流する」と乱暴な筆跡で短く書いてあった。
青年に詳しく話を聞くと、ローランが"砂粒"を通して、ウィルフレッドへ二人の手綱を握るように進言したらしい。
ローランは戦神騎士への叙任直後、ケイトにしょっちゅう怒鳴られて殴られて、鍛えられていた間柄だ。
ノーラもそういうことはされたが、あまり出来が良くなかったローランの方が苛烈にしごかれていた。
だからあの猛々しい女傑は若輩のノーラの指図など受けないのではと、考えたのだろう。
おそらくその読みは正しかった。
ケイトと同期のウィルフレッドがローランの進言を受けて、二人の女騎士を指揮下に入れているのが何よりの証拠だ。
「ローランさんって、案外気が利きますね」
「そうだな。案外気が利くな」
「ぷぷ……嬉しそうですね、ノーラ先輩」
「うるさい」
「あいたっ」
とにかくこれでフォルラザ滅亡の夜に逃げた戦神騎士は十人、きちんと生存していることが分かった。
ここからは本格的に、各騎士達が動きの連携を取っていく必要がある。
「続いて、グリムロ様からの手紙です」
「……うむ」
ノーラは少し緊張しながら、騎士団副長だったグリムロからの手紙を受け取った。
熊のような呑んだくれの大男が、激怒して鎖付き大斧を振り回しながら、こちらに突進してくる光景が目に浮かぶ。
読みたくない。だが、戦神騎士の旗頭として、読まねばならない。
『お前の言う通りだ。俺が間違っていた。大砂漠の下に戻る。指示をくれ』
「何ィッ!?」
思わず声が裏返った。
手紙を持ってきた"砂粒"の青年に視線を送るも、彼はばつが悪そうに顔を背けた。
「……おいニコル。副長は大砂漠の下に戻って、私の指示を待つそうだぞ」
「えぇ~……」
「何だ、えぇ~って」
「すいません。はっきり言うと、予想外でした。どうせブチキレまくって『俺の好きにさせろ、腰抜け共が。なんならオズワルドはこのまま俺が一人でぶっ潰してやる』みたいな返事が来るとばかり」
お前が「やっぱり止めるべきですよ、案外冷静になる可能性もありますよ」なんて言ったからだろうが。
と、ノーラは思ったが、当のニコルは苦虫を噛み潰したような表情で目を閉じている。
ノーラもそうした。
グリムロ副長は、個人としては間違いなく戦神騎士最強だ。
だが、目先の戦のことしか考えられない類の純粋な武人である。
だからこうして「指図をくれ」と素直に下手に出られると、それはそれで扱いに困る。
いっそ西方に呼んで合流するか。
しかし、一度見たら忘れられないほどの巨漢だ。
エルフが人目を欺く首飾りを作れるのはイオから聞いて知っているし、マーブリスへの見返りとしても要求しているが、あの図体を果たしてどこまで欺けるのか。
そもそもノーラからすれば、ああいう直情的な年長者をあまり直接指揮下に置きたくない。
それに、マーブリス領内で別行動させたり、北方に対する城塞都市に張りつかせても、あの荒々しさでは何らかの揉め事の種になるかもしれない。
南方も駄目な気がする。
ウィルフレッドの方が情勢を読んだ立ち回りは遥かに上手いだろうし、彼にとってグリムロ副長は同期の間柄で同じく気性が荒いケイトよりも制御しづらく、行動の邪魔をする可能性がある。
ならば東方か。北方か。
「……とりあえずマーブリスの回答次第ってことにしませんか? ノーラ先輩」
「そうだな、そうするか」
ノーラとニコルは二人して面倒な問題を先送りにし、"砂粒"に報告の続きを促した。
「妾腹の第四王子がオズワルドの南方総督に着任……兵一万と飛竜兵十一騎は各地の鎮撫と駐屯を投げ捨てて全て総督府に集結、か」
「着任の翌日から早速、大きく動き始めています。総督府としたフォルラザの都跡周辺の荒れ地を耕し始めたり、中々厳しい調練をしたり、瓦礫の山だった都の中を片づけたりしているようです」
「じっくりと腰を据える方針に転換したって感じですかね。……面倒ですね。適当に兵士や飛竜を動かして雑に鎮撫して回ってくれてた方が、こっちとしては気楽だったんですが」
「ああ。第四王子の素質か、あるいは連れてきた臣下の提言か……」
「ウィルフレッド殿の指示で、大陸南方に散らばっている竜神の諜報は我々"砂粒"が駆逐していっています。それと、総督府の中にも既に何人か紛れ込ませています。あちらの大まかな行動方針を把握していくこと自体は容易です」
ノーラは考え込む。
確かにニコルの言う通り、無計画な派兵をしてくれていた前総督の方が対しやすかった。
兵一万と飛竜兵十一騎でフォルラザの都跡に固まり続けられると、攪乱もしづらくなる。
とはいえ、あまりにも攪乱が上手くいきすぎて、大陸中央のオズワルド本国に「南方の占領統治は割に合わない」と判断されるのも、現状は避けたいのだ。
ただでさえ大戦で疲弊している竜神の国が、南方を維持するためにさらに疲弊する。
そういう状態が一番望ましい。
そして、南方の統治が安定しきる前に、決戦に向けて出来るだけのことはしておきたい。
だから今回の、長期的なことをしっかり考え始めた南方総督府の方針転換は、ノーラにとっては大局的に見て良いとも悪いとも判断しづらかった。
失敗を繰り返し続けて早々と南方を諦められるよりはマシだ、という見方だって出来るのだ。
「……ウィルフレッドさんがどう見るか、かな」
「僕もそう思います。西方にいる僕達が指示を出すより、すぐに動きを追えるあっちで判断してもらった方が良いでしょう。"砂粒"さん、生き残ったフォルラザの敗残兵とかは?」
「以前の連絡通り、ウィルフレッド殿が接触して意思確認をした上で、広く南方中に散らして潜伏させています。……総勢で三百人ほどは、まだ耐え忍んで戦う覚悟を持った生き残りがいます」
「三百人か。案外残ってくれていたな、ありがたいことだ」
「ええ、心強いですね。でも、ウィル先輩、ケイト先輩、アレクシスさん、ノア先輩の戦神騎士四人が南方に張り付き、かぁ……うーん」
「確かにそこは気になる。オズワルドの総督府が腰を据えて情勢が膠着し始めるとすると、南方に四人も戦神騎士がいるのは多過ぎるな」
唸り始めたニコルと一緒に、ノーラも唸った。
確かな情勢判断能力と統率力を持つウィルフレッドは、可能な限り南方にいてもらいたい。
そして、もしも彼が深手を負った時に"治癒"の魔術で治せたり、攪乱の幅を広げられる魔術士のアレクシスもそうだ。
そうなると、弓兵のケイトか大剣使いのノア。
ローランの進言をウィルフレッドが受けて同期のケイトを指揮下に入れている以上、彼女を西方に来させるときはウィルフレッドと一緒が良いだろう。
つまり、南方の情勢がもうどうにもならなくなった段階である。
となれば。
「ノアを西方に呼ぶ、か」
「ノア先輩ってすごく美人でしたけど、確か無口で無愛想で、指示を受けてその通り行動するような人なんですよね? それにローラン先輩とよく一緒にいたみたいだし。……大丈夫なんですか、ノーラ先輩?」
それはどういう意味だ。
ノーラはにやにやする小賢しいクソガキを思いっきり蹴飛ばしてやろうかと思ったが、同盟者の"砂粒"の前なのでこらえて、軽く小突くだけにした。
「……まあ、ノアは素の実力ではローランより若干劣るが、それでもしっかりと大戦を生き延びた同朋だ。単純に戦神騎士の頭数が増えるだけでも、充分意味はある」
「二人よりは三人の方がいいのは確かですね。じゃあマーブリスから正式に回答があったら、呼びますか?」
「そうしよう。……すまない、東方に入っている三人の様子は分かるだろうか?」
"砂粒"の青年が、把握していることを述べ始める。
ローランは何故か大商業都市ヴァルゲンを通らずに大河川を渡って大陸東方へ入り、何やら野暮用を済ませてから探究の国ラガニアに向かうらしい。
イオは東方に入っていくつかの村や街を巡り、既に何人かの優秀で理解ある人材を得たようだ。
ジェラルドはローランに頼まれて、川の民のために大河川の河口近くの大きな森林地帯でしばし魔物を掃討していたが、ようやくそれが終わったので東方に入るという。
「イオ先輩は流石ですけど……ローラン先輩は何やってるんですかね。変な遠回りして、ジェラルド様までこき使って」
「そうだな。何をやっているんだろうな」
「ぷぷ……怒ってますね、ノーラせんぱ……あいたっ!」
イオからは伝言だけでなく、手紙も届いていた。
イオの手紙は相変わらず迂遠で抽象的で読みづらかったが、得た人材の話と、太陽の国シンガが王の急死をきっかけに五枝川周辺に住む川の民である"五枝水軍"と本格的に争い出したという情報が書かれてあった。
「月だけでなく、太陽も荒れてきたか……」
「太陽の国の王様の急死が気になりますね。"砂粒"さん、シンガについて何か知っていますか?」
「大陸に散らばる"砂粒"の間では、盛んに情報交換をしています。太陽の王は確か、まだ四十歳にもなっていないくらいだったはずです。先代が比較的早くに病没したそうなので。人格も能力も申し分ない立派なお方だったと太陽の国にいる同朋からは聞いていましたが……王子が二人と王女が一人いたはず。急死ですからおそらく、正式な世継ぎは決まっていないでしょう」
「じゃあ五枝水軍のこともあるし、多分だいぶ荒れますね。イオ先輩がある程度人材を集めたら、シンガに行ってもらった方がいいかもしれません」
「うむ。上手く立ち回れば、次代の王に貸しを作って見返りを得られるかもしれんしな」
東方の大国、太陽の国シンガ。
五枝水軍と長く小競り合いをしていたのはノーラも知っていたが、まさかここにきて大きな衝突が始まるとは。
これもまた、フォルラザとオズワルドの大戦の余波なのだろうか。
「ノーラ様。戦神騎士の方々に、何か手紙を書かれますか?」
「……いいや、まだだ。旗頭である私からの連絡は、マーブリスの回答を貰ってからにしたい。……そうだ、もう一つ聞きたいことがある。大河川の都ク・アリエについても、あなたは何か知っているだろうか?」
「私の知る限り、ク・アリエは表向きはアリエ湖の上に築かれた中立地帯の大商業都市ですが、実質オズワルドの属国のようなものです。大河川を使ってオズワルドの都に、盛んに貢ぎ物を送っているはずです。ただ、竜神の民というわけではありません。竜族の中でも"水竜"のみを崇める、川の民です」
「"水竜"……」
初めて聞く単語をノーラは、舌の上で転がした。
大陸最強の魔物である竜族の一種で、飛竜とは違う類の竜か。
「どんなものなんですか? "水竜"って」
「私は見たことありませんが、ク・アリエの同朋によればアリエ湖や北方のアリエ湾の深みに潜む、大蛇のような竜だとか……」
「ク・アリエはその水竜を軍事力としているのか?」
「いいえ、あくまで崇めているだけです。飛竜兵のように、軍に組み込んではいません。姿を見せるのも極めて稀で、大人しい魔物だと聞きます」
「なるほど……だが、ノックスの街も"海"で魚を取っているだろう? それに、大河川やその支流も大陸西方は接している。その辺りにはいないのか?」
「少なくとも、私の知る限りではいません。水竜信仰もありません」
「じゃあ、あの時ヴェント様が見せてくれた大陸全土の地図の、大きな湖と北の"海"だけに住んでる、人間の争いには関わらない竜族ってわけですね……ふーん」
「おそらくは。それと、ク・アリエはシンガがぶつかっている五枝水軍にも一定の影響力があると、川の民に混ざっている同朋らから聞いています。水軍の後ろ盾のようなものだと」
「……そうか」
ノーラは同盟者の話に頷いた。
期せずして重要な情報が聞けた。
ニコルが示唆した、大陸の東西からの挟み撃ちによるオズワルドへの揺さぶり。
それを為すには、月と太陽の問題をそれぞれ何とかしなければならない。
月の国にあっては、"蛮地"と"神聖国家オラトリア"。
太陽の国にあっては、"ク・アリエ"と"五枝水軍"。
それぞれ、こいつらが目障りだということだ。
つまりそれらは、大国からの見返りを得るための隙でもある。
あと、もう一つの東方の強国である探究の国ラガニア。
ローランが今向かっているが、そことも何か繋がりを得られればありがたいところだ。
そして、無敵の飛竜に対抗する手段。
この大陸のどこかにそれが、ありはしないだろうか。
「何となく道筋が見えてきましたね、先輩」
「だな。と言っても、今の時点ではまだ夢物語のような道筋だ。そもそも私達がマーブリスから追い出されたら、また考え直しだからな。……旧き同盟者よ、戦神の同朋よ、ありがとう」
ノーラが笑顔を見せると、青年も笑顔で応えてくれた。
何か望みはあるだろうかと問えば、また明日街に繰り出して、百人力の人間の姿をノックスの住人に見せてあげてほしいとのことだった。
ノーラが了承すると、青年は一度跪いて頭を下げた後、寝室から出ていった。
「中々面倒な望みをされましたねぇ……僕だったら絶対御免ですよ。初日で酷い目に遭ったし」
「まあ、私はどうせ野暮用があるからな。そのくらいならお安い御用だ」
ノーラは荷袋から筆とインクを取り出して、イオからの手紙の裏に、ヴェント王子が見せてくれた大陸全土の地図を思い出しながら描いた。
広い大陸だ。そしてこの広い大陸の全てに、自分達十人の戦神騎士はそれぞれのやり方で関わっていくのだ。
「ノーラ先輩、何だか楽しそうですね」
「……どうだろうな。ただ、長く険しい道のりとはいえ、惨めなだけの歩みではないという気はしてきた」
「僕もです。色々なものを見て、色々な話を聞いて、色々な人と出会って」
「ああ。魔術士達があんなに熱心に旅に出かける理由が、何となく分かった。知らないことを知ることが、こんなにも楽しいとはな」
「詩的ですね~。やっぱり将来は吟遊詩人ですか。"赤髪のノーラ"……歌います奏でます踊ります笑わせます。ラララウゥ~」
「死ね」
「うぎゃー!!」
ノーラはニコルの腰を後ろから抱え込み、寝台へ向けて反り投げした。
………
……
…
翌日。
ノーラは朝から宿を出て、ノックスの街中を回った。
やはり二日目に外出した時のように見知らぬ人に何度も声をかけられはしたが、それでも街の人々は皆、戦神の軍の滞在にだいぶ慣れた様子だった。
市場で売られていた焼き魚や"タコ"という謎の生物の串で腹を満たして、ノーラは街の散策を続けた。
だが、目当ての人物はいっこうに見つからない。
当然の話ではある。
フードを目深に被っていても、輪郭を見れば抜群の美貌の持ち主であることは分かってしまうのだから。
昼間の街中など迂闊にはうろつかないか、うろつくにしても姿を欺いていることだろう。
感覚を研ぎ澄ませて探っても、やはりそれらしき気配はない。
明日には、ヴェント王子が月の国マーブリスとしての正式な回答を持って帰ってくる。
もう今日しか、彼女と腹を割って話す機会は無いかもしれない。
「…………」
ノーラはふと、西に傾き始めた太陽を見上げた。
当然眩しくて、いつまでも見てなどいられない。
何となく逸らした視線の先に、足を向けた。
そうした辿り着いた船着き場には、数隻の大きな船が停まっていた。
人の気配は無い。
今日はもう、"海"で魚を獲る作業は終わったのだろうか。
それでもノーラは、張り合わされた木の板の上を歩いていった。
目の前に広がる、"海"。
その果てしなき彼方に最も近づける、船着き場の先端の先端まで。
そして腰を下ろし、足を木の板から投げ出した。
「ようやく見つけた」
ノーラは初日のように眩しく輝き始めた水面を眺めながら、独り呟いた。
「……何か御用ですか、戦神の使徒よ」
すぐ隣で、透明な垂れ幕が落ちたかのように、一人の少女が姿を現した。
少女は外套に身を包んでフードを深く被り、両膝を抱えて俯いている。
ノーラの探し人、エルフの少女ナギッサだった。
ノーラ視点がひと段落したら、各戦神騎士の動向をまとめようと思います。