夕陽が大山脈の向こう側に沈み始める頃。
ウィルフレッドが店じまいをしていると、南方総督府の文官であるオルソンが手配した案内役の兵士が、寝床へと連れて行ってくれた。
通された住居は、他のものと比べて若干広かった。
寝室となる小部屋が、しっかりと分けられているようだ。
おそらくは部隊長のための家なのだろう。
広間には家具の類はまだ何も無いが、一応石造りの不格好な炉がある。
そして共に寝泊りする、先客の旅商人が二人。
案内役の兵士が言うには、職人が何とか有り合わせの材料でこしらえた寝台が一つだけ、寝室に置いてあるらしい。
兵士は申し訳無さそうに謝り、しかし肌触りの良い毛布を一枚貸してくれた。
夜間に炉で火を使うことは許可できないが、蝋燭の灯り程度ならば構わないという。
総督府の文官に話を持ち掛けたとはいえ、今の自分は単なる旅商人だ。
ウィルフレッドは充分すぎる厚意に対して、丁重に礼を述べた。
「よう、おめえさんどっからだ?」
背中にかけられた野太く力強い声に振り向くと、ちょうどウィルフレッドの腰くらいの背丈の、毛むくじゃらな老人がこちらを見上げていた。
髪はすっかりと褪せた白髪で顔には無数の深い皺が刻まれ、白髭はもじゃもじゃたっぷりとしており、首には幾筋かの首飾りの紐が見えている。
「商業都市パルチャーからですよ。ウォルターです。よろしく」
「へへっ、こりゃどうもよろしく。ワシはイワンだ」
ウィルフレッドは屈んで、老人と目線を合わせた。
バっと差し出された手を、やんわりと握り返す。
握った手は岩のように硬くごつごつとしていて、しかし短く太い指の先だけは柔らかい。
爪も、綺麗に整えられている。
「失礼ながら、イワンさんはドワーフではないですか? それも、きめ細かな装飾品を作られるような」
「ああ、そうだとも。ま、商業都市の人間なら見りゃ分かるわな。だが、今は商人をやっちょる」
薄暗くなり始めた住居の中を照らすために、ウィルフレッドは蝋燭を取り出そうとした。
しかしドワーフの商人イワンはそれを制し、下ろした荷物の中から拳大の石を出して、強く握りしめる。
すると石はじんわりと青白く輝き出して、三人の旅商人がいる広間を照らした。
特段、珍しい物ではない。
ドワーフという亜人ならば誰もが持っている、しかし人間の魔力では決して扱えない灯り石だ。
「これはありがたい。旅の間は、蝋燭も出来るだけ節約したいですからね」
「へへへ、だろ? まあまあ、眠たくなるまで座って何か話そうぜ。……おーい、おめえさんもこっち来い! せっかくだし、今夜はみんなで仲良くやろうや!」
広間の隅で壁に向いて毛布を被り、寝転がっているもう一人の旅商人は「俺に構うな」とばかりに手を挙げた。
ウィルフレッドはこの住居に入るより前に、気がついていた。
あの寝転んでいる男は、旅商人ではない。竜神の諜報だ。
"砂粒"が自害できないように捕えて連れてきた者達と、似通う気配がある。
竜神の民は基本的に独特の気配を持たないが、諜報集団だけは別だ。
吐かせた情報によれば元は僻地の賤民だというからそれ故か、あるいは飛竜の鱗を大事に懐に抱えているせいかもしれない。
この家を遠巻きに見張っている兵士達にでも混ぜておけばいいものを、随分と大胆な使い方をしてくるものだ。
文官オルソンの涼やかな微笑が、ウィルフレッドの頭をよぎった。
イワンは声をかけた相手のつれない対応にため息を吐き、しかし意味深に笑って片目を閉じた。
「いやさ、ツラのええ若造が、職人が全然足りちょらんと言うてきてな。ワシを職人として雇いてえんだとよ。きっぱり断ったんだが……それでも明日、総督殿が直々に会ってくれるそうでな。竜神の国の……何番目だったかの王子サマがよ」
「それは羨ましいことですね。やはりお請けになるので?」
「いんや。ワシはもう、人里で職人はやらんと決めちょる。さっきも言うたが、今は商人だ。それも、旅をする商人だ。ただ、『せめて話だけでもさせてくれ』と言われてな」
「……何故ですか? あなたのように老成したドワーフの業は、どんな国でも商業都市でも大いに歓迎されるでしょうに。特にここは、戦神の国フォルラザを攻め滅ぼした大陸中央の覇者の行政府ですよ? 商売がてら色々と見物させていただきましたが、活気もあって、これから伸びていく場所に思えます。総督殿が直にお会いしてくださるのならば、相応の待遇だって」
「へはは、昼間の若造と同じようなこと言いやがるなぁ。……だがな、ワシはもう百歳を超えちょる。山を下りてから長いこと、ヴァルゲンにおった。人間にどかどか金を積まれて、良い家を貰って、代わりに装飾品や家の飾りやあれやこれやを作ってやって、そんでちやほやされて、そんなのはもう充分に堪能したんだわ」
「…………」
「ま、あと二十年くらいで山の土に還る命だ。そうなるまでに少しは違った生き方をしてみたいと、そう思うてな。それでつい最近色々仕入れたり変わった物を作ったりして、商人をやり始めたんだわ。今さら鍛冶仕事や山で穴掘りをやるのもつまらんしな」
イワンは荷物から紙に包まれた小物を出して、ウィルフレッドにくれた。
「これは……飴ですか?」
「へへん。ワシが作り方を一から考えた、特製の飴よ。おめえさんを最初の客にしちゃる」
「……つまり味見をしろ、と?」
「そういうこったな。ここの兵士に食わせて腹壊されでもしたら、めんどいだろ?」
「私も腹を壊したくはないのですが……」
「安心せえ。特殊なもんは使っとらんから、死にはせん」
そう無責任に言って、イワンは朗らかに笑った。
亜人の業を知りたがるのは、もっぱら魔術士達だ。
ウィルフレッドは亜人にさほど興味は無いし、腹を壊すのは大いに困るのだが、それでも老ドワーフの期待するような眼差しに応えたくなった。
「……分かりました。ただ、私達は商人です。せっかくなので、物々交換と行きましょう」
「おう、商人らしくてええな。そうしようそうしよう」
「何が入り用で?」
「パルチャーの職人が作った、装飾品がええな。サレには寄ったが、ちょいと気になる山があって街道から外れたんで、パルチャーには寄らなんだからな」
ウィルフレッドは少し考えて、木彫りの首飾りを渡した。
躍動する立派な角の牡鹿を象った、だが何の効果も持たない単なる装飾品だ。
とはいえ、人間であるウィルフレッドから見れば充分に精巧な品だし、彫った人物とも面識があり、その名声の高さも知っている。
"砂粒"に揃えてもらった商品の中では、間違いなく最も高値がつくものだ。
それでもドワーフにとっては、児戯に等しいものだろうが。
ウィルフレッドはフォルラザ時代からドワーフと直接的に交流したことは無かったが、彼らが凄まじい手先の器用さでもって魔力を宿した特殊な品すら作る亜人であることは、よく知っていた。
そして何より人間にとってドワーフの有益なところは、山における鉱物や岩塩の在処を簡単に見つけ出すところだ。
特殊な装飾品を作らせるのは交渉に相当な労力が必要だが、山の恵みの採取くらいなら確かな見返りを用意すれば協力してくれる、気まぐれなエルフよりも比較的に接しやすい亜人だった。
「……おう、コーラックの鹿か。懐かしいな、アイツも。そういや、一人立ちしてパルチャーに移ると言うちょった」
「お知り合いでしたか? というか、品を見ただけで分かるものなんですね」
「アイツの動物細工は昔から、とにかく目が独特だ。どんな動物を彫っても、目だけはこの目をしちょった。こんな小さな首飾りでも、目の造りには絶対こだわる。そこは全然変わっちょらんな」
「目が独特……」
イワンが灯り石に翳して見せてくれた鹿をよく見ると、確かに独特だった。
細い線のような眉がわざわざ形作られ、鹿らしくない猛々しい目つきをしているのだ。
「だからすぐ分かるのよ。アイツも小僧の頃はヴァルゲンにおったからな。そこそこ裕福な商家の……三男坊といっちょったかな。ちょびっとだけ、仲良うしちょった。もう三十年ほど前になるかな」
「コーラックさんがヴァルゲンに? 知りませんでした」
「へへへ、あの小僧は家の商いもろくに手伝わず、ワシの家に遊びに来ては飾り物をじろじろ見続けて……それで、鹿やら兎やら猪やら……どこの野山にでもおるような動物ばっか彫っちょった。その上、上手く彫れんから彫り方を教えてくれと図々しく頼んでまできて、うっとうしいガキだったわい。だから言ったったのよ。『とにかく本物を見ろ、本物と向き合え』ってな。そしたらアイツ、金にモノ言わせて傭兵に牡鹿を捕まえさせて、屋敷の中で飼い始めよった。ガキだから、ホントに何にもわかっちょらんかった」
ククク、と口を閉じて笑うイワンの目は、あたたかくて優しい。
そして黙りこくったまま、じっと鹿の首飾りを見つめていた。
「今のコーラックさんには他の国や商業都市からも、木彫りの注文が頻繁にあるそうですよ」
「だろうな。単純な首飾りの出来そのものとは別に、人間が作った細工品ってとこに価値を見出す奴も結構おるからな。ま、人間でこれだけ上手くなりゃ、見る目のある奴らはほっとかんだろ」
だが、と呟いてイワンは懐を漁った。
そして幾つか身に着けていた首飾りの一つを取り出して外し、ウィルフレッドの渡したものと掌の上で並べた。
同じ牡鹿の首飾りだ。しかし並べて比較するとイワンの物はかなり粗く不格好な造りで、その上だいぶ古びて、所々が欠けている。
「やっぱな。ワシが言ったった通り、しっかりと森や山を回って、本物を見続けたんだろうな。相当上手くなった。が、どこか情熱が冷めちょる」
「……情熱、ですか?」
「おうさ。ワシはアイツが小僧の頃の、頭の中で必死にこねくり回して動かしとった鹿の方が好きだった。こっち見てみ。こんな大口開けて気張って尻を高々と突き上げて、しかも角を後ろに逸らして威嚇する鹿などおらんだろ?」
「確かに……不自然かもしれませんね」
「そうとも。あの頃のコーラックは理想を形にしようと、必死にもがいとった。屋敷の中で鹿を飼って、何度も角でつつかれて怪我をして、そいで外に連れ出したらさっさと逃げられて。そんなバカをやって、顔面痣だらけになって自慢げにワシに渡してきたのが、この鹿よ」
「…………」
「ま、現実とはほど遠い……まともに野山を歩いたことも無い、裕福な小僧らしい鹿だわな。この鹿はまさしく、あの幼い小僧の頭の中にしかおらんかった。だのに、アイツはそれをきちんと頭の中から外にひっぱり出して、不格好でも形にしよった。鹿に限らずヴァルゲンにおる間はずっと、こんな不自然で不格好なもんを作り続けちょった。……こんなもん、売り物の細工品として見れば駄作に決まっちょる。それでもワシは、この鹿がたまらなく好きだ。……これを渡してきた時の、アイツの笑顔もな」
イワンから渡された二つの鹿の首飾りを、ウィルフレッドもじっと見つめた。
下手くそで、不自然で非現実的で、到底売り物にもならないような、拙い木彫り。
しかしそれは間違いなく、頭の中の理想を何とか形にしてひねり出した、一人の人間の情熱の結晶である。
人間の細工品がどれだけ精巧で真に迫っているかなど、ドワーフのような別格の器用さを持つ亜人は興味が無いのだろう。
だから完成度ではなく、どれほどの情熱が宿っているかを重視しているのかもしれない。
「……そうやって聞かされてみると、確かに年月を重ねて木彫りが巧みになった分、情熱は落ちているようにも感じられますね」
「だろ?」
「ですがそれでも、イワンさんはこの鹿を見て、コーラックさんの作品だとすぐに気づいた。『目にこだわるところが全然変わっていない』と、おっしゃいました」
ウィルフレッドは二頭の鹿をイワンに返して、深い皺の奥の瞳を見つめた。
「ですからあの人もきっと、芯の部分は変わっていないのではないでしょうか? 本当に情熱が冷めて、ただ生活していくためにそれらしく木を彫っているだけならば、独特な目もどこかの時点でもっと広く評価されるような形状に改めたのではないでしょうか?」
「……むぅ」
「生きていく内に変わっていくものは、確かにあると思います。ですが変わらないものだって、きっとあるでしょう。それは意地でも変えたくないものかもしれないし、今さら変えられないものかもしれない。私はそう思います。イワンさんのお話を聞かせていただいた上で、それでも私は……洗練されつつも芯が変わらず通っている、今のコーラックさんの品の方が好きですよ」
イワンはもじゃもじゃの白髭を引っ張りながら俯いて、二頭の鹿を長く見つめ続ける。
「変わらないもの、か。……ワシは百年の大半をヴァルゲンで職人やって、ちやほやされて生きてきた。だけども、今さら商人をやってみようと変わっていっちょる。飽き飽きしながらも続けてきた生き方を、百歳超えて今さら、なんとなーくで変えてしもうた。そんなワシにも、変わらないものはあるんかな」
「私はイワンさんと今日出会ったばかりなので、それは何とも言えませんね。……明日にはパルチャーへ戻る予定ですが、イワンさんも一緒に行って、コーラックさんにお会いしてはどうですか? あなたの中の変わらないものを、古い友人が見つけてくれるかもしれませんよ」
「……へっ、そうさな。もうアイツも歳食って今さらだが、一度会うてみてもええかもしれんな」
老ドワーフは何かを決心したように頷き、二頭の鹿を、両方とも首にかけた。
そして、荷物から飴をもう一つ追加で取り出した。
「まあ、何だ。一個じゃつり合わん取引と思うた。だから、二個食わせちゃる。それぞれ種類の違う飴だわい」
「これはこれは。味見役を二回にされてしまいました。商売がお上手ですね、イワンさんは」
ウィルフレッドとイワンは二人して声をあげて笑った。
ちらと、部屋の隅の竜神の諜報が振り返ってくる。
だが気にせずに、ウィルフレッドは一つ目の包み紙を広げた。
不定形の飴は琥珀色よりもなお美しい、黄金色だ。
匂いを嗅ぐと、蜂蜜と香草を混ぜ合わせたような、上品な香りがした。
「いただきます」
ウィルフレッドは飴を口に含み、舌の上で軽く舐め転がして甘さを味わった後、歯で噛んだ。
パチッ。
「んむっ!?」
口の中で、何かが弾けた。
同時に甘さを超えるしょっぱさが、押し寄せてくる。
涎が、勝手に溢れ出した。
飴は噛むごとに、パチッ、パチッと小さく弾け続ける。
甘いが、やはりそれ以上にしょっぱい。しかし、それが何とも言えず美味しい。
ウィルフレッドは夢中になって、飴が弾けなくなるまで呑み込まずに噛み続けた。
「へへへ……どうやらお気に召したようだな」
「ごくっ。ご馳走様です。新鮮な感覚でした……一体何がパチパチ弾けていたんですか?」
「その辺の山で取れる、ただの岩塩だ」
「ただの岩塩……? ですが、いくら細かくして簡単に噛み砕けるような粒にしても到底さっきの弾けるような食べ心地には……」
「そりゃそうだ。砕いた粒にな、すっげー細かい細工用の道具を使うて……おっと、種明かしはやめだ。おめえさんに真似されたら、ワシの商売敵になるからな! へはははっ!!」
どうやら老練なドワーフが特別な手順で丹念に作ったものらしい。
確かに、単なる甘味とは明らかに違う、斬新な嗜好品だ。
ドワーフがわざわざ商人をやる上で、大きな魅力となる品であることは間違いない。
「もう一つの飴も、とても気になってきました」
「そうやって食いつかれると、やっぱ嬉しいもんだ。装飾品こしらえて喜ばれるのとは、また違ったもんがある。よしよし、じゃあ次行くか!」
イワンは上機嫌で、もう一つの包み紙を渡してきた。
今度は、真っ赤な飴だ。鼻にツンとくる、何やら刺激的な匂いがする。
目線を上げると、ニヤニヤとした意地悪そうな笑み。
「あっ、イワンさん天井が」
「んあ? ……あむっ!? かっっれぇええぇぇっ!!!」
「やっぱり」
「ぺっぺっ、げほげほっ!! な、何しやがるっ! せっかくの味見を!」
「自分が吐き出すようなものを味見させるのも売り物にするのも、良くありませんよ」
「そ、そりゃそうだが、ワシはせめて人間の反応が見たくてだな、ほ、ほっ……!」
ウィルフレッドによって口へ飴を押し込まれたイワンは、すぐ吐き出したにもかかわらず、汗だくで顔を真っ赤にしていた。
「はふー、はふー……ふっふっふー……!」
「悪戯用の品ですか?」
「ち、違う。これはなんちゅーか、気つけ用だ。舐めればたちまち血の巡りが良くなり、身体を動かさずにはおれんくなる。はふ、はふ。丸々と太った商人どもを痩せさせたろうと思うて、考えついた。作り方は、エルフの知り合いに教わったものをちょいと一工夫してな。シュッシュッ!」
そう言いながらイワンは立ち上がり、その場でバタバタと足を動かしながら、虚空に拳を繰り出し始めた。
「なるほど。もう少し辛みを抑えてすぐ吐き出さない程度に出来れば、面白い商品になりそうですね。血の巡りを良くするのなら、身体が凝り固まってきた老人にも良いかもしれない。冷えた身体を温めるのにも、使えるでしょう」
「シュッシュ! おめえさん、何を冷静に分析しちょる! こなくそっ……やっぱ人間のやり手にゃあ、まだまだ敵わねえなぁっ!」
「あっはっは」
ひたすら落ち着きなく動き回るイワンの様子に、ウィルフレッドは手を叩いて笑った。
隅でずっと知らんぷりをしていた竜神の諜報が、騒がしさに対して流石に苦言を呈してきた。
ウィルフレッドはイワンが落ち着いた後で一緒に謝罪して寝転び、毛布を被った。
イワンがそっと魔力の灯り石に手をかざすと、青白い発光が収まる。
それで住居の中は、真っ暗になった。
外で遠巻きに見張っている兵士達の気配はやはり、まだ感じられる。
それでも、夜に相応しい静けさだ。
「……なあ、おめえさん」
しばらくして、ウィルフレッドが若干ウトウトし始めていた時に、イワンが声をかけてきた。
「どうしましたか?」
「終わった話をむし返すが、ワシはもう百年生きた。おめえさんは、まだ三十そこらだろ?」
「ええ、そうですね」
「なのにワシは、変わっていくものとか、変わらないものとか、そんなこと考えたこともなかった。なんとなーくで生きてきただけだった」
「…………」
「だいたいのドワーフは人間と違って、信じる神を持たん。エルフや竜族のように、神の末裔でもない。ノームと同じ、まあしょっぺえ種族よ。そんで何かを作る時にも、ワシやワシが知る同朋は何も深いことを考えちょらん。『こういうのが作りてえなぁ』と初めにぼんやり思うて、後はひたすら心のままに、情熱のままに作る。そして時折思いつきで、手を加える。だが、百年を超える生の中で、何か一貫したものをひたすら作り続けていくなんて同朋を、ワシは見たことがねえ」
暗闇の中で、イワンはどこか寂しそうに毛布を手繰り寄せて丸まった。
「先ほども言いましたが、イワンさんの変わらないものは、コーラックさんが見つけてくれるかもしれませんよ。それではいけませんか?」
「『変わってしまった、職人をやっていた頃のあなたの方が良かった』と言われたらと思うと、怖い。それか、ワシのことをもう覚えてなかったら」
「覚えてくれていますよ、必ず。だってずっと、イワンさんに披露した鹿を彫っているんだから」
「でもよ……」
「『ドワーフは頑固、凝り性、気づけばいない』……人間の世の風評です。失礼な風評ですが人間から見れば、ドワーフはそういう存在ということです。ですから、親しい人間から見て変わらない頑固なものは、きっとあるんじゃないですか?」
「その風評は知っちょるとも。おおむね正しい評価だ。だけども頑固ってのは、ただ色んな人間とそつなくやっていけねえってだけの話だ。そいで凝り性ってのは、何かを作ってるその瞬間だけなんだわ。作ってる瞬間だけガッツリ熱中して、そんで完成させて、今度はまた全然別なもんを作り始めて熱中して、また完成させて……そんで気づけばあれこれを放り出して、いなくなる。ワシはそういう同朋をヴァルゲンで何人も見てきたし、わけえ頃に山の中でも見てきた」
「ですがイワンさんは……」
「いんや。ワシだって、そいつらとやっちょることは結局一緒だ。何も考えずにだらだらとヴァルゲンにおって、だらだらと色んなもんを節操無く作って、白髪まみれになってある日唐突に、生き方を変えちまった。急に商人やろうとか考えて、飴なんて作り出した。だから思うんだが……『これだけはどうしても譲れねえ』っていう芯が多分、ワシらドワーフにはねえんだろうな」
老ドワーフが鼻をすする小さな音が、暗闇の中でウィルフレッドの耳に入ってきた。
野太く力強かった声が、いつの間にかとても弱々しくなっている。
百歳を超えて今さら生き方を変えてしまった自分を、強く恥じているのかもしれない。
あるいはドワーフという、種族の性そのものを。
「コーラックの奴は三十年経っても、これはアイツのもんだとすぐに分かる代物を作っちょる。ガキの頃バカをやりつつ彫ってた鹿を、未だに彫り続けちょる。……すげえことだ。技術がどうこうじゃねえ。おめえさんの言う通り、アイツにはずっと変わらないものが、しっかりとある。首飾り一つ見るだけで、それがよく分かる。ホントにすげえことだ。人間ってのはワシらより不器用な癖に……寿命だってワシらより短い癖に……それでもそんな太い芯が持てる。だけど、ワシらは……」
「……変わっていくことは、決して悪いことではないと思います。それに人間だって、毎日を目の前の労働に明け暮れるだけで何となく生きている人は山ほどいますよ。一生同じような毎日を繰り返して、それで終わる人だって。そういう人達が全員、『これが自分の芯だ、変わらないものだ』と肯定的に自分の生き方を語れるわけではないでしょう。変える余裕が無いから、変えたくても変えられない。だから外から見れば芯が通っているように見えるだけで、実際には芯なんて無い。そういう人間も大勢いると、私は思います。それと同じように、ドワーフという種族には芯が無いだなんて、そんな一概に断じられはしないでしょう」
「へっ……よくもまあ、そんなすらすらカッコよく語れるもんだなぁ、わけえのに。昼間に職人の話を持ち掛けてきたツラのええ若造も、そうだった。熱い目で、このまだひっでえ有り様の都の未来をカッコよく語ってきた。……まあ、おめえさんの言う通りかもしれねえ。空っぽの人間だって、ヴァルゲンにゃたーくさんおったのは確かだ」
だけどよ、と呟くイワン。
「あの総督府の若造と話して、おめえさんと話して、コーラックの鹿を久々に見してもろうて、なんだかワシは……自分が恥ずかしくなったんだ。ホントはドワーフ云々じゃなくて、もっと単純に自分のぼんやりとした百年間を、後悔してしもうちょる。気づいたらあと二十年そこらしかねえ。それが、悔しい」
並んで寝転ぶ相手が涙を流していることを、ウィルフレッドは察していた。
イワンの老境故の恥ずかしさと悔しさはおそらく、まだ若い自分は真に理解してはあげられないものだ。
それでも、何かを後悔する気持ちは分かる。
自分にだって誰にも明かせない、ずっと後悔しているものがある。
だから、過去を振り返って泣きたくなる気持ちは、よく分かる。
「でしたら、イワンさん」
「……ん」
「何か一つ、決めましょう。あと二十年で、絶対にやり遂げることを一つ。とても難しい、やり遂げられるか分からないものを一つ、心に決めるんです」
「絶対にやり遂げること……」
「心の中でそれへの想いが保てないなら、何かの装飾品にでも彫って、毎日寝る前に見つめればいい。そして、やり遂げるために必要なことを考えて、コツコツやっていくんです。たとえ寿命が来るまでに達成できなかったとしても、『自分はそれのために生き抜いた』と胸を張って死ねるような目標を抱えるんです。そうすればその目標がきっと、これからのあなたの芯に……変わらないものになる」
イワンは声をくぐもらせて、笑った。
いや、泣いているのかもしれない。
どちらともとれる声を、小さくあげ続けた。
「老いぼれのくだらねえ愚痴に付き合ってくれて、あんがとよ。……ったく。今日出会うたばっかの人間の若造に、ワシは何をウダウダ語っちょるんだか。ささ、もう寝ようぜ」
「はい、そうしましょう」
再び夜の暗闇に、静寂が訪れた。
しかし。
「……なあ、おめえさん。もう答えなくていいから、一つだけ尋ねさせてくれ」
ドワーフは呟く。
「おめえさんにもやっぱ、変わらないものはあるんか?」
あるさ、当然。
ウィルフレッドは心の中でそう答えて、目を閉じた。