「……美味い」
村を後にしたその夜。
「んぐ……」
ローランは小川のほとりで焚火を熾し、報酬に貰った保存食を口に入れた。
村長と呑んだ酒はお世辞にも好みの味ではなかったが、この鹿の干し肉は香草で味付けされていて、とても美味い。
一噛みするだけで舌に味が染みてきて、涎が沸き上がる。
ローランはできるだけ長く味わおうと、ゆっくり食べた。
金と一緒に渡された干し肉は中々に多く、おそらく目的の商業都市に着くまでに食べきれる量ではない。
だが、大切に食べようと思った。
あの村は果たして、村長の言うように村人達の手で守っていけるのだろうか。
それとも、虚しく乱世の餌食となるだろうか。
そんなことを考えながら、ローランは何度も何度も肉を噛みしめ、舌の上で転がした。
「…………」
肉を呑み込み、今さらながらに考える。
そもそも金のためとはいえ、戦神騎士の力を見せるべきではなかったかもしれない。
かつてのフォルラザの領土から、ほど近い村だったのだ。
オズワルドがやってきて、村を支配しようとする可能性だって、充分にある。
あの村長ならばそれでも固く口を閉ざすだろうが、他の者達はそんな胆力があるようには見えなかった。
そうなれば、自分と関わったことが彼らの命取りになるだろう。
「……もう一枚いくか!」
ローランは沈んだ気分を誤魔化すように声を上げて、追加の干し肉を袋から取り出した。
丹念に仕上げられた肉を見つめ、何となしに焚火で炙った。
かぐわしい匂いが鼻をくすぐって、思わず情けない笑みがこぼれる。
そうしたまま夜の星空を見上げて、想いを馳せた。
フォルラザにあった頃、戦に勝った後は仲間達と酒を呑み競い、肉や果物をたらふく貪り、戯れに力比べをしたものだ。
あの輝かしい日々はもう、二度と戻ってこない。
オズワルドの飛竜に、何もかも引き裂かれてしまった。
今や戦神騎士であることすらひた隠しにすべきほどの、惨めな身の上だ。
それでも同朋のノーラは──
「ええ匂いじゃのう」
横合いからの声に、ローランは咄嗟に大剣に手をやった。
いつの間にか緑の外套を纏った老婆が隣に座り、焚火に手をかざしている。
顔に刻まれた深い皺に似つかわしくない、照り輝くような黄金の長髪。
そして、鋭く尖った長い耳。
人ならざる者。
亜人。
「……エルフが何の用だ」
ローランが問うと、エルフの老婆は両手を擦り合わせてわははと声をあげる。
「いやさ、ええ匂いじゃと思うてなぁ。その炙っとるもん、恵んでくださらんかね」
「木の葉をかじって生きていける連中が、鹿の肉なんて食うのか?」
「風評じゃ、それは。わしらは、人間が食うようなもんは何でも食える」
エルフは首をわずかに傾げ、歯を見せて笑った。
美しい金髪の幾筋かが繊細に揺れて、老いた顔にかかる。
人間でいえば七十か八十歳ほどの老人か。
しかし、老いているというのに、白い肌にはシミ一つなく、白い歯は欠けておらず、青い瞳は煌めき、笑顔には惹きつけられるような魅力があった。
金髪碧眼の人間はローランの同朋の戦神騎士にもいたが、それとは鮮やかさと輝きが桁違いだ。
エルフ。
絶世の美貌と千年を超える寿命を持ち、秘匿された叡智によって極めて高度な魔術を操るとされる、長耳の亜人。
ごく少数で森の奥深くに住まう連中だと聞いたことはあったが、実際に出会ったのはローランも初めてだった。
だが、戦神の国フォルラザに、亜人を尊重する習慣はない。
鉱物の在処を知る、山のドワーフだけが唯一の例外だ。
亜人は、人間ではないのだ。
ローランは要求を無視して、火で炙っていた干し肉をそのまま口に入れた。
あーあーと、エルフの老婆は残念そうに声をあげた。
「消えろよ、婆さん。エルフなら然るべき所に行けば、いくらでも敬ってくれるだろ」
「そうだのぅ。人間は場所によってわしらへの態度をころころと変えるから、面倒で仕方ないわい」
「じゃあその辺の森に籠ってればいいじゃねえか」
「わはは」
ローランは大剣から手を放さなかった。
このエルフから、敵意は感じられない。
だが、人間と亜人は根本的に違う存在なのだ。
何の気もなく、戯れるように攻撃してくる。
その可能性が否定できない以上、警戒は緩められなかった。
「戦神の使徒じゃろ、お主。森の木々が、先の戦について語っておった」
「あ?」
「竜神に、こっぴどく敗けてしもうたのぅ。まあ飛竜が相手じゃ。わしらエルフでも手を焼く魔物。いくら戦神の加護があろうと、人間ではな」
ブオッ。
大剣を叩きつけた。
エルフにではない。焚火に対してだ。
薪が吹き飛び、火の粉が舞い散り、暗闇が一瞬で辺りを覆う。
「殺されたいらしいな」
「……すまん。言い過ぎたわい。無礼を詫びよう」
「消えろ。三度目は言わねえぞ」
「まあまあ。実は声をかけたのは、取引がしたくての」
「エルフの取引ってのは、まず物乞いと煽りから入るのか?」
「人間の風評にもあるじゃろう? 『エルフは奔放、気まぐれ、からかい癖あり』とか何とかな」
「都合のいいことほざくなよ。戦神の民は、エルフなんて敬わない。覚えとけ」
「うむ、しかと心に刻んだ」
エルフの老婆が、ひょいと腰を上げる。
何をするかと思えば、振り下ろされたローランの大剣を、掌でそっと押しのけた。
そして焚火の跡に人差し指を突っ込み、何やらかき混ぜる仕草をする。
すると、まるで時が過去に遡ったかのように、吹き飛んだ薪が、消えた火が、元通りになった。
杖もスクロールも使っていない。
人間の魔術士では、決して成し得ない業だ。
「この近くの森がな、通りががったわしに助けを乞うてきてのう」
「…………」
「"闇の吹き溜まり"じゃ。捨て置かれた人間達の屍に、闇の魔物が沸いた」
ローランは白銀の大剣を地面へ乱暴に突き刺し、そうかよと応じた。
人間は、いつか死ぬ。
当然の話であり、動物や魔物や亜人もそうだ。
ただ、人間の死だけは特別なのだ。
人間が不本意な死を遂げると、屍には怨念が残る。
そしてその怨念を啜ろうとする、闇の魔物が沸く。
怨念は啜られても啜られても、簡単には無くならない。
そのまま放置すれば闇の魔物は沸き続け、群がり、やがて巣となる暗黒を作りだす。
それが、"闇の吹き溜まり"と呼ばれるものだ。
「吹き溜まりを森から、追い払ってくれんか?」
「そのくらい、手前で何とかできるだろうが。お得意の魔術でよ」
「それができんのだなぁ。わしらエルフは"闇の吹き溜まり"と、そこに潜む闇の魔物だけは大の苦手でな。怪我を負えば、それは決して癒えぬ致命傷となる」
「……闇の魔物に、剣は通じない」
「戦神に祝福された剣なら、話は別じゃろう?」
覗き込んでくる青い瞳に、ローランは眉をひそめた。
戦神騎士の武具が特別であることを、知っているらしい。
長命と叡智で知られた種族なだけはある、ということか。
「一応聞いてやる。吹き溜まりの場所は?」
「ここから南西に、山二つほどじゃな。戦神の使徒の足ならまあ、半日も駆ければ着くかの。森が言うには、どこぞの国の敗残兵が少し前に流れてきて、仲間割れして死んだらしいわ」
エルフの言い方には、含みがあった。
賊からの防衛を請け負った村でも聞いたが、この辺りは旧フォルラザの領土にほど近く、それでいて貧しく、今まで大きな争いもなかった地域だ。
流れてきた敗残兵と言われれば、それは最近まで大きな戦をしていたフォルラザかオズワルドの者に決まっている。
つまりは自分達の不始末を片づけろと、そういうことだ。
無礼な亜人とはいえ、話を聞くほかなかった。
「……見返りは何だ?」
「お主の大剣と外套の下の鎧に施された、戦神の意匠。竜神に敗れた後じゃ。これからは見せびらかして歩けまい? 人目を欺く首飾りをやろう」
「首飾り? エルフがそんなものを作れるのか。そういうのは、ドワーフの領分だろう」
「なぁに。わしほど長く生きておれば、そのくらいはちゃちゃっと出来るようになるわい」
ローランは大剣の鍔に巻いた細布に、ちらと目をやった。
焚火を粉砕した衝撃でいくらかほどけて、彫り込まれた獅子が見えている。
フォルラザは滅んだ。王に賜った鎧も大剣も、今後は無用な諍いの元になりかねない。
確かに魅力的な話ではある。
しかし。
「『エルフは奔放、気まぐれ、からかい癖あり』……あんたが口にした、風評ってやつだ。人間相手の約束を、律儀に守るのか?」
「んん? わはは、こりゃ一本取られたわ」
エルフの老婆は赤い舌をちろっと出し、白い頬を緩めてころころと笑った。
そんな幼い少女のような仕草が、老いていても何故かひどく魅力的に感じてしまう。
この女の若かりし頃に出会っていたらと考えると、ぞっとする。
かつては一国の王すら惑わすような美貌の持ち主であったことは、間違いないだろう。
それがエルフという亜人なのだと、ローランは改めて思った。
「なら、前払いで渡しておくわい。よっこらせ」
目の前の焚火に、躊躇なく手を突っ込むエルフ。
そして火を宿した一本の薪を取り出し、真っ二つにへし折って、地面に転がした。
「──、──」
エルフは上手く聞き取れない、人間の言葉ではない何ごとかを唱えながら、何度も手を叩く。
折られた薪二つが勢いを増した火に包まれ、小刻みに震えながら形を変えていった。
「……ほれ。まずは一つな。同じ物をもう一つ、吹き溜まりを片づけてくれた後に渡そう」
エルフの老婆は、得意げな顔で首飾りを寄越してきた。
腕の立つ細工職人が真剣に時間をかけたような、見事な木彫りの獅子だ。
首にかけるための紐まで、きちんとついている。
これが本当に、人目を欺くような効果があるものかは分からない。
しかしそんな力がなくとも、報酬としては充分な品であるとローランには感じられた。
「……分かった。やってやる」
「ありがたやありがたや。さて、出発は明朝じゃ。今夜はもう寝るとしようかの」
エルフはそう言うとその場にごろんと寝転び、小柄な身体を猫のように丸める。
他所で寝ろよ、とローランが声をかけた直後、既に寝息が聞こえてきた。
「……亜人ってのは、これだから」
ローランは受け取った首飾りを身に着け、焚火に薪を足して、自身も横たわった。
ちらと見上げた夜空の上で、月と星々が輝いていた。
………
……
…
翌日。
太陽が僅かに、西へと傾き始めた頃。
「これがそうじゃ」
エルフの老婆が、眼前の闇を指差した。
夜営した小川のほとりからここまで、山二つ。
老体を労わることなど全く考慮せず駆けたというのに、エルフの老婆は平然とローランに追従しつつ、道案内をこなした。
息もわずかにしか乱していない。
「……吹き溜まりの中身は具体的にどんなだ?」
「敗残兵達は、砦のようなものを作っておったようじゃな。若者が何本も材料にされたと、老いた木が嘆いておったわい」
ローランは、目の前の闇を見つめた。
確かに、小さな砦が収まるほどの大きさだ。
暗がりの奥に目を凝らせば、雑に積まれた石の塀と、何本かの木の柱がうっすら見える。
エルフの老婆は昨夜とはうってかわって、とても苦々しい表情を浮かべている。
"闇の吹き溜まり"は長く留まれば土地を腐らせ、使い物にならなくするのだ。
だから人間の屍は集めて焼き、味方ならば弔って墓に入れ、敵ならば灰を野に撒く。
戦に限ったことではない。人死にがあれば当たり前の話だ。
しかし窮した者達の仲間割れに、そんな常識を求める方が愚かだろう。
「吹き溜まりの潰し方は知っとるかの?」
「知ってる。指図はいらねえから、遠く離れてろ。闇の魔物に傷つけられるとまずいんだろ?」
「ほっほ。存外優しいのう。では、お言葉に甘えようか」
ローランは小さく息を吐き、外套を鎧の上に纏ったまま、大剣を肩に担いで"闇の吹き溜まり"へ足を踏み入れた。
風が吹いているわけでもないのに、冷たい何かが全身を撫で回してくる。
知っている感覚である。
吹き溜まりの処理は、フォルラザが攻め滅ぼした国で何度か経験しているのだ。
「……すー、はー」
ローランは闇に目が慣れるまでの間、その場に立ち止まって深呼吸を繰り返した。
吹き溜まった闇は、夜の闇よりも暗い。
空気も、戦場とはまた違った重みがある。
『オォ……オ……』
石の塀を乗り越えて砦に侵入すると、すぐに出迎えが現れた。
闇の中ですら浮き上がって見えるほどの、真っ黒な人影。
それがまるで人間のように、同じく影で形作られた槍や剣をだらしなく携えている。
だが、人間とは決定的に違うところがあった。
腕が三本なのだ。
屍の怨念を啜って育った、おぞましい闇の魔物の証である。
四匹いた。
『オォ……!』
二匹が同時に動いた。
武器の扱いなど知ったことかとばかりに、滅茶苦茶な体勢のまま振り回している。
にもかかわらず、そこらの兵士よりも機敏だ。
瞬く間に距離を詰めてくる。間合い。
ローランは攻撃を避けると同時に、素早く白銀の大剣を薙いだ。
魔物達が呆気なく両断され、霧消する。
ただの武器では、こうはいかない。
魔術かあるいは、特別な祝福が施された武器でなければ、出来ない芸当だ。
残る二匹もまた、同類の消滅に何ら動じず仕掛けてきた。
返す刀で、斬り捨てた。
「…………」
特に感慨などはなかった。
闇の魔物は、血すら流さずに完全に消え去るのだ。
フォルラザがあった頃から、ローランは吹き溜まりの始末が好きではなかった。
戦神へ捧げる戦にすらならない。
家の掃除よりもくだらない作業だからだ。
追加で沸いてきた何匹かを無造作に斬り捨てながら、ローランはずかずかと砦の中に乗り込んでいった。
『……ォ、ォ……』
『……』
広間では、十匹ほどの小さな黒い影が何かに群がって蠢いていた。
影の隙間から、人の骨と裂けた革鎧らしきものが覗いている。
幼い闇の魔物達が今まさに、屍の怨念を啜っているところだろう。
不愉快極まりない光景である。
ローランは舌打ちして、一匹残らず大剣で蹴散らした。
啜られていた屍は、フォルラザの兵だった。
それも、攻め滅ぼした国で拾い集めたような、どうでもいい雑兵ではない。
れっきとした、戦神の民の鎧を纏っている。
「……ちっ」
ローランはもう一度舌打ちをして、広間を囲むように作られている部屋を次々にあらためていった。
襲いかかってきた魔物は、片っ端から返り討ちにした。
探索の途中で、争った痕跡のある屍をいくつも見つけた。
何故かは分からないが、自決したと思しき屍も混じっている。
全て、戦神の国の正規兵だった。
「情けない……」
敗走の果てに山へ逃げ込んだことが、ではない。
屍を晒しものにして"闇の吹き溜まり"を発生させたことが、でもない。
窮状にあって、同朋を信じきれずに仲間割れを起こしたことが、情けないのだ。
「"要"はどこだ?」
ローランは苛立ちを覚えつつ、独り呟いた。
"闇の吹き溜まり"には必ず、核となる"要"がある。
それを破壊すれば、闇はすぐに消えてなくなる。
闇の"要"は、一目見れば分かるものだ。
その場に似つかわしくない不自然な人工物の形状をしていると、何故か決まっているのである。
最後に残った部屋の扉は、どういうわけか開かなかった。
大剣を一閃して、蹴りでこじ開けた。
広めの室内には比較的身なりのいい屍が一つと、それを啜っている闇の魔物が一匹。
『グォ……ォォ……』
魔物がローランに気づいて、立ち上がった。
今までの連中より一際大きく、分厚い。
三本の腕全てに、大斧を携えている。
『グオォッ!!』
突進してきた。
迎え撃った戦神の大剣を三本の闇の斧が受け止め、凄まじい膂力で押し返してくる。
ローランはそのまま部屋の外、広間へと大きく弾き出された。
「屍漁りの分際で……!」
体勢を立て直しながら、ローランは毒づいた。
大柄な闇の魔物は、まるで歴戦の戦士のように泰然と大斧を構え、部屋の前に陣取っている。
ごく稀に、こういう奴がいる。
強い怨念を啜りに啜り続け、肥えに肥え、人間の真似事を上手くこなせるようになる個体。
「お前だけは、真面目に斬ってやる。光栄に思え」
ローランは纏っていた外套を脱ぎ捨て、漆黒の胴鎧を敵に見せつけた。
そして、白銀の大剣を正中に構える。
『グォッ』
投擲された。斧三本ともだ。
打ち払った直後、魔物が投げたはずの大斧を手に突っ込んできた。
右と左と上段、三方向から包み込むような斬撃が見舞われる。
ローランはそれを後ろに跳んで躱し、しかし反撃はしなかった。
一撃で殺す。そう決めていたからだ。
『オオォォ……!』
咆哮と共に、再び敵が迫る。
三本の腕全てが、大きく振りかぶっている。
それを見てローランは、あえて下段に構え直した。
ゴガッ。
かち合った。一瞬の拮抗すらなく、白銀の刃が圧倒して斬り上げる。
闇の魔物は真っ二つになって、声もなく消滅。
勢い余った剣圧が、砦の天井を盛大に爆散させた。
「…………」
ローランは肩に落ちてきた木屑を適当に払い、最後の部屋に戻った。
吹き溜まりの"要"は、部屋の片隅にあった。
歪な形の王冠──のような何かである。
それはなんとなく、ローランの敬愛する主君の物に似ていた。
どこまでも不愉快にさせてくれる。
そう思いながら、ローランは足で"要"を踏み潰した。
砦を覆っていた"闇の吹き溜まり"が、ゆっくりと薄れて、消えていく。
やがて夕日の明かりが、壁の隙間から砦の中に差し込んできた。
思っていたより、時が経っていたらしい。
ローランは、部屋に残された屍に目を向けた。
この屍だけ、まだ骨に腐った肉がこびりついている。
纏っている鎧を見るに、フォルラザの部隊長だ。
傍には、乾いた血で赤く染まった短剣と書き置きがあった。
書き置きは、酷く荒れた字で書かれていた。
曰く。
私は戦神騎士すら破る飛竜に恐怖し、守るべき街を見捨てて逃げ出した。
三十人の部下を連れてこの山に辿り着き、反撃の時まで耐え忍ぶためにと、砦を築いた。
しかし、雌伏からほどなくして、諍いが始まった。
国と信仰の瀬戸際である。こんな無様な我々を、戦神は許さないだろう。
そう主張する者が、何人も出てきたからだ。
今は耐えろと、説得した。私に同調する者も、多かった。
猛る部下達を、抑えつけるように何度も、説得した。
結局、半数以上が山を下りた。
残った者達は、次第に狂っていった。
殺し合い、あるいは自決し、死んでいった。
そして今、最後の一人になって、ようやく自覚した。
私は、ただの臆病者だ。
街を一つ守りきれずとも、馳せ参じるべき戦場などいくらでもある。
どれだけ苦杯を舐めようが、今は戦うべき時なのだ。
そんな時にあって私は、建前で我が身を守ろうとした。
あの飛竜が恐ろしくて恐ろしくて、戦に背を向けた。
そして多くの同朋を巻き込み、彼らの信仰にまで傷をつけ、道連れにした。
今さらどれだけの血を戦神に捧げようとも、決して許される行いではない。
私は、臆病者だ。
臆病者は、フォルラザの戦士ではない。
臆病者は、惨めに死ぬべきだ。
祖国フォルラザよ。
どうか私のように、死なないでくれ。
敗けないでくれ。
どうか。どうか。
「"闇の吹き溜まり"は消えたようじゃな。礼を言うぞ、戦神の使徒。ありがたや」
気づけばエルフの老婆が、ローランの背後に立っていた。
ローランは、振り向かなかった。
「…………砦の屍を、集めて燃やす。そうしないと、また闇の魔物が沸く。屍は……全て俺の同朋だった」
「そうか」
「同朋の不始末でこの森に迷惑をかけたことを、フォルラザの戦神騎士として詫びる。……誠に申し訳がない。だが、許されるならば彼らの屍を燃やして、弔ってやりたい」
「うむ。ならば火はわしが熾そう。砦はこのままでよい。いずれ、森に還る」
エルフは無駄なことは何も言わず、部屋から出ていった。
………
……
…
ローランは同朋の屍を一人で集め、砦の外で燃やした。
エルフの熾した火は、屍をいくつ入れても勢いを変えず、厳かに燃え続けた。
屍が灰になるまでの間、ローランは部隊長の書き置きを、何度も読み返した。
「……すまない」
言葉が口から、勝手に溢れ出た。
結束を保ってこの砦に拠っていれば、雌伏の先に光明が見えたかもしれないのに。
いつか戦神の旗の下に、再び集えたかもしれないのに。
仲間割れで自滅とは、なんと情けない。フォルラザの、恥晒し共が。
そう思いながら、闇の魔物を斬っていた。
横たわる屍達を、見下していた。
しかし、最後に見つけたこの書き置きが、ローランの中で何かを深く抉った。
自分とて敗走の最中で絶望し、一度は自決を考えた身だ。
それを止めてくれたのは、同朋のノーラだった。
そして眼前で戦神の旗を、獅子の赤旗を掲げてくれた。
だが、この兵士達には、何も心の支えがなかった。
戦に背を向けたという、拭えない負い目だけがあった。
先の見えぬ雌伏に耐えるなど、到底できなかったのだろう。
戦神への篤い信仰が心の中で暴れて、かえって彼らを狂わせてしまった。
そういうところも、あるかもしれない。
結局、戦神の国フォルラザは滅んだ。
竜神の国オズワルドに、滅ぼされた。
部隊長の魂魄を搾り出した今際の願いは、ついに届かなかった。
応えてやれなかったのは他の誰でもない、我々戦神騎士ではないか。
オズワルドの飛竜兵に手も足も出ず、無様に敗け続けた。
そして最後の最後で全てを見捨てて、散り散りに逃げ出した。
それが王命だったのだから仕方ないなどと、もしこの部隊長と生きて出会っていたならば、自分は口に出来ただろうか。
本当に情けないのは──
「ほれ、約束の見返りじゃ」
不意に二つ目の獅子の首飾りを、エルフの老婆が差し出してきた。
ローランは大粒の涙が溢れる目で、それを見つめた。
見事な獅子だ。獅子は、戦神の象徴だ。
受け取ろうと伸ばした手が、勝手に震えた。
「エルフは皆、千年を超えて生きる。人間は、百年も生きられん。二十年三十年で終わる命も数多あろうな。それより短い命も。だがその生の、何と色濃いものよ」
「……あ?」
「この森が、お主に感謝しておる。"闇の吹き溜まり"が土地を腐らせる前に、片付いた。これでまた、新たな命が芽生えてくる。それは森にとって喜びであり、未来への希望じゃ」
「…………」
「森の営みと、人間の営み。何が違う? お主は同朋の屍に群がった闇の魔物を打ち払い、今こうして弔おうとしておる。弔いの先には、新たになすべき何かがあるのではないのかな?」
エルフが青い目を細めて、微笑む。
不思議と手の震えが止まり、ローランは獅子の首飾りを確かに受け取った。
獅子を握りしめたまま、涙を腕で拭った。
「……これから、人間の世は大きく乱れる。そこら中の森で、吹き溜まりが出来るかもしれないぞ」
「そうさなぁ。毎度お主ら人間や他の種族に頼るわけにもいかん。まあ、何か考えようかの」
「今さら考え出すのかよ。戦乱で荒れた時代なんて、今までいくらでもあったはずだろ。この千年間何してたんだ?」
「わはは、こりゃ痛い所をつくのう。わはは」
さほど深刻な問題でもなさそうに、エルフの老婆は笑った。
本当はこの程度の闇など、自分でどうにでも出来たのではないか。
闇の魔物が苦手というのも、半ば嘘ではないのか。
ローランはそう言おうとして、やめた。
首飾りと、言葉を貰った。
それでこの取引は終わりだ。それでいいのだ。
「……うむ、決めたわい。これも、お主に渡しておこうかの」
エルフが人差し指ほどの大きさの物を、ローランに寄越した。
黄金の棒きれ、ではない。細く小さいが、巻物だった。
結びをほどいて中身を見ると、枯れ枝のような見慣れぬ文字が細々と十数行書いてある。
「何だこれは? 魔術のスクロールか? 何の魔術だ?」
「わはは、秘密じゃ。じゃが、いずれ巡り廻って、お主の役に立つ……かもな?」
巻物から視線を移すと、老婆はまた舌を出してころころと笑った。
エルフは奔放、気まぐれ、からかい癖あり。
強く問いただしてもまともに答えはしないだろう。
ローランは黄金の巻物を、素直に巾着袋にしまった。
「……屍の灰は、砦の外のどこか開けた場所に弔いたい。墓を一つ作るから、森に許可を取ってくれ」
「それは大丈夫じゃ。この森はお主のすることを拒むまいて」
「そうか。助かる」
「さてさて。確か三度目はない、じゃったな。では、最初のお望み通りそろそろ消えるとしようかの」
エルフは小さな木に近づき、木の葉を一枚優しく取った。
「久々に、良い出会いができたわい。戦神の使徒よ、また会おう」
唇が木の葉に当てられ、ピューッと音を立てた。
草笛。それが山にこだましたとローランが感じた時、既にエルフの老婆は姿を消していた。
「……エルフ、か」
ローランは、気づけば微笑んでいた。
なぜかは分からない。
ただ、分かる必要もないと思った。
己の心は、しっかり前を向いている。
「戦神よ。願わくば戦士達に、安らぎを」
部隊長の書き置きを、屍を焼く火にそっと差し入れた。
煙は一筋になって立ち昇り、どこまでも空高く伸びていく。
どこまでも、どこまでも。