サピエンティアは四方を堅牢な城壁に囲まれた城塞都市であり、外界へ通じる門は東西南北に一つずつ設けられているのみ。
その東門を抜けたヴィリアとリーンの視界には、既に武器を携えた屈強な冒険者達が重苦しい沈黙の中で地平線の彼方を睨み据え、まるで迫り来る何かを待ち受けるように並び立っていた。
「一体何が……あ、バロックさん!」
人混みの中でもひときわ大柄な男を見つけると、リーンは安堵したように駆け寄る。
あの男は昨日飲み比べを持ちかけてきた……
「おうリーンか。それとそっちは……昨日の下戸」
「なんなんですか、この集まり」
リーンの問いかけにバロックは前を向いたまま短く返した。
「まぁ……今に分かる」
その言葉が終わるや否や、足元から低く唸るような振動が伝わり始める。
それはまるで大地そのものが軋みを上げているかのように次第に激しさを増していき、やがて誰もが視線を向けた地平線の向こうから土煙が立ち昇る。
その正体を目にした瞬間、リーンの顔から血の気が引いた。
「スタンピード……!?」
狼。
猪。
巨大な蜥蜴。
大小様々な魔物が狂乱の咆哮を上げながら黒い濁流となって平原を埋め尽くし、その果ては地平線の彼方まで続いている。
数えようという発想すら愚かに思えるほどの大群。
幾万もの脚が大地を踏み鳴らす振動は腹の底まで響き、耳を塞ぎたくなるような咆哮は空気を震わせ、このまま真正面から飲み込まれれば骨一つ残らないだろうという未来を、嫌でも脳裏に描かせた。
誰一人として口を開かない。
ただ静かに武器を握り締め、その時を待っている。
誰もが今すぐにでも逃げ出したくなるこの光景。
それでも皆この場を退こうとしない理由は、ただ一つ。
——ここを抜かれれば、この街は終わる。
それを理解しているからに他ならない。
一つ、バロックはリーンに言葉を投げかけた。
「リーン」
「……はい」
「この街は好きか」
突然の問いにリーンは目を丸くする。
「え?もちろんです」
「そうか」
豪快な男らしくもない、どこか穏やかな笑みが浮かぶ。
「俺も大好きだ」
ゆっくりと剣を抜き、その切っ先を魔物の大群へ向ける。
「だから……守るぞ」
それだけ言い残すと、バロックは先陣を切って駆け出した。
「死力を尽くせッ!!」
怒号が戦場へ響き渡る。
その背中を追うように、何百もの冒険者達が一斉に駆け出し、雄叫びと共に魔物の群れへ飛び込んでいく。
黒い濁流と人の波が、今――正面から激突した。
英雄譚に語られるような快進撃……そんなものはどこにもない。
最前線の冒険者達に華々しい剣技を振るう余裕などなく、ただ泥臭く、生き汚く迫り来る脅威に抗うのみ。
切り裂かれた肉から腐臭が噴き出し、返り血が鎧を染め、倒れた者は悲鳴を上げる間もなく後続の魔物に踏み潰され、その命は戦場の喧騒へ飲み込まれていく。
「おおおおおおッ!!」
バロックの豪剣が横薙ぎに振るわれ、五体もの魔物をまとめて両断すると、その勢いのまま次に迫る猪型の魔物を斬り伏せ、更に狼型へ刃を返す。
だが、一体倒したところで空いた場所は瞬く間に次の魔物が埋め、二体、三体と斬り伏せても景色は何一つ変わらない。
「キリが、ねぇな……ッ!」
猪型を斬り伏せた、その直後だった。
死角から飛びかかってきた狼型の魔物へ反応が一瞬遅れる。
防御は間に合わない。
迫る衝撃にバロックが歯を食いしばったそのとき、狼型の頭部が大地へ叩き付けられ、轟音と共に地面へ巨大なクレーターが穿たれた。
「昨日の嬢ちゃんか……助かった」
土煙の中で拳を下ろしたヴィリアを見て、バロックは口角を上げる。
「嬢ちゃん……?」
思わず眉をひそめる。
なぜ女だと分かった。
昨日、酒を飲んだ後の記憶を辿ろうとするが、途中から綺麗に途切れている。
……今はそんなことを考えている場合ではない。
鼻を突く血と腐肉の臭い、地を震わせる足音、至る所で上がる断末魔が現実へ引き戻し、ヴィリアは再び迫り来る魔物の群れへ身体を向けた。
冒険者達は互いに背を預け合いながら辛うじて戦線を維持しているものの、魔物の大群は減る兆しを一向に見せない。
まるで果てのない濁流を相手取っているかのようだった。
ヴィリアは命の危うい冒険者を見つける度に駆け、狼の頭蓋を砕き、猪の首を折り、時には巨大な魔物の拳を真正面から受け止めながら戦場を駆け回っていた。
それでも足りない。
一人助ければ、別の誰かが倒れる。
十人救っても、百の牙が迫る。
全員を守るなど到底不可能だ。
「……ふ」
そんな極限の戦場でありながら、ヴィリアの口元は僅かに緩んでいた。
頬を掠める熱風。
血煙。
土煙。
身体中を駆け巡る高揚感。
これだ。
こういう死闘を求めていた。
生と死が紙一重で交差する、この感覚。
「ん……?」
その時だった。
不意に視界が陰る。
目の前に壁でも現れたかと錯覚し、ゆっくりと顔を上げると……そこには山と見紛うほどの巨体を誇る魔物――タイタンが、ヴィリアを見下ろしていた。
思わず笑みが深まる。
これほど巨大な相手を殴るのは初めてだ。
拳へ力を込め、一歩踏み込もうとしたその瞬間。
「レディシュの邪魔だ」
不意に浮遊感が身体を支配した。
何者かに首根っこを掴まれているらしい。
魔物から離れた場所へ一息に移動させられる。
そして魔物の前には白く輝く白刃を上段に構えるレディシュ=エーデルワイスの姿が。
――『
余りに美しく振り下ろされた剣。
それはまるで空から静かな雨粒が落ちたようだった。
天高くまで大きいタイタンの身体はやがて滑らかな断面を見せ、落ちた雨粒は儚いながら凄まじい質量を持っていたようで地面に巨大な波紋を作る。
波紋は一瞬にして広がり、地割れをどこまでも伸ばしていった。
そんな余波により容易く葬られていく周囲の魔物達。
たったの一撃で、今までに冒険者らが必死に倒した魔物の数を優に超えていた。
凄まじい剣技に見蕩れていたせいで忘れていたが、後ろ首を掴まれていた感覚がなくなる。
振り返ると、そこには黒髪の長髪を一つ結びに、傷だらけの顔をした男が。
背に背負っているのは異様なまでに長い刀。
刀身だけでも人の背丈に迫るのではないかと思えるほどだった。
漂う気迫だけで理解する。
この男もまた、使徒だろう。
男はヴィリアへ一瞥もくれることなく前へ歩き出すと、静かに刀を抜いた。
「襲う街、間違えてるぜ」
その一言と共に地を蹴る。
姿が掻き消えた。
——『大太刀・
次に視界へ映った時には刀身が既に振り抜かれており、その軌道上にいた魔物達は時間差で身体を裂かれ、夥しい肉片と鮮血だけが宙を舞う。
戦場へ現れたのは、この二人だけではなかった。
各所で魔力の奔流が巻き起こり、轟音と共に巨大な魔物が吹き飛び、規格外の力を持つ者達が次々と戦線へ姿を現す。
——使徒。
その一人一人が、一軍にも匹敵する戦力だった。
徐々に、確実に、魔物の波は削られていく。
彼らの存在により旗色は瞬く間に変わった。
やがて最後の一体となった魔物の首をレディシュが静かに刎ねると、戦場を満たしていた咆哮は嘘のように途絶え、辺りには風の音だけが残った。
静寂。
「…………終わったのか?」
誰かが漏らした呟きに応える者はいない。
互いの顔を見回し、ようやく現実を理解した冒険者達は、堰を切ったように雄叫びを上げ始めた。
だが、鼻を刺す鉄臭さが勝利の代償を思い出させる。
勝利に吠える彼らの足元には二度と立ち上がらない仲間達が横たわっていた。
失った命は戻らない。
だがせめて、救える命はこの手で拾いたい。
そのために聖女というものは存在するのだろう。
「ヴィリアさん!!」
リーンだった。
必死な形相で一人の冒険者を抱えている。
「ヴィリアさん、回復魔法……使えますよね!?この人、友達なんです……お願いです、助けてください!」
男の脇腹には拳大の風穴が空き、血は既に乾き始めていた。
焦点の合わない瞳。
弱々しい呼吸。
あと数分保つかどうか。
「そこへ寝かせてくれ」
「……はい!」
希望を見出したようにリーンが男を寝かせる。
ヴィリアは膝をつき、その腹部へ手を伸ばした。
その時だった。
背筋を冷たいものが駆け上がる。
「っ!!」
本能が叫ぶ。
危険。
反射だけでリーンの腕を掴み、その場から飛び退いた。
次の瞬間、轟音が鳴り響く。
元いた大地は棍棒により砕かれていた。
「ひゃっ……クリス……?」
リーンの目には無惨な肉塊となった友の姿が映る。
間に合わなかった。
土煙が晴れ、棍棒の主がその姿を現す。
肌色の巨躯に、膨れ上がった腹。
片手で振るうには余りある巨大な棍棒。
トロール……まだ生き残りがいたのか。
トロールは唸り声を上げると再び棍棒を振り上げ、ヴィリア達へ狙いを定める。
迎え撃とうと拳を構えた、その瞬間だった。
「ぐ……ッ!!」
鋼がぶつかり合う轟音。
振り下ろされた棍棒を、一振りの剣が真正面から受け止めていた。
「バロックさん!!」
「く……!!なんつう膂力だ……!」
歯を食いしばるバロック。
その背中を見つめながら、ヴィリアの視線は自然とトロールの顔へ向いていた。
顔を覆う、一枚の布。
そして不気味な一つ目が描かれている。
「……!」
見覚えがある。
林間合宿……あの時の……!!
周囲を見渡すと、コボルトにスケルトン、オークといった魔物達が同じ面布を顔へ貼り付け疲弊した冒険者へ襲い掛かっていた。
「気をつけろ!!」
ヴィリアは声を張り上げた。
「こいつらはただの魔物じゃない!!邪教徒だ!!一体一体が漏れなく厄介になっている!!」
突然飛び出した『邪教徒』という言葉に、冒険者達は困惑した表情を浮かべる。
「あそこの青年の言う通りだ!!この顔の布、ギゼル=バークの情報と合致している!!決して油断するな!!」
レディシュが重ねて警戒するよう告げ、更に強力になった魔物の群れを駆け出す。
ヴィリアはバロックが棍棒を受け止めているうちにトロールの顔面へ渾身の力を込めた拳を叩きつける。
するとトロールの頭は爆散し、倒れた。
トロールの死骸を眺めていると、不可解なものが目に入る。
この魔物の死骸……腹部に小さくない穴を空けており腐った臓器が垂れている。
ここへの攻撃はしていないはずだ。
となればこちらを襲ってくる前に冒険者や使徒にやられたのだろうか。
だがこの致命傷であの膂力を以てかかってくるなど不可能では……
そういえば、周りを見渡してみれば先程倒した魔物達の死骸が見当たらないことに気づく。
まさか……こいつらの正体は先程の魔物の屍……?