そこは、火山の恵みをそのまま閉じ込めたような場所だった。
黒々とした岩肌に囲まれた湯船には、地下深くから湧き出した天然の湯が満ちている。
水面からは絶え間なく白い湯けむりが立ち昇り、濃く漂うその様は濃霧と見紛うほど。
湯に身体を沈めれば、地の底から伝わる熱に包まれる。
まるで大地そのものに抱かれているようだった。
「……」
……しまった。
ヴィリアは元々、女湯に入るつもりだった。
前回の林間合宿での温泉で、やはりこの身体で男湯に入るのは無理があることを悟ったのだ。
気兼ねなく湯に浸かるべくわざわざこの時間に向かったのだが、ちょうどのタイミングでレイナに出くわしてしまった。
そんなタイミングで女湯に入るなど不可能。
その上相手は疑念を持たれているレイナ。
そういうわけで、流れのまま男湯に入ってしまったのだ。
最悪、見つかれば痴女として連行されるだろう。
まぁ、シグレから身を隠し続け、皆が寝静まったこの時間を見計らって来たおかげで今は貸切となっている。
誰か来たら大惨事だが、この時間に来る奴はそうそういないだろう。
それに、この極上の天然風呂を独占して堪能できているのがあまりに極楽で、もうなんでもよくなってくる。
「……」
ヴィリアは静かに息を吐く。
指先の力が抜ける。
肩の重みが消える。
足に残っていた疲労が湯へ溶け出していく。
今日一日だけで、随分と色々なことがあった。
聖地巡礼という名目でここまで来て、カーネが勝手についてきて、聖泉では散々な目に遭い、その後には大聖堂で初代勇者の精神世界に引きずり込まれた。
……思い返してみても、あまりにも濃すぎる一日だった。
あの白い世界で見たものが、今でも鮮明に残っている。
初代勇者、ルド=アタール。
あれが、かつてこの世界を救った勇者。
その強さは、今までヴィリアが出会ってきた誰とも比較にならなかった。
剣を構えた瞬間には、もう距離という概念すら意味を成していなかった。
ただ防ぐことしかできなかった。
正に規格外。
「……まだまだだな」
アレクの中にもあれだけの力が眠っているのだとしたら……立ち止まっている暇などないな。
武の研鑽により一層集中していかなければ。
ただ、今はもう少しだけこの極楽浄土に身を預けていたい。
湯の温かさが、戦いで凝り固まった身体をゆっくりと解していく。
「お?誰かと思えばヴィリアじゃねえか」
「!」
蕩けていた意識が覚醒する。
声のする方を見てみると、湯けむりで輪郭がぼんやりとしたままのアンバーがそこにいた。
その姿に気づいた瞬間、即座に顔半分を湯の中に隠した。
アンバーは無遠慮にすぐ隣にやって来ると腰を下ろし、湯に浸かる。
「っあー……散々だったぜ。おめぇなんでこんな時間に入ってんの?」
アンバーから顔を背けながら湯から顔を出し、答える。
顔半分を隠す襟がないのが心許ない。
「静かに入りたかったからあえてだ。お前こそ」
「俺はここに来んの二回目なんだわ。一回女湯の方覗き見しようとしてたとこバレて連行されて、死ぬほど怒られてやっと解放されたと思ったらこんな時間になってた」
こいつ何回連行されるんだ。
あと小一時間は説教されていて欲しかった。
「あの幻の黒髪美女を一目見れれば満足だってのによ。知ってっか?今この学園に神出鬼没の爆美女がいるって都市伝説」
「……知らん」
「俺らの学年にいることは有力らしいんだが、なぜかクラスが不明らしい。今学園中の男子が一目見ようと躍起になってるみたいだぜ。俺は噂になる前に見たけどな!……お前どこ向いてんの?」
「……」
……恐らく、いや間違いなく俺のことだろう。
こんなに気づかないものなんだな、お目当てがすぐ隣にいるということに。
それはそうと頼むから早く出て行ってほしい。
この身体が見られたらという不安でさっきから鼓動が鳴り止まない。
「……なんか勃ってきた」
聞きたくもない情報が耳に入ってきた。
頼むからこの清らかな湯を汚さないでくれ。
「最近聖地巡礼で全然しこれてねえからかな。なんか異様にムラムラすんぞ」
こいつの直感だけがすぐ近くに全裸の女体があることを知覚しているのだろうか。
トイレに駆け込んでもらって構わないから今すぐここを出てくれ。
「風呂出たらしころ」
アンバーは目を瞑り、湯を堪能し始めた。
先に入っていたヴィリアの身体は既に茹で上がっている。
今すぐ出たいが、こいつが出るまで耐えなければ……
そうして沸騰しそうなまま耐え始めてから長いこと経った頃。
「お前まだ出ねえの?先上がるわ」
やっとアンバーが湯から身体を出した。
だがまだ終わりじゃない。
こいつが着替えを済ませ脱衣所を去るまではこっちに居なければならない。
とはいえ湯に浸かる理由はないな。
「はぁ……」
湯から身体を出して座り、足湯の状態になると火照った身体が待ち侘びた外気に触れる。
自身の身体から湧き出る湯気が凄まじい。
暫く心地良い夜風に涼み、身体も冷えてきた。
そろそろアンバーも着替えを済まして去ったところだろうし、脱衣所に向かうとしよう。
だがなぜだろう、夜風に当たって涼んだはずなのに一歩が重い。
視界が揺れ、靄がかかっているようだ。
扉までが千里の道のように思える。
だがこれでやっと……
——ガラガラ
急に脱衣所の扉が開かれた。
そして現れた姿それは……
湯けむりでよく見えないがあの赤髪……アレク?
「……あ」
そこで今の自分の状態を思い出した。
隠すものなどなにもない、剥き出しの裸。
互いに生まれたままの姿で向かい合っている。
……おわった。
「ヴィリア……か?」
「……?」
思ったより、アレクの声に驚きの色はなかった。
……そうか、あっちからも湯けむりでこっちの姿がよく見えていないんだ。
だが近づけばおわる。
距離を保ったまま脱衣所へ行かなくては。
見られていないとはいえ、この身体をさらけ出したままこいつの前に立っているという現状が羞恥心を駆り立ててくる。
「はやく、どけ……!!」
ただでさえ熱い頭が更に熱くなったせいか、とうとう視界がグラつき始めた。
足元が覚束無い。
「おい大丈夫か?」
「ち、近づくな!!」
体調を案じたアレクが近づいてきたので距離を保つよう後退る。
近づいてくる。
後退る。
近づいてくる。
後退る。
気づけば後一歩後ろは湯。
……もう下がれない。
かといってまた湯に入ればとうとう限界だ。
「温泉で倒れてもらっちゃ困るのは周り……ぶふぇッ!」
アレクの顔目掛けて湯を飛ばした。
そしてアレクが目眩しを受けている間に……駆ける!!
くらくらする頭のままアレクの横を過ぎ、脱衣所に駆け込んだ。
バシン、と扉を閉め、倒れるように床に横になる。
——『
温かい光に包まれると靄がかった頭の中が晴れ、身体の気だるさも抜けていく。
やはり身体は涼んだとはいえ熱中症だったのだろう。
「疲れた……」
もう二度と、男湯は入らない。
着衣を済ませ、今夜を共にする部屋へ入ると二台のベッドが置かれている。
片方はアンバーがいびきをかきながら占領済み。
そしてもう片方を占領しているのは……すやすやと年相応に眠る幼女、カーネ。
今日初代勇者の精神世界からレイナ達を救い出した後、カーネは力を使い果たしたのか眠りについてしまった。
だからここへ連れてきて寝かせておいたのだ。
ヴィリアも今日は一段と疲労が溜まっていた。
カーネの眠るベッドへ自身も横になり、安らかに眠るその顔を眺める。
普段は尊大な感じだが、こうして見るとやはりただの少女だな。
いつもの生意気な様子からは想像がつかないほど穏やかな寝息を立てている。
今日、本来五つの魂しか入り込めない精神世界へ侵入しレイナ達を救い出せたのはカーネのおかげだ。
精神干渉系の術に長けたこの幼女は一体何者なのか、謎は深まるばかり。
だが、初代勇者にあれほど酷く怯えていながらもレイナ達を助けるためにこの子は戦ってくれたという事実は揺るがない。
……それにやはり……可愛いな。
すやすやと眠る少女の愛くるしさはヴィリアの庇護欲を刺激した。
「よく、頑張ったな」
今夜は、その小さな身体を抱きしめながら眠りについた。
……アンバーのいびきがうるさいが。