朝、目が覚める直前。
どこか遠くで、低い音が響いていた気がした。
——ゴォン、と。
まるで巨大な何かが動き出すような音。
けれど目を開けた瞬間、それは消えた。
——はずだった。
耳の奥に、かすかな余韻だけが残っている。
朝目が覚めた時、シロコたちはまだ泥のように眠っていた。
工場の動力の修理からの夜更かしが、限界を超えたらしい。
寝息は静かなはずなのに、やけに部屋が重い。
布団の端が少しずつずれているだけなのに、誰も直そうとしない。
三人とも、寝顔が可愛かったから起こすのはやめて、廊下に出てそっと部屋の扉を閉めた。
——そのとき、どこからか小さく金属音がした気がした。
何かを落としたような、乾いた音。
一階からかな?
でも、食器でも、スプーンでもなさそう。
何か重い、なにかが——。
けれど、妙だった。
落ちたはずなのに、転がる音がしない。
一度だけ鳴って、それきり、何も続かない。
....気のせい、だろうか。
そう思った瞬間、なぜかもう一度振り返りたくなった。
....ただの壁だけだった。
階段を降りる。
宿の一階に出ると、朝食の匂いが漂っていた。
そして珍しいことに、シロコたちより先に起きていたアンペアがそこにいた。
「今日は三人に勝ったじゃん」
「うるさいな」
そういう話をしながら、椅子に腰掛け、パンをつまむ。
今日はみんながいない分、多めにバターが塗れた。
とは言え、今日の宿はどこか落ち着いていなかった。
朝から人の出入りが多く、食堂では椅子を引く音ばかりがやけに響いている。
いつもなら飛び交っている冗談もなく、代わりに誰かが同じ話を何度も繰り返していた。
みんな、落ち着かない様子で何度も宿の入口の方を見ていた。
「アレックスも感じる?」
「うん、ちょっとね」
「なんか、今日は不穏だよね....」
アンペアもそう感じているらしい。
宿の食堂は、いつもより少しざわついていた。
隣のテーブルでは街のたちが声を潜めて話している。何かあったのか、それとも何かが起きそうなのか——言葉の断片だけが耳に入ってくる。
その中の一つの声が、妙に耳に残った。
「今朝の未明くらいに、ガレスの畑が荒らされたみたいだ」
朝食を一人が、そんな話をしていた。
「まじかよ、度胸あるなそいつ」
「あぁ、俺もそう思ったさ。トマトやジャガイモ、それに育っていた野菜だけがごっそりなくなってたそうだ」
「ヴォルクスの連中か?」
「それがだな。柵は壊れてないし、畑も踏み荒らされてない」
「....は?」
「収穫できるものだけ取られて、綺麗に植え直されていたらしい」
意味が分からなかった。
泥棒なら、植え直すことはしないはず。
話していた人たちも同じことを考えていたらしく、揃って首を傾げていた。
——その時だった。
ドンッ、と、宿の扉が勢いよく開いた。
「大変だ!ヒツジ牧場の方が襲われたらしい!」
「なんだって!?」
「被害は!?」
「いや、それがまた奇妙で....」
飛び込んできた男は、なぜか眉を寄らせた顔をしていた。
「何というか、毛だけ刈られてたらしいんですよ....」
「....毛だけ?」
話を聞いていたアンペアの眉も寄った。
「何頭かいなくなった、とかではないんですよ....。ヒツジは元気なんですけどね....」
「意味が分からねぇ....」
宿の中がざわついた。
畑の野菜だけが消える。
今度はヒツジの毛だけがなくなる。
誰も理由が分からない。
さらに数分後。
今度は別の男たちが転がり込むように宿に乱暴な開け方で入ってきた。
「大変だ!郵便局の外壁がぶっ壊されてる!」
「はぁ!?」
「強盗に遭ったか!?」
宿のあちこちで椅子が軋んだ。
何人かが身を乗り出す。
「あ、いや、そうじゃなくてだな....」
同じように、困った顔をした。
「東側の泥レンガの部分だけ、ごっそりなくなってたんだ....」
「....えっと、一応聞くが、郵便局にあった貴重品とかは?」
「それは....一切盗まれてなかったんだ」
野菜。
羊毛。
そして泥レンガ。
被害だけを並べれば確かに何かを盗まれている。
だが、その目的が見えてこない。
「よりによって泥レンガかよ。あれ作るの面倒なんだぞ」
「そんなに?」
「石レンガの十倍は手間だって話だ」
「とは言え、なんで金目の物じゃなくて泥レンガ....?」
窓の外を見た。
理由は分からない。
けれど、その話を聞いていると妙に落ち着かなかった。
少しだけ、犯人が何を考えているのか分かる気がする....。
さっきまで笑い話みたいだったはずなのに、なぜか誰も笑っていなかった。
「おい!大変だ!」
今度の人も、慌てて入ってきた。
「おいおい、今度は何を持っていかれたんだ?」
誰かが茶化すように言った。
野菜に羊毛、泥レンガ。
朝から妙な話ばかり聞かされていたせいで、宿の中にはどこか気の抜けた空気が流れていた。
「いや、そんな呑気なことじゃない!」
だが、飛び込んできた男は笑わなかった。
その顔には、先ほどまでの困惑ではなく、はっきりとした焦りが浮かんでいた。
「ネザーゲートが出現した!」
宿の中の空気が、一瞬で冷えた。
ちょうど、宿に居たワールド・ディフェンダーの人たちの血相が変わる。
「ちょ、本当に大変じゃねえか!」
「だからそう言っているだろ!」
「え、どう言うことですか?」
若い隊員が戸惑った声を上げる。
「説明は後だ!」「いいからとにかく俺に付いてこい!」
「場所はどこだ!?」「街の東だ!」
その言葉を聞くなり、宿にいた人たちは椅子を蹴るように立ち上がった。
「急げ!」「武器を持て!」
一気に慌ただしくなる。
そして、彼らは雪崩れ込むように外へ飛び出していった。
「なによ、朝から騒がしいわね....」
セリカたちが寝ぼけ眼のまま二階から降りてきた。
だが、その頃にはもう宿の中はだいぶ静かになった。
宿の扉がバタンと閉じる音。
慌ただしく飛び出していったせいか、ほとんどの椅子が乱れたまま残されていた。
「おはようございます....」
ヒフミも目を擦りながら続く。
「何かあったの?」
「ネザーゲートって言うのが見つかったらしい」
ただの門か何かだと思った。
けど、さっきのワールド・ディフェンダーたちの反応を見る限り、それだけではないらしい。
「ネザー?」
セリカがアンペアに首を傾けながら聞いた。
「別の世界、みたいなものよ。少なくとも私はそう聞いてる」
アンペアはそう言いながら、水を飲んだ。
「じゃ、じゃあ、もしかしたら私たちがいた世界に....!」
ヒフミが目を輝かせながら、そう言った。
「まぁ、そう言うゲートもあるかもね。でも、まだ研究途中——」
アンペアが、突然区切った。
持っていたガラス瓶を見つめる。
「....ごめん、忘れて」
「アンペア?」
「なんでもない」
ヒフミだけは少し不安そうな顔をしていた。
いつものアンペアなら、分からないことは素直に言うはず。
でも今のは違う。
何かを思い出して、話すのをやめたように見えた。
食べかけのパンを見る。
この街に来てから、もう何日が経つだろう。
シロコたちと話して、笑って、ご飯を食べて。それで十分なはずなのに——どこかに、ずっと引っかかったままのものがある。
自分がどこから来たのか。どうしてこの世界にいるのか。
聞けば誰かが教えてくれるかもしれない。でも、何を聞けばいいのかすら、分からなかった。
「....ん?」
「シロコちゃん、どうしたの?」
シロコが窓の外を見ていた。
つられて振り返る。
....いつもの通りだ。
荷車を引く人。
朝の支度をする住人。
——ただ、一人、ある人物が視線に入った。
右から左へ、走り抜けている水色と濃い青色のジーンズの人。
顔は髭を生やして、手にはツルハシを持っている。
流れるみたいに、左の通りへ消えていく。
「....アレックスに似ている人」
シロコがそう言った。
——体が、自然と動いた。
椅子が後ろに倒れる。気にせず、扉まで歩く。手が、勝手に取っ手を掴んでいた。
「アレックス?」
アンペアが言った気がした。でも返事をしなかった。
「ちょっと!なにか言いなさいよ!」
ガチャンと、外に出た。
視線は、まだ左の通りに向いたままだった。
騒がしさが、一気に耳に入ってくる。
通りを歩いている人々の足、立ち話をする住人たちの声....。
でも、そんなの気にもとめなかった。
——あの人は....あの人はどこに。
「アレックス、どうしたの?」
背後から、慌ただしい足音。アンペアだった。
少し遅れて、シロコたちの姿も見える。
「なにも言わずに出て行ったから、びっくりしたわよ」
「あぁ、うん、ごめんね」
水色のあの人が消えていった方向を見る。
....姿がない。
見失っちゃいけない。理由なんて考える前に、目が探している。
「あれ、君たちは....」
「昨日のやつらじゃないか」
後ろから、声を掛けられた。
振り返ると、見覚えのある二人の姿がそこにあった。
「ロッテンさんとオストーさん!」
昨日のゾンビとスケルトン、ロッテンとオストーだった。
「今、ネザーゲートが出現したから、緊急で招集がかかったんだ」
二人とも長い外套を羽織っていた。
形はハルクたちのものに似ている。
けれど青みがかった黒ではなく、深い緑色。
ところどころ補修された跡もあるが、それでも不思議と古臭さはない。
戦場を生き残ってきた者が着る服のよう。
「東の方のゲートは壊したらしいが....。もし他にも出現していたら、俺たちがネザーへ向かわなきゃならない」
「あと、ピグリンとか、ネザーゲートを見かけたら、すぐに知らせて」
聞いたことのない言葉。
けれど、ロッテンたちの表情は冗談を言っている人間のそれじゃない。
さっきまで宿で話していた野菜泥棒の話とは違っていた。
「それで、こんなところに集まってどうしたんだ?」
「....水色の人を見かけなかった?」
「水色の人?」
「水色のシャツと濃い青のジャージ姿で、ツルハシを持っていたんだけど....」
ロッテンとオストーが顔を見合わせた。
畑、羊毛、泥レンガにネザーゲート。そして、謎の人物。
偶然にしてはでき過ぎている。
「....分からんが、そんな特徴の奴この街で見ないな」
「僕もそんな格好の住人は見たことないね」
ロッテンは腕を組み、オストーは首を小さく唸った。
「すぐに見失ったってことは、きっとそこら辺の路地裏に入ったんだろう」
そう言って、すぐそこの路地裏に続く道を顎でさした。
「あれ?あそこに落ちているのはなんでしょう?」
ノノミがある路地裏に続く道を指した。
視線の先。
石畳の上に、いくつかの影が転がっている。
「あれって....」
「確かめてくる」
ロッテンが一歩踏み出す。
近づくにつれて、それが一つじゃないことに気づいた。
どれも踏み荒らされ、土がこびりついたまま放置されている。
ロッテンがその中の一つを拾い上げて、指先で軽く払う。
「....毒ジャガイモだ」
わずかに顔をしかめた。
畑から消えていた作物。
それが、こんな形で雑に残されている。
「朝からの奇妙な事件も、そいつが関係しているかもしれないな。手伝うよ」
そう言って、路地裏にみんなで入り込んだ。
石壁に囲まれた細い通路。
積み上げられた樽。
干された洗濯物。
景色は何も変わり映えがない。
——ゴォォォォォ....。
どこからか、低い音が聞こえた。
「この音....なんでしょう?」
「どこか不気味ですね....」
ノノミとヒフミがそう言った。
風の音にも似ている。
けれど違う。
まるで巨大な炉が唸っているような、聞いたことのない音だった。
「....この音」
ロッテンの青い顔が僅かに険しくなる。
「ロッテンさん?」
「間違いない、ネザーゲートの音だ」
角の奥。そこから、大きく流れてきている。
全員が足を止めた。
誰も喋らない。
ただ、その低い唸り声だけが路地に響いていた。
曲がり角の向こう側に巨大な何かが息を潜めているよう。
ロッテンが剣の柄に手を添える。
オストーも無言で弓を握り直した。
その様子を見て、思わず喉が鳴る。
そして——。
角を曲がった。
黒い石で組まれた巨大な門。
その中央では紫色の渦が絶えず揺れている。
皮膚の上を這う熱気。かすかに焦げくさい匂い。渦の縁で、空気そのものが歪んで見えた。
目が離せない。なのに、直視していると胃の奥が重くなる。
「複数個、出現したってなると....」
オストーがゲートの縁に手を掛けた。
紫の渦が、揺れている。熱気が肌に触れる。それでも、目が離せなかった。
「なによあれ....」
「あれがネザーゲート....」
シロコたちは、その場から動けずにいた。
足が前に出ない。
「ん?これは....」
ゆっくりと腰を落とし、地面に落ちていたものを拾い上げる。
指先に乗せられたそれは、薄暗い路地裏の光を鈍く弾いた。
「....泥レンガだ」
「こっちは羊毛が落ちてるよ」
ひび割れた赤茶の塊。
それと、白色の毛糸のようなブロック。
さっきまで宿で聞いていた話と、まったく同じもの。
「どうして、こんな場所に....」
羊毛がなくなっただの、泥レンガが消えただの。
どこか笑い話のようだった出来事が、今は一本の線で繋がっているような気がした。
ゲートの向こうで、紫の渦が脈打つように揺れた。
まるで、何かを飲み込んだ直後みたいに。
——あの人が、この先に
「下がってろ、俺たちがなんとかする」
「待って——」
思わず声が出た。ロッテンが振り返る。
「私も....行きたい」
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。
「はぁ?正気?」
「ちょ、今日のあんた本当にどうしちゃったのよ!」
怖くないと言えば嘘になるし、まだそこまでしてあの人を追いたい理由が分からない。今すぐ引き返した方がいいと、体のどこかが訴えている。
それでも胸の奥のざわつきは、恐怖とは少し違う色をしていた。
——あの人に会えば、何かが分かるかもしれない。
帰る方法も、この世界のことも、——自分のことも。
「ネザーは君が思っているより遥かに危険だよ。そんな場所に行かせられない」
「でも——行きたい」
理由は上手く説明できない。
ただ——見失えば、二度と辿り着けない気がした。
「危険だぞ」
「分かってる」
「それでも行くのか?」
「....行きたい」
返事は、自分でも驚くほど迷いがなかった。
「....分かった、そんなに言うなら一緒に付いてこい」
「命の保証はできないよ」
みんなを振り返る。
「....他のみんなは?」
「ウチはこの街に残る。機械はいじれても、戦闘とか苦手だし」
アンペアが肩を竦める。
「私も....。少し怖いのでこの街に残りますね....」
ヒフミはゲートを見ながら小さく笑った。
「私も同じく....」
ノノミも。
セリカもシロコも、同じく首を横に振った。
「....じゃあ、お前だけだな」
ロッテンがそう言った。
ヒフミも、ノノミも、アンペアも頷いた。
不安そうな顔はしている。
「まぁ、そう思ったなら行ってみると良いんじゃない?あんたがそう言うの珍しいし」
「分かった」
振り返る。
「行ってくる」
それでも、アンペアたちは止めようとはしなかった。
「気を付けてね」
アンペアが小さく言ってきた。
「無事に帰ってきなさいよ」
「街の方は任せて」
「うん」
短く返事をした。
そして、一歩先に足を運んだ。
紫のゲートに触れた瞬間、熱が全身を包んだ。
視界が紫一色に塗り潰される。音が、遠くなる。
アンペアの声が、何かを言っていた気がした。聞き取れなかった。
もう、後ろは見えない。