「メェー」「モォー」
羊と牛の鳴き声が聞こえてきた。
ネザーでは一度も聞かなかった音だ。
思わず空を見上げる。
青い。
雲がゆっくり流れ、潮風が頬を撫でていく。
「涼しいですね....」
チナツが空を見上げる。
「....」
だけど、自分はまだどこかモヤがかかっていた。
「これは、別の意味で困ったな....」
ロッテンたちは頭を抱えた。
見渡す限り、青い海と小さな島だけ。
島の中央には、一軒の木造の家が静かに建っている。
波は岩肌を打ち、規則的な音だけが残っていた。
潮の匂いはネザーの熱気とはまるで別物。
「こんな孤島にネザーゲートがあるなんて、聞いたことねぇ」
ヘルメットの男は、頭を掻きながら地図を見た。
ネザーゲートの周囲は石畳で整えられている。
そして、一本道が、まっすぐあの家へ続いている。
あの一軒家に、まるで手招きされているみたいに。
「....行ってみよう」
波が静かに岩肌を打ち、潮風が頬を撫でていく。
海の橋を渡り切ると、石畳の道はそのまま島の奥へと続いていた。
道の脇には一定間隔で松明が立てられ、足元には雑草一つ生えていない。
少し離れた場所では、小麦が風に揺れ、その向こうでは牛や羊が柵の中でのんびりと草を食んでいた。
どれも作りかけではない。
毎日誰かが手入れをしている——そんな生活の跡が、島の至る所に残っていた。
「....あれ」
ロッテンが不意に足を止める。
道の隅に、道沿いに植えられた一本の若木があった。
「こんなところにダークオーク?」
思わずその木を見上げる。
濃い色の幹に、厚く茂った葉。
他の木々とは明らかに雰囲気が違っていた。
「何かおかしいんですか?」
「あぁ。オークならどこにでも生えてる。だが、このダークオークは違う。こんな孤島に一本だけあるなんて妙だ」
「そんなに珍しいのか?」
「珍しいというより、誰かが植えたと考えた方が自然かな」
オストーも枝ぶりを眺めながら静かに言った。
「この木は日差しを遮ってくれる。僕たちモンスターには都合がいいんだ」
「だから、普段はヴォルクスの連中が森ごと管理している。少なくとも、こんな孤島に一本だけ生えているような木じゃない」
自然と全員の視線が、島の中央に建つ一軒家へ向いた。
「....行ってみよう」
その家に、歩み寄る。
決して大きくはない。
二階建てでも、立派な屋敷でもない。
明るい色の木材を組み合わせた、ごく普通の家だった。
「ほぉ....洒落た別荘だな」
ヘルメットの男が屋根を見上げながらそう言った。
玄関脇には使い込まれた作業台。
隣ではかまどが赤く燃えている。
壁際には釣り竿とオールが立て掛けられ、小さなボートが浜辺へ引き上げられていた。
——コンコン
ロッテンが扉をノックした。
「....」
返事はない。
「....いないか」
ロッテンは、ゆっくりとドアノブへ手を掛けた。
「勝手に入るんですか?」
「ネザーで迷ったんだ。事情を話せば、分かって貰えるはずだ」
軋む音を立てながら、木の扉がゆっくりと開いていく。
木の香りが鼻をくすぐる。
壁際にはチェストが並び、かまどでは何かが焼ける音がしていた。
肉が焼ける、良い匂い。
「あ、おかえりなさ——」
部屋の奥から聞こえてきた声が、不意に止まる。
「....え?」
部屋の奥に立っていたのは、一人の少女だった。
黒の短く切った髪に、赤の眼鏡。
そして、その制服には見覚えがあった。
どこで見たんだっけ——。
そう考えた瞬間、少女もこちらを見つめたまま固まっていた。
「だ、誰ですかあなた達は....。それに、ゲヘナの風紀委員まで....」
「心配しないで。怪しい者だけど盗人じゃない」
「ネザーで迷ってたら、すぐそこのゲートから出てきたんだ」
少女の視線は警戒するように視線が部屋の入口を行き来する。
その中でも、一番長く止まっていたのはアコだった。
「な、なんですかその目は!今回は何もしませんよ!」
「今回はって....」
"今回は"という言葉に、思わずアコを見る。
どうやら以前、この子たちと何かあったらしい。
「知り合いなの?」
「あぁ、確かアビドスの.....」
イオリは少女をじっと見つめる。
「えっと....なんだったか」
「....奥空アヤネです」
――アビドス。
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かが繋がった。
藍色を基調とした制服。
街で何度も見かけた、シロコたちと同じ制服だ。
「アビドス?もしかして、シロコちゃんたちの?」
「....シロコ先輩を知っているんですか?」
「うん。街でノノミちゃんとかセリカちゃんと一緒にいるよ」
アヤネの肩がぴくりと震えた。
まだ警戒は消えていない。それでも、その表情には戸惑いより期待が混じり始める。
「シロコちゃんたちなら元気だよ。セリカちゃんとか、ノノミちゃんも毎日、街の手伝いをしてるよ」
「....そう、ですか」
安堵したように胸へ手を添え、小さく息を吐いた。
「皆さん無事なんですね....」
——ガチャ。
全員が一斉に玄関へ視線を向けた。
扉の側に立っていたのは——水色のシャツに藍色のズボンを身に着けた男だった。
右手には使い込まれたツルハシ。
左手には、目玉にも見える緑色の球体が握られていた。
——やっと、会えた。
なぜだか分からないけど、そう感じた。
けど、そんな気持ちとは裏腹に、どこか険しい空気が流れる。
男の視線が部屋を横切った。
アヤネ。
アコ、イオリ、チナツ——。
ヘルメットの男。
そして——モンスターのロッテンとオストー。
男の右手のツルハシが音もなく消える。
代わりに、"鉄の剣"が握られていた。
——躊躇は、一瞬もなかった。
その意味を理解するより先に、その人が動いていた。
床板を蹴る音が響く。
「ッ!」
誰かが息を飲んだ瞬間、もう遅かった。
——速い。
目で追うより先に、男は距離を詰めていた。
「——待って!」
気づいた時には、足がもう前に出ていた。
ロッテンの前に出てようやく、心臓が跳ねる。
——まずい
そう思った時には、もう目の前に刃があった。
「——スティーブさん!待ってください!」
アヤネが目の前に飛び込んできた。
「その人たちは敵じゃありません!」
剣先は止まったまま。
男はアヤネを見て、それからロッテンへ視線を移した。
警戒は解いていない。
「下ろして欲しいかなぁ....」
自分は目の前の男をじっと見据えた。
つい、つばを飲み込んだ。
この男も、後ろにいるロッテンを見つめ続けている。
「....俺の方からか」
そう短く答えると、ロッテンはゆっくりと斧を床にガタンと音を立てて降ろした。
「これでいいか?」
男はしばらく動かなかった。
剣先はわずかに揺れたまま、こっちから逸れない。
「スティーブさん」
アヤネが静かに呼びかけた。
「本当に敵じゃありません。私が保証します」
数秒の沈黙。
——剣を下ろした。
スティーブと言う目の前の人が持っていた剣は音もなく消えて、代わりに空いた右手だけが残る。
「悪かったな」
ロッテンは肩をすくめた。
「俺みたいなのを見りゃ、そうなるのも無理はねぇ」
スティーブと言う男はロッテンを見つめ、オストーを見つめ、それからアヤネへ視線を向けた。
「実は、この人たちはネザーで迷ってしまったみたいで....」
アヤネが事情を説明し始めてくれた。
スティーブは黙ったまま聞いている。
「....こいつは、話が通じる相手でいいんだよな?」
「....少なくともそう考えておこうよ」
ロッテンが溢したのを、オストーが答えた。
スティーブの表情はほとんど変わらない。
けれど、視線だけは時折、自分たちに向けられている。
「....それで、帰る方法を探していたら、この島に辿り着いたんです」
スティーブは自分たちの顔を一人ひとり見回した。
警戒しているというより、嘘をついていないか確かめているみたいな。
「....ここは、お前の島ってことでいいんだよな?」
スティーブは小さく頷いた。
たったそれだけなのに、不思議と疑う気にはならなかった。
「それ、何?」
スティーブの左手を見た。
そこには、さっきまで緑色の球体が残っている。
スティーブは球体を軽く持ち上げた。
「えっと....エンダーアイと言う物みたいです」
代わりに答えたのはアヤネだった。
「エンダーアイ?」
「なんですかそれ?」
「私も詳しくは知らないんですけど、スティーブさんにとっては大切な物なんだと思います」
スティーブは何も言わず、そのエンダーアイをしまった。
それだけで、この話をこれ以上聞くのは野暮な気がした。
「実は聞きたいことがある」
ロッテンの声から、軽さが消えた。
「街に繋がるネザーゲートを、復旧させたいんだ」
男はしばらく考えるように目を細めた。
「....あの」
アヤネが小さく手を上げた。
「私も、この人たちと一緒に行っていいですか」
一瞬、空気が止まる。
「その....この人たちが、シロコ先輩たちのいる街を知っているなら」
視線が少しだけ揺れる。
迷いというより、自分の中で答えを確かめているようだった。
「——また、先輩達と会いたいです」
小さな声だった。
けれど迷いはなかった。
スティーブは少し考えて、無言で家の奥へ歩いていく。
「....?」
戻ってきた彼の腕には、何個もの黒い石が抱えられていた。
もう片方の手には、なにかしらの道具。
「黒曜石と....火打ち石と打ち金?」
「これで....どうしろと?」
さっきから、この人は喋らない。
だけど、不思議と何を言いたいのか分かる。
視線。
頷き。
行動。
——それだけで、十分だった。
「....『四角い枠を作って、火を付けろ』ってことか?」
「え?雷で開通するんじゃないの?」
ロッテンとオストーの声が重なる。
スティーブは何も言わない。
ただ、黒曜石を床に置く。
「おいおい....本気か?」
「雷で開くって聞いてたが....違うのか?」
その言葉にも、スティーブは反応しない。
四角が、形になっていく。
まるで最初から“そこにそうあるべき形”をなぞるように。
最後の一辺が置かれた瞬間。
「....できたね」
「...あぁ」
オストーが小さく呟いた。
だが、まだ何も起きない。
「ほら見ろ」
ヘルメットの男が肩をすくめかけた、その時。
スティーブが火打ち石と打ち金を取り出した。
一瞬、空気が張り詰める。
「....おい!家の中で火を付けたら!」
答えはない。
——カチッ。
火花が落ちた。
黒曜石の枠に、紫の揺らぎが走る。
「....なんだ?」
空気が震える。
耳鳴りにも似た低い唸りが部屋の中へ広がっていく。
何もないはずの枠の内側が、水面のようにゆらりと波打った。
「....え?」
ロッテンの声が遅れて漏れる。
揺らぎは少しずつ濃い紫へ変わり、渦を巻き始める。
やがて光は枠いっぱいに満ち、まがまがしい紫色の幕が静かに姿を現した。
——ネザーゲートだった。
「雷じゃ....ないのか?」
誰もすぐには答えられなかった。
「そんなはずがない。ゲートは雷でしか開かない——それがメカニズム社が言っていた....」
紫の揺らぎは、静かに脈打っていた。
誰も口を開かない。
目の前の光景が、まだ信じられなかった。
そんな沈黙を破るように、スティーブが一歩前へ出る。
ゲートの前で足を止めると、ほんの一瞬だけこちらへ目を向けた。
振り返ることはない。
それでも、その背中ははっきりと語っていた。
——付いてきて。
そう言わんばかりに、スティーブは紫の光へ溶けるように消えていった。
「....行こうか」
ロッテンが静かに言う。
もう迷いはなかった。
その声に背中を押されるように、一人、また一人とゲートへ歩き出す。
「やっと、会えるんですね」
アヤネが胸の前で手を握り、小さく微笑んだ。
その表情を見て、自分もようやく実感が湧いてきた。
帰れる。
——あの街に。
紫の揺らぎへ足を踏み入れる。
視界が歪み、音が遠ざかる。
次の瞬間、肌を焼くような熱気が全身を包んだ。
赤く染まる大地となにかのうめき声。
またネザーだ。
だけど、ほんの少し前まで、この景色を見るだけで気が滅入りそうだった。
けれど今は違う。
もう迷わない。
もう出口は分かっている。
その思いだけが、熱気すら忘れさせてくれた。
アヤネちゃんを連れて帰ったら、シロコたちはどんな顔をするだろう。
ノノミも、セリカも、きっと——。