「アンペア!」
白い煙の中へ飛び込んだ。
咳をこらえながら白い煙をかき分ける。
だけど、どこにも姿はない。
「どこ....!」
足元には散らばった小麦粉だけが残っていた。
宿の窓から見えたのは、アンペアが連れ去られる瞬間だった。
慌ててライフルを掴み、窓から飛び降りたのに。
早く、気がついたのに....。
——それでも、間に合わなかった。
「....便利屋」
あの人たちが、アンペアを連れていった。
理由は分からない。
だけど、見間違いじゃない。
「....追わなきゃ」
こんな距離で見逃すなんて、ありえない。
煙の向こうへ駆け出そうとした、その時。
「....くっそ」
小麦粉まみれのハルクが、ふらつきながら立ち上がった。
「あぁ....。コバット隊長に、なんて報告すりゃいいんだ....」
頭を抱えている。
「シロコ先輩!」
後ろから声が聞こえた。
「お、大きな音がしたけどなにがあったの!?」
振り返ると、息を切らしたセリカたちが駆け寄ってくる。
セリカは辺りを見回し、荒れ果てた地面と白く散らばった小麦粉を見て顔色を変えた。
「....アンペアさんは?」
「....攫われた」
「....え?」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
「う、嘘....ですよね?」
ヒフミの声が震える。
「便利屋に連れていかれた」
「あいつらが!?」
セリカが思わず声を荒げた。
「で、ですがまだ近くに....」
ヒフミが辺りを見回す。
「無駄だ。もう追いつけねぇ」
小麦粉を払いながら、ハルクが首を横に振った。
「煙幕を張られた時点で、完全に撒かれた。今頃は、どこへ向かったかも分からねぇぞ」
誰も言い返せない。
それが現実だった。
ここで走り出したところで、闇雲に街を探し回るだけになる。
悔しさだけが胸の奥に残る。
でも、立ち止まっている暇はない。
「....」
今から追っても、見つけられるとは思えない。
むしろ時間だけが過ぎていく。
セリカが攫われたときはアヤネがいた。
でも、今はいない。
私たちだけじゃ、助けられない。
今、一番頼れるのは——。
「....コバットさんのところへ行こう」
返事を待たず、駆け出した。
みんなも黙って後に続く。
向かった先は、あの荷物を届けた古びた倉庫だった。
建物の外で、コバットは隊員と話をしていたところだった。
「コバットさん!」
「君たちか」
「アンペアさんが!」
「話はハルクから無線で聞いた。しかし....護衛を付けた翌朝には仕掛けてくるとは....」
そこで言葉が途切れた。
コバットさんは何も言わない。
その沈黙だけで、嫌な予感がした。
「安心しろ、と言ってやりたいところなんだが....」
その表情が曇る。
「今すぐには部隊を動かすことはできない」
胸が締め付けられる。
それでも、コバットさんの目は揺らいでいなかった。
助けることを諦めたんじゃない。助けるために、今は動けない。
「今動けば、救出どころか敵の思う壺になる」
言い返せない。
悔しい。
でも、その判断は間違っていない。
「今、大隊の方に戦車部隊を手配した。到着すれば、捜索範囲を一気に広げられる。それまではこちらでも準備を進められるはずだ」
「ど、どれくらいで来るんでしょうか....」
ヒフミが不安そうに口を開く。
「早くて....一週間後くらいになる」
「そんな!」
戦車部隊の到着。
それが今、唯一の希望だった。
なのに、その希望はあまりにも遠い。
「....その間にアンペアはどうなっちゃうの?」
「....少なくとも、すぐに命を奪うつもりなら攫う必要はない」
誰も返事をしなかった。
その言葉を信じるしかなかった。
誰も口を開くことは無かった。
足音だけが石畳に響く。
街はいつもと変わらない。
それなのに、自分たちだけ時間が止まったようだった。
——————
夕食の時間になった。
宿の主人が料理を運んできてくれた。
湯気の立つスープに、焼きたてのパン。それに肉料理。
昨日なら、セリカが真っ先に飛びついていた。
今日は違う。
料理は残ったまま、誰も食べようとしない。
空いた椅子が、二つ。
攫われたアンペアと、ネザーからまだ戻らないアレックス。
そこを見るたびに、胸が苦しくなる。
誰も口を開かない。
スープの湯気だけが、静かに揺れていた。
——コンコン。
宿の扉を叩く音が響く。
夜はとうに更けていた。
窓の外は闇に沈み、ランタンの火だけが壁に揺れる影を伸ばしている。
「....?」
こんな時間に?
扉の向こうに、人の気配が増えていく。
ひとりじゃない。
そう気づいた瞬間、背筋に緊張が走った。
誰もすぐには動かなかった。
呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。
「ただいま~....」
だけど、その声が聞こえた瞬間。
一拍だけ、世界が止まった。
「....え?」
聞き間違いじゃない。
扉から入ってきたのは、
ネザーに取り残されたはずのアレックスだった。
「やっと着いた....」
「もう一歩も歩けないよ....」
ロッテンが壁にもたれ込む。
オストーは荷物を床へ下ろし、その場にしゃがみ込んだ。
誰かが壁にもたれ、誰かが荷物を床へ下ろす。
その後ろから、続々と人が入ってくる。
ロッテン、オストー、見知らないひと。それと、ゲヘナの風紀委員とその何人かの部員。
服は煤と土埃にまみれ、誰もが疲れ切った表情をしている。
宿の静けさが、一気にかき消された。
そして——。
「アヤネ!」
「「アヤネちゃん!」」
アヤネは驚いたように目を丸くして、それから小さく笑った。
次の瞬間、その瞳がみるみる潤んでいく。
「みなさん....!」
駆け出したアヤネは、そのままセリカへ勢いよく抱きついた。
「わっ!?」
「よかった....本当に、よかったです....!」
「ちょ、ちょっと!苦しいって!」
そう言いながらも、アヤネの背中へそっと手を回した。
宿の主人が慌てて人数分の椅子を運び始める。
誰かが水差しを持ってきて、空いていた机の上へ置いた。
静まり返っていた宿は、帰還した人たちを迎える声と足音で一気に賑やかになった。
「もうネザーは勘弁だ....何度死ぬかと思った....」
「水....水を、ください....」
「しばらくは....行きたくないですね....」
肩で息をしながら、アレックスは部屋の中を見回していた。
「あれ?アンペアは?」
まっすぐ、私の目を見てそう言った。
その目は、まだ何も知らない色をしている。
....すぐには、答えられなかった。
「....シロコちゃん?」
「....攫われた」
「....え?」
「今日の朝、便利屋に....」
アレックスたちがネザーへ向かってから起きたことを話した。
煙幕で逃げられたこと。
コバットさんに助けを求めたこと。
そして、戦車部隊が到着するまで動けないと言われたこと。
「....一週間待たなきゃいけないの?」
「ん、コバットさんがそう言うには....」
「そんな....」
誰も動かなかった。
今ここで無理だと言われれば、それで終わりだって。
「....街の技術者がさらわれたってことか?」
ロッテンは深く息を吐いた。
「それは....ほっとけないね」
オストーも。
二人とも壁にもたれたまま肩で息をしている。
服は煤と土埃にまみれ、顔にも疲労の色が濃い。
それでも、その目だけは少しも死んでいなかった。
他にもなぜか一緒にいるゲヘナの風紀委員。
その後ろには、別の外套を着た人たち。
アレックスは宿の中を見回した。
誰も目を逸らさない。
疲れ切っている。
それでも、その瞳には迷いがなかった。
「....一週間も待てない」
静かな声だった。
それなのに、その一言だけで宿の空気が少し変わった。
「今からでも、アンペアを連れ戻そう」
疲労で立てなさそうな人もいる。
でも、誰一人として視線を逸らさなかった。
「みんな、協力してくれる?」
「最初からそのつもりだ」
ロッテンが斧を持ち直してそう言った。
「やれやれ、休む暇も無いね」
オストーも肩をすくめた。
「便利屋だって?」
ゲヘナの風紀委員の一人が、腰を押さえながら立ち上がった。
「あいつら、こんな世界でも規律違反をか」
イオリが舌打ちする。
「規律も何も、やってることは誘拐でしょ!」
「確認する必要があります」
チナツが静かに言った。
「え、今からですか?」
アコが思わず漏らす。
「待ってくださいよ。ゲヘナならともかく、どこの地かも分からない場所で軍事行動なんて——」
「なんだよアコ、怖いのか?」
一瞬、空気が止まった。
何か言い返そうとして、やめた。
代わりに、小さく息を吐く。
「....はぁ、分かりました。指揮はこちらで受けます」
「なら、話は早いな」
イオリが軽く肩を回しながら言う。
「だが、歩兵戦力だけだと戦えないだろ」
外套姿の、知らない人がそう言った。
「ヴォルクスはそんなんで壊滅できるほどやわじゃない。戦車だって普通に所有している」
その言葉に、誰もすぐには反応できなかった。
空気が一段、重くなる。
「なにか、対抗できる物を——」
——ガチャ。
乱暴に、扉がまた開いた。
空気が一瞬だけ揺れる。
反射的に、全員の視線がそっちに向いた。
そこに立っていたのは、
——水色のシャツに、藍色のズボン。
「スティーブさん!」
アヤネが、そう言った。
「スティーブ、少し協力してくれないか?」
ロッテンが一歩前に出て、短く事情を説明している。
煙幕、誘拐、戦力不足。
男の人はそれを、途中で遮ることもなく聞いていた。
「ネザーで君の行動を見てきた。なんでも、知っている感じがする」
一瞬だけ、視線がロッテンから外れる。
何かを考えるような沈黙が落ちた。
「その....無茶な願いだとは思うが、なにか"戦車に対抗できる物"は作れないか?」
時折わずかに視線だけを動かしながら、
——その人は軽く頷いた。
誰も声を荒げない。
でも、誰も止まらない。
「よし、助けに行こう!」
今のアレックスは、いつもより頼もしかった。
ランタンの火が揺れている。
その光の中で、影が一つずつ立ち上がっていく。
夜はまだ、終わっていない。