どれくらい走っただろう。
工場の爆音が遠ざかり、ようやく足を止めた瞬間、全員がその場に膝をついた。
「はぁ....はぁ....」
肺が焼ける。
脚が鉛のように重い。
それでも、誰も座り込もうとはしなかった。
耳を澄ますと、自分の荒い呼吸と、心臓の鼓動しか聞こえない。
背中が熱い。
誰かにじっと見つめられているような、不快な視線が、服の上から肌に突き刺さる。
ヒフミが木の幹に背中を預けながら、小声で呟いた。
「....まだ、来てる....気がします」
セリカがゆっくりと周囲を旋回し、銃口を下ろさないまま言った。
「....追手は、いないわね」
その言葉で、ようやく全員の肩から力が抜けた。
だが、完全にではなかった。
森の木々の間から、何かが自分たちを観察しているような——そんな生々しい気配が、まだ背後にまとわりついている。
「アヤネちゃん、アンペアを連れて撤退できたわよ」
『分かりました!こちらも撤退します!』
無線越しの声に、少しだけ安堵が混じっていた。
「助かったんですね....」
ヒフミが小さく呟く。
その言葉を聞いて、ようやく実感が湧いてくる。
目の前にいる。
ちゃんと、生きている。
「アンペア....」
名前を呼ぶと、彼女は少し困ったように顔を上げた。
「....来たんだ」
「当たり前でしょ!」
セリカが、傷とすすだらけの姿でも決めポーズをした。
「アンペアさんが困っているなら、助けに行くのは当然です」
ヒフミがそう言う。
「一人で抱え込まなくてもいいんですよ」
ノノミも頷く。
シロコは黙ったままアンペアを見る。
「....仲間だから」
短い一言。
でも、それで十分だった。
「....」
「それに.....」
セリカは少しだけ照れくさそうに目を逸らした。
「街で、私たちのために色々頑張ってくれたでしょ」
少しだけ間が空いた。
「工場の機械を一回壊しちゃった時もありましたけど、それでもアンペアさんは頑張って治しましたよね?」
「だから、その....今度はこっちの番だったってだけよ」
みんな、覚えている。
あの街で、アンペアが自分たちのために動いてくれたこと。
危険な場所へ向かって、知らない相手のためにも手を差し伸べていたこと。
アンペアは、小さく笑った。
「みんな....本当に....」
うつむく。
何かを言おうとして、でも言葉にならない。
きっと、今までこんな風に言ってもらえることは、少なかったのかもしれない。
「....いい仲間を持ったね」
「っ!?」
後ろから声——
全員が一斉に振り返る。
木々の間。
そこに、いつからいたのか分からない男が立っていた。
「....敵?」
シロコの指が、引き金にかかる。
「違うよ」
男は首を横に振った。
「少なくとも、今ここで君たちと撃ち合うつもりはない」
「じゃあ、何しに来たんですか?」
ヒフミが警戒しながら尋ねる。
男は少しだけ視線を逸らした。
「確認したかっただけだよ」
「確認?」
「君が、何を知っているのか」
その言葉に、アンペアが反応する。
「....」
アンペアは何もしゃべらない。
「クリエイト社の事故。遺跡から発掘された特殊なゲート。そして....あの男」
「あの男....?」
「街のせいじゃないんだろうけど、近いうちに大規模な襲撃になる」
その言葉に、空気が変わった。
「....何を言ってるの?」
セリカが銃口を少し上げる。
男は、それを見ても表情を変えなかった。
「僕は君たちに忠告をしに来ただけだ」
「予測?」
「うん」
男は森の奥へ視線を向けた。
「ベルダは、森を壊した犯人を探している。そして、"水色の男を見た"」
その言葉を聞いた瞬間だった。
「....」
胸の奥に、小さな引っかかりが生まれる。
水色の服。
藍色のジーンズ。
そんな人物を、自分は知っている。
"スティーブ"。
でも——
(なんで……)
ネザーから訪れたあの島。
ロッテンが不思議そうに呟いた。
——『こんなところにダークオーク?』
あの時は、ただ珍しい木だと思った。
でも今なら分かる。
ダークオークの森を探している人たち。
そこに植えられていた、同じ木。
「....隣の君は」
男が、静かにこちらを見る。
「なにか、知っていそうだね」
「....」
返す言葉が見つからなかった。
スティーブのことを話すべきなのか。
それとも、まだ何も分かっていないことを伝えるべきなのか。
迷っている間にも、男は何かを察したように小さく息を吐いた。
「やっぱり、そうか」
「何が?」
シロコが警戒したまま尋ねる。
「いや」
男は首を横に振った。
「君たちが何を知っているのか、少し分かっただけだよ」
一歩、森の奥へ視線を戻す。
「でも、今はそれを聞き出すつもりはない」
「え?」
「僕がここに来た理由は、確認だけじゃない。忠告だよ」
その言葉だけが、妙に重く響いた。
冗談を言っているようには見えない。
でも、脅しているわけじゃない。
「次に彼女が動く時は、話し合いでは済まないと思う」
風もないのに、木々がざわついた気がした。
「....最悪の場合、街を砂粒一つ残さないくらいにはね」
誰も言葉を返せなかった。
「でも、ひとつだけ解決法がある」
「....どんなこと?」
アンペアは警戒したまま問い返した。
男は少しだけ目を細める。
「君が、逃げている問題と向き合うこと」
「....」
男は淡々と続ける。
「技術者としては優秀なのに、"一番大事な相手"とは、まだ話せていないみたいだからね」
アンペアの表情がわずかに揺れた。
「....何を言ってるの」
男は答えなかった。
ただ、アンペアの反応を見て、肩の力を抜くように息を吐いた。
「....じゃあ、僕はこの辺りで失礼するよ」
そう言って、男はゆっくりと背を向ける。
「待って」
思わず声をかけそうになった。
聞きたいことはまだある。
なぜスティーブを知っているのか。
なぜ、そこまで先のことが分かるのか。
でも、その前に――
「あぁ、あと」
男が足を止める。
「次に会った時のために、僕の名前くらいは覚えておいてよ」
振り返った男は、少しだけ笑った。
「スプレッド。君たちとは、また会う気がするから」
それだけ言うと、男は森の奥へ歩き出した。
呼び止める言葉が、喉まで出かかった。
聞きたいことはまだ残っている。
スティーブとの関係。
クリエイト社の事故。
そして、なぜ彼がそこまで知っているのか。
でも——
気づいた時には、もうその姿は木々の向こうへ消えていた。
「....変な人でしたね」
ヒフミが小さく呟く。
「ん」
シロコは森の奥を見つめたまま、短く答えた。
警戒している。
でも、敵を見る目とは少し違った。
自分も、もう一度だけスプレッドが消えた方向を見る。
不思議な人だった。
敵なのか、味方なのか、最後まで分からなかった。
ただ、一つだけ分かったことがある。
あの人は、何かを知っている。
「....戻ろう」
アンペアが小さく呟いた。
その声には、さっきまでとは違う迷いがあった。