風もない。
鳥もいない。
遠くから聞こえるのは、時折響く不気味な環境音だけ。
まばらに、白亜の孤島が星のように浮いているカクカクの世界。
そんな場所で——
「ヒナちゃーん!」
珍しく、やけに楽しそうな声が響いた。
見上げる。
漆黒の空を背景に、小さな影がこちらへ向かってくる。
翼を広げた人影。
いや。
正確には——翼を背負ったホシノだった。
「これ、すんごい楽しいよー」
何度目か分からない旋回を終え、ホシノはゆっくりと浮島へ降りてくる。
「....何をしているの?」
「見ての通り、飛んでるよ~」
これは、いつものように、塔を見上げた時。
虚空に取り残されたように浮かぶ船があの塔にあった。
もしかしたら。
そう期待したのも一瞬だった。
船の中に、帰るための手掛かりはなかった。
その代わりに——
額縁に収められていた一対の翼。
それは、この何もない世界では不釣り合いなほど、空を目指す形をしていた。
「....それで?」
「ん~?」
「それを見つけてから、ずっと飛んでいるのね」
「だって、面白いじゃん?」
ホシノは笑う。
いつものような、眠そうな笑顔。
けれど、少しだけ違っていた。
ここに来てから、ホシノがこんな顔をしたのは初めてだった。
浮島を渡る時も。
塔を登る時も。
敵と戦う時も。
どこか余裕があるように振る舞っていたけれど、その目はずっと帰る場所を探していた。
でも今だけは違う。
ただ、空を飛ぶことを楽しんでいる。
「ヒナちゃんもやってみればいいのに」
「結構」
「絶対楽しいよ?」
「....」
「....」
「....落ちたらどうするのよ」
「そこはほら、おじさんの感ってやつで」
「感でどうにかなる場所じゃないわよ」
....多分、この人は落ちない。
そう思えてしまう程度には、ホシノの動きは正確だった。
急旋回で姿勢を崩しても、翼の角度を変えてすぐに立て直す。
ただ。
問題は、本人がそれを「危ないこと」と認識していないところだった。
実際、一度は浮島の下へ落ちかけた。
浮島の縁から虚空へ消えた時は、本当に肝が冷えた。
ホシノがあの緑色の球体がなければ、どうなっていたか分からない。
「そもそも、あなたはさっきから何回落ちかけているの?」
「え~?でも、ちゃんと戻ってきてるじゃん」
「結果的にはね」
「でもほら、今こうして無事だし」
「....」
「ヒナちゃん、心配してくれてる?」
「してない」
「即答だねぇ」
ため息をつく。
けれど、ホシノは聞いているのかいないのか、もう翼を広げていた。
「じゃあ、もう一周してくるね~」
「....」
「今度はもっと高く飛べそう」
「やめなさい」
そう言いながらも、もう止める気力を失っていた。
ホシノの姿が浮島から離れる。
最初は不安定だった飛行も、今では随分と慣れたものになっていた。
漆黒の空を背景に、小さな影が遠ざかっていく。
「....本当、子供みたい」
ホシノはまた笑いながら虚空へ飛び立っていく。
けれど、視線を少し外せば現実がある。
果ての見えない闇。
足を踏み外せば終わる虚無。
帰る方法すら分からない、自分たちだけの世界。
本当に、この旅に終わりはあるのだろうか。
答えのない空を、ただ静かに見つめ続けていた。