2093年8月。
夏とはいえ、北の大地に位置する洞爺湖周辺は、本州の蒸し暑さとは無縁の、冷涼な空気に包まれていた。
湖畔に建つ七草家の別荘は、その広大な敷地と伝統的な意匠で、十師族の一つたる七草の権勢を静かに示している。
七草真由美は、その別荘の広々としたラウンジで、一人窓の外に広がる湖面を眺めていた。
現在、魔法大学校付属第一高等学校の一年生にして、生徒会書記を務める彼女は、公の場では常に完璧な笑顔と七草家長女としての威厳を保っている。
だが今、その白磁のような手は、ティーカップの縁をなぞりながら微かに震えていた。
(恐ろしくなんかないわ……。私は、七草家の長女よ)
彼女は、自分に言い聞かせる。
現在、この洞爺湖では、十師族の当主と魔法師界の長老たちが集う、非公式の洞爺湖会議が開催中だった。
魔法界の重大事を話し合うその会議の裏で、水面下の交渉が進行していることを、真由美は知っていた。
七草家と、あの四葉家の接近。
長きにわたり、政治の七草と、力の四葉は、互いに距離を置き、時には牽制しあう関係だった。
その両家が、今、利害の一致をもって手を組もうとしている。
七草家は、四葉の圧倒的な個の力、その財力、そして本家を頂点とした鉄の組織力を欲していた。
そして四葉家は、七草が持つ中央政府への影響力、その政治力、そして十師族最大の数という名の力を求めている。
これは、政略。
そして、その政略の駒として、自分が選ばれたことも。
(お母様たちは、私を……)
七草家当主・七草弘一。
彼の後妻の長女である真由美は、常に家の中の複雑な政治に晒されてきた。
父の前妻が産んだ異母兄たちと、自分たち三姉妹が属する後妻派閥。
その内部対立は熾烈を極める。
この婚約が成立すれば、真由美を次期当主に推す後妻派にとって、これ以上ない強力な後ろ盾――四葉という最強のカード――を手に入れることになる。
この縁談を強く推し進めているのは、真由美の母であり、彼女を担ぐ後妻派の七草家被官たちだ。
父である弘一自身は、この婚約に関して表向き中立的な立場を崩していない。
娘の幸福を願う親心と、七草家当主としての政治的判断の間で、彼は沈黙を選んでいる。
だが、その沈黙は、事実上、後妻派の動きを容認していることに他ならない。
結局、自分は七草家の、そして母たちの派閥の利益のための生贄なのだと、真由美は冷めた目で自覚していた。
その相手が、「四葉の黒太子」でなければ、まだ心構えも違ったかもしれない。
四葉家第三代当主・四葉真夜の長男。
自分より一つ年下の中学三年生。
だが、魔法界において、年齢など些細な記号でしかない。
彼は、精神干渉系魔法の使い手にして、「四葉の最高傑作」とまで呼ばれる存在 。
その固有魔法は『
旧第四研の悲願であり、人の心を文字通り掌握する、禁忌にも等しい力 。
もし彼がその気になれば、自分の精神など、薄紙を剥がすように易々と支配されてしまうのではないか。
真由美が誇るマルチスコープも、強大な魔法力も、精神干渉系魔法の前では意味をなさないかもしれない。
「……怖い」
初めて、心の底からそう思った。
それは、魔法師として、一人の人間としての、根源的な恐怖だった。
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その頃、四葉元弥は、七草家の別荘へと向かう車の中にいた。
後部座席で深く腰掛け、14歳とは思えぬ冷静さで窓の外を流れる緑を眺めている。
その容姿は、母である真夜の面影を強く引いており 、中性的ともいえる整った顔立ちは、一切の感情を読み取らせなかった。
(洞爺湖、か。母上も、随分と思い切った手をお打ちになる)
元弥は、今回の会談の意図を正確に理解していた。
日本最強の魔法師集団である四葉家は、しかし、その強すぎる力故に、常に政府や他家から警戒と畏怖の対象とされてきた。
母・真夜が日本魔法協会の代表理事に就任しているとはいえ 、それは表向きの顔。
裏では、常に暗闘が続いている。
七草家との同盟は、四葉家にとって政治的な盾となる。
七草が持つ数の力と、霞が関へのパイプ。
それは、四葉がこれまで軽視してきた、しかし今や無視できなくなった表の力だった。
そのための、婚約。
相手は、七草真由美。15歳。魔法大学校付属第一高等学校の一年生。
(七草弘一の長女。一高の生徒会書記。遠隔精密射撃の使い手。そして……)
元弥の脳裏に、調査資料にあった七草家の内情が浮かび上がる。
前妻派と後妻派の対立 。
七草真由美は、後妻派の神輿。
つまり、彼女自身も、この婚約を喉から手が出るほど欲しているはずなのだ。
(利害は一致している。だが、道具が使い物になるかどうかは、別問題だ)
元弥にとって、これは査定だった。
七草真由美という人間が、四葉の次期当主の配偶者として、政治的な伴侶として、相応しい器かどうか。
彼は、自らの固有魔法『
そんなもので測れるのは、相手の脆さだけだ。
彼が知りたいのは、彼女の強さ。
七草家の複雑な闇の中で、どれだけの覚悟を持って立っているのか。
車が減速し、重厚なゲートをくぐった。 七草家の別荘が、その全容を現す。
元弥は静かに目を閉じ、そして開いた。
その瞳には、14歳の少年の揺らぎはなく、ただ「四葉の最高傑作」としての冷徹な光だけが宿っていた 。
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ラウンジの扉が、静かにノックされた。 真由美は、弾かれたように立ち上がる。
「……どうぞ」
声が、上擦らなかっただろうか。
入ってきたのは七草家の執事だった。彼は深々と一礼し、こう告げた。
「お嬢様。四葉元弥様が、御到着になられました」
心臓が、氷水で満たされたように冷たく収縮する。
真由美は、一つ深呼吸をし、完璧な七草家の子女の仮面を貼り付けた 。
ラウンジに招き入れられた少年を見て、真由美は息を呑む。
年下の中学生。そのはずだった。
しかし、そこに立っていたのは、魔王の嫡子。
中肉中背の、まだ線が細い身体 。
だが、その存在感は、この広大なラウンジの空気を完全に支配していた。
母である四葉真夜に生き写しの美貌は、人の情を寄せ付けない絶対的な冷たさを放っている 。
「……ようこそ、七草家の別荘へ。四葉元弥様」
真由美は、
「ご招待、感謝いたします。七草真由美……先輩」
元弥は、淡々とした、しかしよく通る声で応じた。
その「先輩」という呼び方に、真由美は微かに眉を動かす。
一高の生徒会書記であることは、当然知っているというわけだ。
二人は、窓辺のソファに向かい合って腰掛けた。
テーブルの上には、先ほどとは違う、新しい紅茶が用意されている。
沈黙。
重苦しい沈黙が、二人を包む。
真由美は、恐怖と必死に戦っていた。
彼が、いつ『
だが、元弥はただ、静かに紅茶のカップに手を伸ばすだけだった。
その所作は、完璧なマナー教育の賜物だった。
「……洞爺湖の景色は、お気に召しましたか?」
沈黙に耐えかねたように、真由美が口火を切った。
「ええ。美しい場所ですね。これほどの広大な土地を管理されているとは、流石は七草家です」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
当たり障りのない会話。
だが、真由美には分かった。 彼は、自分を「試している」。
(私から、何かを引き出そうとしている……)
恐怖に怯え、失態を演じないか。
あるいは、家の内情を愚かにも漏らさないか。
この政略結婚に、どのような「価値」を見出しているのか。
その時だった。
「七草家は、大変だと伺っています」
静かな声が、ラウンジの空気を切り裂いた。
真由美の背筋が凍りつく。
元弥は、表情一つ変えず、続けた。
「家の中に、二つの派閥があるそうですね 。あなたは、その一方の旗頭だと 」
「な……!」
直球。
あまりにも直接的な、無礼ともとれる踏み込み。
これは、揺さぶりだ。 真由美は、唇を噛み締めた。
ここで動揺を見せれば、彼女の「査定」は終わる。
「……何を、仰っているのかしら」
「隠す必要はありません。我々が手を組むということは、互いの弱点を共有するということです。四葉は、七草の政治力を必要としている。ですが、その政治力が、内部のゴタゴタで機能不全に陥っていては、話にならない」
元弥の言葉は、氷の刃となって真由美のプライドを切りつけた。
「……!」
「あなたは、この婚約で、我々四葉の力を利用し、あなた方の派閥を勝利させようとしている。違いますか?」
見透かされている。
すべて、お見通しだった。 真由美は、恐怖を通り越し、怒りに似た感情で全身が熱くなるのを感じた。
これが、四葉。
これが、四葉の黒太子。
彼女は、ふっ、と息を吐いた。
そして、貼り付けた七草家令嬢の仮面を外し 、彼女の奥底に眠る小悪魔の、あるいは魔女の素顔を、わずかに覗かせた 。
「……ええ、そうよ」
真由美は、挑戦的な笑みを浮かべて元弥を真っ直ぐに見据えた。
「その通りよ、四葉元弥君。私は、四葉の力が欲しい。あなたの力が。それを使って、私を、私たち姉妹をないがしろにしてきた者たちに、思い知らせてやりたいの」
開き直り。
それは、真由美にとって最大の賭けだった。
元弥は、数秒、無表情で真由美を見つめていた。
真由美は、その視線から逃げなかった。
やがて、元弥の口元に、本当に微かだが、笑みのようなものが浮かんだ。
「結構。その強欲さ、嫌いではありません」
元弥は、そう言うと、ティーカップをソーサーに戻した。
「俺も、無能な伴侶を持つつもりはありませんので」
空気が、変わった。
先ほどまでの、一方的な査定の空気ではない。
対等……とはいかないまでも、少なくとも、交渉のテーブルに二人で着いた、そんな空気に。
「俺の母、四葉真夜は、この同盟に大きな期待を寄せています。七草の数と政治力は、今後の四葉にとって必須の資産です」
と、元弥は続けた。
「あなたの役目は、その
それは、問いかけの形をした、契約条件だった。
だが、真由美は、今度は怯まなかった。
「当たり前でしょう?」
彼女は、今度こそ、心からの笑みを浮かべた。
それは、後に第一高校の三巨頭 、エルフィン・スナイパーと呼ばれることになる少女の、覚悟の笑みだった 。
「その代わり、あなたも私を失望させないでちょうだい。四葉の最高傑作、なんでしょう? 」
「善処しますよ、真由美さん」
元弥が、初めて彼女の名を呼んだ 。
真由美は、その呼び方に一瞬驚いたが、すぐに自分も呼び方を変えるべきだと判断した。
「よろしくね、元弥君」
洞爺湖の、静かな午後。
二人の魔法師の卵は、互いの利益と野心のために、最も強固な契約を結んだ。
それは、血よりも濃い、魔法界の闇の中で生きる者たちだけの、共犯関係の始まりだった。