魔法科高校の優等生〜四葉の黒太子〜   作:うに・とらひこ

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2094.03:那覇の盟約

2094年3月。

 

本州がまだ冬の終わりを引きずる中、那覇はすでに初夏の様相を呈していた。

 

じっとりと肌にまとわりつく湿気と、心地よい波の音。

 

それは、八ヶ月前に二人が会った洞爺湖の、あの冷涼な空気とは対極にあった。

 

七草真由美は、那覇にある七草家の別荘の一室で、瑠璃色の海を眺めていた。

 

魔法大学校付属第一高等学校の一年生にして、生徒会副会長。

 

この八ヶ月で、彼女の立場は書記から副会長へと変わっていた。

 

これは彼女自身のカリスマ性と、生徒からの圧倒的な人気によって勝ち取った地位であり、七草家の看板とは無関係の、純粋な彼女個人の成果だった。

 

(洞爺湖の時は、ただ怖かった……)

 

自嘲気味に、真由美は心中で呟く。

 

あの時、彼女は「四葉の最高傑作」と呼ばれる少年の、禁忌の魔法、心理掌握(メンタルアウト)に怯えるだけの駒だった。

 

だが、今は違う。

 

一高の生徒会で、自らの力を証明したこの八ヶ月は、彼女から四葉への過度な恐怖を拭い去っていた。

 

無論、政略の駒であることに変わりはない。

 

彼女たち後妻派が、この婚約にどれほどの期待を寄せているか、痛いほどわかっている。

 

その全ての原動力が、今日、この別荘を訪れる。

 

――四葉元弥。

 

彼との婚約は、もはや交渉段階にはない。

 

今日、この那覇会議の場で、両家当主は最終的な決定を下す。

 

これは、その決定を前にした、最後の顔合わせだった。

 

(私は、彼に試された。そして、及第点をもらった)

 

真由美は指先を強く握りしめた。

 

(でも、今日は違う。今日は私が、彼を査定する)

 

政略の道具として、互いを使う覚悟はできている。

 

だが、それだけでは足りない。

 

この先、巨大な陰謀と家のしがらみの中で共に戦う相手として、果たして彼は信頼に足る人間なのか。

 

「四葉の最高傑作」という仮面の下にある、彼自身の心を。

 

静かなノックの後、執事に導かれて入室してきた少年を見て、真由美は息を整えた。

 

四葉元弥。

 

八ヶ月ぶりに見る彼は、背が少し伸びたようだったが、それ以上に、その存在感が変わっていた。

 

母、四葉真夜の面影を色濃く残す整った顔立ちは、洞爺湖で見た時よりもさらに感情の起伏を消し去り、冷徹なまでの静謐さを湛えている。

 

「ご無沙汰しております、真由美さん」

 

「こちらこそ、元弥君。ようこそ、那覇へ」

 

形式的な挨拶。

 

二人は再び、テーブルを挟んで向かい合う。

 

重苦しい沈黙。

 

だが、それは洞爺湖での恐怖の沈黙とは質が違った。

 

互いに、相手の出方を、呼吸の深ささえも探り合うような、緊迫した対峙だった。

 

口火を切ったのは、元弥だった。

 

「生徒会副会長へのご就任、おめでとうございます。一年生での副会長とは。ご自身の人気と実力で勝ち取ったと伺っています。流石は一高の『妖精姫』ですね」

 

声には、一切の感情が乗っていない。

 

事実を分析し、それが己の婚約者として価値があるか、確認するような響き。

 

(試している……)

 

真由美は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 

「ありがとう。一高は実力主義なものですから。元弥君こそ、来月からは第四高校へのご進学だとか。私が一高を選んだように、元弥君も、地元の浜松を選ばれたのですね」

 

真由美は、あえて地元という言葉を使った。

 

十師族が、その影響力を維持するために地元の魔法科高校へ進学するのは、ある種の義務であり当然のことだ。

 

関東の七草が一高へ、東海・甲信の四葉が四高へ。

 

彼女は、その当然の裏にある彼の意図を探ろうとした。

 

元弥は、淡々と頷いた。

 

「ええ。七草家が関東での影響力を重視するように、四葉も地元である東海・甲信を疎かにはできませんから。それに」

 

彼は、窓の外に広がる軍港に一瞬、視線を移した。

 

「浜松は、国防軍・東海軍の重要拠点でもあります 。()()()()ものは多い」

 

「……」

 

「それよりも、真由美さん。あなたの足場は固まりましたか?」

 

「足場?」

 

「七草家内部の、ことです」

 

元弥の視線が、初めて真由美を真っ直ぐに射抜いた。

 

「我々四葉家が、この婚約で七草家に期待するのは、霞が関への影響力と、十師族最大の数。その資産が、内部の対立ごときで揺らいでいるようでは、話にならない」

 

八ヶ月前と同じ、氷の刃のような言葉。

 

だが、真由美はもう怯まなかった。

 

「……ええ。私の足場は、あなたが思っている以上に強固になりつつあるわ」

 

真由美は、あえて挑戦的な笑みを浮かべた。

 

「お母様と、私たちを支持する被官たちの尽力で、前妻派の異母兄たちは、もう『次期当主』の座を公言できないところまで追い詰められている」

 

「追い詰めた、ですか」

 

「ええ。だからこそ、彼らは『最後の手段』に出ようとしている」

 

「……」

 

「この婚約の、妨害よ」

 

元弥の眉が、微かに動いた。

 

「四葉家との同盟が成立すれば、彼らの負けは決定的になる。だから、彼らは必死よ。この那覇で、当主である父に、あるいは四葉家当主であるあなたのお母様に、どのような『偽りの情報』を吹き込んでいるか」

 

真由美は、あえて内情を晒した。

 

これは賭けだった。

 

家の恥部を晒すことは、七草家の価値を下げることになりかねない。

 

だが、元弥は静かに目を伏せた。

 

「……なるほど。だから、今日この場で、俺とあなたを会わせたわけですか」

 

「どういうこと?」

 

「『四葉元弥と七草真由美の間に、すでに強固な信頼関係がある』と、両家の前で示すため。たとえ前妻派がどのような妨害工作をしようとも、当人同士の意思は固い、と」

 

真由美は息を呑んだ。

 

母たちが描いた、政略の最終段階。

 

それを、この少年は、一瞬で見抜いた。

 

「……その通りよ。元弥君」

 

真由美は、仮面を外した。

 

「私を、利用してちょうだい。そして、あなたも私に利用されて。私たちは、そうやって『最強のカード』になるのよ」

 

元弥は、しばらく黙って紅茶のカップを見つめていた。

 

ラウンジには、南国の熱気を含んだ風と、遠い波の音だけが響いている。

 

この少年が、今、何を考えているのか。

 

『心理掌握』とは逆。

 

彼女は、彼の心を読めない。

 

やがて、元弥がぽつりと呟いた。

 

「……暑い」

 

「え?」

 

「洞爺湖は、思考を巡らせるには最適だった。だが、ここの暑さは……人の理性を鈍らせる」

 

それは、あまりにも人間的な、14歳の少年らしい言葉だった。

 

真由美は、思わず小さく笑ってしまった。

 

「ふふ……。そうね。私もこの暑さは苦手だわ。頭がぼーっとして、余計なことを考えてしまう」

 

「余計なこと?」

 

「『本当に、これで良かったのかしら』とか」

 

元弥の視線が、再び真由美に戻る。

 

その瞳には、先ほどの冷徹な査定の色とは違う、純粋な「疑問」が浮かんでいた。

 

「あなたは……後悔しているのですか。この婚約を」

 

「まさか」と真由美は首を振る。

 

「これは、私が勝つために、私たちが生き残るために、必要な契約。後悔なんて、するはずがない」

 

彼女は、カップを置いた。

 

「でも、時々思うの。もし、私たちが『七草』と『四葉』じゃなかったら……。ただの魔法師の卵として出会っていたら、どうなっていたのかしら、って」

 

それは、政略結婚の当事者が、決して口にしてはならない感傷だった。

 

元弥が自分を無能と断じるかもしれない。

 

だが、真由美は、あえてそれを口にしたかった。

 

この政治のど真ん中で、ほんの少しの感情を。

 

元弥は、答えない。

 

ただ、じっと真由美を見ている。

 

その冷たい瞳の奥で、何かが揺らいだように見えた。

 

「……もし」

 

元弥が、静かに口を開いた。

 

「もし、あなたが七草真由美でなかったとしても。あなたは結局、何かと戦っていただろう。そして俺も、何かに縛られていた」

 

「……」

 

「家がなくとも、人は力に縛られる。あなたは『マルチスコープ』の力に 。俺は……この『心理掌握』の力に 」

 

元弥は、自らの掌を見つめた。

 

「だから、同じことです。どこで出会おうと、俺たちは道具として生きるしかなかった」

 

真由美の胸が、チクリと痛んだ。

 

彼もまた、戦っている。

 

「四葉の最高傑作」という、重すぎる宿命と。

 

「……そうね」

 

真由美は、そっと頷いた。

 

「私たちは、似ているのかもしれない。元弥君」

 

「似ている?」

 

「ええ。自分の力を呪って、それでもその力を使わなければ生き残れない。……とても、業が深いところが」

 

元弥は、ふっと息を吐いた。

 

それは、笑いともため息ともつかない、乾いた音だった。

 

「……あなたは、やはり面白い人だ、真由美さん」

 

その時だった。

 

ラウンジの扉が開き、七草家の執事が深々と頭を下げた。

 

「お嬢様、元弥様。……御当主様方より、ご伝言です」

 

空気が、再び張り詰める。

 

「本日、この時をもちまして、四葉家・七草家両家の、四葉元弥様と七草真由美様の御婚約、正式に相整い、決定いたしました」

 

ついに、決定された。

 

もう、後戻りはできない。

 

執事が退室し、再び二人きりになる。

 

だが、空気は八ヶ月前とも、ほんの数分前とも、まるで違っていた。

 

「最強のカード」であり「業の深い」共犯者。

 

「さて、どうしましょうか」

 

真由美が、悪戯っぽく微笑んだ。

 

「『婚約者』らしく、少しは仲睦まじい姿でも、両親や……邪魔者たちに見せてあげないと」

 

「……茶番ですね」

 

元弥は心底うんざりしたように言った。

 

「でも、必要な茶番でしょう?」

 

真由美が立ち上がり、元弥に手を差し伸べる。

 

「よろしくね、元弥君。私の、共犯者さん」

 

元弥は、数秒、その手を見つめていた。

 

やがて、彼は立ち上がり、その手を取った。

 

ひんやりとした、少年の手。

 

「……完璧、とは言いませんが」

 

元弥が、真由美を見据えて言った。

 

「あなたなら、信頼するに足るかもしれない」

 

それは、完璧にはほど遠い、利害と打算の上に築かれた信頼。

 

けれど、巨大な渦の中で生きる二人にとって、それ以上に確かな「絆」はなかった。

 

南国の熱気の中で、二人の「黒太子」と「妖精姫」の、冷たくも確かな盟約が、今、結ばれる。

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