2094年5月。
新学期の喧騒も落ち着き、四高は汗ばむほどの陽気と、ほんの少しの気だるさで、午睡のような静けさに包まれていた。
生徒会室も、その例外ではない。
「――以上が、本年度九校戦の、選手リストです」
会計の春日野要が、無機質な声で読み上げる。
「異論は?」
生徒会長・榊原理久が、白衣の奥から冷たい視線で室内を見渡した。
「ありません」
理論志向の生徒が多い四高において、榊原と春日野は特に馬が合った。
「待って」
その静寂を破ったのは、副会長の
彼女は、整った中性的な顔立ちに、柔らかな笑みを崩さぬまま、一つの爆弾を投下した。
「リストに、一点追加を提案します。作戦スタッフとして、書記の四葉元弥君を推薦します」
「葵……」
春日野が鋭く口を挟む。
「四葉書記は、当然ながら新人戦の選手として選出されています。作戦スタッフとの兼任は非効率的です」
「だからよ」
と葵は笑みを深める。
「彼を、新人戦の作戦スタッフして推薦するの。選手兼任で」
「……百目鬼副会長」
会長の榊原が、初めて口を開いた。
その声は冷たい。
「正気か。一年生、それも選手自身に指揮を任せるなど、理論的に愚行だ」
「会長」
葵は、笑みを消さないまま、藤色の瞳で榊原を真っ直ぐに見据えた。
「これでは、四高は、一高や三高に勝てません。それが現実です」
彼女は、榊原たち生徒会の主流派が持つ、理論への『信仰』に疑問を持っていた。
勝てない現実から目をそらすため、彼らが理論の高度さに逃避しているのでは、と。
「我々が劣っていると?」
榊原の声が、さらに低くなる。
「いいえ」
と葵は首を振る。
「私たちは、理論の高度さにこだわりすぎて、勝負に負けています。優勝常連校(一高・三高)の現実的な勝利の前に、私たちの理論は、ただの逃避になっていませんか?」
「……百目鬼」
榊原の呼び方が変わる。
「それは、四高の理念への冒涜か」
「いいえ。四高を勝利させるための、提案です」
空気が張り詰める中、ずっと黙っていた元弥が、静かに口を開いた。
「副会長も言い過ぎです。落ち着いてください」
「……?」
葵が驚いて元弥を見る。
元弥は、榊原を真っ直ぐに見据えた。
「我々が勝てないのは、理論への逃避が唯一の原因とは言えないでしょう。ですが、四高は運用に必要な魔法師やCADというリソースを、軽視しているとは思います。理論が完璧であったとしても、運用ができないのであれば、結果はおのずと良くないものになるでしょう」
「……」
「俺に新人戦の総指揮を。選手として、そして作戦スタッフとして、四高が誇る高度な理論に基づいた勝利を、会長にお見せします。それこそが、四高の正しさの証明です」
榊原は、数秒間、元弥を査定するように見つめた後、短く息を吐いた。
「……いいだろう。だが、忘れるな。四高が求めるのは、勝利という結果ではない。勝利に至る理論の正しさだ」
「承知しています」
元弥は、淡々と頭を下げた。
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会議が終わり、役員たちが退室していく中、葵だけが元弥に声をかけた。
「元弥君。少し、お話があるの。副会長室へ」
副会長室は、生徒会室とは打って変わって、葵の私物が置かれた、わずかに「人間的」な空気が漂う場所だった。
二人きりになると、葵はいつもの笑顔を消し、藤色の瞳で元弥をじっと見つめた。
「……さて、四葉君。さっきは、よくも『副会長も言い過ぎです。』なんて言ってくれたわね」
「事実です。あなたは、会長たちを挑発しすぎた」
「ふふ、そうね」
と葵は悪戯っぽく笑う。
「でも、驚いたわ。まさか、会長の『信仰』を逆手に取って、自分を売り込むとは。……ねえ、四葉君。あなたは、本当に四高生?」
「どういう意味ですか」
「榊原会長や春日野さんは、理論を『信仰』してる」
葵は、声のトーンをわずかに落とした。
「勝てないことへの『逃避』として、ますます理論に固執しているわ」
「でも、あなたも私も、そうじゃない。私たちは、理論を手段の一つとして見ている。……違う?」
「道具は、使ってこそ価値があります。俺は、最も効率的にそれを使いたいだけです」
「効率的、ね……」
葵は藤色の瞳を細める。
「あなたの言葉って、痛くないのに刺さるのね」
「まるで、人も魔法式の一部みたいに扱うんだから」
彼女は立ち上がり、窓の外を見ながら続けた。
「……でも、期待してるよ、書記君。あなたが、どう新人戦の指揮をとるのか」
元弥は、その言葉に隠された彼女自身の副会長としての苦悩と好奇心を感じ取ったが、無表情に一礼するだけだった。
「ご期待に沿えるよう、善処します」
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その夜。
自室に戻った元弥は、端末に送られてきた膨大な九校戦の過去データをブラウザで流しながら、思考を巡らせていた。
(九校戦……初陣、か)
四葉元弥という存在を、魔法界に、そして敵に、公式に披露する場。
彼の脳裏に、一つの懸念が浮かび上がる。
『銀狐』佐伯少将。
そして、その佐伯と接触した、七草家の「前妻派」。
(九校戦は、十師族の次代が一堂に会する場所。これほど格好の『舞台』はない)
七草真由美を次期当主の座から引きずり下ろしたい彼女の異母兄たちが、この舞台で何もしないはずがなかった。
真由美が率いる一高が惨敗すれば、彼女の求心力は落ちる。
あるいは、もっと直接的に、彼女自身を事故に見せかけて潰すか。
そして、その婚約者である自分も、当然ターゲットになる。
四葉の最高傑作が、一年生の選手兼作戦スタッフとして無様に敗退すれば、七草家と四葉家の同盟は時期尚早として、内外から揺さぶられるだろう。
元弥の思考は、自然と、もう一人の共犯者へと向かった。
関東の、八王子。 彼女は、この報をどう受けるだろうか。
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第一高等学校、生徒会室。
副会長の七草真由美は、鬼気迫る表情で分厚い資料の山と格闘していた。
二年生となった彼女は、名実ともに一高生徒会の中心だった。
九校戦は、一高にとって勝利以外を許されない、至上命題だ。
「副会長! 第四高からの選手団・役員リスト、最終版が届きました!」
後輩の書記から渡された端末を一瞥した真由美は、その一点で、指を止めた。
【第四高等学校:一年A組・書記:四葉元弥】
【新人戦 選手/新人戦 作戦スタッフ(総指揮)】
「……は?」
思わず、素の声が漏れた。
(一年生が、選手で、しかも作戦スタッフを兼任……? あの、元弥君が?)
驚愕。
そして、次に押し寄せたのは、形容しがたい、複雑な感情の波だった。
(……そう。彼なら、やりかねない。いえ、彼だからこそ、任されたのね)
那覇で見た、あの年下とは思えぬ冷徹な瞳を思い出す。
四高の、あの理論主義の巣窟で、彼がどれほどの役者として演じたのか。
だが、すぐにその感情は、冷たい「現実」に上書きされる。
(……敵、ね)
一高と四高。
七草真由美と、四葉元弥。
那覇で盟約を結んだ二人が、婚約者として臨む最初の「公式の場」は、皮肉にも、互いを打ち負かすべき「敵」としての邂逅になる。
(どうしよう……)
真由美の胸が、きりきりと痛む。
これは、「恋」などという甘い感傷ではない。
もし、彼が指揮する四高に、万が一、一高が不覚を取れば?
ただでさえ、「四葉の力を借りた」と陰口を叩く前妻派の兄たちが、何を言い出すか。
(『四葉の婚約者に、わざと負けたのではないか』)
(『七草の誇りを、四葉に売り渡した』)
兄たちが、そして『銀狐』佐伯少将が、最も望むシナリオ。
この政略結婚そのものを、内側から破壊する、最悪の疑心暗鬼。
彼女は、絶対に勝たなくてはならない。 そして、元弥も、絶対に負けられない。
(私たちは、互いに、互いの首を絞め合うことになるの……?)
政治の渦が、二人の関係を、逃げ場のない盤上へと追い詰めていく。
真由美は、少しだけ震える手で、一つの番号を呼び出した。
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浜松の自室で、元弥の端末が静かに着信を告げた。
ディスプレイに表示された「七草真由美」の名に、彼は「やはり」とだけ思った。
「……こんばんは、真由美さん」
「こんばんは、元弥君。……リスト、見たわ」
画面の向こうの真由美は、いつもの完璧な笑顔を貼り付けていた。
だが、その声は、生徒会副会長としてのものではなく、一人の少女のものだった。
「新人戦の、総指揮ですって。それも、選手と兼任で。すごいじゃない」
「あくまで一年生の代表として、ですよ。副会長の推薦です。四高は、面白い学校ですよ、色々な意味で」
「そう……」
言葉が、途切れる。
画面越しの沈黙が、二人を隔てる物理的な距離よりも、重くのしかかる。
先に沈黙を破ったのは、真由美だった。
「……元弥君。私たち、どうすればいいの」
仮面が、剥がれた。
その瞳には、焦りと、そして助けを求めるような色が浮かんでいた。
「私は、勝たなくてはならない。あなたを敵として、全力で、一高の力で叩き潰さなくてはならない。それが、私の、唯一の道なの」
「……」
「でも、もしそうなったら、あなたはどうなるの? 四葉の最高傑作が、私の率いる一高に負けたら? あなたの立場も、そして……私たちのこの『盟約』も……!」
彼女は、「政治」の渦の中で、孤立していた。
元弥は、画面の中の彼女を、静かに見つめていた。
そして、那覇での言葉を、そのまま返した。
「真由美さん。俺たちは共犯者だ」
「え……」
「俺の役目は、四高の新人戦の総指揮として、『理論通りの勝利』を掴むこと。あなたの役目は、一高の副会長として、『期待される勝利』を掴むこと」
「まあ、そうね……」
「そして」
と元弥は続けた。
「俺たちの本当の『戦場』は、九校戦のフィールド上にはありません」
元弥の冷たい瞳が、画面越しに真由美の不安を射抜く。
「俺たちの敵は、あなたの異母兄であり、『銀狐』佐伯だ。一高の勝利も、四高の勝利も、それは過程に過ぎない」
「……」
「俺たちの勝利は、九校戦を利用し、九校戦が終わった後も、この婚約を盤石なものとして維持し、そして……俺たちの敵を、完全に排除することです」
彼の冷徹な言葉によって、真由美は落ち着きを取り戻す。
「そうね。 勝敗じゃないわ」
この政治の渦の中で、二人で「生き残る」こと。
それこそが、二人にとっての本当の闘いだった。
「……ふふ」
真由美の口から、いつもの小悪魔的な笑みがこぼれていた。
「本当に、年下とは思えないわね、元弥君は。……わかったわ。全力で、あなたを叩き潰してあげる」
「善処しますよ、真由美さん。一高の戦力も、俺の作戦に組み込んでおきますから」
「せいぜい、頑張ることね」
通信が切れる。
真由美は、端末を握りしめた。
(そうよ、これは戦争だわ)
だが、もう一人ではない。
八王子と浜松。
遠く離れた場所で、二人の共犯者は、九校戦という名の最初の共同戦線に向け、静かに、そして冷徹に、それぞれの準備を始めた。