2094年6月。
旧山梨県の山々に囲まれた狭雑な盆地に存在する、地図にも載っていない名も無き小さな村。
認識阻害の魔法による結界が構築された四葉家の本拠地は、梅雨入りの重く湿った空気に包まれている。
元弥は学期中にもかかわらず、母であり四葉家第三代当主、四葉真夜の前に立っていた。
「……して、元弥。わざわざ浜松から戻り、私に会う要件とは何かしら」
真夜は、豪奢なソファに深く身を沈め、完璧な笑みを浮かべていた。
だが、その瞳は『夜の女王』の異名にふさわしく、一切の感情を映さない。
16歳の息子に対しても、その態度は変わらない。
元弥は、母の圧倒的な存在感を前にしても、表情一つ崩さなかった。
「母上。来たる九校戦に向け、魔法大学校付属第四高等学校の、『新人戦チーム』に対し、F.L.Tより新型CAD、及び最新の調整機材一式を『寄付』していただきたく、お願いに上がりました」
真夜の笑みが、微かに深くなった。
「F.L.T……ですか。それも、新人戦に限定して?」
「はい」
「四高は、理論の高度さを誇る学校。機材の優劣という外的要因に頼ることを、是としないのではなくて?」
真夜の言葉は、息子を試す刃だった。
「それこそが、四高の弱点であり、同時に強みです」
元弥は、母の視線を真っ直ぐに受け止める。
「彼らは、理論を重視するあまり、魔法師のコンディションやCADの最適化といった実践を軽視しています。 理論の高度さに逃避し、一高や三高に勝てない現実から目を背けている節がある」
「ほう。それで、あなたはその理論を否定すると?」
「いいえ」
元弥は即答した。
「私の目的は、彼らの理論の高度さを否定することではありません。理論と実践の中庸を見出し、摺り合わせることです。 それこそが、最も効率的に結果を出す道だと考えます」
「その結果を出すために、F.L.Tが必要だと?」
「はい。そして、新人戦に限定する理由もそこにあります。 会長たち四高の主流派は、私の案を受け入れないでしょう。 彼らにとって、それは理論の純粋性を汚すノイズでしかない。ですが新人戦ならば、俺の裁量で最適化が可能です」
真夜は、楽しそうに目を細めた。
「……元弥。あなたの本当の目的は、四高の勝利のためかしら。それとも」
真夜の視線が、まるで八王子の方向を見透かすように、遠くを見た。
「『七草家の妖精姫』のため?」
これこそが、この謁見の本題だった。
元弥は、沈黙で肯定した。
「母上。我々の婚約は、『銀狐』佐伯少将と、七草家の前妻派にとって、最大の『障害』です」
「そうね」
「彼らは、必ず九校戦で動きます。七草真由美を失墜させ、あるいは私を敗北させ、この同盟に『瑕疵』を作ろうとするでしょう」
元弥は、一歩前に進んだ。
「私は、それを許さない。私は私の戦場で、彼女は彼女の戦場で、圧倒的な『勝利』を収める。二つの勝利をもって、我々の同盟の『正しさ』を、国内外の敵に知らしめるのです」
「……」
「そのために、F.L.Tの力が必要です。これは、四葉家次期当主としての要求です」
真夜は、満足そうに頷いた。
「F.L.Tは、龍郎さんたちの会社ですが、四葉本家からの『お願い』を無下にはしないでしょう。……良いでしょう。手配させます」
「ありがとうございます」
「ただし、元弥」
真夜の瞳が、初めて母ではなく当主の冷徹さを帯びた。
「切り札とは、使い方を誤れば自らの首を斬るもの。無様な戦いを見せたら、わかっていますね?」
「御意に」
元弥は、氷の重圧のような期待を背中に感じながら、静かに母の前から退室した。
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そのニュースは、水面下で、しかし瞬く間に魔法界の枢要を駆け巡った。
「F.L.T、第四高校に対し、新型CAD及び調整装置の寄付を決定」
八王子、第一高等学校。生徒会室。
副会長の七草真由美は、彼女の母の派閥から送られてきたその緊急報告を読み、完璧な笑顔のまま、その目を細めていた。
周囲の喧騒が、遠のいていく。
「(F.L.Tが、動いた……?)」
彼女の頭脳は、即座にこの一手のもたらす政治的意味を解析した。
F.L.Tは、単なる一企業ではない。
四葉家一門衆筆頭、司波家が実権を握る、日本最強の魔法工学メーカー。
そのF.L.Tが、半ば公然と、四高に肩入れする。
これは、四葉家が、「四葉元弥」という駒に、本気で投資を始めたという宣言だ。
(元弥君が……やったのね)
那覇で交わした共犯者の盟約。
口先だけではない。
彼は、本当に四葉家という巨大な権力を動かしてみせた。
その事実に、真由美の胸をまず襲ったのは、安堵ではなかった。
強烈なプレッシャーと、そして、武者震いにも似た高揚だった。
(彼は、四葉家の全面的な支援を受けて、九校戦に臨む)
(私は? 私は、七草家の内部の敵と戦いながら、九校戦に臨まなくてはならない)
彼は、盤石の城から出陣する黒太子。
私は、内側から崩れかけの城を守る、妖精姫。
(面白いじゃない……)
彼女の思考は、恐怖ではなく、冷静な計算に移っていた。
(もし、私が負けたら?)
真由美の敗北は、前妻派の兄たちが、そして『銀狐』佐伯が、最も望むシナリオ。
彼女の立場は、確実に悪化する。
(でも、もし、私が勝ったら?)
彼女の評価は、家中で、そして魔法界全体で、決定的なものになる。
(彼は……私を、追い詰めた。そして同時に、最高の舞台を用意してくれた)
これは、信頼の証。
だが、それは、あまりにも過酷な信頼だった。
彼が強くなればなるほど、彼女もまた、それ以上に強くならなければならない。
(受けて立つわ)
真由美の瞳に、「エルフィン・スナイパー」の冷徹な闘志が宿った。
盤面は、大きく動いたのだ。
その夜、彼女は一つの番号を呼び出こととなる。
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その夜、彼女は一つの番号を呼び出した。
浜松の彼が端末に出るまで、時間はかからなかった。
「……こんばんは、真由美さん」
「こんばんは、元弥君。……随分と、派手に動いたものね」
画面の向こうの婚約者は、いつもと変わらぬ無表情を浮かべている。
真由美は、完璧な笑顔を貼り付けながら、刃物のように研ぎ澄まされた言葉を放った。
「F.L.Tからの『寄付』、ですって。あなたは、私を試しているのね」
その声には、非難の色はなく、冷徹な確認の響きがあった。
「俺は、俺の戦場で勝つ。それだけです」
「そのせいで、私の勝利へのハードルが、どれだけ上がったかわかっているの?」
真由美は、冷静に状況を分析して問いを重ねる。
「私が、あなたに負けたと見られたら、私達の派閥は確実に後退するわ。……あなたは、私がそれでも勝てると、信頼して、この手を使った。そういうことね?」
画面の向こうで、元弥が静かにこちらを見つめている。
彼の表情からは何も読み取れない。
だが、元弥の次の言葉は、真由美を落ち着かせるものであった。
「真由美さん」
「何よ」
「その『寄付』ですが、俺の権限で、四高主流派とは別に動いているものです。当然、規模は俺が指揮を執る新人戦に限定されています」
「……!」
真由美の瞳が、わずかに見開かれた。
「四高の会長たちは、理論の純粋性を汚すノイズとして、F.L.Tの助力など受け入れないでしょう。俺は新人戦の範囲内で、最大の結果を出すだけです」
真由美が数秒間、沈黙した。
彼女は、元弥が伝えたこの情報の意味を、正確に理解した。
(新人戦、だけ? 本戦には、F.L.Tの支援は入らない?)
(そう……。彼は、私を落ち着かせるために、彼の『切り札』の範囲が限定的であることを、わざわざ教えてくれた……?)
いや、違う。
彼女はすぐに思考を修正した。
(これは同情や手加減じゃない。共犯者として、正確な情報を共有し、私に誤った政治的判断をさせないため)
(彼が恐れているのは、私が「F.L.Tが四高全体を支援している」と誤解し、過剰なプレッシャーから自滅すること、あるいは、間違った対策を講じること。それこそが、二人の同盟の敗北に繋がる)
「ふふ……」
張り詰めていた糸が、フッと緩む。
真由美の口から、いつもの小悪魔的な笑みがこぼれた。
「本当に、意地悪な男ね、元弥君は」
「事実を申し上げたまでです」
「私がパニックに陥って、自滅するかもしれないとでも思ったの?」
「あなたは、負けるのですか?」
元弥の変わらない問いかけ。
だが、その言葉の意味は、先ほどとは全く違って真由美の耳に届いた。
「あなたの舞台は、本戦でしょう、真由美さん」
「……」
「俺は、俺の敵を全力で叩く。あなたも、あなたの敵を全力で叩いてください」
「ええ、そうね」
画面越しに、二人の視線が交錯する。
「そして」
と元弥が続けた。
「九校戦が終わった時、俺たちは本当の敵……、佐伯少将たちの前に立てばいい」
真由美の胸にあったプレッシャーは、完全に共犯者としての連帯感と、静かな闘志へと変わっていた。
「わかったわ、元弥君。あなたのその新人戦、せいぜい頑張ることね。私は、本戦で圧勝させてもらうから」
「善処しますよ、真由美さん」
やがて通信が切れる。
真由美は、端末を強く握りしめた。
(そうよ、これでいい)
政治の渦の中、互いを過酷な戦場へと追いやりながら、しかし、最も重要な情報だけは共有し、互いの勝利を信じる。
それは、恋と呼ぶにはあまりに冷たく、しかし、信頼と呼ぶにはあまりに熱い、二人の契約の形だった。