2094年6月。
Four Leaves Technology、略称F.L.T.。
その会長室は、会社の規模に比して、驚くほど実務的だった。
無駄な装飾はなく、あるのは上質なデスクと、膨大な
司波龍郎は、その一つに表示された【国立魔法大学校付属第四高等学校 九校戦新人戦チーム】という文字を、静かに見つめていた。
(無茶なことをする……)
龍郎は、ため息と共に、深く背もたれに身を預けた。
ディスプレイに表示されているのは、表向きはF.L.T.の若手支援プロジェクトに関する内部資料だ。
だが、その実態は違う。
昨日、義妹で四葉家当主の四葉真夜から、非公式の『お願い』があった。
もちろん、記録に残るようなものではない。
あくまでF.L.T.側が自発的に、将来有望な四高の新人戦チームに『寄付』した、という外形的な体裁を整える必要があった。
(とはいえ、四葉本家当主からの『お願い』だ)
F.L.T.は非上場会社であり、その株式は龍郎、妻の深夜、そして四葉(HD)が保有している。
名目上、龍郎は会長として絶対的な権限を持つが、その実、四葉本家の意向を無視することはできない。
いや、無視する気など、毛頭なかった。
彼、司波龍郎が、この魔法工学部品業界で国内シェア1位、世界3位という帝国を築き上げられたのは、二つの才能が奇跡的に組み合わさったからだ。
一つは、彼自身の魔法工学への狂的なまでの情熱と、それをビジネスに転換する経営手腕。
そしてもう一つは、彼の妻。
デスクに置かれた、ささやかな写真立て。
そこに写る、儚げな、しかし絶対的な存在感を放つ女性。
龍郎の妻、司波(旧姓:四葉)深夜。
四葉家初代当主・元造の長女にして、現当主・真夜の姉。
龍郎は、自らが魔法師としては平均的であることを、誰よりも自覚していた。
四葉家の譜代の被官(内陣)である司馬家の次男として生まれ、魔法大学校工学院を卒業後、技官として国防省に勤めた。
だがそこで、彼は日本の魔法界における魔法工学の「限界」を見た。
素晴らしい「魔法」という才能があるのに、それを安定して運用する技術があまりにも稚拙だったのだ。
かくして彼はF.L.T.を創業する。
だが、夢だけでは会社は動かない。
彼に足りなかったのは、圧倒的な資本。
その時、彼に出資を申し出たのが、四葉深夜だった。
(あれもまた、政略だった)
龍郎は目を閉じる。
深夜は、四葉家の長女でありながら、生来の虚弱体質と、固有魔法『精神構造干渉』故に、四葉家家中では主流派とは言い難かった。
彼女は、自らの身を立てる
龍郎は、深夜の出資を受け入れ、そして、彼女と結婚した。
四葉の血統に、司馬という忠実な被官の血を入れ、F.L.T.という強力な
(私たちは、幸いだった)
龍郎は思う。
政略から始まった関係。
だが、そこには確かな情が生まれた。
龍郎は、深夜を守るために、無骨な現実の盾となった。
深夜は、龍郎の野心的な夢を信じ、支え続けた。
くだらない浮気など、龍郎にはあり得なかった。
深夜以外の女に、龍郎の人生を賭けた『帝国』を共有させる気など、微塵もなかったからだ。
彼らにとって、F.L.T.の成長は、二人の愛の証そのものだった。
その結果が、二人の子供たちだ。
(龍夜……、深雪……)
長男の龍夜。
彼は、龍郎の工学的才能と、深夜の四葉の力を、歪な形で受け継いだ。
固有魔法「再生」と「分解」。
だが龍郎は、龍夜を自らの後継者として育てた。
彼が率いるCAD開発第三課、通称「シルバーモデル」は、今やF.L.T.の屋台骨だ。
取締役会にも名を連ねる龍郎と深夜に対し、龍夜は専務執行役として、現場のトップに君臨している。
黒羽家の亜夜子という婚約者も決まり、司波家の次期当主として申し分ない。
そして、娘の深雪。
彼女は、母・深夜の美貌と、四葉の完成形としての魔法の才を受け継いだ。
だが、それ故に、彼女は政略の渦中にいる。
四葉本家の養女となり、九島家の次期当主・光宣との婚約が、今、水面下で交渉されている段階だ。
龍郎は、娘の幸福を願わない親ではない。
だが、四葉家の「御一家」に連なる者として、それが娘の宿命であることも理解していた。
(私の政略結婚は、温かいものになった)
龍郎は写真立てに指を触れる。
(龍夜の結婚も、深雪の結婚も、そして……)
彼の思考は、再びディスプレイの「第四高等学校」の文字に戻った。
四葉元弥。
妻の妹、四葉真夜の息子。
四葉家の、正真正銘の次期当主。
そして、九島家から婿入りした、当代最強との呼び声高い四葉(旧姓:九島)
その元弥が、今、何をしようとしているのか。
(七草真由美、か)
龍郎の脳裏に、政敵であった七草弘一の、長女の顔が浮かぶ。
長年、四葉家と七草家は水面下で対立してきた。
その両家が、今、元弥と真由美の婚約という形で、手を組もうとしている。
龍郎は、この同盟を、経済人として極めて合理的と評価していた。
四葉の力と財、七草の政治力と数。
F.L.T.にとっても、七草が持つ霞が関へのパイプは、決して無駄ではない。
(だが、その同盟は、まだ脆弱だ)
龍郎が得ている情報によれば、七草家内部は、前妻派と後妻派(真由美の派閥)で分裂している。
そして、軍内部の反十師族派の筆頭、あの『銀狐』佐伯少将が、前妻派と接触している。
(……なるほど。そういうことか)
龍郎は、全てのピースが組み上がるのを感じた。
元弥は、この九校戦を政治の戦場と見定めたのだ。
(F.L.T.の支援を、あえて新人戦に限定するか……)
龍郎は、この一点に、元弥という少年の「恐ろしさ」を見た。
四高の主流派は、理論至上主義者だ。
OB・OGから現役生まで、この思想に染まりきっている。
F.L.T.のような外的要因による支援を、公然と受け入れるはずがない。
だが、彼らが軽視している新人戦ならば、話は別。
元弥は、主流派のプライドを傷つけない本戦という聖域を残したまま、自らの管理下にある新人戦だけを、F.L.T.の力で完全武装するつもりだ。
(狙いは二つ)
一つは、四高内部への示威。
理論に固執し、実践を軽視する上級生たちを横目に、F.L.T.の最新鋭機で武装した一年生が、圧倒的な「結果(勝利)」を叩き出す。
元弥は、血を流さずに、四高内部の「理論と実践」の主導権を握る。
そして、もう一つ。
(七草真由美への、最大限の援護射撃と試練だ)
元弥が新人戦で圧勝する。
同時に、婚約者である七草真由美が本戦で圧勝する。
この二つの勝利が揃った時、初めて、四葉と七草の同盟は、内外の敵に対して、揺るぎない現実として突きつけられる。
(だが、もし、片方でも負ければ?)
どちらに転んでも、同盟は致命的な瑕疵を負う。
(あの少年。元弥君は、七草真由美嬢を信頼したのだな)
それが、あの二人の共犯関係の形。
(厳しい。だが、合理的だ)
龍郎は、自らの結婚を振り返る。
自分と深夜が、互いの弱さを補い合うために結ばれた、『情』の政略だったとすれば、元弥と真由美は、互いの強さを信じ、互いに最強であることを要求する、『理』の政略だ。
(どちらが、幸福か。それは、誰にもわかるまい)
龍郎は、部下に「第四高等学校への技術支援」を「F.L.T.の社会貢献活動」として実行するよう、静かに指示を出した。
それが、この巨大な政治ゲームにおける、F.L.T.の、そして彼の、正しい立ち回りだった。
(頑張りたまえ、元弥君。真由美嬢)
龍郎は、冷え切ったコーヒーを、静かに口に含んだ。
(君たちの共犯関係が、私たち夫婦の『情』のように、いつか実を結ぶことを、願っている)