2094年8月。
九校戦の開幕を二日後に控えた夜。
選手団が宿泊するホテルは、日本魔法界の重鎮たちを迎え入れ、その政治的な熱気で空調が悲鳴を上げているかのようだった。
シャンデリアが放つ無数の光が、これから戦う若者たちの才能と、彼らを駒として値踏みする大人たちの野心を、等しく照らし出している。
懇親会の開始時刻が迫る中、四葉元弥は一人、指定された控室の分厚い扉の前に立っていた。
扉の先には、この国の魔法界における生ける伝説が座している。
元弥は、短く息を整えると、重い扉をノックした。
「元弥です。御祖父様にご挨拶を」
「入りなさい」
古木の幹が擦れるような、老人の声が応えた。
入室を許された元弥の目に映ったのは、その小柄な体躯とは不釣り合いなほどの威圧感を放つ一人の老人。
公益財団法人日本魔法協会最高顧問、
九島家初代当主にして、軍において活躍したことから日本最強の魔法師とされ、『老師』と呼ばれ尊敬を集める、この国の魔法界そのもの。
元弥は、この祖父がどのような存在か、知識としてではなく、『血』として理解していた。
九島烈は、統合特殊作戦コマンド司令官を経て、最終的には統合参謀本部統合参謀事務局長(中将) で退役し、後に陸軍大将の階級を贈られた。
現在は国防省魔法担当長官補佐官という政治任用職にも就き、今なお軍への強い影響力を保持している。
十師族派の盟主とも呼ばれる彼は、同時に魔法師人権擁護の『表』の立役者であった。
烈は、魔法技能師開発研究所でモルモット扱いであった魔法師の人権と諸権利を合法的に確保し、内閣府外局魔法庁の設立や魔法大学校及び魔法師資格制度の整備に尽力した。
だが、元弥は綺麗事だけでは歴史は動かないことも知っていた。
烈の盟友であった四葉家初代当主・四葉元造――元弥の母、真夜の父であり、元弥のもう一人の祖父は、烈の理想を実現するため、暗殺を含む全ての『裏』の仕事を請け負っていた。
『表』の九島烈と『裏』の四葉元造。
この二人の終生の盟友関係こそが、現在の日本魔法界の
「ご無汰しております、御祖父様。この度は、九校戦の主賓としてご臨席賜り、選手の一員として、また孫として、身に余る光栄に存じます」
元弥は、『老師』の前で、完璧な所作で深々と頭を垂れた。
「相変わらず、真夜のところの人間は……。隙が無い」
九島烈は、感情の読み取りにくい細い目で、元弥を足の先から頭のてっぺんまで値踏みするように眺めた。
「して、四葉の世継ぎがどのような『お遊戯』を見せてくれるか。浜松での噂はこの老人の耳にも届いておるぞ」
(F.L.T.のことか……)
元弥は表情を変えない。
「恐れ入ります。私は四高の生徒として、勝利のために最も効率的な手段を選んだに過ぎません」
「効率か」
九島烈は喉を鳴らして愉しげに笑った。
「F.L.T.を動かし、四高の理論を実利で染め上げる。それは四葉のやり方か? いや、それにしては随分と『九島』の血の匂いがするではないか、元弥」
老人の言葉は元弥に直接響いた。
四葉の力と九島の秘術――元弥がその両方を併せ持つことを見抜かれているのだ。
「恐縮です」
「そして、その『切り札』を、あの七草の小娘との手土産にするか。真夜も随分と思い切った博打を打ったものよ」
九島烈が七草家と四葉家の同盟を快く思っていないことは、元弥も承知している。
「御祖父様。俺の戦場は、あくまで九校戦です」
「良かろう」
九島烈はまるで興味を失ったかのように目を閉じた。
「だが、元弥。覚えておきなさい。お前がどちらの血を選ぼうとも、この国を支える礎となる義務からは逃れられん。そのこと、決して忘れるな」
「御意」
元弥が退出すると、老人は再び目を開け、宙を見つめた。
日本魔法界の『老師』は、孫の仕掛けが長年の退屈を
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華やかな音楽と無数の声が渦巻く懇親会のメインホール。
祖父との謁見を終えた元弥は、四高の生徒会役員として生徒会メンバーと行動を共にしていたが、その立ち位置は微妙だった。
「榊原会長は、ああいう場が本当に合っていますね」
会計の春日野要が、軍関係者と理論の純粋性について熱弁を振るう生徒会長、榊原理久に目を輝かせている。
元弥は、その会話に加わる気も、榊原の輪に入る気もなかった。
彼らの理論至上主義は、元弥が最も効率が悪いと断じたものだからだ。
「ま、会長はああいうのがお仕事だからね。ねえ、四葉君?」
不意に軽やかで、妙に距離感の近い声がかかった。
副会長の百目鬼葵だ。
元弥はこの副会長を油断ならない人物として認識していた。
場を和ませる親しみやすい言動で相手の情報を引き出し、場をコントロールしようとする――彼女の言動は全て計算されたものなのだ。
「君のF.L.T.によるテコ入れは、榊原会長の理念とは真っ向から対立するわよ。会長、さっきからこっちを睨んでてご機嫌よろしくないみたい」
百目鬼は楽しげにくすくす笑いながら、榊原がちらりと元弥を一瞥したことを指摘した。
榊原の目には、自分の実験場にノイズを持ち込んだ一年生への不快感が滲んでいた。
「ご心配なく、副会長。俺の管轄は新人戦のみです。会長の実験を邪魔するつもりはありません」
「あら、新人戦を『お遊戯』だと切り捨てたのは会長の方だと思っていたけれど」
広報の伏見玲が会話に入る。
彼女もまた、榊原の理想論より元弥が持ち込んだF.L.T.の最新CADという現実的なネタに強い興味を抱いていた。
元弥が百目鬼副会長、伏見広報と当たり障りのない談笑していると、その会話を遮るように数人の男たちが近づいてきた。
「失礼。あなたが四高の四葉元弥君ですかな?」
名刺にはF.L.T.の競合に当たる大手魔法工学メーカーのロゴが刻まれている。
「ご丁寧に。F.L.T.の最新鋭機を導入されたと聞きました。我が社の技術もぜひご覧いただきたい」 。
「四葉家の次期当主が自ら九校戦の指揮を執るとは頼もしい。榊原会長の理論も結構だが、我々四高OB・OGの一部も君の結果に期待しているよ」
魔法庁の官吏を名乗る者も続いた。
彼らの狙いは榊原会長でもなければ、他の生徒たちでもない。
元弥ただ一人だった。
F.L.T.を、『四葉』を動かしたという事実が、権力に連なる者たち動かしたのだ。
元弥はすべての名刺を受け取り、完璧な仮面と言動で彼らの探りをいなし続けた。
その様子を百目鬼と伏見は、驚愕と興味の眼差しで見つめている。
七草真由美もまた、完璧な淑女の仮面の下で元弥の姿を見つめていた。
だが、彼女は一高の副会長でもあり、何より十師族、七草家の長女として、途切れない挨拶の列の前に立つ必要があった。
「七草のお嬢様も今年も選手でのご参加ですか。ますます一高の牙城は揺ぎませんな」
「国防軍の者です。
彼女の笑顔は、相手が誰であれ寸分の狂いもなく完璧な角度と温度を保っている。
その笑顔の裏で、真由美の頭脳は飛び交う情報を解析し、七草家にとっての利を計算し続けていた。
(疲れる)
本心はそれだけだった。
前妻派の兄たちとの水面下の抗争、
『銀狐』佐伯少将の不穏な動き、そして婚約者・元弥が仕掛けたF.L.T.という名の巨大な爆弾。
彼女は今、文字通り幾重もの綱の上で、完璧なワルツを踊り続けている。
「少しペースを落としたらどうだ、真由美。その笑顔、完璧すぎて逆に怖いぞ」
隣から低くも信頼できる声がした。
一高風紀委員会副委員長、渡辺摩利。
真由美の同級生であり、政治の仮面を唯一緩められる無二の親友だ。
三年生の生徒会長は、『老師』や軍幹部への対応のためこの場にはいなかった。
「ありがとう、摩利。でもこういう場所で怖いは褒言葉よ」
「はいはい。で、例の婚約者様はあちらか」
摩利が視線で示す先には、魔法庁や協会の人間たちに囲まれ、堂々と渡り合う元弥の姿がある。
(魔法庁に、協会の人間まで)
彼は大人たちを前に一歩も引かないどころか、むしろ彼らを値踏みしているような堂々たる立ち振る舞いだ。
大人の輪が途切れると、何事もなかったかのように隣の百目鬼に向き直り、百目鬼は計算ずくで親しげに元弥の肩を軽く叩く。
その距離感と空気が真由美の胸の奥に微かな苛立ちを生む。
(何、あの女……)
真由美と百目鬼は同学年だ。
真由美は百目鬼が計算で振る舞っていることを見抜いているゆえに、不快だった。
元弥が自分と話す時とは違う、リラックスしているように見える表情で、百目鬼と計算づくの親密さを共有している事実がたまらなく癪に触る。
彼らの間にある空気に、真由美は嫉妬していた。
その時、会場の喧騒が潮の引くように静まり返る。
九島烈がマイクの前に立ったのだ。
彼の口からは、魔法師たる者、社会の礎たれという厳粛な言葉が紡がれる。
元弥も真由美も、それぞれの場所で無表情でその言葉を聞いていた。
真由美は七草家の長女として、九島烈の言葉の裏にある七草家への圧力を正確に察知していたのだ。
(面倒なところに火種を撒いてくれたわね、元弥君)
九島家の血を引き、四葉家の力を使う元弥が、七草家の娘と手を組む。
この懇親会は、その異常事態を魔法界の重鎮たちに披露する、最初のお披露目の場でもあった。
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挨拶が終わり、会場は再びざわめきを取り戻していた。
だが、真由美の胸の内は静まり返ったままだ。
「おい、真由美。来るぞ」
摩利の低い声。
視線の先、四高の生徒会役員たちが一高の卓へと近づいてくる。
先頭は副会長の百目鬼葵。続いて書記の四葉元弥に、広報の伏見玲。
真由美は、ほとんど反射的に完璧な笑顔の仮面をかけた。
生徒会長が不在の今、この場を管理するのは、彼女の役目だった。
「ご丁寧にありがとうございます、四高の皆様」
隣で摩利は腕を組み、無言で真由美の背を支える。
「一高の皆様、こんばんは。四高生徒会副会長の百目鬼葵です。こちらは書記の四葉君と広報の伏見さんです」
百目鬼は、儀礼的な笑顔で一礼した。
その完璧な姿勢の裏には、四高としての矜持が透けて見える。
元弥がその後ろから一歩前へ出る。
視線は、必要以上に真っ直ぐではなく、それでいて逃げてもいない。
「お初にお目にかかります。書記の四葉元弥です。七草副会長、渡辺副委員長。よろしくお願いいたします」
(七草副会長)
あえて『肩書き』で呼ばれるたびに、胸の奥で何かが軋む。
ほんの数日前までは、呼びかけひとつに笑い合えた距離だったはずなのに。
百目鬼の横顔を見た瞬間、真由美の微笑はごくわずかに揺らいだ。
その穏やかな会話の調子──信頼と理解の温度を感じ取ってしまう。
(彼女は、彼を見抜いている。しかも、私とは違う方法で)
その確信が、胸の奥で冷たく疼いた。
「ご丁寧にありがとう、百目鬼副会長。四葉君も」
真由美の完璧に整っている。
だが、その調べにはどこか緊張が混じっていた。
「それにしても、百目鬼さん」
真由美は視線を逸らさずに、微笑のまま切り出した。
「元弥君と、ずいぶん親しいようね。さっきから、とても楽しそうにお話されていて」
一瞬、空気が止まる。
摩利が思わず肩を動かす音だけが聞こえた。
百目鬼は、その沈黙をほんの一拍で断ち切る。
わずかに笑みを深め、軽やかに応じた。
「あら、七草副会長。お見苦しいところをお見せしましたか?」
その声音には、怯えも挑発もない。
ただ“副会長同士”の距離を、正確に測るための硬質な静けさがあった。
「四葉君とは意見が合いまして。優秀な書記としても、私もとても頼りにしていますわ」
完璧な返答。
公務の言葉で、私情を切り落とす。
だが、真由美の胸の奥で、氷のような理性が静かに音を立てる。
「そう……」
微笑はそのままに、瞳だけが深く沈む。
「同学年のよしみで忠告しておくわ、百目鬼さん。元弥君をあまり『頼り』にしすぎると、立場を勘違いする方もいらっしゃるから──お気をつけなさいな」
それは、十師族の長女としての、柔らかくも鋭い牽制球だった。
争いではない。
ただ、ここで主導権を示すための線引き。
この場の秩序を保つための、冷ややかな一刀。
百目鬼は息を呑んだ。
だが、すぐに微笑を取り戻し、優雅に頭を下げる。
「……では、七草副会長、渡辺副委員長。私たちはこれで失礼いたします」
その礼には屈辱も怒りもない。
だが、百目鬼は撤退すべきだった。
「ええ。お疲れさま」
真由美は、完璧な仮面のまま微笑む。
元弥が最後に一歩、遅れて頭を下げた。
そのわずかな遅れが、意図的であることを、彼女は一瞬で察した。
視線が交差する。
誰にも聞こえないほど小さな声で、元弥が呟いた。
「真由美さんらしくないですよ」
「……!」
真由美の鼓動が、痛みに似た速さで跳ねた。
それは、諫めではなく、寄り添う言葉。
彼女の仮面の揺らぎを、誰よりも早く察してしまう、彼らしい一言だった。
真由美は息を止め、次の瞬間、いつもの微笑を貼り直した。
「う……、うるさいわよ、元弥君」
その声は届かない。
けれど、唇の動きだけで十分だった。
元弥は何も言わず、静かに背を向けた。
その背中に、礼儀の均衡と感情の余熱だけが残る。
「ふぅ……」
摩利が横で小さくため息をつく。
「真由美。今日のは……」
「そうね」
真由美は軽く首を振る。
だが心のどこかでは、彼の言葉がまだ、柔らかい棘のように残っていた。
盤上に立つ者としての誇り。
そして、女としての揺らぎ。
どちらが自分らしいのか、その答えを出せるほど、彼女はまだ冷静ではなかった。
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夜が深くなるほど、街の光は静かに沈んでいった。
部屋の窓辺。
真由美はまだ制服のまま、灯りを落とした部屋に立っていた。
冷えたガラスに指先を触れる。
そこに映る自分の顔は、完璧な仮面のままだった。
(『真由美さんらしくないですよ』)
あの言葉が、胸の奥で静かに響く。
耳ではなく、心に残る音。
低くて、静かで、逃げ場がない。
「らしくない、ね……」
小さく笑う。
その声の震えを、自分で誤魔化すことはできなかった。
今日の私は、表向きには問題はなかった。
だが、胸の奥の声は正直だった。
(少し、大人気なかったわね……)
あの場で百目鬼を牽制したのは、立場を守るために必要な面もあった。
けれどそれ以上に、嫉妬や焦燥に駆られて、つい感情で動いてしまった自分がいた。
政治的判断というより、心の奥の小さな私情が、指先や声を震わせていたのだ。
理性は後から理由をつけるだけ。
本当は、元弥と百目鬼の間に流れる微妙な距離感に、ただ敏感に反応した自分がいた。
(でも……)
胸の奥に残るのは、勝利の余韻でもなく、理性の手応えでもない。
元弥の声が、あまりにも静かで、あまりにも真っ直ぐだったからだ。
「真由美さんらしくないですよ」
それは叱責でも慰めでもない。
ただ、静かに差し出された言葉。
その言葉だけが、理性の鎧の隙間に入り込み、胸の奥をじんわりと温めた。
(ずるいわ)
彼はいつも、核心を突く。
何も求めないのに、触れてくる。
それが一番、苦しい。
真由美は、ゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏に、去り際の彼の背中が浮かぶ。
たった一瞬の遅れ。
そのわずかな間合いが、心に残る。
「私は、副会長だから」
小さく囁く。
だが、真由美自身、彼の前で副会長でいられた自信が、今は少しもない。
冷たい夜風がカーテンを揺らす。
空調の微かな音が遠くで響く。
そのたび、胸の奥に埋めたはずの感情が、かすかに息を吹き返す。
指先でガラスをなぞると、うっすらと曇りが残る。
それは、ため息の跡。
ひとつ、またひとつ。
「ほんとに、らしくない」
自分に向けて苦笑する。
けれど、その声の奥には、微かな温もりが混じっていた。
理性の鎧が少しだけ緩む。
それでも、完全には脱げない。
政治と感情が、静かに、確実に形を変え始めていた。
真由美はもう一度窓の外を見つめ、誰にも届かない声で呟いた。
「おやすみなさい、元弥君」
その声音は、ほんのわずかに震えていた。
冷たい夜の中で、それだけが確かに存在していた。