2094年8月6日(金)
夏の陽光が、富士の演習林を容赦なく灼いていた。
仮設スタンドもフィールドも、遠くで揺れる陽炎の向こう側に白く滲んで見える。
だが、その熱気は四高新人戦テントの内側までは届いてこない。
厚手のシートで作られた影の下は、むしろ拍子抜けするほど静かだった。
九校戦初日、午前。
今スポットライトを浴びているのは本戦の選手たちで、新人戦組はまだ控えの時間だった。
元弥の周囲には、新人戦エンジニアが二人だけだ。
「差し入れだ。九校戦は長丁場になる。エンジニアが先に音を上げたら元も子もない」
「よ、四葉君!? あ、ありがとう!」
差し出した冷えたボトルを受け取る瞬間、二人の表情がほぐれる。
A組、B組、主流派、非主流派――四高に引かれた細い線は、元弥にとって分類のラベルでこそあれ、接し方を変える境界線ではない。
チームのパフォーマンスを最大化する。
そのために必要な行動を取るのは、もはや彼にとって意識的な決断ではない。
呼吸と同じ、ただの反射だった。
簡単な雑談と情報確認を終えると、元弥はテントの隅に設置された大型モニターの前に戻る。
モニターには本戦のライブ中継――本戦スピード・シューティング(女子)第一予選が、映し出されていた。
他校の選手データをタブレット端末で流し読みしながら、元弥もモニターを眺める。
(始まったか)
モニターには、競技会場へと続く入場スロープが映し出されていた。
風が競技場の芝を揺らし、陽光が白く跳ねる。
やがてスロープの奥から一人の選手が現れた。
深い夜色をそのまま映したような、艶やかな黒髪が風に揺れる。
一本一本が細くしなやかで、光を受けるたびに鏡のような光沢を返し、漆黒の輝きが彼女の輪郭を静かに縁取っていた。
陶器を思わせる白い肌が、その黒髪をいっそう際立たせる。
彫りの深い整った顔立ちは冷たさに傾かず、柔らかな華やぎを帯びていた。
その瞳には、十師族・七草家の長女としての自覚と、一流魔法師としての揺るがぬ自信が、淡い輝きとなって宿っている。
「第一高校、七草真由美。」
場内スピーカーが簡潔に告げる。
その瞬間、一瞬にして会場のボルテージが一段上がった。
厚い拍手の上に、「七草先輩ー!」、「真由美様ー!」との声援が乗り、笛やスティックの軽い打音が続く。
観客席の応援ボードが揺れ、一高色の帯が画面の端をよぎる。
真由美は真っ直ぐに競技場へと進み、観客席へ向けたごく短い微笑で、歓声の温度がもう一段明るくなった。
やがて選手の入場も終わり、会場の熱気も収まってくる。
静寂の後、真由美も獲物を狙う狩人さながらにCADを構えた。
カメラ越しに見ているだけのはずの会場の空気が、わずかに密度を増加させる。
ブザーの音が鳴った。
認知をも超える、数舜。
元弥の目には、彼女の魔法が処理ではなく、現象として立ち上がる。
放たれるクレーが、空中で一瞬だけ粘度を持ったように、流れを止められ――寸分の狂いもなく、撃ち抜かれていく。
起動、照準、実行。
その一連の動作に、ためらいも、焦りも、迷いも混じらない。
(優雅な殺戮か……)
自分で心の中に浮かんだ比喩に、元弥は苦笑を押し殺す。
だが、事実だった。
真由美が100個のクレーを処理し終えた時点で、他の選手たちはまだ半分にも届いていない。
「す、すげえ……」
「あれが、七草家の『妖精姫』……」
テントの端で、四高のエンジニアたちが思わず息を呑む気配が伝わってくる。
(完璧だ)
起動式の最適化。サイオン消費の効率。
そして何より――あの重圧の中で、一切ブレない精神の安定性。
九校戦程度の舞台で、彼女に肩を並べられる魔法師など、いるはずがない。
懇親会で見た、盤上で感情を揺らしながらも、政治と家の事情の間で葛藤していた少女としての真由美。
今、フィールドで『女王』として君臨する魔法師としての真由美。
二つの顔が、元弥の中でひとつの人間像として重なっていく。
(この強さこそが、彼女が七草家次期当主の最有力候補である理由)
(そして――俺が、彼女と手を結んだ理由)
それは冷徹な政治判断であるはずなのに、胸の奥にはわずかな熱が混じっている。
その違和感に、元弥自身はまだ名前を与えないまま、画面から視線を外した。
ーーーー
昼前。
新人戦関連の雑務を同級生の鳴瀬晴海へ引き継ぎ、元弥はテントを出た。
向かう先は観客席上部のボックスシート。
大会委員会から各校に割り当てられた、ガラス張りの特等席だ。
フィールド全体を俯瞰できるそこは、他校なら取り合いになっているだろう。
だが、九校戦は『お遊戯』という価値観の四高では、妙に空いている。
会場へ続くコンコースを歩いていたそのとき。
視界の端を、何気ない清掃員の姿が掠めた。
その瞬間、元弥の足が、コンマ数秒だけ止まりかける。
(違和感……)
ゴミ箱、看板、人波。
その全てと完全に同化している。
誰も彼に注意を払わず、彼の存在は、周囲の知覚から滑り落ちている。
(一つ)
人波の流れの中に、不自然な空白がある。
目立たない作業服、モップ、清掃用カート。
誰も視線を留めない。
(認識阻害か。仕事だな)
清掃員に扮した工作員。
その存在に気づけるのは、知覚系魔法に慣れた者か、あるいは同じ種類の隠れ方を知る者だけ。
そして、その半歩外側に、もう一層の歪みがある。
(伊賀系古式魔法の九島家とは異なる系統となると、甲賀系の黒羽家か……?)
黒羽家。
四葉の『影』である彼らは、諜報部門として四葉家を支えていた。
(敵ではないようだ……)
人型の歪みからは、馴染みのサインが送られてきた。
だから、元弥はあえてそちらへ視線を向けない。
見えていると知りながら、自分の役割に集中する。
清掃員に扮した男が、選手用バックヤードへと続く業務用通路に消える。
(今だな……)
人影が薄くなるタイミングを見計らい、元弥は影へと滑り込んだ。
視界の情報を薄め、意識を情報の次元に集中させる。
父、四葉前には及ばないが、実戦レベルには達した透視魔法。
清掃用具カート。その底板、その更に下。
(偽装パネル。中身は……装置?)
金属の板の下に潜む、不自然な輪郭。
CAD制御OSに干渉を仕掛ける、非合法のツール。
(狙いはCADの妨害か、暴発か……)
結論までの道筋は、あまりに滑らかだった。
元弥は足音を殺して、男の背後へ詰め寄る。
「動くな」
抑えた声は、男の肩をわずかに震えさせる。
男は振り返ろうとするが、既にそのこめかみに、元弥の拳銃型CADが突きつけられていた。
「貴様、何者だ」
清掃員の仮面が剥がれ、プロの工作員の声となる。
しかし、その敵意が形を取るより早く、元弥は動いていた。
(悪く思うなよ)
元弥は、抵抗の芽を押し潰し、剥き出しとなった表層意識から情報を吸い上げる。
ーー
ターゲット:スピード・シューティング女子3位決定戦に出場する、四高・百目鬼葵のCAD
手段:競技直前、装置で制御OSへマルウェアを注入
目的:演算に干渉し、魔法を暴発させる
黒幕:不明
ーー
男は、ただ実行を命じられただけの、末端の工作員だった。
(なるほど……)
元弥は、男の意識から手を引いた。
(真由美さんを、直接狙わない。百目鬼副会長を爆弾に仕立て上げ、四高の選手が一高の七草真由美を事故で攻撃した、という図式を作り上げるつもりか)
もし成功すれば、七草家と四葉家の関係は冷え込み、七草家は、四葉家に『説明』を求めるだろう。
四葉家に直接的な責任はなくとも、四葉家の領域である東海・甲信地方の四高を管理出来ていないとなれば、道義的には責任がある。
そして、それは四葉家の権威を損なう。
少なくとも十師族とは、そう考える生き物だった。
(七草の内部か。あるいは、佐伯か……)
どちらにせよ、四葉家と七草家の同盟を、効率的に破壊する一手だ。
元弥は、男の脳を再び掌握した。
(お前は犯行後、どうする予定だった?)
脳内から、次の行動計画を読み取る。
(細工が成功したら現場を離れ、観客に紛れ会場を去り、連絡を入れる)
「そうか。ならば、その通りに行動しろ」
彼は、男の脳に、偽の記憶を書き込んだ
(お前は、先ほど、選手控室に侵入した。百目鬼葵のCADに、完璧に細工を施した。任務は、完了した。今から、観客に紛れ会場を去り、連絡を入れる)
「行け」
元弥が、
そして、元弥の存在など最初からなかったかのように、悠然と出口の方へと歩いていく。
起こるはずのない『暴発』を信じて。
(これで、ひとまず大丈夫だろう)
真由美は自分が今、命を狙われたことすら知らない。
今それでいいーーと、元弥の理性は囁く。
競技に出場する直前の彼女に、不要な恐怖と負債を背負わせる必要はなかった。
そのときだった。
「ご見事にございます、元弥様」
通路の陰から、柔らかな声がした。
元弥は、ゆっくりと視線だけを向ける。
先ほどから気配だけは捉えていた『歪み』が、形を結ぶ。
二十代後半ほどの青年。
特徴のない服装。
だが、その地味さ自体が高度に調整された仮面だと一目でわかる。
「黒羽家被官――東雲家分家の内山と申します」
四葉家一門衆、御一家、序列2位、黒羽家。
その当主・黒羽貢のもとに仕える被官であり、かつ四葉家内衆、内陣の東雲家の分家の人間。
四葉家の序列で言えば、
四葉家本家 ≫ 一門衆(御一家) ≫ 一門衆 ≫内衆(内陣) ≫ 内衆(外陣)。
内山は本家と黒羽家をまたぐ、橋のような存在だ。
「四葉元弥です」
必要最低限の返事だけを返す。
威圧も媚びも混ざらない、フラットな声で。
内山は『忍術』を完全に解き、微かに息を吐いた。
「我々は御当主様の命により、黒羽貢様の指揮の下、この九校戦会場を密かに監視しておりました。併せて、元弥様と、七草真由美様の警護も仰せつかっております」
(やはり、母が黒羽を動かしている)
推測していた構図が、言葉として裏付けられる。
「工作員の存在自体は把握していましたが……」
内山は、わずかに目を細めた。
「その標的と意図までは、我々の手では読み切れません。さすがは真夜様の御子息、と申し上げる他ございません」
「標的も意図も、『心理掌握』で表層意識をなぞっただけです。黒羽の監視がなければ、そもそもここまでスムーズには動けなかった」
元弥は、あくまで淡々と返す。
本家の次期当主と分家の被官。
家中における差は確かに存在する。
だが、だからこそ、元弥は抑制的に振舞うべきだった。
「黒羽家当主・黒羽貢殿には、四葉元弥が深く感謝していたと、お伝えください。黒羽家の働きには、本当に助けられました」
「承知しました。貢様も、真夜様の御差配が奏功したとお知りになれば、お喜びになりましょう」
主の名が、本家の謝意とともに語られることへの誇らしさが、内山の声音に微かに滲む。
それは、四葉家家中の人間として、自然な感情だ。
「今回の件については、黒羽の人間が動けば護衛の存在を露呈しかねぬ立場ゆえ、最後まで静観せざるを得ませんでした。元弥様には重ねて感謝申し上げます」
それは、彼らの非ではない。
認識阻害の上から更に意図を読むには、精神系の専門性が要る。
内山は、ふっと目元を和らげた。
「とはいえ、七草家の『妖精姫』をこんな稚拙な細工で傷つけられては、見守る我々としても、面白くありませんから」
「同感です」
短く返しながら、元弥は自分の胸中にある同質の感情を自覚する。
政治の駒としての七草真由美ではなく、一人の魔法師としての七草真由美が、安っぽい陰謀の道具にされることへの嫌悪。
それは、政治的な同盟者としてではなく、自分自身の純粋な感情だ。
「今後も、真夜様の御意のもと、我々は元弥様と真由美様を警護させていただきます。表立ったことはできませんが、もしもの時には……」
「頼りにしています。東雲本家にも、今のやり取りをそのまま伝えてください」
「承りました。では、私はこれにて」
深く頭を垂れると、内山の姿は軽く滲み、認識の隙間に溶けるように消える。
(黒羽の警護か……)
元弥は、何事もなかったかのように、業務用通路を出た。
ーーーー
四高に割り当てられたボックスシートは、やはり静かだった。
元弥は、フィールド全体を見下ろせるシートに、音もなく腰を下ろす。
フィールドでは、3位決定戦の準備が始まろうとしていた。
電光掲示板の選手リストが、彼の行動が正しかったことを、改めて示していた。
スピード・シューティング女子・3位決定戦――
一高:七草真由美
三高:入江華鈴
四高:百目鬼葵
「百目鬼副会長が、3位決定戦か」
予選では真由美とは別ブロック。
百目鬼副会長も順当に勝ち上がり、結果として3位決定戦は真由美、百目鬼副会長、三高生の三人によるマッチとなった。
ブザーが鳴る。
三人は一斉にCADを構えた。
百目鬼葵――四高生徒会副会長。
元弥の理解者として振舞う上級生。
彼女の魔法は、榊原会長の純粋な理論主義とは違う。
現実に即し、無駄を削ぎ落とし、確率の高い勝ちを拾う、堅実な魔法。
三高の生徒とほぼ互角の速度で、クレーを撃ち落としていく。
だが――元弥の視線は、中央の真由美から離れない。
百目鬼副会長と三高生が、眉間に皺を寄せて『競技』をしているのに対し、真由美だけが舞台の上で演目をしているかのようだった。
CADを構え、魔法を起動し、クレーを撃ち落とす。
そのすべてが、呼吸と同じ自然さでありながら、人間離れした速度と精度を備えている。
速度が違う。
精度が違う。
そして何より――魔法師としての『格』が違う。
先に100個のクレーを撃ち抜いたのは、当然のように真由美だった。
真由美がCADを下ろしたとき、副会長と三高生はまだ50にも届いていない。
「3位決定戦、終了。3位、四高、百目鬼葵」
アナウンスが響く。
副会長は、三高生に僅差で競り負け、四高に3位という数字を持ち帰った。
(これが、十師族と百家庶流の差)
百目鬼葵は優秀だ。
計算高く、現実的で、副会長として申し分ない能力を持つ。
だが、七草真由美の前では、その優秀さですら背景に溶ける。
(いや、違う)
元弥は思考を修正する。
(真由美さんが、圧倒的なだけだな……)
元弥は脳裏で、真由美の強さを再確認する。
そんな時、ボックスシートの扉が静かに開いた。
制服の上着を羽織った副会長が入ってくる。
タオルで額の汗を拭きながらも、その表情に敗者の影は薄い。
「四葉君。観戦に来ていたんだね」
「お疲れ様です、副会長。3位入賞、おめでとうございます」
元弥は、内心の計算を一度棚上げし、完璧な後輩として微笑んだ。
「『おめでとう』なんて、皮肉かな? 目の前で、完膚なきまでに叩きのめされたっていうのに」
「いえ。3位という結果は、四高に貢献しています」
葵は元弥の返事に苦笑し、ガラスの向こうへ視線を向けた。
「すごいね、彼女」
その声には、計算ではない純粋な畏怖が混じっている。
「わかっていたつもりだったけど、同じフィールドに立って、初めてわかった。あれはもう、種類が違う。私や三高の子が、必死でサイオンを回して、起動式を最短にして、0.1秒を削り合っているのに……」
副会長は一度言葉を区切り、呼吸を整える。
「彼女だけ、まるで息をしているみたいに魔法を使ってた。あれが、十師族なの?」
元弥は、何も返さない。
真由美が十師族でも指折りの魔法師であることを説明しても、副会長がどう感じるか。
(それに七草家に十師族云々というのは……)
現に十師族内でも、その実力には大きな隔たりがある。
四葉家や九島家、七草家といった権勢家とただの十師族の家が同じであるはずがない。
だからこそ、元弥にとって副会長の感傷は、余りにも理解からかけ離れたものだった。
そもそも彼にとって、他人の感情というもの自体が、観測データになりつつある。
百目鬼の畏怖も、悔しさも、魔法式が読みだすデータとしてならきれいに描写できる。
だが、彼自身の胸の奥で、真由美を見るたびに微かに軋む何かだけは、いまだにデータとして落ちてくれない。
それは、元弥にとっても、解析しきれない誤差だった。
やがて決勝戦が始まる。
真由美と三高生の一騎打ち。
結果は、三位決定戦の再現でしかなかった。
真由美の完璧な魔法処理速度の前では、三高生の必死さすら意味を失う。
圧倒的な差をつけて、七草真由美の優勝が確定した。
—-
「優勝は一高、七草真由美選手! 圧倒的です!」
アナウンスが会場を震わせる。
「きゃー! 真由美様ー!」
「さすが会長!」
(違うわ。私はまだ、副会長よ)
真由美はいつものように、心の中だけで静かに訂正する。
外へ出すのは、完璧に整えた笑顔だけ。
一高応援席からの歓声。
駆け寄ってくる渡辺摩利や十文字克人の祝福。
どれも、少し水の中から聞いているように遠い。
勝った。
だが、勝って当然。
七草家の長女として。
一高の代表として。
『完璧』に勝利することは、彼女に課せられた義務だった。
父、弘一も、前妻派の兄たちも、この勝利を各々の計算の中に取り込み、評価するだろう。
(疲れるわね……)
この勝利は、心を満たさない。
義務を果たした、という空虚な感覚だけが彼女に残る。
(この結果を本当に見てほしい相手は、一人だけなのに……)
笑顔を崩さないまま、真由美は視線だけを喧噪から切り離した。
一高生の応援席でも、七草家関係者の席でもない。
ただ一点、四高のボックスシートへ。
(いた……)
ガラスの向こう。
一人
四葉元弥。
彼女の――唯一の『共犯者』。
喉の奥が、きゅっと熱くなる。
だが、声にはしない。
真由美は笑顔のまま、唇だけを動かした。
(『約束は、果たしたわ』)
七草家の駒としてではなく、四葉元弥の同盟者として、この勝利を勝ち取ったのだと伝えるために。
ーーーー
元弥はガラス越しに真由美を見つめる。
一高生に囲まれた彼女は、まさしく一高の『女王』だった。
真由美の人を探すような視線は、やがて元弥に向けられる。
二人の視線は交差し、彼女の唇が形作る言葉は、元弥の時を一瞬だけ止めた。
『ヤクソクハ、ハタシタワ』。
歓声も喧噪も、ほんの一瞬だけ、音を失う。
声は届かない。
だが、その意味だけは、これ以上なく明瞭だ。
元弥は、静かに頷く。
真由美は、彼女の責務を果たした。
七草家の長女として、一高の代表として。
九校戦という盤上で、最強の『女王』として、自らの力を証明してみせた。
その瞳の奥にある熱――懇親会の夜に見た「嫉妬」は、今や「信頼」と「期待」に変わりつつある。
(貴女の一手は、確かに受け取った)
心の中で、元弥は共犯者に応じた。
(次は、俺の番だ)
新人戦で彼の『力』を、真由美に――そして、この賑やかすぎる盤上を見下ろす全員に示すために。
元弥は、静かに席を立つ。
隣で百目鬼副会長が、不思議そうに彼を見上げた。
元弥はそれに軽く会釈を返しただけで、ボックスシートを後にする。
彼の戦場は、ここではない。
8月9日からの新人戦。
自らの駒を動かし、自らの戦略でこの九校戦という盤面を掌握する、その日が元弥の戦場だ。
盤上の『妖精姫』と、硝子越しの『黒太子』。
幾つもの思惑が交差する盤上で、二人だけが、秘かに約束を確認していた。