グリフィンドールであることが、気に食わない。 作:an-ryuka
ホグワーツの中庭は、夕焼けと夜の境目みたいな色に沈んでいた。
石畳は昼の熱を手放し、ひんやりした空気が足首のあたりをさらさらと撫でていく。四角く切り取られた空には、まだ完全じゃない星がひとつふたつ浮かび始めていた。
中庭の向こう側では、誰かの笑い声が弾けた。
ジェームズ・ポッターと、リリー・エバンズ。
ふたりはベンチの背にもたれ、教科書を片付けもしないまま、何か他愛もない話をしているらしい。リリーが半分あきれた顔で手を振り、ジェームズが大げさな身振りでそれに乗る。リリーの口元に浮かんだ笑い皺は、本気の怒りとはまるで違っていて――その違いを、少し離れた場所から静かに見ている黒色の影がひとつあった。
セブルス・スネイプは、回廊の柱の陰に立ち、腕を組んでそこにいた。
黒いローブの裾が、風に少し揺れる。肩はいつも通り細くこわばっているのに、背中だけが、どうしようもなく落ち着きなく見える。視線は、何度も何度もリリーの横顔へと引き寄せられ、そのたびにぐっと自分で引き剝がしていた。
ヴェリティ・エインズワースは、腕を背中で組み、片足を石壁に預けた姿勢のまま、静かに息だけを吐く。
ホグワーツにはいろんな種類の「人間」がいるけれど、嫉妬に焼かれる人間の顔は、どの時代もどんな血筋も同じだ。
ジェームズの笑い声にかぶさるように、リリーの声が弾む。
「だから言ったでしょ、あの呪文は――」
「俺がやると、百倍はかっこいいだろ?」
「はいはい、自分で言ってるうちはまだまだね。ジェームズ」
楽しそう、という言葉を嫌でも思い出させる声色だ。
ヴェリティは、もう一度だけその光景を目に入れてから、彼の元へと進む。
石畳に靴音がひとつ増える。
スネイプの肩が、わずかにぴくりと震えた。
「ねぇ、スネイプ」
ヴェリティは、さも「たまたま見かけた」みたいな顔をして、彼の隣に立った。距離は一歩分。近くもなく、遠くもなく。
「……エインズワース」
スネイプは、目だけをこちらに向け、すぐにまた前へ戻した。
「また観察か」
「ええ。人間観察は、退屈しないから」
ヴェリティは平然と答える。
「で、それ――」
顎をわずかに、ジェームズとリリーの方へ向ける。
「嫉妬よね?」
スネイプの指先が、袖の中でぎゅっと縮むのが見えた。
「……そうやって、何にでも名前を付けないと気が済まないのか、お前は」
「分類は、考えるための最低限の作業よ」
ヴェリティは肩をすくめる。
「感情に名前をつけないと、扱いようがないでしょう?」
彼女は横目で、彼の顔色を測る。
「辛いでしょう? 見てるだけなのに、胸が焼けるみたいに痛くて、逃げられない。なのにどうして放置してるの? ただのマゾヒスト?」
「……っ」
スネイプは、あからさまに顔をしかめた。
レイヴンクローの誰かでも、もう少し遠回しな言い方をしただろう。グリフィンドールの多くなら、そもそも気づかないふりをしただろう。
ヴェリティは、そのどちらでもない。
「お前に言われる筋合いは――」
「ないわ。私の趣味よ」
彼女は遮った。
「あなた、結構特異点なのよ。
普通はそうそうに諦めるか、手の届かないものとして遠くに置くの。」
スネイプは、言葉を喉の奥で飲み込む。
否定しようとした言葉に、自分で引っかかっている。
ヴェリティは、少しだけ首を傾げた。
「あなた、見た目だって以前よりだいぶマシになってきたじゃない」
さも事務的に、淡々と言う。
「髪も昔よりはちゃんと洗ってるし、ローブの丈も合ってきた。リリーじゃなくたって、あなたのこと見てくれる人はいると思うわよ?」
スネイプは、思わず彼女を見た。
からかわれたというより、「評価された」ような感覚に戸惑う。
ヴェリティの瞳には、からかいの色は薄い。ただ、よく研がれた刀のような観察だけがある。
「そういう問題じゃない」
スネイプは低く言った。
「他の誰かに見られればそれでいい、なんて話じゃない」
「でしょうね」
ヴェリティは、あっさり頷く。
「あなたの場合、代わりで妥協できるなら、もっと早く楽になってるもの」
そこで、スネイプは彼女をじっと見据えた。
「……お前は」
言葉が、少しだけ躊躇う。
それでも、喉まで上がってきたものを彼は押し戻さなかった。
「離れていかないんだな」
「え?」
「グリフィンドールのくせに」
スネイプは、吐き捨てるような調子で、それでいてどこか諦め混じりに言った。
「俺と話してると、ろくなことにならないって、分かってるはずだ」
「あら」
ヴェリティは、薄く笑う。
「ろくなことにならないかどうかは、私が決めるわ」
彼の視線を真正面から受け止める。
「あなたが決めることじゃない」
沈黙が少し落ちる。
中庭の向こうでは、ジェームズが箒の話に夢中になっているのか、両手をぶんぶん振り回している。リリーが笑いながらそれを止める。夕焼けは少しずつ赤を失い、石畳の影が濃くなっていく。
「あなたがのめり込んでいる闇の魔術だって、要は使い方よ」
少しだけ声を落とし、言葉を選ぶ。
「知ること自体を悪だと言う言い分も、分からなくはないわ。触れなければ安全、間接的に存在を無きものとする。……でも、私は知りたい側の人間だから」
彼女の瞳が、夕焼けではなく、もっと深い色を映した。
「使う使わないじゃないの。
どうしてそんなものができたのか。そこに興味があるわ」
スネイプの喉が、ごくりと鳴る。
その感覚には、はっきりと覚えがあった。
「……力がある方が、怖がられないからだ」
「怖がられないようにするためだけに闇の魔術を覚えるのなら、それこそ本末転倒でしょう。自分で、恐怖はここにありますと言っているようなものよ」
ヴェリティは肩をすくめた。
「まぁ――」
そこでふっと、口元だけで笑う。
「『誰にもできないことをしている自分がかっこいい』って、悪いことをしている自分に核を置く事の建前かしら」
スネイプは即座に眉をひそめた。
「……そんなことはしていない」
「本当に?」
ヴェリティは、軽く首を傾げる。
「無意識の思い込みって、自覚なしに盲目的に進行するものよ。『俺は特別だ』『他とは違う』って感覚に、闇の魔術はとても相性がいいの」
「お前に、俺の何が分かる」
スネイプは、思わず声を荒げる。
「お前だって、怪しげな研究をしてただろう」
ヴェリティのまぶたが、ほんのわずかに跳ねた。
「……誰から聞いたの?」
「スラグホーンが、自慢げに言っていた」
スネイプは、唇を歪める。
「スラグ・クラブでな。『ミス・エインズワースは実に興味深い実験をしている、ぜひお呼びしたいんだが、何度誘ってもなかなか来てくれんのだ』と」
「ああ……」
ヴェリティは、露骨に顔をしかめた。
「権威大好きジジイめ」
「……は?」
「だから嫌いなのよ、あの人」
ヴェリティは、珍しく感情を乗せて言った。
「知識だけ撒いてくれればいいものを、いちいち『誰がすごい』『誰が有望だ』って値札を貼りたがる」
スネイプは、少し目を丸くする。
「……お前が、誰かをそのまま悪く言うの、初めて聞いたぞ」
「そう?」
「いつもなら、人格を切り刻むだろう」
彼は指先で空をなぞるように言う。
「『あの人はこうで、こういう欲望があって、だからこう振る舞ってる』って」
「ああ、それね」
ヴェリティは少しだけ思案してから、あっさり言った。
「私、けっこうはっきりしてるつもりなんだけど」
「はっきり、ね」
「そう。たとえば――ピーターも嫌いよ」
名前を出された瞬間、スネイプの目にうっすらと興味が宿る。
「……理由を聞いても?」
「『他人のために』って言いながら、自分のしたいことをしてるタイプが嫌いなの」
ヴェリティは、一切ためらわず続ける。
「誰かの役に立ってる風を装いながら、実際は自分の居場所を守るために動いてる人。論理的じゃないわ。これは私の好悪の問題だけど」
「そうか」
スネイプは、ほとんど聞き取れないくらいの声で言った。
「……それなら、俺もポッターが嫌いだ」
ヴェリティは、あっさり頷く。
「知ってるわ」
「……」
「嫌悪としては、それと同じ種類かもしれないわね」
彼女は静かに付け足す。
スネイプは、笑うのか怒るのか一瞬迷って、結局どちらも選ばなかった。
代わりに、まるで唐突に言葉を変える。
「お前は……」
「なに?」
「告白したことは、あるのか」
ヴェリティは瞬きした。
予想していない質問だった。
「唐突ね」
「お前は俺の嫉妬を分析した」
スネイプは、視線をジェームズとリリーの方へ戻しながら言う。
「じゃあ、お前はどうなんだ、と思っただけだ」
「……告白、ね」
ヴェリティは、しばらく黙ってから、小さく首を振る。
「ないわ、一度も」
「そうか」
「付き合うつもりもないのにする意味が分からなくて」
彼女は、あくまで冷静な声で続ける。
「結果を変えるつもりもないのに、『好きです』って言葉だけ放り投げるの、私にとっては非合理」
「……同意だな」
スネイプは唇を歪める。
「意味がない。言ったところで、状況は悪くなるだけだ」
「でしょ?」
ヴェリティは同意を示すように頷く。
「でも、世の中にはたくさん意味のない告白が溢れてる」
そこで、ヴェリティはふっと視線を遠くへやる。
スネイプの眉がぴくりと動いた。
「リーマス・ルーピンか」
「……えぇ」
ヴェリティは、あっさりうなずく。
「よくわかったわね」
「消去法だ」
スネイプは鼻を鳴らす。
「付き合おうと思わないくせに、お前にべったりとした視線を向けてるのなんてあいつくらいだ。
普通は目をそらす」
「合理的ね」
「お前は俺を、何かのお悩み相談所か何かだと思ってるのか」
スネイプはうんざりしたように言う。
「相談料取るぞ」
ヴェリティは思わず笑いそうになり、それを咳払いに変えた。
「そういうつもりはなかったんだけど……そうね」
少しだけ視線を落とし、正直に口を開く。
「なんだか話しやすいのよ、あなた」
「やめろ」
即答。
「俺はリリーさえいればいい」
「一番じゃなくても?」
ヴェリティは、何でもないことのように問う。
スネイプは、一瞬躊躇ったあとに断言した。
「……そうだ」
その声音には、全てを納得している自覚が乗っていた。
ヴェリティは、ほんの一瞬だけ息を止める。
「……あなたの場合、本当にそう思ってそうなのよね」
彼女は静かに言う。
「思い込みとか、執着とか。どうしてそうなったかはともかくとして、もう経緯を通り越して完成されている。――お手上げだわ」
「フッ」
スネイプは小さく笑った。
「それは光栄だな」
夕焼けの最後の一滴が消え、空は完全な群青に変わる。
中庭の灯りがともり、ジェームズとリリーの姿が影絵みたいに浮かび上がった。
「記憶の、美化って知ってる?」
ヴェリティが、不意に言った。
スネイプの瞳が、横から彼女を捕らえる。
「……」
「手に入らなかったものほど、綺麗に見える」
ヴェリティは、空を見ながら続ける。
「手に入れられなかった瞬間を、何度も何度も頭の中でなぞり直して、『あの時こうしていれば』『あの時ああ言っていれば』って、勝手に磨きをかけるの」
「……何が言いたい」
「もう手遅れってことよ」
ヴェリティは、淡々と言い切った。
「あなたも、私もね」
風が、ふたりの間を通り抜ける。
スネイプは、その言葉の中から「私も」という部分だけを拾い上げた。
「ほう」
唇の端だけで笑う。
「お前にも手に入らないものがあったのか」
「いいえ」
ヴェリティは、即座に否定した。
「手に入らないというより……」
ほんの少しだけ、視線を落とす。
「他人の記憶に、残り続けることに嫌気がさしたの」
スネイプは、目を細めた。
「……どういう意味だ」
「私も未熟だったってことよ」
ヴェリティは、ひとつだけ肩をすくめる。
「答えを出すことが正しいと思っていた。知りたいから分析して、結果的に相手の世界を動かす。……それが、あとから効いてきたのよ」
彼女は、指先で石畳の端を軽く蹴る。
「手に入るか入らないか分からない。結果が分からないのに、期待せずにはいられない。
「自分は何も与える気がないのに、相手だけは、勝手に何かを受け取っていく。
「……そういう状態が、一番残酷」
スネイプは、しばらく黙っていた。
ジェームズとリリーの笑い声は、いつの間にか遠くへ移動している。中庭は、ふたりの声と、遠くのフクロウの羽音だけだった。
「それは」
やっと口を開く。
「お前の経験か」
「……そうかもね」
ヴェリティはあっさり認めてから、付け足す。
「聞かなかったことにしてくれる?」
「もとより、お前の独り言だ」
スネイプは、わざとそっけない声で返す。
「俺に聞かせるつもりがあるとは思ってない」
「まぁ、あなた、話す相手もいないからね」
ヴェリティは、冗談めかして言った。
スネイプは、すかさず睨む。
「馬鹿にしてるだろ」
「あなたのは自業自得」
ヴェリティは、きっぱり言う。
「でも、あなた自身が決めてるのだから、私が口を出す筋合いはないわ。……私も話しやすいし」
彼女の言葉に、スネイプは一瞬だけ言葉を失った。
――話しやすい。
誰かにそう言われたのは、初めてだった。
彼にとって自分とは、「気味悪がられる」か「利用される」かのどちらかであって、その中間なんて存在しないと思っていた。
「……変な女だな、お前は」
結局、それしか言えない。
「褒め言葉として受け取っておくわ」
ヴェリティは、いつもの決まり文句で返す。
中庭の向こう、ジェームズとリリーの姿が、城の影に飲み込まれて消える。
空には星が増え、回廊の明かりが少し心細くなった。
「じゃあ、私は寮に戻る」
ヴェリティは、何でもないように言う。
「課題が残ってるし」
「……あぁ」
スネイプは、短く答える。
彼女が回廊の角を曲がる直前、ふと振り返った。
「セブルス」
「なんだ」
「嫉妬を放置するのは、私はマゾと同義だと思ってるけれど」
ヴェリティは、さらりと言った。
「あなたがそれを選ぶなら――その地獄絵図を、私はちゃんと見ておいてあげる」
「趣味が悪い」
「お互いさま」
それだけ言って、彼女は本当に去っていった。
スネイプは、彼女の足音が完全に消えるまで、その場から動かなかった。
胸の中には、いくつもの言葉が突き刺さっている。
嫉妬。記憶の美化。手に入らないもの。残酷。自業自得。話しやすい。
どれもこれも、抜けば血が出る。
それでも――
(グリフィンドールのくせに)
彼は、柱にもたれたまま、ほんの少しだけ目を閉じた。
リリーは、もう戻ってこない。
それでも。