グリフィンドールであることが、気に食わない。 作:an-ryuka
◆
シリウス・ブラックがヴェリティ・エインズワースに振られてから、しばらくのあいだ、グリフィンドール塔の空気は、ほんの少しだけ静かだった。
最初の数日、彼は本当に喋らなかった。
朝の大広間で、ジェームズがリリーの隣で「昨日さ、リリーがさ」と延々のろけているあいだ、シリウスはパンを齧るだけで会話にほとんど入らない。
笑うタイミングは外していない。合いの手も最低限は返す。
けれど、声量も身振りも、いつもの半分以下だった。
「シリウス、大丈夫?」
リリーがさりげなく聞いた時も、彼は肩をすくめて、短く答えただけだ。
「平気。寝不足なだけだ」
ジェームズは最初こそ心配していたが、リリーとの初めての正式な恋人生活に頭のリソースの大半を持っていかれていた。
宿題とクィディッチとリリーと――時々、「おいシリウス」と声をかける。
そこでシリウスが「大丈夫だ」と笑い飛ばしてしまえば、それ以上の追及は意識の外へこぼれていく。
リーマスは、笑わない目で、黙ってそれを見ていた。
何度か「話すか」と言いかけて、言葉が喉の手前で止まる。
自分がこの件で口を出す資格があるのか――それが、彼の舌を鈍らせていたからだ。
ヴェリティは、あえて何も言わなかった。
あのホグズミードの帰り道、自分が彼に渡した言葉の刃の重さを、誰よりもよく知っているのは自分だ。
だから、最初の数日は、彼女なりに「静観」という選択肢を選んでいた。
――最初の、数日だけ。
◆
しばらくするとシリウスの沈黙は、別の形に変わった。
「シリウス〜、今度の試合の後さ、一緒に写真――」
「いいね。ついでにホグズミードも付き合えよ。寒い日ほどバタービールが美味いんだ」
元々親衛隊の1人だった子が声をかければ、彼は即座に笑顔で乗った。
その笑顔の質は、以前とほとんど同じ――ただ、少しだけ力技になった。
「シリウス。今度の課題さ……」
「俺の答案なんか写したって点数は上がらねぇぞ? でも教えてやるよ、先生がどこで寝そうかくらいは」
女子の肩に無造作に腕を回し、耳元で冗談を囁く。
階段の踊り場で、廊下の角で、談話室のソファで。
笑い声に囲まれている時間が増えていく。
表向きだけ見れば、そこにはよく知ったシリウス・ブラックがいた。
派手で、軽くて、よく笑う。
ただ、その動きには、どこか「隙間を埋めている」ような必死さがあった。
(ああ、逆噴射してる)
ヴェリティは、二日も見ていれば察した。
静かに痛む時間を長く抱えていられるほど、シリウスは器用ではない。
だから、人の声と手の温度で、内側をかき消そうとする。
針の穴を塞ぐために、花火を打ち上げるようなことをする。
「最近、また女の子の出入りが派手ね」
リリーが囁く。
「前より増えてない?」
「前はちゃんと手加減してたってことかしらね」
ヴェリティは、パンをちぎりながら答える。
「今は、節度をなくしてまで埋めたい穴があるだけ」
「それって、あなたのせい?」
リリーは、あえて目を逸らさずに聞いた。
「……でしょうね。」
ヴェリティは淡々と言う。
「そう言えるだけの、自覚はあるわ」
悪化させた自責も持っている。
だからといって、口をつぐむつもりはない――それも、彼女自身の正しさの一部だった。
◆
談話室の暖炉前。
夕食のあと、いつものようにカードゲームと雑談と宿題に分かれて、グリフィンドールはそれぞれの時間を過ごしている。
ソファの背にもたれたヴェリティは、本を膝に立てかけていた。
火の粉がぱちりと弾けるたび、文字を照らす影が揺れる。
「おい、エインズワース」
背後から降ってきた声に、彼女はページの端に指を挟みながら顔を上げた。
シリウス。
片腕をソファの背に引っ掛け、もう片方の腕には、さっきまで隣に座っていた下級生の女子の残り香が絡んでいる。
その女子は、今は少し離れたところで友達と笑いながら談笑していたが、視線だけはときどきシリウスの方を盗み見ていた。
「さっきの見たか?」
シリウスは、あえて大きめの声で言う。
「トランプの技。俺、手先器用だろ」
「器用さの使い道を誤ってるわね」
ヴェリティは、表紙を閉じずに応じる。
「……今のあなたは、カードを操るより、自分の感情の整理に使った方が建設的よ」
「出た、正論」
シリウスは笑ってみせる。
だが、その笑顔には、うっすらと苛立ちが混じっていた。
「俺が誰と遊んでようが、放っておけよ。お前には関係ねぇだろ」
「関係あるわ」
一拍も置かず返ってくる。
「あなたが、自分を安く扱うのを見るのは、単純に不愉快だから」
「安く扱ってねぇよ」
シリウスは即座に反論する。
「向こうだって楽しんでんだ。ウィンウィンだろ」
「本気で言ってるなら、目を疑うわね」
ヴェリティは、わざと本から視線を離さないまま続ける。
「あなたの中身を見ようとする人間は、あんなに多くない」
「お前みたいにな」
吐き捨てるように言ってから、自分でその言葉に引っかかった。
ヴェリティは、そこでようやく本を閉じる。
静かに彼を見上げた。
「……それを知ってるなら、どうしてわざわざ中身を見ない相手を選び続けるの?」
シリウスは、一瞬だけ言葉をなくした。
そして、反射的に声を荒げる。
「うるせぇな。お前が俺を選ばなかったからだろ」
談話室の空気が、すこし揺れる。
あからさまに耳をそばだてる一年生。
目を伏せるリーマス。
ジェームズは状況を読んで、あえて話に割り込まない。
「……私のせいにするのね」
ヴェリティは肩をすくめる。
「私がそういう目で見なくなったから、代わりの視線をいくらでも集めて、自分の空洞を誤魔化す」
「誤魔化して何が悪い」
シリウスの声は、意地と焦りでかすれていた。
「本気になったら痛ぇだけだって、お前が教えてくれたんじゃねぇか」
――私、あなたに惚れることはない。
彼の耳に、あの言葉がまだ棘のまま刺さっている。
「痛みを誤魔化したければ、好きにすればいいわ」
ヴェリティは立ち上がる。
「ただ、私に見せつけて、ほら、俺はこんなにモテてるぞってやるのは、子どもっぽすぎて笑えない」
シリウスの喉が、ぴくりと動く。
図星だ、とは、言えなかった。
「あなたたち、またやってるの?」
階段の方からリリーが降りてきて、呆れたように眉を上げる。
「いつものことよ」
ヴェリティは、何でもなさそうに本を抱え直す。
「シリウスが自分の心臓を遊具にしてるから、危ないって忠告してるだけ」
「放っとけよ!」
シリウスは叫ぶ。
「放っておけないから言ってるのよ」
そのひと言には、わずかな自責と、確かな苛立ちが混じっていた。
表向きの光景は、以前とまったく変わらない。
毒舌と反発。
火花の散る言い合い。
違うのは、その裏に流れているものを知っている人数が、少しだけ増えているという事実だけだった。
◆
シリウスの「遊び場」が、グリフィンドールだけで足りなくなってきたのは、その少し後だった。
ある夕方、図書館。
課題の本を探すふりをして、シリウスは本棚の陰でぼんやりしていた。
犬が雨宿りをするみたいに、居場所を探してさまよった末の避難場所だ。
「……邪魔なんだけど」
後ろから飛んできた声は、鼻にかかった少し低めの女声だった。
振り向くと、スリザリンのローブ。
黒髪を肩のあたりでひとつに結え、瞳の色はとても暗い灰色。
整っていると言っていい顔立ちだが、化粧っ気もなく、愛想もなく、ただじっとこちらを見ている。
「ここ、通路」
少女は、棚と棚の間を顎で示した。
「立ち塞がるなら、看板くらい立てれば?」
「は?」
シリウスは思わず笑う。
「なんだお前、ブラック様の通行料を払えって言わないあたり、珍しいスリザリンだな」
「様って言われて喜ぶのは、貴族崩れのおじさまだけよ」
彼女は冷淡に返す。
「私はイヴ・ロジエール。あなたの親戚の親戚の親戚くらいかしら」
「ロジエール、ね」
シリウスは眉をひそめる。
「じゃあ余計に通行料払えよ。俺、そっちの家とは仲悪ぃんだ」
「知ってるわ」
イヴは肩をすくめた。
「スリザリンの談話室まで噂が届いてるもの。ブラックの放蕩息子が、グリフィンドールで好き勝手やってるって」
「へぇ」
シリウスは、わざとらしく髪をかき上げる。
「で? その放蕩息子に何か用かよ、ロジエール」
「用はないけど」
イヴは彼をまっすぐ見た。
「噂のヴェリティ・エインズワースに振られたブラックの顔を、一度くらい見ておこうと思っただけ」
シリウスの動きが止まる。
「……誰から聞いた」
「スリザリンの廊下に耳をくっつけてたら、勝手に流れてくるわ」
イヴはさらりと言う。
「あいつ最近、女遊び激しいけど、本気で好きだったのはエインズワースらしいって」
彼女は、笑わなかった。
その話題を餌にして、面白がることもしない。
ただ、「それを知った」という情報だけを口にする。
「ふーん」
シリウスは、何とか興味なさそうな声を作った。
「で、その話を聞いて、わざわざ俺の顔見に来たのか。奇特な趣味だな」
「諦められない相手を見てる男の顔が、どんなものか興味があっただけ」
イヴは言葉を重ねる。
「私の寮にもいるわよ。あっち向いて名前呼びながら、こっちのベッドに潜り込むような連中」
シリウスの眉が、ひくりと動いた。
「……嫌いか、そういうの」
「嫌いよ」
即答だった。
「欲しいものと手に入るものを混同してるの、馬鹿みたいだもの」
図書館の静寂の中で、その言葉はやけにクリアに響いた。
「あんたも似たようなもんよね」
イヴは、まるで誰かの論文を批評するような口調で続ける。
「エインズワース見ておきながら、別の女の肩抱いてごまかしてる。諦められてないくせに、諦めたフリをしてる」
「……お前、初対面だよな?」
シリウスは目を細める。
「なんでそこまで分かったような口きいてんだよ」
「簡単よ」
イヴは棚から一冊の本を抜きながら言った。
「私も似たような穴を抱えてるから。覗けば分かるわ、同じ色のものは」
彼女は踵を返し、歩き出す。
その時、ふと思い出したように振り返った。
「――それにしても」
「ん?」
「エインズワース、たいした女よね」
イヴは、そう言ってから、ほんの少しだけ笑った。
それは、憧れでも嫉妬でもない、純粋な評価の笑いだった。
◆
それから、イヴ・ロジエールは時々、シリウス・ブラックの近くに現れるようになった。
図書館の静かな机の向かい。
中庭の石壁にもたれた少し離れた位置。
ホグワーツの廊下の陰。
彼女は自分からべたべたと近づいてくるタイプではない。
ただ、「そこにいる」。
そして、ときどき、話を振ってくる。
「また増えたわね」
ある日、中庭でイヴが言った。
遠くで、グリフィンドールの女子がシリウスの周りに固まっている。
「慰め役」
「慰めなんかいらねぇよ」
シリウスは、石の上に座ったまま足を組む。
「俺は楽しんでるだけだ」
「楽しめてるならいいけど」
イヴはローブの裾を整え、小さくため息をつく。
「時々、顔が死んでるわよ。笑ってるくせに」
「スリザリンのくせに、人の顔色よく見てんな」
「そっちの教育は、行き届いてるから」
皮肉を交わしながら、会話は少しずつ深いところに向かっていった。
シリウスは、自分でも驚くほど自然にヴェリティの話をするようになった。
あのダンスパーティーのこと。
正論で親衛隊を切らされた時のこと。
ホグズミードでのこと。
「私、あなたに惚れることはないってさ」
彼は、苦笑とも自嘲ともつかない声で言う。
「ここまでハッキリ言われたの、人生で初めてだ」
「誠実じゃない?」
イヴはあっさりと返す。
「うちの寮なんて、利用価値がなくなってから捨てるタイプの方が多いわよ。最初から持ち物にしないって言ってくれるだけマシ」
「お前、エインズワース好きだな」
「嫌いじゃないわ」
イヴは目を細める。
「自分の刃が何を切るか分かってる人間は、信用できる」
シリウスは、その言葉に少し救われる。
ヴェリティのことを話しても、イヴは嫌な顔をしない。
むしろ、その話題を通して、彼の内側を覗こうとする。
他の女の子たちは、シリウスの武勇伝や笑い話を好む。
イヴは違った。
失敗談を聞く。
格好悪さを面白がらない。
黙る時間を怖がらない。
(……話しやすい)
ふと、そんな言葉が浮かんで、シリウスは内心舌打ちした。
自分の心の中のスペースを、知らないうちに誰かが共有し始めている。それがスリザリンであること。
皮肉と分析。
鋭さと諦観。
その奥にある、意外なほどまっすぐなところ。
まるで。
「今度、ホグズミード行かない?」
イヴが珍しく具体的に誘ったとき、シリウスの反応は、半歩ずれていた。
「……あー」
彼は頭を掻いた。
「予定、見てみる」
行かないとは言わない。
行きたいとも言わない。
彼の中で、「スリザリン」というラベルが、彼女を通して見るヴェリティの面影が、無意識のうちに線を引いていた。
彼女に散々「整理が雑」と言われた部分が、そのまま残っていた。
イヴと話すのは楽だ。
だが、手を繋いで大広間を歩く自分の姿を想像しようとすると、どこかで思考が止まる。
(俺がスリザリンの女と?)
ブラック家の血。
親戚たちの顔。
家を飛び出した自分。
それら全部とイヴの姿が、頭の中でごちゃごちゃに絡まり合って、うまく整理できない。
自分の中にスリザリンの血がある。
そう突きつけたのは、ヴェリティだった。
結局俺は、スリザリンから抜け出せていないのか?
違う。俺はグリフィンドールだ。
シリウスは気づかない。
イヴを、無意識に「ここまで」と線を引いた場所に押し込んでいることに。