グリフィンドールであることが、気に食わない。 作:an-ryuka
◆
それから、季節がひとつ、半分だけ回った。
シリウス・ブラックの周囲は、ゆっくりと、しかし確実に変わっていった。
ある日の夕方。
ホグワーツの中庭。
石畳の真ん中で、ジェームズがリリーを笑わせようと何か身振りたっぷりの話をしている。
その反対側の回廊の影に、シリウスとイヴがいた。
距離はある。
触れるでも、寄り添うでもない。
ただ、壁にもたれたシリウスの隣に、イヴが立っている。
「……でさ、その時ジェームズがさ」
シリウスの声が断片的に届く。
「スニッチ追ってるくせに、リリーの方見ててよ――」
「それで柱にぶつかりかけたの?」
イヴが口元だけで笑う。
「目に浮かぶ」
ヴェリティは、石の柱の影から、横目でその光景を捉えた。
シリウスの話に、イヴはちゃんと耳を傾けている。
相槌は控えめだが、的確だ。
笑うタイミングも、合わせて笑っているというより、本当に面白いところだけで笑っている。
(……誰?)
スリザリンのローブ。
ロジエールの紋章。
名前は、スラグホーンの授業で一度だけ耳にしたことがある気がする。
イヴ・ロジエール。
闇の魔術に詳しく、頭の回転が速く、あまり群れないタイプのスリザリン。
彼女の視線が、ふとシリウスの横顔に向けられる。
その目は、他の女子たちのそれとは、明らかに違っていた。
憧れでも、偶像崇拝でも、わかりやすい恋のきらめきでもない。
「何かを見ようとしている」目。
観察し、理解しようとしている目。
ヴェリティは、一瞬だけ呼吸を止めた。
(……あの目、知ってるわ)
シリウスが笑うたび、イヴの瞳の奥で何かが動く。
彼がふと黙ったとき、その沈黙ごと受け止めようとするような表情。
彼女は、シリウスの看板を見ているのではない。
その下にあるものを、覗き込もうとしている。
シリウス自身を見ている目。
少し離れたところで、ジェームズがリリーに向かって大きなジェスチャーを続けている。
リリーはそれを笑いながら、時々、ちらりとヴェリティの方へ目をやった。
その目線に気づいて、ヴェリティは何事もない顔で柱から離れる。
「どうかした?」
リリーが近寄ってくる。
「いいえ」
ヴェリティは首を振る。
「心配事がひとつ減るかもしれないと思って」
「……また誰か、切り刻むつもり?」
冗談めかした問いに、ヴェリティは肩をすくめる。
「なんで切り刻む前提なのよ」
中庭の向こうで、イヴ・ロジエールが氷のような笑みをほんの少しだけ溶かしながら、シリウスの話を聞いている。
イヴとシリウスが話しているのを、柱の影から一度だけ見届けたあとで、ヴェリティはリリーにそう言った。
彼女の声には、どこか疲れの抜けた、乾いた安堵が混じっていた。
◆
シリウスの方はどうかといえば――
イヴといる時間が増えたからといって、彼の中でヴェリティの割合がゼロになるわけではないらしく、視線の端で彼女を追いかける癖は、しばらく抜けなかった。
それでも、親衛隊とふざけて騒いでいた頃に比べれば、彼の笑い方は少し変わった。
笑うたびに、「本当に面白いのか」「今ここにいたいのか」を、一瞬だけ自分に確かめているような間が生まれていた。
ヴェリティは、その変化を見て、心の中で静かに計算する。
(あそこから先は、私の領分じゃない)
イヴの観察眼と、シリウスの空っぽではないところ。
そこに何が生まれるのかは、もう彼ら自身の問題だ。
自分が口を挟むのは、さすがに野暮だと分かっている。
――問題は、別のところにあった。
リーマス・ルーピン。
彼とヴェリティのあいだには、告白の夜からずっと、薄いガラスの壁のようなものが挟まったままだった。
授業で意見を求められれば、必要最低限の会話は交わす。
談話室で本の貸し借りをすることもある。
けれど、そのどれもが「他人ではないけれど、友人とも違う」奇妙な距離感だった。
以前なら、リーマスは彼女の言葉に「それはどうかな」と静かに異論を挟んだ。
彼女の観察に笑い、時に針のようなひとことを返してくる、稀有な存在だった。
今は、それがない。
ヴェリティがなにかを斬れば、リーマスは少し離れた場所で目を伏せる。
その目は、ちゃんと「聞いている」けれど、「そこから先には踏み込まない」と決めている目だった。
(臆病)
あの夜、彼自身が言った言葉を、ヴェリティは何度も思い出す。
臆病で、自分を責める天才で、いざというとき逃げ腰になる。
それでも――彼女は、その臆病さごと見たいと思ってしまったのだ。
だからこそ、今の距離感は、彼女にとっても決して心地よくはなかった。
考えた末に、ヴェリティ・エインズワースは、自分らしくない行動に出ることにした。
「彼のためだけ」とは言わない。
でも、「彼がいなければ選ばなかった道」であることも、否定できない行動。
アニメーガス。
◆
ミネルバ・マクゴナガルの部屋は、いつものように整頓されていた。
書棚に整然と並んだ本。壁に掛けられた少し色あせたスコットランドの風景画。窓際には、猫の姿の置物――に見せかけて、時々目だけが動く本物の猫。
「……それで、ミス・エインズワース」
マクゴナガルは、眼鏡の奥の目を細めた。
ヴェリティは、椅子の背もたれに背筋をぴんと伸ばして座っている。
「あなた、本気で言っているのですか?」
「ええ、本気です」
ヴェリティは迷いなく答える。
「アニメーガスの理論には前から興味があったし、実践の価値も高いと思っています」
「実践の価値、ですか?」
マクゴナガルの声に、わずかに警戒の色が混じる。
「まさか、悪戯に使うつもりではないでしょうね」
「私にそんな発想力があると思います?」
ヴェリティは肩をすくめる。
「単純に、変身術の究極形態として学びたいだけです。……それに」
一瞬、視線が窓の外へ向かう。
夕暮れの湖面。遠くに見える森の影。
「人間のままでは届かない場所というものが、世界には存在しますから」
それは、月の夜の森。
銀色に照らされた草むら。
獣の足跡。
吠え声。
マクゴナガルは、その一言に含まれた意味を完全には読み取らなかった。
けれど、この生徒が「安易な興味だけで危険に飛び込むタイプではない」ことは知っている。
しばしの沈黙の後、彼女はゆっくりと頷いた。
「とても危険で、手間のかかる魔法です」
静かな声。
「成功しても、失敗しても、その人の一生を変えます。……それを理解していると?」
「理解しているつもりです」
ヴェリティは答える。
「だからこそ、先生にお願いしています」
マクゴナガルの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「いいでしょう」
彼女は立ち上がる。
「あなたは理論面では申し分ない。問題があるとすれば……」
「感覚でしょう?」
ヴェリティは先回りするように言った。
「人の気持ちを読むのは得意ですけど、動物の気持ちとなると、さすがに経験がありませんから」
「あなたは何の動物になるでしょうか」
マクゴナガルは、くすりと笑う。
「アニメーガス形態は、本人の核にあるものが選ぶのです」
「何だと思います?」
「それは、練習してみないと分かりません」
マクゴナガルは杖を振り、部屋の隣にある小さな変身術準備室の扉を開けた。
「まずは、内側の地図を描くところから始めましょう」
◆
変身術準備室は、ひんやりとした静けさに満ちていた。
床には丸く描かれた魔法陣。
周囲には、事故時用のポーションがいくつか。
壁際には、マクゴナガル自身がアニメーガスの練習をしたときの、細かいメモ書きが残っている。
「目を閉じて、自分の身体の輪郭を、ゆっくりなぞっていきなさい」
マクゴナガルの声が、一定のリズムで刻まれる。
「頭のてっぺんから、足の先まで。骨と筋肉と血の流れ。ひとつひとつを、言葉ではなく感覚で確かめるのです」
ヴェリティは言われた通りに、意識を内側へ沈めていった。
骨。
筋。
血管。
鼓動。
脳内で、それぞれにラベルを貼ることは簡単だ。
だが、マクゴナガルが求めているのはラベルではない。
言葉を剥がしたあとに残る「形」そのものを捉える作業。
「次に、その輪郭を少しずつ削っていきます」
マクゴナガルの声が続く。
「人間である部分を、外していく感覚です。二本足で立つための構造。言葉を話すための口。道具を持つための指」
ヴェリティは、内側で自分をバラバラにしながら、同時に「他の形」を探した。
小さくて、しなやかで、地面すれすれに体を伸ばす生き物。
雪の上を音もなく走り、匂いを辿り、影の中に溶けるもの。
頭の中に浮かんだのは、尾がふさふさと揺れる影だった。
「……狐?」
呟きそうになって、ヴェリティは口を閉じる。
言葉にしてしまえば、イメージが固定される。
今は、それが怖かった。
「ミス・エインズワース」
マクゴナガルが言う。
「人間の理屈で動物を理解しようとしてはいけません」
「どういうことですか」
「動物の頭で、世界を考えるのです」
彼女は、当然のことのように言う。
「獲物の匂い。耳の内側に当たる風。地面の凹凸。……『その動物ならどうするか』ではなく、『動物自身はどう感じているか』です」
ヴェリティは、そこで初めて眉をひそめた。
(感覚で、世界を見る……)
彼女はいつも、世界を「言葉」と「構造」で見ている。
感情であっても、思考であっても、まず分解し、分類し、関係性を描く。
動物の気持ち、などと言われても、論文が存在しない。
数週間。
彼女は、マクゴナガルの指導のもと、感覚と思考のあいだを行き来する奇妙な訓練を続けた。
初めて尾が形を持ったのは、そんなある日のことだった。
◆
「――そこで止めて!」
マクゴナガルの声が、準備室に響いた。
ヴェリティは目を開けた。
腰のあたりから何かが生えている感覚。
重さ。バランスの変化。背骨の延長線上に、新しいパーツが増えた。
振り返ると、そこには、ふさふさの尾があった。
濃い茶色に、先だけ白く。
毛並みは、まだ少しぼさぼさしていて、形も不安定だ。
「……成功です」
マクゴナガルが、小さく頷く。
「完全変身には程遠いですが、これは立派な一歩ですよ」
ヴェリティは、尾をそっと抱えるように腕に乗せた。
感覚が、妙にくすぐったい。
自分の一部なのに、自分のものではないような、不思議な違和感。
(狐……)
頭のどこかで、そんな言葉が浮かぶ。
自分の中にある、もう一つの論理。
雪の上を走るとき、何を優先するか。
狩りのとき、どこに力を込めるか。
「理論は、もう十分に頭に入っているはずです」
マクゴナガルが腕を組む。
「これから必要なのは、考えない練習かもしれませんね」
「考えない……」
ヴェリティは、ほとんど呆然とした声を出す。
「そんなの、したことがない」
「でしょうね」
マクゴナガルは、かすかに笑う。
「だからこそ、価値がある」
そのとき、準備室の扉が「コン、コン」と控えめに叩かれた。
「入りなさい」
扉が開く。
リーマス・ルーピンだった。
「失礼します。変身術の追加課題を――」
彼の言葉が、途中で止まる。
視線が、ヴェリティの腰のあたりで固まった。
「…………」
尾を抱えたままのヴェリティと、扉口で固まったリーマス。
数秒の沈黙のあと、マクゴナガルが咳払いをした。
「こほん。ミスター・ルーピン、あなたの要件は?」
「あ、えっと……こちら、追加課題の論文です」
リーマスは、半ば反射で封筒を差し出す。
マクゴナガルはそれを受け取り、ぱらぱらと目を通した。
「ふむ。悪くありませんね。……少し確認したい箇所があります。職員室まで行ってきますので、ミス・エインズワースはここで待っていてください」
「ひとりにするんですか?」
ヴェリティが、思わず口を挟む。
「この状態で?」
「異変が起きたら困りますからね」
マクゴナガルは、意味ありげに微笑む。
「――あぁ、ルーピン。ちょうどいいです」
ルーピンがびくりと肩を揺らす。
「しばらく彼女を見張っていてください。何かあれば私を呼びに」
「えっ、あ……はい」
返事を聞くやいなや、マクゴナガルは身軽な足取りで準備室を後にした。
扉が閉まる。足音が遠ざかる。
残されたのは、狐の尾を抱えたヴェリティと、立ち尽くすリーマス。
暖炉もない、小さな部屋の空気が、妙に熱を帯びた。
◆
「……あー」
先に音を発したのは、リーマスだった。
口を開きかけて、何を言えばいいのか分からず、いつもの冷静さがどこかに行ってしまっている。
ヴェリティは、尾を抱える腕に力を込めた。
自分で自分を抱きしめているような格好だ。
「見られたくなかった?」
リーマスがおそるおそる尋ねる。
「……見られること自体は、嫌じゃない」
ヴェリティは素直に答える。
「ただ、あなたに見られるタイミングとしては、少し予想外だったわ」
「予想外、ね」
リーマスは、口元だけで笑う。
「僕としても、かなりの予想外だよ。しっぽ……」
言いかけて、彼は言葉を呑み込む。
視線が、尾と、ヴェリティの顔を行ったり来たりする。
「アニメーガス……もしかして」
ふと、彼の口から零れた。
「――僕のため?」
ヴェリティは、瞬きした。
想定していた問いのひとつだった。
想定していたのに、喉が詰まる。
「君が、こんな危険な魔法に手を出す理由……」
リーマスの声は、いつもより低い。
「学術的な興味だけって、言い切れる?」
だけ。
そのひと言が、ヴェリティの胸を刺した。
学術的な興味がないわけではない。
むしろ、それは出発点だ。
変身術の究極形を、自分の手でなぞってみたい。構造を知りたい。理論と実践の差を、肌で感じたい。
けれど。
満月の夜。
前後の日の青い顔に、かすかな呻き声。
彼の目の奥に沈んでいる罪悪感。
「何もしないでいる自分」を、彼女は許せなかった。
――僕のため?
問いの正しさが、痛いほど分かる。
「違う」と即答することもできた。
でも、それは、あまりにも容易な嘘だった。
ヴェリティは、口を開きかけて閉じる。
言葉が、理屈の階段を作る前に、感情の重さに足を取られる。
ルーピンは、その沈黙を、都合よく――あるいは、優しく解釈した。
「……嬉しいよ」
彼は、ほんの少し笑う。
いつもの遠慮がちな笑い方ではなく、少しだけ無防備な笑い方。
「危険なのは、分かってる。でも、もしそこに僕が関係しているなら……」
彼は、一瞬だけ視線を落とし、また上げた。
「それは、僕にとって、すごく大事なことだ」
ヴェリティは、視線を逸らした。
尾を抱える手に、さらに力がこもる。
「……それも、無くはないわ」
絞り出すように言う。
彼のためだけではない。
でも、全く関係ないとも言えない。
その中間を選んだ言葉。
口にした瞬間、自分の耳まで熱くなったのが分かった。
リーマスは、しばらく彼女を見ていた。
狐の尾を抱きしめて、頬を赤くして、目を逸らすヴェリティ。
思わず、出る。
「……可愛いね」
その言葉は、彼自身が一番驚いていた。
分析でも評価でもない。
ただ、目の前のものを、そのまま言葉にしただけ。
次の瞬間、ヴェリティの頭の上で、「ぴこん」と何かが生えた。
「……え?」
リーマスが目を見開く。
何かふさっとしたものがちらついた。
ヴェリティが頭の上に手をやると、柔らかい毛と、尖った先。
「耳……?」
狐の耳だった。
まだ小さくて、ピンと立っている。
恥ずかしさと驚きが、そのまま形になって飛び出したみたいに。
「ちょ、ちょっと待って」
ヴェリティは、自分で耳を押さえる。
「理論上、そんな変化は予定してないんだけど」
「予定されてないことが起きるのが、変身術の怖さだって、先生が言ってた」
リーマスは、半ば呆然としながらも言う。
「マクゴナガル先生、呼んだ方が――」
そこで、彼の心が二つに割れた。
ひとつは、「すぐに先生を呼ぶべきだ」という真面目な声。
もうひとつは、「この光景を、できるだけ長く見ていたい」という、あまりに個人的で独占欲の強い声。
狐の尾を抱え、耳をぴんと立てて赤くなっているヴェリティ・エインズワース。
誰にも見せたことのない顔。
彼女自身も、まだ慣れていない顔。
(……まずい)
ルーピンは、内心で頭を抱えた。
自分の中の「観察者」と「男」が、あからさまに喧嘩を始めている。
「リーマス」
ヴェリティが、眉をひそめる。
「そんな顔で見られると、さすがに恥ずかしいんだけど」
「ご、ごめん」
リーマスは慌てて視線を逸らした。
「マクゴナガル先生、呼んでくる」
結局、真面目な方が勝った。
彼は半ば駆け足で部屋を出て行く。
扉が閉まる直前、もう一度だけ振り返りそうになって、ぐっとこらえた。
◆
「ふむ」
マクゴナガルは、戻ってくるなり、ヴェリティの頭と尾を見て、たいそう満足そうに頷いた。
「やはり、狐でしたか」
「先生、そこですか」
ヴェリティは、耳を押さえたまま抗議する。
「これ、どうすれば戻るんです?」
「落ち着きなさい」
マクゴナガルは、笑いをこらえながら杖を振った。
淡い光が、ヴェリティの頭と腰を包み込む。
耳と尾は、すうっと消えていった。
「完全変身の前に、部分変形を経験する生徒は、それほど多くありません」
マクゴナガルは言う。
「ましてや、感情の刺激で耳が出るなど、実に興味深い」
「感情……」
ヴェリティは、さっきのやり取りを思い出して、こめかみを押さえた。
可愛いねという、あまりにも直接的な言葉。
自分がそれにどれだけ弱いか、思い知らされた瞬間だった。
「貴方にしては珍しく」
マクゴナガルは、少しだけ柔らかい声で続けた。
「理屈ではなく、感情で物事を考えたのでしょう」
「……狐の気持ちになれって言ったのは先生でしょう」
ヴェリティは、わざと拗ねたように言う。
「狐は、そんなに感情的なんですか」
「狐は賢いですが、人間と脳は違うのです」
マクゴナガルは、指先で机をとんとんと叩く。
「思考の速度も、優先順位も、世界の見え方も。
野生的な、本能的な思考を学ぶ必要があるかもしれませんね」
「本能的……」
ヴェリティは、その言葉を口の中で転がす。
本能。
衝動。
考える前に動く。
ジェームズとシリウスの領域だと思っていた概念が、自分に向けられていることに、どこかむず痒さを覚える。
「ミスター・ルーピン」
マクゴナガルは、脇に立っていたリーマスに目を向けた。
「先ほどはありがとう。――次からは、もう少し落ち着いて観察してから私を呼んでもいいのですよ?」
「は、はい……」
リーマスは、赤くなりながら返事をした。
「ミス・エインズワース」
マクゴナガルは締めくくる。
「絶対に、一人では練習しないこと」
「分かりました」
ヴェリティは素直に頷いた。
◆
「――で、先生、本当に席を外すんですか」
数日後。
再び変身術準備室。
マクゴナガルは、杖を片手に黒板に細かい注意事項を書きつけると、きっぱりと言った。
「外します」
「理由を聞いても?」
「校長から呼び出しが来ています」
ごく真面目な声だったが、その目の奥には、どこかいたずらっぽい光があった。
「それに、ミスター・ルーピンがいるでしょう」
彼女は軽く顎で示す。
「何か問題があれば、彼に頼ってください」
リーマスは、半ば観念したように苦笑した。
ヴェリティは、狐の尾を半分だけ出した状態で眉をひそめる。
「先生」
「はい?」
「本能的な思考を学べって言ったのは分かりますけど、本当にこういうことなんですか?」
マクゴナガルは、一瞬だけ固まり、それから珍しく声を立てて笑った。
「心配しなくても、私はそこまでロマンチストではありません」
そう言いつつも、彼女は満更でもなさそうだ。
「では、頼みましたよ」
そうして、本当に出て行ってしまった。
扉が閉まる音がして、足音が遠ざかる。
準備室には、狐の尾を揺らすヴェリティと、椅子に腰掛けたルーピンだけが残った。
◆
「野性的……本能的……」
ヴェリティは、床の魔法陣の中央に立ちながら、ぶつぶつと呟いていた。
尾は完全に形になり、耳も時々ぴくりと動く。
彼女自身がそれに気づいていないのが、むしろ不思議なほどだ。
「獲物を追いかけるとき、狐は何を考えるのか」
彼女は自問する。
「いや、考えるという言葉がもう違う。……匂い。足音。風の向き。喉の渇き。……今ここで、どの方向に飛び出すのが一番効率的か――」
理屈と本能の境界線を、必死に探っている顔。
尾が、彼女の思考の速度に合わせて、左右にふわふわと揺れている。
耳が、何かに反応してぴんと立ったり、わずかに寝たりする。
リーマスは、その様子を黙って見ていた。
観察者としての彼は、無数の瞬間を目に収めていた。
耳の動き。
尾の位置と、彼女の思考の関係。
呼吸の深さ。
けれど、その裏側で、別の自分がはっきりと目を覚ましていく。
(――誰にも見せたくない)
初めて、はっきりとした独占欲が、彼の胸の奥に湧き上がった。
ヴェリティ・エインズワース。
刃物みたいな言葉を使い、人を切ってその血で自分をも洗うことをやめない女。
常に全体を見ていて、自分自身すら「観察対象」にしてしまう女。
その彼女が今、自分の尾を抱きしめもせず、耳を自覚もせず、むき出しの本能と理屈の境界でうろうろしている。
無防備だ。
信じられないくらい。
もし今ここに、ジェームズやピーターがいたら。
シリウスや、誰か他の男子がいたら。
その想像だけで、彼の喉がきゅっと締まる。
(嫌だ)
初めて、自分の感情をそんなふうに形容した。
(彼女が僕のために動いてくれた)
(僕の一言で耳を生やして、赤くなった)
(今だって、本能を学ぼうとしてる理由の一部には、僕がいる)
その全部を知ってしまった今、「彼女にはシリウスが似合う」などという言葉は、口にできない。
――ヴェリティには、彼のような人がそばにいるべきだ。
あの頃の自分は、それを正しさだと思っていた。
危険な自分の隣に、こんな刃物を置くのは間違いだと。
明るくて、燃えるようなシリウスの方が、ずっと彼女には似合うのだと。
今は、違う。
狐の耳が、彼女の思考に合わせてぴくりと動くのを見ながら、リーマスは静かに悟る。
(――俺が、欲しい)
シンプルで、どうしようもない結論。
そこに理屈はない。
月も、狼も、罪悪感も、一瞬だけ遠ざかる。
目の前の彼女だけが、世界の中心になる。
「……リーマス?」
いつの間にか、ヴェリティが彼を見ていた。
尾が小さく揺れ、耳が半分だけ寝ている。
「そんな顔で見るの、やめてくれない?」
彼女は、落ち着かない声で言う。
「本能的になる前に、私の理性が溶けそうなんだけど」
リーマスは、ゆっくり笑った。
自分の笑い方が、以前と違うことを自覚しながら。
「……ごめん」
彼は立ち上がる。
「君が、あんまり可愛いから」
それは、もう観察者の言葉ではなかった。
ヴェリティの耳が、また「ぴこん」と立った。
頬が、一気に熱を帯びる。
「マクゴナガル先生呼んでくる?」
「……少しだけ待って」
ヴェリティは、尾を自分の前に回して抱きしめる。
「狐の気持ちになってる途中なのよ。邪魔しないで」
「それは困るな」
ルーピンは口元を緩める。
「君が人間でいてくれる間に、ちゃんと伝えたいことがあるから」