グリフィンドールであることが、気に食わない。   作:an-ryuka

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14.

 

 それから、季節がひとつ、半分だけ回った。

 

 シリウス・ブラックの周囲は、ゆっくりと、しかし確実に変わっていった。

 

 

 ある日の夕方。

 ホグワーツの中庭。

 石畳の真ん中で、ジェームズがリリーを笑わせようと何か身振りたっぷりの話をしている。

 その反対側の回廊の影に、シリウスとイヴがいた。

 

 距離はある。

 触れるでも、寄り添うでもない。

 ただ、壁にもたれたシリウスの隣に、イヴが立っている。

 

「……でさ、その時ジェームズがさ」

 シリウスの声が断片的に届く。

「スニッチ追ってるくせに、リリーの方見ててよ――」

 

「それで柱にぶつかりかけたの?」

 イヴが口元だけで笑う。

「目に浮かぶ」

 

 ヴェリティは、石の柱の影から、横目でその光景を捉えた。

 シリウスの話に、イヴはちゃんと耳を傾けている。

 相槌は控えめだが、的確だ。

 笑うタイミングも、合わせて笑っているというより、本当に面白いところだけで笑っている。

 

(……誰?)

 

 スリザリンのローブ。

 ロジエールの紋章。

 名前は、スラグホーンの授業で一度だけ耳にしたことがある気がする。

 イヴ・ロジエール。

 闇の魔術に詳しく、頭の回転が速く、あまり群れないタイプのスリザリン。

 

 彼女の視線が、ふとシリウスの横顔に向けられる。

 

 その目は、他の女子たちのそれとは、明らかに違っていた。

 

 憧れでも、偶像崇拝でも、わかりやすい恋のきらめきでもない。

 「何かを見ようとしている」目。

 観察し、理解しようとしている目。

 

 ヴェリティは、一瞬だけ呼吸を止めた。

 

(……あの目、知ってるわ)

 

 シリウスが笑うたび、イヴの瞳の奥で何かが動く。

 彼がふと黙ったとき、その沈黙ごと受け止めようとするような表情。

 

 彼女は、シリウスの看板を見ているのではない。

 その下にあるものを、覗き込もうとしている。

 シリウス自身を見ている目。

 

 少し離れたところで、ジェームズがリリーに向かって大きなジェスチャーを続けている。

 リリーはそれを笑いながら、時々、ちらりとヴェリティの方へ目をやった。

 その目線に気づいて、ヴェリティは何事もない顔で柱から離れる。

 

「どうかした?」

 リリーが近寄ってくる。

 

「いいえ」

 ヴェリティは首を振る。

「心配事がひとつ減るかもしれないと思って」

 

「……また誰か、切り刻むつもり?」

 

 冗談めかした問いに、ヴェリティは肩をすくめる。

「なんで切り刻む前提なのよ」

 

 中庭の向こうで、イヴ・ロジエールが氷のような笑みをほんの少しだけ溶かしながら、シリウスの話を聞いている。

 イヴとシリウスが話しているのを、柱の影から一度だけ見届けたあとで、ヴェリティはリリーにそう言った。

 彼女の声には、どこか疲れの抜けた、乾いた安堵が混じっていた。

 

 

 

 シリウスの方はどうかといえば――

 

 イヴといる時間が増えたからといって、彼の中でヴェリティの割合がゼロになるわけではないらしく、視線の端で彼女を追いかける癖は、しばらく抜けなかった。

 

 それでも、親衛隊とふざけて騒いでいた頃に比べれば、彼の笑い方は少し変わった。

 笑うたびに、「本当に面白いのか」「今ここにいたいのか」を、一瞬だけ自分に確かめているような間が生まれていた。

 

 ヴェリティは、その変化を見て、心の中で静かに計算する。

 

(あそこから先は、私の領分じゃない)

 

 イヴの観察眼と、シリウスの空っぽではないところ。

 そこに何が生まれるのかは、もう彼ら自身の問題だ。

 自分が口を挟むのは、さすがに野暮だと分かっている。

 

 ――問題は、別のところにあった。

 

 リーマス・ルーピン。

 

 彼とヴェリティのあいだには、告白の夜からずっと、薄いガラスの壁のようなものが挟まったままだった。

 

 授業で意見を求められれば、必要最低限の会話は交わす。

 談話室で本の貸し借りをすることもある。

 

 けれど、そのどれもが「他人ではないけれど、友人とも違う」奇妙な距離感だった。

 

 以前なら、リーマスは彼女の言葉に「それはどうかな」と静かに異論を挟んだ。

 彼女の観察に笑い、時に針のようなひとことを返してくる、稀有な存在だった。

 

 今は、それがない。

 

 ヴェリティがなにかを斬れば、リーマスは少し離れた場所で目を伏せる。

 その目は、ちゃんと「聞いている」けれど、「そこから先には踏み込まない」と決めている目だった。

 

(臆病)

 

 あの夜、彼自身が言った言葉を、ヴェリティは何度も思い出す。

 臆病で、自分を責める天才で、いざというとき逃げ腰になる。

 

 それでも――彼女は、その臆病さごと見たいと思ってしまったのだ。

 

 だからこそ、今の距離感は、彼女にとっても決して心地よくはなかった。

 

 考えた末に、ヴェリティ・エインズワースは、自分らしくない行動に出ることにした。

 

 「彼のためだけ」とは言わない。

 でも、「彼がいなければ選ばなかった道」であることも、否定できない行動。

 

 アニメーガス。

 

 

 ミネルバ・マクゴナガルの部屋は、いつものように整頓されていた。

 

 書棚に整然と並んだ本。壁に掛けられた少し色あせたスコットランドの風景画。窓際には、猫の姿の置物――に見せかけて、時々目だけが動く本物の猫。

 

「……それで、ミス・エインズワース」

 

 マクゴナガルは、眼鏡の奥の目を細めた。

 ヴェリティは、椅子の背もたれに背筋をぴんと伸ばして座っている。

 

「あなた、本気で言っているのですか?」

 

「ええ、本気です」

 ヴェリティは迷いなく答える。

「アニメーガスの理論には前から興味があったし、実践の価値も高いと思っています」

 

「実践の価値、ですか?」

 マクゴナガルの声に、わずかに警戒の色が混じる。

「まさか、悪戯に使うつもりではないでしょうね」

 

「私にそんな発想力があると思います?」

 ヴェリティは肩をすくめる。

「単純に、変身術の究極形態として学びたいだけです。……それに」

 

 一瞬、視線が窓の外へ向かう。

 夕暮れの湖面。遠くに見える森の影。

 

「人間のままでは届かない場所というものが、世界には存在しますから」

 

 それは、月の夜の森。

 銀色に照らされた草むら。

 獣の足跡。

 吠え声。

 

 マクゴナガルは、その一言に含まれた意味を完全には読み取らなかった。

 けれど、この生徒が「安易な興味だけで危険に飛び込むタイプではない」ことは知っている。

 

 しばしの沈黙の後、彼女はゆっくりと頷いた。

 

「とても危険で、手間のかかる魔法です」

 静かな声。

「成功しても、失敗しても、その人の一生を変えます。……それを理解していると?」

 

「理解しているつもりです」

 ヴェリティは答える。

「だからこそ、先生にお願いしています」

 

 マクゴナガルの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。

 

「いいでしょう」

 彼女は立ち上がる。

「あなたは理論面では申し分ない。問題があるとすれば……」

 

「感覚でしょう?」

 ヴェリティは先回りするように言った。

「人の気持ちを読むのは得意ですけど、動物の気持ちとなると、さすがに経験がありませんから」

 

「あなたは何の動物になるでしょうか」

 マクゴナガルは、くすりと笑う。

「アニメーガス形態は、本人の核にあるものが選ぶのです」

 

「何だと思います?」

「それは、練習してみないと分かりません」

 

 マクゴナガルは杖を振り、部屋の隣にある小さな変身術準備室の扉を開けた。

 

「まずは、内側の地図を描くところから始めましょう」

 

 

 変身術準備室は、ひんやりとした静けさに満ちていた。

 

 床には丸く描かれた魔法陣。

 周囲には、事故時用のポーションがいくつか。

 壁際には、マクゴナガル自身がアニメーガスの練習をしたときの、細かいメモ書きが残っている。

 

「目を閉じて、自分の身体の輪郭を、ゆっくりなぞっていきなさい」

 マクゴナガルの声が、一定のリズムで刻まれる。

「頭のてっぺんから、足の先まで。骨と筋肉と血の流れ。ひとつひとつを、言葉ではなく感覚で確かめるのです」

 

 ヴェリティは言われた通りに、意識を内側へ沈めていった。

 

 骨。

 筋。

 血管。

 鼓動。

 

 脳内で、それぞれにラベルを貼ることは簡単だ。

 だが、マクゴナガルが求めているのはラベルではない。

 言葉を剥がしたあとに残る「形」そのものを捉える作業。

 

「次に、その輪郭を少しずつ削っていきます」

 マクゴナガルの声が続く。

「人間である部分を、外していく感覚です。二本足で立つための構造。言葉を話すための口。道具を持つための指」

 

 ヴェリティは、内側で自分をバラバラにしながら、同時に「他の形」を探した。

 

 小さくて、しなやかで、地面すれすれに体を伸ばす生き物。

 雪の上を音もなく走り、匂いを辿り、影の中に溶けるもの。

 

 頭の中に浮かんだのは、尾がふさふさと揺れる影だった。

 

「……狐?」

 呟きそうになって、ヴェリティは口を閉じる。

 言葉にしてしまえば、イメージが固定される。

 今は、それが怖かった。

 

「ミス・エインズワース」

 マクゴナガルが言う。

「人間の理屈で動物を理解しようとしてはいけません」

 

「どういうことですか」

「動物の頭で、世界を考えるのです」

 彼女は、当然のことのように言う。

「獲物の匂い。耳の内側に当たる風。地面の凹凸。……『その動物ならどうするか』ではなく、『動物自身はどう感じているか』です」

 

 ヴェリティは、そこで初めて眉をひそめた。

 

(感覚で、世界を見る……)

 

 彼女はいつも、世界を「言葉」と「構造」で見ている。

 感情であっても、思考であっても、まず分解し、分類し、関係性を描く。

 動物の気持ち、などと言われても、論文が存在しない。

 

 数週間。

 彼女は、マクゴナガルの指導のもと、感覚と思考のあいだを行き来する奇妙な訓練を続けた。

 

 初めて尾が形を持ったのは、そんなある日のことだった。

 

 

「――そこで止めて!」

 

 マクゴナガルの声が、準備室に響いた。

 

 ヴェリティは目を開けた。

 腰のあたりから何かが生えている感覚。

 重さ。バランスの変化。背骨の延長線上に、新しいパーツが増えた。

 

 振り返ると、そこには、ふさふさの尾があった。

 濃い茶色に、先だけ白く。

 毛並みは、まだ少しぼさぼさしていて、形も不安定だ。

 

「……成功です」

 マクゴナガルが、小さく頷く。

「完全変身には程遠いですが、これは立派な一歩ですよ」

 

 ヴェリティは、尾をそっと抱えるように腕に乗せた。

 感覚が、妙にくすぐったい。

 自分の一部なのに、自分のものではないような、不思議な違和感。

 

(狐……)

 

 頭のどこかで、そんな言葉が浮かぶ。

 自分の中にある、もう一つの論理。

 雪の上を走るとき、何を優先するか。

 狩りのとき、どこに力を込めるか。

 

「理論は、もう十分に頭に入っているはずです」

 マクゴナガルが腕を組む。

「これから必要なのは、考えない練習かもしれませんね」

 

「考えない……」

 ヴェリティは、ほとんど呆然とした声を出す。

「そんなの、したことがない」

 

「でしょうね」

 マクゴナガルは、かすかに笑う。

「だからこそ、価値がある」

 

 そのとき、準備室の扉が「コン、コン」と控えめに叩かれた。

 

「入りなさい」

 

 扉が開く。

 リーマス・ルーピンだった。

 

「失礼します。変身術の追加課題を――」

 

 彼の言葉が、途中で止まる。

 視線が、ヴェリティの腰のあたりで固まった。

 

「…………」

 

 尾を抱えたままのヴェリティと、扉口で固まったリーマス。

 数秒の沈黙のあと、マクゴナガルが咳払いをした。

 

「こほん。ミスター・ルーピン、あなたの要件は?」

 

「あ、えっと……こちら、追加課題の論文です」

 リーマスは、半ば反射で封筒を差し出す。

 マクゴナガルはそれを受け取り、ぱらぱらと目を通した。

 

「ふむ。悪くありませんね。……少し確認したい箇所があります。職員室まで行ってきますので、ミス・エインズワースはここで待っていてください」

 

「ひとりにするんですか?」

 ヴェリティが、思わず口を挟む。

「この状態で?」

 

「異変が起きたら困りますからね」

 マクゴナガルは、意味ありげに微笑む。

「――あぁ、ルーピン。ちょうどいいです」

 

 ルーピンがびくりと肩を揺らす。

 

「しばらく彼女を見張っていてください。何かあれば私を呼びに」

 

「えっ、あ……はい」

 

 返事を聞くやいなや、マクゴナガルは身軽な足取りで準備室を後にした。

 扉が閉まる。足音が遠ざかる。

 

 残されたのは、狐の尾を抱えたヴェリティと、立ち尽くすリーマス。

 

 暖炉もない、小さな部屋の空気が、妙に熱を帯びた。

 

 

「……あー」

 

 先に音を発したのは、リーマスだった。

 口を開きかけて、何を言えばいいのか分からず、いつもの冷静さがどこかに行ってしまっている。

 

 ヴェリティは、尾を抱える腕に力を込めた。

 自分で自分を抱きしめているような格好だ。

 

「見られたくなかった?」

 リーマスがおそるおそる尋ねる。

 

「……見られること自体は、嫌じゃない」

 ヴェリティは素直に答える。

「ただ、あなたに見られるタイミングとしては、少し予想外だったわ」

 

「予想外、ね」

 リーマスは、口元だけで笑う。

「僕としても、かなりの予想外だよ。しっぽ……」

 

 言いかけて、彼は言葉を呑み込む。

 視線が、尾と、ヴェリティの顔を行ったり来たりする。

 

「アニメーガス……もしかして」

 ふと、彼の口から零れた。

 

「――僕のため?」

 

 ヴェリティは、瞬きした。

 想定していた問いのひとつだった。

 想定していたのに、喉が詰まる。

 

「君が、こんな危険な魔法に手を出す理由……」

 リーマスの声は、いつもより低い。

「学術的な興味だけって、言い切れる?」

 

 だけ。

 

 そのひと言が、ヴェリティの胸を刺した。

 

 学術的な興味がないわけではない。

 むしろ、それは出発点だ。

 変身術の究極形を、自分の手でなぞってみたい。構造を知りたい。理論と実践の差を、肌で感じたい。

 

 けれど。

 

 満月の夜。

 前後の日の青い顔に、かすかな呻き声。

 彼の目の奥に沈んでいる罪悪感。

 

 「何もしないでいる自分」を、彼女は許せなかった。

 

 ――僕のため?

 

 問いの正しさが、痛いほど分かる。

 「違う」と即答することもできた。

 でも、それは、あまりにも容易な嘘だった。

 

 ヴェリティは、口を開きかけて閉じる。

 言葉が、理屈の階段を作る前に、感情の重さに足を取られる。

 

 ルーピンは、その沈黙を、都合よく――あるいは、優しく解釈した。

 

「……嬉しいよ」

 彼は、ほんの少し笑う。

 いつもの遠慮がちな笑い方ではなく、少しだけ無防備な笑い方。

 

「危険なのは、分かってる。でも、もしそこに僕が関係しているなら……」

 

 彼は、一瞬だけ視線を落とし、また上げた。

 

「それは、僕にとって、すごく大事なことだ」

 

 ヴェリティは、視線を逸らした。

 尾を抱える手に、さらに力がこもる。

 

「……それも、無くはないわ」

 

 絞り出すように言う。

 彼のためだけではない。

 でも、全く関係ないとも言えない。

 その中間を選んだ言葉。

 

 口にした瞬間、自分の耳まで熱くなったのが分かった。

 

 リーマスは、しばらく彼女を見ていた。

 狐の尾を抱きしめて、頬を赤くして、目を逸らすヴェリティ。

 

 思わず、出る。

 

「……可愛いね」

 

 その言葉は、彼自身が一番驚いていた。

 

 分析でも評価でもない。

 ただ、目の前のものを、そのまま言葉にしただけ。

 

 次の瞬間、ヴェリティの頭の上で、「ぴこん」と何かが生えた。

 

「……え?」

 

 リーマスが目を見開く。

 何かふさっとしたものがちらついた。

 ヴェリティが頭の上に手をやると、柔らかい毛と、尖った先。

 

「耳……?」

 

 狐の耳だった。

 まだ小さくて、ピンと立っている。

 恥ずかしさと驚きが、そのまま形になって飛び出したみたいに。

 

「ちょ、ちょっと待って」

 ヴェリティは、自分で耳を押さえる。

「理論上、そんな変化は予定してないんだけど」

 

「予定されてないことが起きるのが、変身術の怖さだって、先生が言ってた」

 リーマスは、半ば呆然としながらも言う。

「マクゴナガル先生、呼んだ方が――」

 

 そこで、彼の心が二つに割れた。

 

 ひとつは、「すぐに先生を呼ぶべきだ」という真面目な声。

 もうひとつは、「この光景を、できるだけ長く見ていたい」という、あまりに個人的で独占欲の強い声。

 

 狐の尾を抱え、耳をぴんと立てて赤くなっているヴェリティ・エインズワース。

 誰にも見せたことのない顔。

 彼女自身も、まだ慣れていない顔。

 

(……まずい)

 

 ルーピンは、内心で頭を抱えた。

 自分の中の「観察者」と「男」が、あからさまに喧嘩を始めている。

 

「リーマス」

 ヴェリティが、眉をひそめる。

「そんな顔で見られると、さすがに恥ずかしいんだけど」

 

「ご、ごめん」

 リーマスは慌てて視線を逸らした。

「マクゴナガル先生、呼んでくる」

 

 結局、真面目な方が勝った。

 彼は半ば駆け足で部屋を出て行く。

 扉が閉まる直前、もう一度だけ振り返りそうになって、ぐっとこらえた。

 

 

「ふむ」

 

 マクゴナガルは、戻ってくるなり、ヴェリティの頭と尾を見て、たいそう満足そうに頷いた。

 

「やはり、狐でしたか」

「先生、そこですか」

 ヴェリティは、耳を押さえたまま抗議する。

「これ、どうすれば戻るんです?」

 

「落ち着きなさい」

 マクゴナガルは、笑いをこらえながら杖を振った。

 淡い光が、ヴェリティの頭と腰を包み込む。

 耳と尾は、すうっと消えていった。

 

「完全変身の前に、部分変形を経験する生徒は、それほど多くありません」

 マクゴナガルは言う。

「ましてや、感情の刺激で耳が出るなど、実に興味深い」

 

「感情……」

 ヴェリティは、さっきのやり取りを思い出して、こめかみを押さえた。

 可愛いねという、あまりにも直接的な言葉。

 自分がそれにどれだけ弱いか、思い知らされた瞬間だった。

 

「貴方にしては珍しく」

 マクゴナガルは、少しだけ柔らかい声で続けた。

「理屈ではなく、感情で物事を考えたのでしょう」

 

「……狐の気持ちになれって言ったのは先生でしょう」

 ヴェリティは、わざと拗ねたように言う。

「狐は、そんなに感情的なんですか」

 

「狐は賢いですが、人間と脳は違うのです」

 マクゴナガルは、指先で机をとんとんと叩く。

「思考の速度も、優先順位も、世界の見え方も。

 野生的な、本能的な思考を学ぶ必要があるかもしれませんね」

 

「本能的……」

 ヴェリティは、その言葉を口の中で転がす。

 

 本能。

 衝動。

 考える前に動く。

 

 ジェームズとシリウスの領域だと思っていた概念が、自分に向けられていることに、どこかむず痒さを覚える。

 

「ミスター・ルーピン」

 マクゴナガルは、脇に立っていたリーマスに目を向けた。

「先ほどはありがとう。――次からは、もう少し落ち着いて観察してから私を呼んでもいいのですよ?」

 

「は、はい……」

 リーマスは、赤くなりながら返事をした。

 

「ミス・エインズワース」

 マクゴナガルは締めくくる。

「絶対に、一人では練習しないこと」

 

「分かりました」

 ヴェリティは素直に頷いた。

 

 

 

「――で、先生、本当に席を外すんですか」

 

 数日後。

 再び変身術準備室。

 

 マクゴナガルは、杖を片手に黒板に細かい注意事項を書きつけると、きっぱりと言った。

 

「外します」

「理由を聞いても?」

「校長から呼び出しが来ています」

 ごく真面目な声だったが、その目の奥には、どこかいたずらっぽい光があった。

 

「それに、ミスター・ルーピンがいるでしょう」

 彼女は軽く顎で示す。

「何か問題があれば、彼に頼ってください」

 

 リーマスは、半ば観念したように苦笑した。

 ヴェリティは、狐の尾を半分だけ出した状態で眉をひそめる。

 

「先生」

「はい?」

「本能的な思考を学べって言ったのは分かりますけど、本当にこういうことなんですか?」

 

 マクゴナガルは、一瞬だけ固まり、それから珍しく声を立てて笑った。

 

「心配しなくても、私はそこまでロマンチストではありません」

 そう言いつつも、彼女は満更でもなさそうだ。

「では、頼みましたよ」

 

 そうして、本当に出て行ってしまった。

 

 扉が閉まる音がして、足音が遠ざかる。

 準備室には、狐の尾を揺らすヴェリティと、椅子に腰掛けたルーピンだけが残った。

 

 

 

「野性的……本能的……」

 

 ヴェリティは、床の魔法陣の中央に立ちながら、ぶつぶつと呟いていた。

 尾は完全に形になり、耳も時々ぴくりと動く。

 彼女自身がそれに気づいていないのが、むしろ不思議なほどだ。

 

「獲物を追いかけるとき、狐は何を考えるのか」

 彼女は自問する。

「いや、考えるという言葉がもう違う。……匂い。足音。風の向き。喉の渇き。……今ここで、どの方向に飛び出すのが一番効率的か――」

 

 理屈と本能の境界線を、必死に探っている顔。

 尾が、彼女の思考の速度に合わせて、左右にふわふわと揺れている。

 耳が、何かに反応してぴんと立ったり、わずかに寝たりする。

 

 リーマスは、その様子を黙って見ていた。

 

 観察者としての彼は、無数の瞬間を目に収めていた。

 耳の動き。

 尾の位置と、彼女の思考の関係。

 呼吸の深さ。

 

 けれど、その裏側で、別の自分がはっきりと目を覚ましていく。

 

(――誰にも見せたくない)

 

 初めて、はっきりとした独占欲が、彼の胸の奥に湧き上がった。

 

 ヴェリティ・エインズワース。

 刃物みたいな言葉を使い、人を切ってその血で自分をも洗うことをやめない女。

 常に全体を見ていて、自分自身すら「観察対象」にしてしまう女。

 

 その彼女が今、自分の尾を抱きしめもせず、耳を自覚もせず、むき出しの本能と理屈の境界でうろうろしている。

 

 無防備だ。

 信じられないくらい。

 

 もし今ここに、ジェームズやピーターがいたら。

 シリウスや、誰か他の男子がいたら。

 

 その想像だけで、彼の喉がきゅっと締まる。

 

(嫌だ)

 

 初めて、自分の感情をそんなふうに形容した。

 

(彼女が僕のために動いてくれた)

(僕の一言で耳を生やして、赤くなった)

(今だって、本能を学ぼうとしてる理由の一部には、僕がいる)

 

 その全部を知ってしまった今、「彼女にはシリウスが似合う」などという言葉は、口にできない。

 

 ――ヴェリティには、彼のような人がそばにいるべきだ。

 

 あの頃の自分は、それを正しさだと思っていた。

 危険な自分の隣に、こんな刃物を置くのは間違いだと。

 明るくて、燃えるようなシリウスの方が、ずっと彼女には似合うのだと。

 

 今は、違う。

 

 狐の耳が、彼女の思考に合わせてぴくりと動くのを見ながら、リーマスは静かに悟る。

 

(――俺が、欲しい)

 

 シンプルで、どうしようもない結論。

 そこに理屈はない。

 月も、狼も、罪悪感も、一瞬だけ遠ざかる。

 

 目の前の彼女だけが、世界の中心になる。

 

「……リーマス?」

 

 いつの間にか、ヴェリティが彼を見ていた。

 尾が小さく揺れ、耳が半分だけ寝ている。

 

「そんな顔で見るの、やめてくれない?」

 彼女は、落ち着かない声で言う。

「本能的になる前に、私の理性が溶けそうなんだけど」

 

 リーマスは、ゆっくり笑った。

 自分の笑い方が、以前と違うことを自覚しながら。

 

「……ごめん」

 彼は立ち上がる。

「君が、あんまり可愛いから」

 

 それは、もう観察者の言葉ではなかった。

 

 ヴェリティの耳が、また「ぴこん」と立った。

 頬が、一気に熱を帯びる。

 

「マクゴナガル先生呼んでくる?」

「……少しだけ待って」

 ヴェリティは、尾を自分の前に回して抱きしめる。

「狐の気持ちになってる途中なのよ。邪魔しないで」

 

「それは困るな」

 ルーピンは口元を緩める。

「君が人間でいてくれる間に、ちゃんと伝えたいことがあるから」

 

 

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