グリフィンドールであることが、気に食わない。 作:an-ryuka
◆
進路指導の面談が始まって、各寮で「将来どうする?」の会話が飛び交い始めたころ。
図書館の奥の席で、ヴェリティは分厚い本を三冊積み上げていた。
『魔法生物の保護と管理』
『危険生物に関する法と倫理』
『人狼:歴史・偏見・現代魔法医学』
リーマスが、その背表紙を見て苦笑する。
「……嫌な特集だね」
「自分のカテゴリを正確に認識しておくのは、生き延びるための最低限の条件よ」
ヴェリティはさらっと言う。
「で、リーマス」
「なに」
「卒業して、どうするつもり?」
リーマスは、ペン先を宙で止めたまま固まった。
「……まだ、ちゃんとは」
「ちゃんと考えないと、勝手に不利なレールに乗せられるわよ」
ヴェリティは、ページを繰りながら淡々と言う。
「魔法省の就職案内、見た? 人外は原則採用しないって、さらっと書いてあったわ」
「見た」
リーマスは苦笑する。
「読むまでもないと思ってたけどね」
「だからこそ、よ」
ぱたん、と本を閉じる。
「締め出されてるルートを眺めて嘆くだけなら簡単。でも私は、入れる隙間の方が知りたい」
「僕のために?」
「半分」
即答。
「残り半分は、純粋に面白いから」
リーマスは目を瞬く。
「……面白い?」
「そう」
ヴェリティは指を折って数え始める。
「人狼に関する法律。保護対象としての扱い。危険生物としての分類。ポーションの開発状況。闇の魔術との関連……」
「そういうの全部を、どう組み替えたら、あなたが少し楽になるかって考えるの、わりと楽しいのよ」
さらっと「楽しい」と言うあたりが、いかにも彼女らしかった。
「……普通、そこまでしないと思うんだけど」
リーマスはペンを置く。
「自分に直接関係ないのに」
「直接関係あるわよ」
ヴェリティはあっさり返す。
「私、人狼と付き合ってる女ってカテゴリに分類されたの。興味を持つのは当然でしょ」
彼は、笑っていいのか迷って、それでも笑った。
「……そういう言い方されると、なんか嬉しいな」
「組み込まれた自覚はできた?」
「うん。君の思考実験の中に、僕も入ってるんだって思う」
ヴェリティは微笑む。
「リーマス。あなた、自分で思ってるよりずっと、変化に耐えられるタイプよ」
「そうかな」
「私はそう思う」
その日から、ヴェリティの机の上には、しばしば「人狼」「労働」「ポーション」「法改正」みたいな単語が並ぶメモが広がるようになった。
リーマスは最初こそ「そんなことまで」と戸惑っていたが、
「僕、将来どんな仕事ができると思う?」
「人前に出なくていい、安定した薬が必要、知識はある」
彼女が条件を箇条書きにしていくのを見ているうちに、自分の未来が真っ白な不安から難しいけれど考えていい問題に変わっていく感覚を味わうようになった。
◆
アニメーガスの訓練も、静かに進行していた。
マクゴナガルの準備室。
壁際のキャビネットには、変身術関連の資料と、いくつかの緊急ポーションが並んでいる。
「……しっぽは、ほぼ安定しているようですね」
マクゴナガルが、ヴェリティの腰のあたりをじっと見る。
服の上からでも分かる、ふさふさの膨らみ。
「次は耳。聴覚の変化に慣れる必要があります」
「理論的には――」
「理論はもう十分です」
ぴしゃり。
「狐の気持ちになるのですよ、ミス・エインズワース」
「その気持ちの定義が曖昧だって言ってるんです」
「曖昧だからこそ、実践で学ぶのです」
横の椅子に座っていたリーマスは、そのやり取りを苦笑しながら見ていた。
(マクゴナガル先生、ヴェリティ相手でも全然引かないな……)
「じゃあ、やってみなさい」
先生が腕を組む。
ヴェリティは、深呼吸をひとつ。
目を閉じ、意識を「人間の骨格」から、「狐の骨格」へと滑らせるイメージを思い浮かべる。
尾。
耳。
柔らかい足裏。
低い視点。
鼻先に集まる情報量。
――変化の気配。
「……あ」
リーマスが小さく声を上げた。
ヴェリティの頭の上に、耳がぴょこん、と現れていた。
「よろしい」
マクゴナガルが満足げに頷く。
「尾と耳を安定させた上で、全身への移行を試みます」
「安定、ね」
ヴェリティは自分の耳を意識し、微妙な違和感に眉をひそめる。
「……これ、本当に狐の気持ちでコントロールできるものかしら」
「やってみなさいと言いました」
マクゴナガルは厳しい。
「ただし、ひとりでは絶対に練習しないこと。異常を感じたら、すぐに誰かを呼びなさい」
そこで、彼女はふとリーマスの方を見る。
「……リーマス。あなた、今日の予定は?」
「特には」
「では監視役はあなたに任せます」
あっさり。
「恋人なのでしょう」
先生は平然と言う。
リーマスは苦笑するしかなかった。
◆
その夜。
人のいない準備室で、ヴェリティは尻尾と耳を出した状態で、床に座り込んでいた。
「狐の気持ちね……」
ぶつぶつ。
「野性的。本能的。……具体的に何?」
しっぽが、考えるたびにぽふぽふ揺れる。
本人は自覚していないが、完全に「集中すると無意識にペンを回す」みたいな癖になっていた。
「……」
「なに、その顔」
ヴェリティは首を傾げる。
「そんなに変?」
「変じゃない」
リーマスは、思考を挟むヒマもなく口を開いていた。
「――可愛い」
次の瞬間、ぴこん、と耳が立つ。
「……っ」
ヴェリティの頬が、一気に赤くなる。
立ち上がろうとするが、しっぽが上手く扱えず少しよろける。
リーマスは慌てて支える。
支えた手を離すタイミングが分からず、彼は一瞬だけ躊躇った。
狐の耳が、彼の胸の高さでぴくりと動く。
「……さっきの」
ヴェリティが口ごもる。
「可愛いって、どこまで含めて?」
「全部」
即答だった。
「耳も、しっぽも、戸惑ってる顔も」
「……消さなきゃ」
「それは困る」
リーマスは笑う。
「僕、今けっこう必死に目に焼きつけてるから」
ぽふんと、彼の胸元に狐が現れた。
◆
アニメーガスとしての変身が安定するようになった。
マクゴナガルの目の前で、ヴェリティは一度息を吸い込み、次の瞬間、床の上には細身の狐が座っていた。
しなやかな茶色の毛並み。
鋭い金色の瞳。
尾はふさふさと豊かで、先端だけ白く染まっている。
「……見事です」
マクゴナガルが、珍しくはっきりと笑った。
「グリフィンドールに、またひとりアニメーガスが増えましたね」
狐は、鼻先を少し上げて「当たり前」と言いたげに尻尾を振った。
(――これで、満月の夜も一緒にいられる)
ヴェリティは、変身した身体で思った。
◆
満月の夜。
いつものように、リーマスはホグワーツの裏手の柳の木から、暴れ柳の根元の穴を抜けて、「あの家」に入る。
骨が軋み、皮膚の下を何かが這うような感覚。
狼が、内側から牙を突き立ててくる。
その夜――
月が完全に昇る前に、窓の外をひょい、と小さな影が横切った。
狐。
細い体で雪をかき分け、窓枠に前足をかけて中を覗く。
尾が、月明かりに照らされて白く光る。
リーマスの意識の中へ、その姿が滑り込んでくる。
変容の痛み。
骨のねじれ。
牙。
それでも、どこかの層で、「あれはヴェリティだ」という認識が揺らがずに残った。
狼になったリーマスは、窓の外の狐を見た。
牙をむく代わりに、低く鼻を鳴らす。
狐は、一歩も引かない。
ガラス越しに、じっと狼を見返している。
「……」
それから、狐は外で丸くなって座った。
窓に背を預けるように、尾で自分の体を包み込む。
その夜、狼はいつもより少しだけ静かだった。
明け方。
人の姿に戻ったリーマスは、毛布にくるまりながら、窓の外を見た。
そこに、小さく丸まって眠る狐。
紫がかった空の下、雪に埋もれかけたその姿を見て――
「……何やってるんだよ、君は」
呆れ半分、愛おしさ半分で呟いた。
◆
それからだ。
ふたりのあいだの「距離感」が、静かに変わっていったのは。
ヴェリティが人間の姿に戻って彼の前に顔を出せば、リーマスは、当たり前のように彼女の手を握った。
「冷たい」
「雪の上で寝てたからね」
彼女が変身術の準備室でしっぽを出せば、リーマスは何のためらいもなくそれに指を埋めた。
「やめなさい、集中できない」
「ごめん、ストレス解消にちょうど良くて」
「私をクッションか何かと勘違いしてない?」
廊下を歩くとき、彼女はほんの少しだけ彼の腕に寄りかかるようになり、
談話室のソファで、本を読むとき、彼の肩にもたれてページをめくるようになった。
ジェームズは最初のうち「おいおいおい」と騒いでいたが、他の生徒に「自分たちを鏡で見てから言え」と一蹴される。
シリウスは、遠巻きに見て「俺の青春が……」とぼやき、イヴに「青春はまだ終わってないわ」と冷静に突っ込まれていた。
◆
そして、卒業が見えてきた頃。
「田舎の、魔法薬専門店?」
リーマスが思わず聞き返したのは、ある春の日の図書室だった。
ヴェリティは、進路相談の書類を前にして淡々と説明する。
「正確には、魔法薬学研究も兼ねている薬屋ね。ホグズミードからさらに北へ行って、そこからまた箒で一時間くらい」
「……遠いね」
「文明から距離を取る研究者は多いものよ」
ヴェリティは肩をすくめる。
「その分、知識と材料は豊富。お金はたぶん期待できないけど」
「どうしてそこを?」
「条件が良かったから」
彼女は指を立てる。
「ひとつ。古い魔法薬の資料が揃ってること」
「ふたつ。実験設備があること」
「みっつ。人狼に関するポーションの研究に、興味がある店主だったこと」
リーマスは瞬きをした。
「……人狼?」
「そう」
ヴェリティは、彼をまっすぐ見る。
「脱狼薬の研究にがっつり時間を使わせてくれる」
「ヴェリティ」
リーマスは、喉がきゅっと縮むのを感じた。
「それ、僕のために――」
「半分」
またも即答。
「残り半分は、私のため」
「君、それで通ると思ってる?」
「事実だもの」
ヴェリティは笑う。
「でも、そうね」
少しだけ目を伏せる。
「あなたがいなかったら、たぶん私は脱狼薬になんてそこまで熱心にならなかった」
リーマスは黙る。
彼女は続ける。
「変えられるかもしれないものを前にして、何もしないのは性に合わないの。
できることがあるなら、したい」
その「したい」は、今までの彼女の「正しさ」より、少しだけ感情に寄っていた。
「それに――」
ヴェリティは、視線を戻す。
「店主、あなたも雑用兼治験者としてなら雇ってもいいって言ってたわ」
「雑用は分かるけど、兼の後半が重すぎるんだけど」
彼女は平然と言う。
「調整には、長期的なモニタリングが必要なの。あなたひとりで何役もこなせるわ」
「それ、僕にカード何枚配ってるの」
「役に立つって嬉しいんじゃなかった?」
ヴェリティは、少しだけ意地悪そうに笑う。
「ピーターのときも言ってたわね。『誰かの役に立ちたいと思ってる』って」
リーマスは苦笑する。
彼は少しだけ考えた。
ホグワーツの先。
人狼として生きる未来。
閉ざされた扉と、遠くに見える細い道。
ヴェリティが、その道をわざわざ広げに行こうとしている。
「行く」
リーマスは答えた。
「一緒に」
ヴェリティの口元が、わずかに緩む。
「そうこなくちゃ」
◆
ホグワーツを離れたふたりは、北の果てみたいな小さな村に根を下ろした。
石造りの小さな家。
店兼研究室。
天井まで届く棚には、瓶詰めの材料と、本と、見たこともない器具が並ぶ。
店主は、シワだらけの顔に鋭い目をした老魔女だった。
「人狼だと?」
初対面のとき、リーマスを頭のてっぺんからつま先まで眺めて言った。
「噛みつかれたら、噛み返すから覚悟しな」
「噛み返される前に、予防薬を作るんですよ」
ヴェリティがさらっと返す。
「そのための材料として、彼は最適です」
「材料扱いされるの慣れてるのかい?」
老魔女が面白そうに笑う。
リーマスは苦笑しながら頷いた。
「まぁいい。働く手と実験台には困らないね」
杖の先で彼の肩をつん、と突く。
「ほら、荷物運び。ホグワーツほど甘くないよ」
「はい」
昼間、リーマスは店で客にポーションを渡し、棚を整理し、時々シンプルな薬を仕込む。
店主も巻き込んで、脱狼薬の試作を繰り返した。
一方、
「スネイプ宛?」
リーマスが、彼女の真横で封筒を覗き込む。
「ええ。ホグワーツの魔法薬学教授、兼、元同級生ね」
ヴェリティはさらさらとペンを走らせる。
「闇の魔術と薬学の境界に関しては、彼の方が私よりずっと詳しいもの」
「よく、手紙なんか出せるね」
「彼も暇じゃないから、返事が来るとは限らないわ」
ヴェリティは平然と続ける。
「でも、こういう仮説で実験しているとだけ伝えておけば、いずれ彼の研究とどこかで交差する」
「……利用してる?」
「お互い様よ」
数週間後。
灰色のフクロウが一通の手紙を運んできた。
封を切ると、きっちりした筆跡。
『ミス・エインズワース
その仮説は甘い。
お前が想定しているより、狼人化の際の魔力変質は複雑だ。
○○の量を二割減らし、代わりに――』
最後に、ぶっきらぼうな一文。
『噛まれないように』
ヴェリティは、すっと笑った。
「相変わらずの物言いね」
「でも、ちゃんと心配してる」
リーマスが覗き込む。
「噛まれないようにって」
「さあ、どうかしら」
ヴェリティは肩をすくめる。
「実験台が減ると困るって意味かもしれないわよ」
そう言いながら、手紙は大事そうに引き出しにしまった。
◆
脱狼薬は、劇的な「完成」の瞬間を迎えることはなかった。
少しずつ。
少しずつ。
満月の夜の痛みが、わずかに和らぐ。
自我を保てる時間が、少しだけ伸びる。
変身後の疲労が、翌日には引くようになる。
テストのたびに、ヴェリティは狐になって彼のそばにいた。
彼がポーションを飲む前と後で、狼の目の光がどう変わるのか。
動きはどうか。
うなり声の高さは――
全部、彼女のデータになっていった。
ある満月の翌朝。
リーマスはベッドの上で目を覚まし、天井を見上げた。
「……頭、軽い」
隣でノートを閉じる音がする。
椅子に座ったヴェリティが、疲れた顔で微笑んでいた。
「でしょうね」
「徹夜?」
「ほぼね」
彼女は平然と言う。
「あなた、今回は外へ出たい衝動をほとんど見せなかった」
「君が、外から扉の前で寝てたからじゃない?」
「それはあくまで補正値」
ヴェリティは首を振る。
「薬そのものの効果も、確実にある」
「……ありがと」
リーマスは、言葉を選ばずに言った。
「ありがとうって言葉、何回聞かせる気?」
ヴェリティは、少しだけ眉を上げる。
「できることをするのが好きって、何度も言ってるでしょ」
「……でも」
「でも、何?」
「君の人生を、僕のための研究で埋めさせてしまってるんじゃないかって」
その懸念は、彼が何度も飲み込んできたものだった。
ヴェリティは、ほんの一瞬黙ってから、すとんと椅子からベッドの端に移動する。
毛布の上から、彼の手を握った。
「リーマス」
「うん」
「私は、自分のためにやってるの」
淡々とした声。
「あなたのためって言うのは、半分だけ正しい。でも残りの半分は、これをやってる自分でいたいなの」
彼は、その言葉をゆっくり飲み込む。
(――誰かに何も与えられなかったって思うと、ひどく落ち込む)
昔、彼女が言った言葉を思い出す。
「それに」
ヴェリティは、少しだけ照れたように目をそらした。
「あなたの不安が軽くなれば、私のことをもっと見てくれるかなって」
リーマスは、彼女の手を握る。
「……見てるよ。ずっと。……もっと」
◆
籍を入れよう、という話には、あまり月日はかからなかった。
戦争の気配が濃くなり始め、世の中がざわつき始めたころ。
ふたりの暮らすド田舎にも、遠くから不穏な噂が届いていた。
「大きな式は、無理ね」
ヴェリティは、淡々と言った。
「呼びたい人を全員呼んでいたら、きっと誰かが死ぬ時代」
「縁起でもない言い方だけど、否定できないね」
リーマスは苦笑する。
「じゃあ、役所で紙に名前書くだけ?」
「合理的でいいじゃない」
ヴェリティはペンを回す。
「必要最低限の儀礼だけ。あとは、生活の中で決めていけばいい」
「君のご両親には?」
「籍を入れますって、手紙は出すわ」
さらっと。
「……僕のことは?」
「好きな人と結婚します」
それだけ。
「人狼だってことは?」
「言わない」
ヴェリティはきっぱり。
「え?」
「言わないわ」
彼女は、彼の方を向いた。
「あなたの秘密は、私だけのものにしておきたいの」
半分冗談、半分本気。
けれど、その目は冗談だけではなかった。
「君のご両親、怒らない?」
「ヴェリティが決めたなら反対しても無駄って、一番よく知ってるのはあの人たちよ」
ヴェリティは肩をすくめる。
「たぶん、言っても聞かないでしょ?って呆れながら、『幸せでいなさい』って返してくるだけ」
「……いいご両親だね」
「ええ。だからこそ、余計な不安は与えたくないの」
少しだけ視線を落とす。
「あなたの危険性は、私だけが正確に把握していればいい」
「危険性?」
「満月のときの顔とか」
さらっと。
「可愛くて、危険」
リーマスは盛大にむせた。
「……そういうこと言うの、やめてくれない?」
「やめない」
ヴェリティは、楽しそうに笑う。
「理屈じゃないところで人を選んだ自覚を、あなたにもちゃんと持ってほしいから」
「じゃあ僕も言うよ」
リーマスは少しだけ意地悪な顔になる。
「狐の姿で、僕のローブの裾に鼻を押しつけてくる君は、ひどく危険だよ」
ヴェリティの耳が、ぴくりと動いた。
――いや、今は本物の耳は出ていない。それでも、確かに「ぴくり」と動いた気がした。
「……役所には、耳も尻尾も出さずに行くから安心して」
「それはちょっと残念かな」
「欲張りね」
◆
役所の一室。
味もそっけもない木の机と、分厚い台帳。
魔法省の紋章が押された紙に、ふたりは並んで名前を書いた。
“Remus Lupin”
“Verity Ainsworth”
インクが乾くのを待つあいだ、ヴェリティはツンとリーマスの手の甲を指で突く。
「どうしたの」
「なにも」
彼女は小さく笑う。
「あなたの将来に、やっと私の名前が入った」
「……結構前から入ってるよ?」
「公的な話よ」
彼女は真面目に頷く。
「……どこか信用してなかったのかもしれない」
言葉を探し、そして、ほんの少しだけ照れたように言った。
「私の人生に、あなたがいてくれるんだってこと」
リーマスは、笑った。
ここまで来るのに、何度も逃げそうになり、何度も踏みとどまった。
満月。
狼。
友人たち。
戦争。
その全部をひっくるめて、それでも今ここでペンを置けたこと。
「……僕の方こそ」
彼は、ヴェリティの指を握る。
「一緒にいたいって言ってもらえたことで、生きる理由がひとつ増えた」
ヴェリティは、目を細める。
「じゃあ、ちゃんと見せてね」
「何を」
「あなたがどんなふうに、これからも臆病で、弱くて、それでも逃げないか」
「ずっと」
それは、彼女なりの愛の言葉だった。
◆
ホグワーツでは、やがてスネイプが魔法薬学の教鞭を取り、
ジェームズとリリーは次世代の子を授かる。
シリウスとイヴは、デスイーターの戦争に巻き込まれながら、
ピーターは――。
それぞれの道を歩いていく。
北の端の小さな村。
古い薬屋の灯りが、夜になるとぽつりとともる。
一冊の分厚いノートが、棚のいちばん上に置かれていた。
表紙には、手書きでこう記されている。
『脱狼薬の長期的影響と、共同生活における心理的変化について』
ページの端には、狐の足跡みたいなインクのしみと、ところどころに挟まれたメモ。
――観察者だった少女は、自分も観測の中に飛び込んだ。
――同じく観察者だった少年は、自分から選ばれにいくことを覚えた。
実験は、まだ終わらない。
改良も、まだ続く。
でも、ひとつだけ、結論に近いものがあるとすれば――
満月の夜。
狐と狼が、同じ場所にいて。
朝が来たとき、ちゃんと生きているなら。
それだけで、十分と言えるのだと。
ヴェリティ・エインズワースは、誰にも聞こえないところで、そう静かに書き残した。