グリフィンドールであることが、気に食わない。   作:an-ryuka

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2.

 翌朝、灰色の霧が湖面を覆っていた。

 グリフィンドール塔の窓から見下ろすと、まるで世界が溶けて一枚の乳白色のガラスに変わったようで、ヴェリティはしばらくその風景を見つめていた。

 

 ――静かだ。

 昨日の言葉の余韻はまだ胸のどこかでくすぶっている。ジェームズの赤くなった顔、シリウスの怒りを抑えた眼、ルーピンの微笑みの奥の何か。全部が、まるで見えない糸で彼女の指先に絡まって離れない。

 

 だがそれでも、彼女はいつも通りに支度を整えた。

 制服の襟を正し、髪を後ろで束ね、鏡の中の自分をじっと見つめる。

 

 ――私は、間違ってはいない。

 そう確認することが、彼女にとって一日の始まりの儀式だった。

 

 

 ◆

 

 地下への階段は、いつもより幾分湿っぽく感じられた。

 

 石段にしみ込んだ冷気がローブの裾を撫で上げるたび、ヴェリティ・エインズワースは、足音の数を数えた。自分のもの、リリーのもの、その少し後ろをついてくる数人分――そこに、気怠げな笑い声が一つ混じる。

 

「ねえ、聞いた? 昨日の廊下で……」

「ジェームズとシリウスを一気に黙らせたってやつ?」

「スネイプもいたんでしょ。あの子、グリフィンドールのくせに怖いこと言うわよね」

 

 囁き声は、壁に反射して倍に膨らむ。

 ヴェリティは振り返らない。耳には入れるが、意味までは拾わないように、意識的に焦点をずらす。

 

「気にしてる?」

 隣でリリーが、少し心配そうに首を傾げた。

 

「統計を取ってるだけよ」

 ヴェリティは淡々と答える。

「『人は刺激的な出来事の噂話を、どれくらいの期間、飽きずに繰り返すのか』。せっかくだからデータを集めておこうかと思って」

 

「そういうとこ、ほんとスラグホーン先生の好みよね」

 リリーは苦笑した。

「ね、もし嫌だったら言ってね。私、ジェームズにはもっときつく言うから」

 

「それはそれで、あなたの負担が増えるだけでしょう」

 ヴェリティは、薄く笑う。

「責任を分割できるなら喜んで頼るけど。残念ながら、『あの二人を止める』って仕事は、一人あたりの割り当てが多すぎるのよね」

 

 リリーがくすりと笑い、二人は並んで魔法薬学の教室の扉をくぐった。

 

 地下の教室は、いつも通り薄暗い。棚に並ぶ瓶の中で、どろりとした液体がゆっくりと揺れる。銀色の秤の皿がかすかに触れ合う音が、静かな鐘みたいに響いていた。

 

「ああ、ミス・エバンズにミス・エインズワース!」

 スラグホーンが、腹を揺らして両手を広げる。

「ちょうどよかった、ちょうどよかった。昨日の小論文、読ませてもらったよ。実に見事だった!」

 

「ありがとうございます、先生」

 リリーが礼儀正しく微笑む。

 ヴェリティも一応頷いたが、自分の前に置かれた羊皮紙の端をちらりと見るだけで、特に感情を表には出さなかった。

 

「ミス・エインズワース、君の『恐怖と倫理の境界線』の考察は実に興味深い。『恐怖を感じない者ほど、倫理を魔法の道具として利用しやすい』――いやいや、こんな文章を書ける生徒はそう多くないぞ」

 スラグホーンは、彼女の肩をぽんぽんと叩いた。

 

「恐怖を感じない人間なんていませんよ、先生」

 ヴェリティは穏やかに返す。

「感じていることを自覚したくない人は、たくさんいますけど」

 

「おお、実に哲学的だ!」

 先生はご満悦だ。

 

 その様子を、教室の隅から冷たく見つめている視線があることも、ヴェリティは知っていた。

 セブルス・スネイプ。自分の席に先に座り、書物を半ば開いたまま、こちらを見ないふりをしている。

 

 目を合わせれば、昨日の言葉がそのまま再生されるだろう。

 「髪を洗え」とか、「外側を整えろ」とか。あれは、彼の誇りを真っ向から殴りつけた言葉だった。

 

 ――でも、真実はだいたい誰かの誇りを殴る形でしか現れてくれない。

 

 彼女はそう思っている。

 だからといって、殴られた側の痛みが小さいわけでもないのだが。

 

「さて、今日はちょっと趣向を変えよう!」

 スラグホーンが、ぱん、と手を打つ。

「いつもの隣同士ではなく、私がペアを決める。同じ者同士だけがくっついていても、世界は広がらんからね!」

 

 教室にざわめきが走る。

 ヴェリティは、嫌な予感を覚えながら、黒板に書き出される名前の組み合わせを追った。

 

 リリー・エバンズ & ピーター・ペティグリュー

 ジェームズ・ポッター & リーマス・ルーピン

 シリウス・ブラック & メアリー・マクドナルド

 ――そして。

 

「ヴェリティ・エインズワース & セブルス・スネイプ」

 

 教室の空気が、一瞬だけ固まる。

 誰かの喉が、ごくり、と鳴った気配がした。

 

「先生……」

 リリーが、思わず手を挙げかける。

 ヴェリティは、それを横目で見て、首を小さく振った。

 

「問題ないわ」

 小さな声でリリーに言う。

「私は授業の邪魔をする気はないもの」

 

 ヴェリティは、スネイプが座る机の方へ歩いていった。

 彼の隣の椅子は空いている。周囲の誰もが、そこに近づくことを本能的に避けたような、ぽっかりと開いた空白。

 

「……よろしく」

 ヴェリティは椅子を引きながら言った。

 

「俺は頼んでない」

 スネイプは、視線を本から上げることなく答えた。

「スラグホーンが決めたんだ」

 

「知ってるわ。だから、あなたに感謝を強要するつもりはない」

 彼女も、淡々と返す。

「でも、大釜を爆発させるのは好きじゃないの。だから協力はしてもらうつもり」

 

 スネイプの口元が、かすかに歪む。

 あざけりとも、苦笑ともつかない表情。

 

「安心しろ。『先生のお気に入り』に恥をかかせる趣味はない」

 

「それはどうかしらね」

 ヴェリティは、用意された材料の瓶を一つ一つ並べながら言った。

「あなた、昨日のことまだ気にしてるでしょう?」

 

 そこでようやく、スネイプの黒い瞳が彼女に向く。

 地下の薄明かりを溜め込んだ瞳の奥に、鋭い棘がいくつも刺さっている。

 

「……当たり前だ」

 彼は低く言った。

「いきなり現れて、人の事情を知りもしないくせに、好き勝手に分析して。お前の言葉は、ポッターの呪文よりよほど質が悪い」

 

「褒めてる?」

 ヴェリティは、わざと肩をすくめて見せる。

「私、効き目のある言葉が好きなの。毒にも薬にもならない台詞ほど、時間の無駄はないから」

 

「お前のは毒ばかりだ」

 スネイプの声が、少し震える。

「『髪を洗え』? 『寝不足を減らせ』? そんなこと、言われなくても分かってる。分かっててできないから、こうなってるんだ!」

 

 その一言に、ヴェリティはまばたきをひとつした。

 

 ――ああ、そういうこと。

 

 彼女は心の中で、どこか納得する感覚を覚えた。

 努力の問題ではなく、環境の問題。あるいは、もっと根の深い「諦め」があるのだろう。

 

 貧しい家庭。いつも冷たい家。帰っても休まらない場所。

 そういう背景を、彼女は具体的には知らない。ただ、似たような匂いには覚えがあった。

 

「分かっていてもできないことがある、っていうのはその通りよ」

 ヴェリティは、真鍮の計量スプーンを持ち上げながら言った。

「でも、『できない』って言葉は、時々、都合のいい盾にもなるわ」

 

「は?」

 スネイプが眉をひそめる。

 

「何かをしようとする前に、『どうせ無理だ』って結論を出せば、失敗する痛みを味わわずに済むでしょう? 人から笑われるリスクも減る。あなたくらいの頭なら、その計算くらいしてるはず」

 

 カウンターの上に並んだ材料のひとつ――干した根を、彼女は指先でつまむ。

 それはひび割れて、もろくなっている。力を入れれば、すぐにぱりんと折れてしまいそうだ。

 

「ただ、そうやって自分を守っていると、同時に何かを失うのよ」

 ヴェリティは、その根を慎重に刻みながら続ける。

「自分の外側を変えようとしても無駄だ、って考えに慣れた人は、やがて自分の内側も『変わらないもの』だと信じ始める。そうなると、あなたみたいに頭が良い人ほど、凝り固まった”正しさ”に呪われるの」

 

「……お前は、何様のつもりなんだ」

 スネイプは、声を押し殺すように言った。

「聖人か? 正義の味方か?」

 

「違うわ」

 ヴェリティはあっさり否定する。

「私はただ、自分の嫌いなものを観察してるだけ。そこにあなたが含まれてしまったのは、たまたまよ」

 

 スネイプの目の色が、ほんの少し変わる。

 傷ついたような、安堵したような、混じり合った感情。

 

「……お前も大概、傲慢だな」

 彼はぽつりと言った。

 

「自覚はある」

 ヴェリティは、火加減を確認しつつ頷いた。

「でも、その傲慢さを自分の内側にも向けてるから、まだ少しはマシだと思ってる」

 

 二人はしばらく黙ったまま、手元の作業を進めた。

 切る、量る、溶かす、かき混ぜる――ポーション作りの工程は、黙想に似ている。余計な言葉がそぎ落とされていく代わりに、沈黙の中で考えが深く沈んでいく。

 

「……お前、昨日のあれ」

 沈黙を破ったのは、スネイプの方だった。

「ポッターやブラックに言ったこと、本気でそう思ってるのか」

 

「どの部分?」

「嫉妬だとか、整理が雑だとか」

 スネイプは、かすかに口角を上げた。

「俺としては、あいつらにああいう言葉を浴びせるのは嫌いじゃないが」

 

「本気よ」

 ヴェリティは、隣の大釜の様子を横目で見ながら言った。

「でも、あの場で言葉にしたのは、半分くらいね。残りの半分は、まだ材料の段階」

 

「材料?」

 

「ええ」

 彼女は、自分たちの大釜の中で、ゆっくりと色を変えていく液体を見下ろした。

「何かを決めつけるのは簡単よ。『あいつは嫉妬してる』『あいつは臆病だ』って。でも、本当はもっと複雑に混ざり合ってる。あの二人の内側には、きっと私の嫌いなものだけじゃなくて、私が羨ましいと思うものも入ってるはず」

 

 言いながら、彼女自身少し驚いていた。

 自分の口から「羨ましい」という言葉が出てくるとは思っていなかったからだ。

 

「……たとえば?」

 スネイプが問う。

 

「単純さ」

 ヴェリティは考え込む。

「自分の感情を、そのまま外に出す力。間違っていても、とりあえず動ける鈍感さ。それは、私にはないものよ」

 

 ジェームズが、少し離れた机で、ルーピンと何か言い合っている声が聞こえる。

 笑い声の質。身振りの大きさ。あれは、世界が自分のために用意されていると疑わない人間の所作だ。

 

 自分には、ああいう自然さはない。

 そのことを自覚したのは、ずっと前――多分、まだホグワーツに来る前のことだった。

 

「……お前」

 ふいに、スネイプが言った。

「自分のことも、そうやって解剖してるのか」

 

「もちろん」

 ヴェリティは、少しだけ笑った。

「自分を分析しないで他人を分析するのって、楽しいけど危険でしょう? だから私は、自分にも同じメスを向けるのよ」

 

「気持ち悪いな」

 スネイプは吐き捨てるように言ったが、その声には微かな好奇心が混じっていた。

 

「光栄だわ」

 

 二人の大釜の中身は、教科書に載っている見本の色に近づきつつあった。

 スラグホーンが、鼻歌交じりに各ペアの様子を見て回る。

 

「おお、これはこれは!」

 彼はヴェリティたちの大釜の前で立ち止まった。

「見事だ、見事だ。ミスター・スネイプ、君の丁寧な技術と、ミス・エインズワースの冷静な手順管理が実にうまく噛み合っている!」

 

 褒め言葉なのだろうが、「冷静な手順管理」という表現に、ヴェリティはどこか事務的な評価を感じた。

 自分が「面白い」と言われるより、「便利」と言われる方が、なぜかざらついた感触を残す。

 

 スラグホーンが満足げに頷いて去っていくのを見届けてから、スネイプが低く呟いた。

 

「……あんたみたいなのは、あそこでは人気者になる」

 

「『あそこ』って?」

 

「スラグ・クラブだ」

 スネイプは、苦い笑みを浮かべる。

「スラグホーンのお気に入りの、宝石箱みたいな集まりさ。光っていると思われる石だけを集めて、磨いて、眺めて――」

 

「あなたも、その一つでしょう?」

 ヴェリティは、彼を見た。

「魔法薬学の腕前。知識。冷静な判断力。スラグホーン先生が好きそうな要素、詰め合わせよ」

 

「俺は……」

 スネイプは言いかけて、口をつぐむ。

「俺は、あそこでは珍しい標本だ。スリザリン出身で、闇の魔術に詳しくて、魔法薬学に天賦の才がある。そういう『面白さ』があるから、箱の隅に置いてあるだけだ」

 

「あなた、箱の外にも出られるわよ」

 ヴェリティはさらっと言った。

「出る気があるなら、だけど」

 

「またそれか」

 スネイプの眉が吊り上がる。

「外に出る気があるかどうかは、俺が決める。お前に指図される筋合いはない」

 

「でしょうね。」

 ヴェリティは満足げに頷いた。

「だから今のは、単なる選択肢の提示よ。指図じゃない」

 

 スネイプは、彼女をじろりと睨み、それからふいっと視線を逸らした。

 それは負けではない。ただ、「これ以上踏み込ませたくない」という防衛線の引き直しだ。

 

 だから、ヴェリティもそれ以上は追わない。

 刃物は、必要以上に深く刺せば自分の手にも伝わってくる。血の温度も、相手の震えも。

 

 彼女は、その感触に慣れたくなかった。

 

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