グリフィンドールであることが、気に食わない。 作:an-ryuka
翌朝、灰色の霧が湖面を覆っていた。
グリフィンドール塔の窓から見下ろすと、まるで世界が溶けて一枚の乳白色のガラスに変わったようで、ヴェリティはしばらくその風景を見つめていた。
――静かだ。
昨日の言葉の余韻はまだ胸のどこかでくすぶっている。ジェームズの赤くなった顔、シリウスの怒りを抑えた眼、ルーピンの微笑みの奥の何か。全部が、まるで見えない糸で彼女の指先に絡まって離れない。
だがそれでも、彼女はいつも通りに支度を整えた。
制服の襟を正し、髪を後ろで束ね、鏡の中の自分をじっと見つめる。
――私は、間違ってはいない。
そう確認することが、彼女にとって一日の始まりの儀式だった。
◆
地下への階段は、いつもより幾分湿っぽく感じられた。
石段にしみ込んだ冷気がローブの裾を撫で上げるたび、ヴェリティ・エインズワースは、足音の数を数えた。自分のもの、リリーのもの、その少し後ろをついてくる数人分――そこに、気怠げな笑い声が一つ混じる。
「ねえ、聞いた? 昨日の廊下で……」
「ジェームズとシリウスを一気に黙らせたってやつ?」
「スネイプもいたんでしょ。あの子、グリフィンドールのくせに怖いこと言うわよね」
囁き声は、壁に反射して倍に膨らむ。
ヴェリティは振り返らない。耳には入れるが、意味までは拾わないように、意識的に焦点をずらす。
「気にしてる?」
隣でリリーが、少し心配そうに首を傾げた。
「統計を取ってるだけよ」
ヴェリティは淡々と答える。
「『人は刺激的な出来事の噂話を、どれくらいの期間、飽きずに繰り返すのか』。せっかくだからデータを集めておこうかと思って」
「そういうとこ、ほんとスラグホーン先生の好みよね」
リリーは苦笑した。
「ね、もし嫌だったら言ってね。私、ジェームズにはもっときつく言うから」
「それはそれで、あなたの負担が増えるだけでしょう」
ヴェリティは、薄く笑う。
「責任を分割できるなら喜んで頼るけど。残念ながら、『あの二人を止める』って仕事は、一人あたりの割り当てが多すぎるのよね」
リリーがくすりと笑い、二人は並んで魔法薬学の教室の扉をくぐった。
地下の教室は、いつも通り薄暗い。棚に並ぶ瓶の中で、どろりとした液体がゆっくりと揺れる。銀色の秤の皿がかすかに触れ合う音が、静かな鐘みたいに響いていた。
「ああ、ミス・エバンズにミス・エインズワース!」
スラグホーンが、腹を揺らして両手を広げる。
「ちょうどよかった、ちょうどよかった。昨日の小論文、読ませてもらったよ。実に見事だった!」
「ありがとうございます、先生」
リリーが礼儀正しく微笑む。
ヴェリティも一応頷いたが、自分の前に置かれた羊皮紙の端をちらりと見るだけで、特に感情を表には出さなかった。
「ミス・エインズワース、君の『恐怖と倫理の境界線』の考察は実に興味深い。『恐怖を感じない者ほど、倫理を魔法の道具として利用しやすい』――いやいや、こんな文章を書ける生徒はそう多くないぞ」
スラグホーンは、彼女の肩をぽんぽんと叩いた。
「恐怖を感じない人間なんていませんよ、先生」
ヴェリティは穏やかに返す。
「感じていることを自覚したくない人は、たくさんいますけど」
「おお、実に哲学的だ!」
先生はご満悦だ。
その様子を、教室の隅から冷たく見つめている視線があることも、ヴェリティは知っていた。
セブルス・スネイプ。自分の席に先に座り、書物を半ば開いたまま、こちらを見ないふりをしている。
目を合わせれば、昨日の言葉がそのまま再生されるだろう。
「髪を洗え」とか、「外側を整えろ」とか。あれは、彼の誇りを真っ向から殴りつけた言葉だった。
――でも、真実はだいたい誰かの誇りを殴る形でしか現れてくれない。
彼女はそう思っている。
だからといって、殴られた側の痛みが小さいわけでもないのだが。
「さて、今日はちょっと趣向を変えよう!」
スラグホーンが、ぱん、と手を打つ。
「いつもの隣同士ではなく、私がペアを決める。同じ者同士だけがくっついていても、世界は広がらんからね!」
教室にざわめきが走る。
ヴェリティは、嫌な予感を覚えながら、黒板に書き出される名前の組み合わせを追った。
リリー・エバンズ & ピーター・ペティグリュー
ジェームズ・ポッター & リーマス・ルーピン
シリウス・ブラック & メアリー・マクドナルド
――そして。
「ヴェリティ・エインズワース & セブルス・スネイプ」
教室の空気が、一瞬だけ固まる。
誰かの喉が、ごくり、と鳴った気配がした。
「先生……」
リリーが、思わず手を挙げかける。
ヴェリティは、それを横目で見て、首を小さく振った。
「問題ないわ」
小さな声でリリーに言う。
「私は授業の邪魔をする気はないもの」
ヴェリティは、スネイプが座る机の方へ歩いていった。
彼の隣の椅子は空いている。周囲の誰もが、そこに近づくことを本能的に避けたような、ぽっかりと開いた空白。
「……よろしく」
ヴェリティは椅子を引きながら言った。
「俺は頼んでない」
スネイプは、視線を本から上げることなく答えた。
「スラグホーンが決めたんだ」
「知ってるわ。だから、あなたに感謝を強要するつもりはない」
彼女も、淡々と返す。
「でも、大釜を爆発させるのは好きじゃないの。だから協力はしてもらうつもり」
スネイプの口元が、かすかに歪む。
あざけりとも、苦笑ともつかない表情。
「安心しろ。『先生のお気に入り』に恥をかかせる趣味はない」
「それはどうかしらね」
ヴェリティは、用意された材料の瓶を一つ一つ並べながら言った。
「あなた、昨日のことまだ気にしてるでしょう?」
そこでようやく、スネイプの黒い瞳が彼女に向く。
地下の薄明かりを溜め込んだ瞳の奥に、鋭い棘がいくつも刺さっている。
「……当たり前だ」
彼は低く言った。
「いきなり現れて、人の事情を知りもしないくせに、好き勝手に分析して。お前の言葉は、ポッターの呪文よりよほど質が悪い」
「褒めてる?」
ヴェリティは、わざと肩をすくめて見せる。
「私、効き目のある言葉が好きなの。毒にも薬にもならない台詞ほど、時間の無駄はないから」
「お前のは毒ばかりだ」
スネイプの声が、少し震える。
「『髪を洗え』? 『寝不足を減らせ』? そんなこと、言われなくても分かってる。分かっててできないから、こうなってるんだ!」
その一言に、ヴェリティはまばたきをひとつした。
――ああ、そういうこと。
彼女は心の中で、どこか納得する感覚を覚えた。
努力の問題ではなく、環境の問題。あるいは、もっと根の深い「諦め」があるのだろう。
貧しい家庭。いつも冷たい家。帰っても休まらない場所。
そういう背景を、彼女は具体的には知らない。ただ、似たような匂いには覚えがあった。
「分かっていてもできないことがある、っていうのはその通りよ」
ヴェリティは、真鍮の計量スプーンを持ち上げながら言った。
「でも、『できない』って言葉は、時々、都合のいい盾にもなるわ」
「は?」
スネイプが眉をひそめる。
「何かをしようとする前に、『どうせ無理だ』って結論を出せば、失敗する痛みを味わわずに済むでしょう? 人から笑われるリスクも減る。あなたくらいの頭なら、その計算くらいしてるはず」
カウンターの上に並んだ材料のひとつ――干した根を、彼女は指先でつまむ。
それはひび割れて、もろくなっている。力を入れれば、すぐにぱりんと折れてしまいそうだ。
「ただ、そうやって自分を守っていると、同時に何かを失うのよ」
ヴェリティは、その根を慎重に刻みながら続ける。
「自分の外側を変えようとしても無駄だ、って考えに慣れた人は、やがて自分の内側も『変わらないもの』だと信じ始める。そうなると、あなたみたいに頭が良い人ほど、凝り固まった”正しさ”に呪われるの」
「……お前は、何様のつもりなんだ」
スネイプは、声を押し殺すように言った。
「聖人か? 正義の味方か?」
「違うわ」
ヴェリティはあっさり否定する。
「私はただ、自分の嫌いなものを観察してるだけ。そこにあなたが含まれてしまったのは、たまたまよ」
スネイプの目の色が、ほんの少し変わる。
傷ついたような、安堵したような、混じり合った感情。
「……お前も大概、傲慢だな」
彼はぽつりと言った。
「自覚はある」
ヴェリティは、火加減を確認しつつ頷いた。
「でも、その傲慢さを自分の内側にも向けてるから、まだ少しはマシだと思ってる」
二人はしばらく黙ったまま、手元の作業を進めた。
切る、量る、溶かす、かき混ぜる――ポーション作りの工程は、黙想に似ている。余計な言葉がそぎ落とされていく代わりに、沈黙の中で考えが深く沈んでいく。
「……お前、昨日のあれ」
沈黙を破ったのは、スネイプの方だった。
「ポッターやブラックに言ったこと、本気でそう思ってるのか」
「どの部分?」
「嫉妬だとか、整理が雑だとか」
スネイプは、かすかに口角を上げた。
「俺としては、あいつらにああいう言葉を浴びせるのは嫌いじゃないが」
「本気よ」
ヴェリティは、隣の大釜の様子を横目で見ながら言った。
「でも、あの場で言葉にしたのは、半分くらいね。残りの半分は、まだ材料の段階」
「材料?」
「ええ」
彼女は、自分たちの大釜の中で、ゆっくりと色を変えていく液体を見下ろした。
「何かを決めつけるのは簡単よ。『あいつは嫉妬してる』『あいつは臆病だ』って。でも、本当はもっと複雑に混ざり合ってる。あの二人の内側には、きっと私の嫌いなものだけじゃなくて、私が羨ましいと思うものも入ってるはず」
言いながら、彼女自身少し驚いていた。
自分の口から「羨ましい」という言葉が出てくるとは思っていなかったからだ。
「……たとえば?」
スネイプが問う。
「単純さ」
ヴェリティは考え込む。
「自分の感情を、そのまま外に出す力。間違っていても、とりあえず動ける鈍感さ。それは、私にはないものよ」
ジェームズが、少し離れた机で、ルーピンと何か言い合っている声が聞こえる。
笑い声の質。身振りの大きさ。あれは、世界が自分のために用意されていると疑わない人間の所作だ。
自分には、ああいう自然さはない。
そのことを自覚したのは、ずっと前――多分、まだホグワーツに来る前のことだった。
「……お前」
ふいに、スネイプが言った。
「自分のことも、そうやって解剖してるのか」
「もちろん」
ヴェリティは、少しだけ笑った。
「自分を分析しないで他人を分析するのって、楽しいけど危険でしょう? だから私は、自分にも同じメスを向けるのよ」
「気持ち悪いな」
スネイプは吐き捨てるように言ったが、その声には微かな好奇心が混じっていた。
「光栄だわ」
二人の大釜の中身は、教科書に載っている見本の色に近づきつつあった。
スラグホーンが、鼻歌交じりに各ペアの様子を見て回る。
「おお、これはこれは!」
彼はヴェリティたちの大釜の前で立ち止まった。
「見事だ、見事だ。ミスター・スネイプ、君の丁寧な技術と、ミス・エインズワースの冷静な手順管理が実にうまく噛み合っている!」
褒め言葉なのだろうが、「冷静な手順管理」という表現に、ヴェリティはどこか事務的な評価を感じた。
自分が「面白い」と言われるより、「便利」と言われる方が、なぜかざらついた感触を残す。
スラグホーンが満足げに頷いて去っていくのを見届けてから、スネイプが低く呟いた。
「……あんたみたいなのは、あそこでは人気者になる」
「『あそこ』って?」
「スラグ・クラブだ」
スネイプは、苦い笑みを浮かべる。
「スラグホーンのお気に入りの、宝石箱みたいな集まりさ。光っていると思われる石だけを集めて、磨いて、眺めて――」
「あなたも、その一つでしょう?」
ヴェリティは、彼を見た。
「魔法薬学の腕前。知識。冷静な判断力。スラグホーン先生が好きそうな要素、詰め合わせよ」
「俺は……」
スネイプは言いかけて、口をつぐむ。
「俺は、あそこでは珍しい標本だ。スリザリン出身で、闇の魔術に詳しくて、魔法薬学に天賦の才がある。そういう『面白さ』があるから、箱の隅に置いてあるだけだ」
「あなた、箱の外にも出られるわよ」
ヴェリティはさらっと言った。
「出る気があるなら、だけど」
「またそれか」
スネイプの眉が吊り上がる。
「外に出る気があるかどうかは、俺が決める。お前に指図される筋合いはない」
「でしょうね。」
ヴェリティは満足げに頷いた。
「だから今のは、単なる選択肢の提示よ。指図じゃない」
スネイプは、彼女をじろりと睨み、それからふいっと視線を逸らした。
それは負けではない。ただ、「これ以上踏み込ませたくない」という防衛線の引き直しだ。
だから、ヴェリティもそれ以上は追わない。
刃物は、必要以上に深く刺せば自分の手にも伝わってくる。血の温度も、相手の震えも。
彼女は、その感触に慣れたくなかった。