グリフィンドールであることが、気に食わない。 作:an-ryuka
夜の巡回を終えて塔に戻ってきたとき、ホグワーツはもうすっかり「寝息の時間」に入っていた。
階段の踊り場ごとに、肖像画たちが半分まぶたを落とし、遠くのどこかで時計が短く時を告げる。
グリフィンドールの入り口で「合言葉は?」と聞いてきた太った婦人は、いつもより一段低い声で欠伸を隠していた。
「蛙チョコレートは夕食の後で」
「……正解よ。さっさと入りなさい」
丸い額縁をくぐると、談話室の空気は一気に変わった。
◆
夜が深く沈むたびに、談話室の暖炉の音がはっきりと聞こえるようになる。
ぱち、ぱち、と薪がはぜる音が、ゆっくりとした呼吸みたいに一定のリズムで続く。赤い火の粉が、ときどきふっと宙を舞って、誰にも気づかれないうちにカーペットに落ちて消えた。
ヴェリティはソファの端に腰をかけ、膝の上でノートを開いていた。
ランプの光の下で、細い指がさらさらとペンを走らせる。
書いているのは課題……に見えるが、インクの列は「変身術」でも「闇の魔術に対する防衛術」でもなく、思考と感情の断片。
「古代魔術」の基礎とも呼べる思想を独自にくみ上げていた。
最後の行を書き終えたとき、不意に背後から声が降ってきた。
「リーマスは?」
ヴェリティは顔を上げる。振り返らなくても、声の主は分かった。
シリウス・ブラック。暖炉の火に照らされた銀灰色の髪が、焔と同じ色で揺れている。瞳だけが、暗い夜の獣みたいに光っていた。
この時間、まだ談話室に残っているのは珍しい。
「どこかへ寄ると言っていたわ」
「そうかよ」
シリウスはソファの背に腕をひっかけ、そのまま彼女の隣にどさりと腰を下ろした。
煙と焚き木の匂いに、彼が使っている香油だろう、シダーウッドの乾いた香りが混ざる。
ヴェリティは、ほんの少しだけ眉を動かした。
「私とお話でもしたいのかしら?」
「自分がどう見られているか、気になる?」
ノートを閉じながら、彼女は首を傾げる。
「違う。どう見られても平気だ」
シリウスは即答した。笑顔はいつも通り軽いが、その奥に小さな棘の影が見えた。
「平気な人は、わざわざそう言わないわ」
ヴェリティは、ノートを膝に伏せて彼の方へ向き直る。
「『どう見られても平気』って、誰かに言って聞かせて確認したくなる時点で、十分気にしてる証拠よ」
火の音が、ぱち、と少し大きく弾けた。
シリウスの眉間に、短い沈黙が走る。
「……どういう意味だよ、それ」
「あなたは強いように見えて、誰かがその『強さ』を信じてくれることでようやく形を保ってるの」
ヴェリティは静かに言葉を置いていく。
「ジェームズが『お前は最高だ』って笑ってくれる間は平気。でも、誰も見ていないところで、何をすればいいか分からなくなる」
シリウスが、ゆっくりと息を吐く。
笑おうとした口元が、少しだけ歪んだ。
「ずいぶん俺のこと知ってるみたいだな」
「知ってるわ。あなた、分かりやすいもの」
彼女は少しだけ肩をすくめる。
「面白いくらい」
「……へぇ。そりゃどうも」
声は皮肉っぽいが、瞳の奥はほんの少し揺れていた。
彼は視線を火の方に移し、低く笑う。
「で、次は何だ? また俺のスリザリン嫌いを掘り返す気か?」
「もう結論は出てるわ」
「そうかよ」
短い沈黙。
炎だけが、二人の間の空気を埋めている。
ヴェリティは、静かに立ち上がった。
ソファの背越しに見える、炎に照らされた彼女の横顔は、普段より少しだけ影が濃い。
「あなたの嫌悪って、結局は自己防衛なの」
彼女は暖炉越しに言う。
「スリザリンの何が怖いのか、自分でも知らないから『嫌い』で誤魔化してる」
「俺が怖い?」
シリウスはかすかに笑った。
「冗談きついな」
「怖いのよ」
ヴェリティは一歩、暖炉に近づく。
「だって、あの寮には『あなたの中にあるもの』が映っているから」
その瞬間、シリウスの瞳がぱっと彼女を捉えた。
息を飲んだような、喉の筋肉のわずかな動き。
ヴェリティは、一歩も引かない。
「あなたの中の闇は、あの寮の空気に似てるわ」
彼女の声は静かだ。
「あなた自身、それを知ってる。だから、嫌いなんでしょ。――自分に似てるから」
シリウスは、しばらく声を出さずに彼女を見つめた。
焔が瞳の奥を照らし、真紅の色を映す。
ゆっくり、彼が立ち上がる。
「……お前、ほんとに面倒くせぇ女だな」
「知ってるわ」
ヴェリティはさらりと返す。
「あなたみたいに単純に生きられたら楽なのに」
「単純?」
シリウスが一歩近づく。
距離が縮まり、暖炉の熱が二人の頬をまとめて炙る。
「俺のどこが単純なんだ」
「怒ったふりをするところ」
「ふり?」
「本気で怒る人は、そんな目をしないわ」
ヴェリティは、彼の瞳をじっと見上げる。
「あなた、誰かに見透かされるのが嫌なんじゃない。誰にも本気で見てもらえなかったのが、ずっと寂しかったの」
シリウスの喉が、ごくりと鳴る。
言葉を探しても、喉の手前で全部崩れ落ちていく顔。
「……違う」
やっと、それだけが漏れた。
「違う?」
ヴェリティは一歩、さらに踏み込む。
指先が、彼のローブの袖に届きそうな距離。
「じゃあ教えて。どこが違うの?」
シリウスの唇が開いて、閉じる。
代わりに、吐息だけがほんの少しヴェリティの頬にかかった。
炎が揺れて、彼の瞳の中にヴェリティ自身の姿が小さく映る。
――ああ、この人、今の自分を、自分の言葉で説明できないんだ。
胸のどこかで、冷静な観察者がそう呟いた瞬間、別の場所で何かがカチリと噛み合った。
自分を分かってほしいくせに、分かる言葉を持っていない。
分かってしまうかもしれない相手からは、反射的に身を引こうとするくせに、目だけは離せない。
その矛盾に、彼女は見覚えがあった。
――これは、分類するなら。
気づいた言葉が、そのまま口を突いて出た。
「……あなた、私に惚れてるの?」
空気の方が先に止まった。
火の音さえ、一瞬だけ消えたように感じる。
シリウスの表情が、固まった。
「……は?」
彼は間抜けな声を出す。
「な、何言って――」
「私も意外だったから、声に出たのよ」
ヴェリティは自分でも驚くほど穏やかに言う。
「でも、今のあなたを見て、確信したわ」
笑いたいのに笑えない顔。
否定したいのに、言葉がひとつも出てこない沈黙。
嫌悪と執着が、同じ場所で絡み合って行き場を失っている瞳。
「嫌悪と執着は、根が同じ。あなたは、自分を暴かれるのがいちばん嫌いなくせに、もっと話したい、もっと知ってほしいって顔をしてるもの」
言いながら、彼女の方が内心で眉をしかめた。
――面倒くさい。ほんとに。
シリウスの口は、何度か開いては閉じた。
「惚れてなんかねえ」と叫べばいいだけなのに、その一言が出てこない。そこに自分で引っかかって、さらに固まっているのが手に取るように分かる。
それが、「恋」の一種だと、ヴェリティは知っていた。
知識としても。経験としても。
同時に思う。今、私は、この人の自覚を一歩進めてしまった。
――こいつに惚れられて、いいこと、ひとつもないのに。
苦々しく唇を噛んだ瞬間、階段の方から声が飛んできた。
「ヴェリティー? まだ起きてるの?」
リリーの声だ。女子寮の階段の上から、赤毛がちらりと覗く。
ヴェリティははっとして、シリウスとの距離をすっと取った。
「ええ。今、寝ようと思ってたところ」
穏やかな声で返し、ランプを手に取る。
横目でシリウスを見ると、彼はまだ「惚れてる」の一言に脳が追いついていない顔をしていた。拳だけが、ぎゅっと握られている。
「おやすみなさい、シリウス」
ヴェリティは短くそう言い、明かりを彼の頬に一瞬だけ滑らせてから、階段へ向き直る。
シリウスの瞳は、何かを言いたそうに揺れたまま、結局ひと言も出てこなかった。
女子寮への階段を上がる途中で、ヴェリティは心の奥で小さく毒づく。
――面倒くさい。ほんとに。
でも、足取りはさっきまでより僅かに軽かった。
◆
シリウスは自分のベッドに腰を下ろし、毛布を乱暴に蹴り飛ばした。
ジェームズのベッドからは、規則正しい寝息が聞こえてくる。
ピーターは丸くなって、夢の中で何かをもごもご呟いていた。
ルーピンのベッドだけが空いている。図書室か、どこかの廊下か。
――あなた、私に惚れてるの?
ヴェリティの声が、耳の奥で何度もリピートする。
あの得意げな、けれど少しだけ苦そうな笑い。
首を傾げる角度。睫毛の影。全部が頭に張りついて剥がれない。
「……ちくしょう」
シリウスは髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「誰があんな女に……!」
吐き捨てたはずの言葉のあとに、胸の奥から湧き上がってきたのは怒りではなく、焦燥だった。
もう一度あの目で見られたい。
もう一度、あの理屈っぽい声でこき下ろされたい。
自分が何者か言い当てられて、反射的に反発して、でもどこかでほっとする、あの感じを。
――おい、それは普通、嫌うところだろ。
頭の中の別の自分が呆れた声を出す。
けれど、それに対してまともな反論は浮かんでこなかった。
枕に顔を埋めて、誰にも聞こえない声で呟く。
「……俺、本当に惚れてんのか?」
答えは、とっくに知っていた。