『ヒーローの値段』
怪人〈アスファル〉の咆哮が止んだのは、日曜の夕方五時を少し過ぎたころだった。
砕けたコンクリートの粒が、煙の中で白い雪のように舞っている。熱で歪んだ街路標識が、キィ、と猫の鳴き声みたいな金属音を上げた。鼻の奥に焦げとオゾンの匂い。ブレイヴマンは拳をゆっくり下ろし、静まった巨体を見下ろした。コアは確かに砕けた。止めは入れてある。これ以上、誰も死なせない。
「助かった……」「やったぞ……」
歓声は泡のように浮かんで、すぐに壊れた。
「また壊してる」「ビルの壁、うちのフロアだよ」「誰が弁償すんだ」
声の鋭さが、瓦礫より重く胸に沈む。十数回目だ。忘れようとしても、街は覚えている。“前にも似たことがあった”という記憶ごと、彼の背に貼り付いてくる。
マスクの中で、神原律は片呼吸ぶん目を閉じた。
怪人の一撃を逸らすために、壁面を一枚、前もって脆くしておいた。倒壊角度を読み、最も死者が出にくいルートを選んだ。数字の上では最小被害だ。
だが、数字はいつだって人の顔をしてくれない。
「正義の味方なんだろ? もっと早くできただろ!」
投げられたペットボトルが肩から転がって、破片にぶつかって止まった。
律は言い訳をしなかった。怒りの行き先を、自分が引き受けるべき瞬間があると知っている。
通信機が鳴る。「撤収だ、ブレイヴ。後処理はこっちでやる」
短く応答して、瓦礫の影を踏まずに帰路につく。踏めないのではない。もう踏みたくなかったのだ。
帰り際、救助隊に抱えられた少年が、咄嗟に手を伸ばした。
「お兄ちゃん、ありがとう」
掠れた声。律は一瞬だけ振り向き、小さくうなずいた。それだけで足が少し軽くなった気がしたが、群衆のざわめきがすぐに上書きした。
◇
翌朝、主要ニュースサイトのトップは揃っていた。
《ブレイヴマン、またも市街地を破壊》《市民負傷二十名、謝罪なし》
記事の枠外が、点滅するバナーとコメント欄の高速スクロールでにぎやかに見える。
〈まだ必要?〉〈怪人より被害出してね?〉〈税金泥棒〉〈いや昨日助かったのに何様〉〈#ブレイヴありがとう〉〈#ブレイヴやめろ〉
画面の向こうでは、見知らぬ誰かが彼の人格を組み立て直し、別の誰かがそれを壊す。
広報担当の若い女性がため息混じりに言う。「トレンド二つ、同時に上がってます。“ありがとう”と“やめろ”」
「二つで、ちょうどゼロだ」律は冷めたマグを唇に当てた。味はない。
「でも、ありがとうの方がリプ欄平和で……」
「平和な戦場は、戦場じゃないよ」
言葉が自分に刺さる。彼はスマホを伏せ、スーツの点検ユニットを見やった。赤いインジケータが脈拍みたいに点滅している。修理が必要なのは、装備だけじゃない。
「カミハラ」司令官が呼ぶ。「午後から現場検証が入る。メディアの取材は断るが、雑音は増えるぞ」
「雑音は、戦闘の一部です」
「そう言い切れるのは優秀な兵士だけだ。自分を人として扱うことを忘れるな」
“人”。その単語に、律はほんのわずかまばたきをした。
◇
現場検証は、テレビ局三社が生中継をしていた。黄色い立入禁止テープの向こう、レポーターが廃材を指差す。
「こちら、ブレイヴマンの一撃で抜けた壁面です。倒壊時刻は——」
そのときだ。観覧スペースの端で、誰かが声を上げた。
「うちの店、返してくれよ!」
別の声が重なる。「でも助かったんだろ! 文句言うなよ!」
「助かった? こっちは借金だけ残ったんだ!」
「じゃあ怪人が勝てばよかったのかよ!」
怒号は加速度的に増殖した。鼻息が熱くなり、肩がぶつかる音が厚みを持つ。プラカードが翻り、スマホが掲げられ、罵声のボキャブラリーが次々と投げ込まれる。
〈#壊すなブレイヴ〉の紙を掲げた年配男性の前に、〈#守ってくれてありがとう〉と書かれた手作りボードの女子高生が立つ。目が合う。沈黙が一秒、すぐに破れる。
「お前らは明日も飯が食えるんだろうが!」
「あなたが生きて文句言えてるの、誰のおかげ?」
腕が振り上がる。紙が破れる。スマホが石のように飛ぶ。
テレビのマイクが拾う。「やめろ、離れろ!」という警官の声と、浅く短い悲鳴。
群衆は二色に割れた旗のように押し合い、ねじれ、転げていく。誰かが転び、別の誰かが抱え起こす——それすらも、別陣営のジェスチャーに見えてしまうほどに。
詰所のモニターの前で、律は立ち尽くしていた。
〈ブレイヴを守れ!〉〈ブレイヴを許すな!〉
音量を下げても、文字は消えない。
「世論はいつだって割れる」隣の若い隊員が苦笑した。「ヒーローは宗教っすよ。教団と異端がセット」
「宗教には救いがある」律は言った。「これは、救いがどこにある?」
返事はなかった。若い隊員は「自販機行ってきます」と席を立った。行き先は飲み物ではない。逃げ場だ。
◇
夜。詰所からの帰途、歩道の白線が雨に滲んでいる。降ってはいないのに湿った匂いがした。街灯の影で、小さな背中がこちらを向いた。
「……ブレイヴマン、ですよね」
振り向いたのは昨日の少年ではない。眼鏡のずれた中学生くらい。手にはリングノート。
律は反射的にマスクへ手を伸ばしかけ、やめる。
「どうしてそう思う?」
「歩き方。ニュースで何回も見たから。あの肘の角度」
苦笑が漏れた。ここまで見ているなら、もう隠れるのは無意味だ。
少年はノートを差し出す。「サインください。父さん、昨日あの現場にいたんです。裏口から逃げるの、手伝ってくれたの、あなたでしょ」
「俺じゃないかもしれない」
「じゃあ、父さんの勘違いでもいい。お礼が言いたい」
律はサインを書いた。名前は“BRAVEMAN”、その下に小さく“律”。インクが紙に染みる速度と、胸の中の何かがやっと膨らむ速度が、少しだけ同期した気がした。
少年が帰る直前、振り向いて言った。「ニュース、見ない方がいいですよ。ぼく、今日コメント欄見て泣いたから」
律は頷いた。ニュースは戦況報告だ。だが、兵士はいつも地図を見て勝てるわけじゃない。
◇
それでも翌朝、見てしまう。
《乱闘続く「ブレイヴ賛否」》《負傷者七名》《警察が抑え込みもSNSで煽り拡散》
タイムラインは炎上の熱で波打っていた。
〈被害者の会発足〉〈支援者の会結成〉〈被害者の会を攻撃するな〉〈支援者の会が現場清掃に〉〈清掃のふりしてプロパガンダ〉
引用リプののぼり旗が、無数の軍勢みたいに連なる。昔の戦記を読んだとき、敵の旗が視界を埋め尽くす描写があった。今、旗は掌の中で増殖する。
DMの通知が三桁で点滅する。
〈あなたに救われた〉〈謝罪しろ〉〈死ね〉〈生きて〉〈会って話がしたい〉〈住所特定した〉〈嘘でした削除します〉
彼は一つも開かなかった。開かないことすら、誰かにとっては「冷酷」と読まれるのだろう。
午後、会見室。防衛局の広報が硬い言葉で読み上げる。「今回の事案に関し、当局としては再発防止と——」
記者席から手が次々に上がる。「ブレイヴマン本人の謝罪は?」「過去の戦闘でも同様の被害が」「人命と財産、どちらを優先したのか」
律は別室でモニターを見ている。壇上に立てば、言葉が刃物になって返ってくる絵がありありと浮かぶ。刃物を避ける訓練は受けてきた。だが、言葉にはセーフティがない。
司令官から短くメッセージが届く。「出なくていい」
「了解」——と打って、消す。
代わりに「いつまで?」と送る。
「お前が戻れると思うまで」
律はしばらく画面を眺め、やがてスマホを伏せた。戻れる場所とは、どこなのだろう。
◇
休養扱いはすぐ報じられた。
《ブレイヴマン、活動一時休止へ》《メンタルケア目的と説明》
記事の末尾に過去の戦闘リンクが連ねられる。〈三年前・港湾地区〉〈二年前・地下モール〉〈半年前・高架下〉。
それぞれのコメント欄は、その時点の怒りを保存した瓶詰みたいに生々しい。「過去の積み重ね」が、今を補強し続ける。
郊外のリハビリ施設の白い廊下を歩いていると、足音がやけに大きく響いた。
セラピストが柔らかく尋ねる。「あなたが、あなたの仕事を“正義”と呼ぶとき、誰の言葉を借りていますか」
「昔、街がまだ今ほど壊れていなかったころ、子どもに言われました。“ヒーローだ”って」
「では今、あなたが同じ言葉を自分に向けるとしたら?」
律は答えられなかった。沈黙が、床に落ちる。セラピストはそれを拾わず、ただ隣に置いた。
施設の窓から、遠い街の赤い点滅が見えた。サイレンはここまでは届かない。でも、身体は知っている。呼ばれている、と。
ベッドで浅く眠った夜明け前、ポケットの中のスマホがふいに震えた。通知ではない。手が勝手に掴んだ、幻肢みたいな動きだ。
彼は起き上がり、拳を握った。拳は誰も救わない。けれど、握らないと呼吸が浅くなる。
◇
数日が過ぎ、街は回復のふりをした。割れたガラスは一部交換され、ブルーシートが新しい風景になる。
そのブルーの下で、また小競り合いが始まった。
「清掃するなら静かにやれ」「こっちも被害者なんだよ」
「ヒーローを責めるの筋違い」「税金で片付けるんじゃねえよ」
誰かがライブ配信を始める。コメントが弾幕になって横切る。
〈殴った〉〈いや押しただけ〉〈被害届出せ〉〈警察なにしてんの〉〈ブレイヴ出てこい〉〈今いないらしい〉
配信者の息が荒い。画面が揺れる。
律は施設のテレビでそれを見た。
「俺のせいで殴り合うな」と言葉にしても、画面の向こうには届かない。音量をゼロにすると、余計に息遣いだけが脳内で増幅された。
そんなとき、受付に現れたのはあの中学生だった。許可を取って入ってきたらしい。制服の胸ポケットから、折りたたまれた紙を取り出す。
「父さん、仕事、戻れました。借りたもの、返します」
差し出されたのは小さな金属製のゼンマイだった。非常用扉の鍵が重くて開かず、律が腰のギアから外して補助に使ったもの——本当は返却不要と伝えていた。
「これ、あなたの」
律は受け取り、彼の手を見た。細いが、爪の縁に紙の切り傷がある。配達のバイトでもしているのかもしれない。
「ニュース、また揉めてるよな」
「はい。でも、ぼく、あれ見てて思うんです。喧嘩してる人たち、みんな“自分がちゃんと生きたい”って言ってるだけなんだって」
「そうだな」
「だったら、誰かが“じゃあ生きていいよ”って言ってくれるまで、喧嘩し続けるのかも。……ぼくは、それ、あなたに言ってほしい」
律は返事を探した。みつからなかった。代わりに、深く息を吸い、吐いた。呼吸のたび、胸の中の硬い鉛が少しだけ形を変える。
◇
夕暮れ。施設の屋上で、風がジャージの裾を鳴らす。遠景の街に、薄い煙が一本、まっすぐ上がった。
サイレンはまだ聞こえない。けれど、たぶん誰かがもう走り始めている。
律は手すりに両手を置き、指を開いた。掌に古い傷がある。過去の戦闘の数だけ、白く硬い線が増えた。
“積み重ね”は、いつか人を重くして動けなくする。でも同じ重さが、踏み出すときの錘にもなる。足場が脆いほど、重さで地面に爪が立つ。
ポケットの中で、返ってきたゼンマイが小さく触れ合って音を立てた。
「俺は——」
言葉が形になる。
「英雄じゃなくていい。けど、誰かが明日、喧嘩じゃなく挨拶で一日を始められるように、殴るのではなく運ぶために、もう一度だけ立つ」
誰に向けた宣言でもない。自分にしか届かない声。
階段へ向かう足は、驚くほど軽かった。
◇
夜が落ちる。街はいつだって誰かの敵で、同時に誰かの味方だ。
“ありがとう”と“やめろ”のあいだを吹く風の中へ、ブレイヴマンは戻っていく。
彼を待っているのが歓声か罵声か、そのどちらもか、あるいは沈黙かはわからない。
だが、たった一つわかっていることがある。
——そのどれにも、彼は傷つくだろう。
そして、傷ついたままで立つだろう。