気づいたときには、もう遅かった。
彼女の顔はすでに目の前にあった。
そして——見惚れてしまった。
とても可愛いと思った。
銀色の髪が月光を受けて輝き、真紅の瞳がこちらをまっすぐに見つめていた。
背は高く、168センチほどだろうか。自然と見上げる形になるその姿に、心を奪われた。
「見惚れましたか?」
「……ああ、見惚れてしまった」
可愛らしい声。けれど、その奥には確かな力強さがあった。
彼女はもう“陸翔”ではなかった。
本来の姿で、堂々と立っていた。
「私の姿、もう見せてしまいましたね。でも見惚れてくださったのなら、大成功です。ピース♪」
天然か?そう思わせるほどに、彼女は本気で言っていた。
というか、俺は何を口走ってるんだ!?
見惚れたって……恥ずかしすぎるだろ!
「……恥ずかしい……」
「君は本当に声に出やすいね。正直者は大好きです。それと、まだ謎解きは続いてますよ。私の名前、まだ答えてないじゃないですか?」
そうだった。俺はまだ彼女の名前を知らない。
「……ヒントをくれ。何も手がかりがない状態じゃ、答えようがないだろ?」
「船です」
「船?海を航海するための……?」
「はい。補足すると“方舟”です。人類や動物を洪水から守るために作られた船のことですよ。ふふ、これじゃほぼ答えを言ってるようなものですね」
方舟——それなら思い当たるのは一つしかない。
「ノアの箱舟……?」
「正解です、零さん。正確には“ノア”っていう部分なんですけどね。改めましてこんにちは。私は神祇官ノアといいます。覚えてくださいね?」
神祇官ノア。
旧約聖書に登場する“ノアの箱舟”から取られた名前。
それが彼女の名だということに、驚きを隠せなかった。
「……俺は錦川零。特にこれといった特徴もない、普通の男子高校生だ」
「普通の男子高校生なら、こんな場所には来ないし、シャドウだって見えないですよ」
……気づかないふりをしていたのに。
「なぁ、神祇官さん——」
「ノアって呼んで」
「……ノアさん、ここは一体どこなんだ?さっきまで俺が乗っていた電車とは違う場所のようなんだが」
確かに、さっきまでは普通の電車の中だった。
けれど今、目の前に広がるのは近未来的な空間。
外を見れば、いつの間にか夜になっていた。
不思議に思うよりも先に、月が綺麗だと思った。
「入れ替わったんだよ。さっきまでいた世界と、今いる世界と」
「入れ替わった?何を言ってるんだ?そんなファンタジーみたいなこと……」
これは夢だ。そう思いたかった。
でも——
「だから夢だと思ったんですか?」
思っていたことが、すぐに見透かされる。
そして彼女は言った。
「目を背けないでください。もうすでにここは“奴ら”の棲家ですよ」
“奴ら”?
その疑問が浮かんだ瞬間——
ドゴォーーーーーーーーーーーーーーッ!!
爆発音が響いた。
耳をつんざくような音。
目を向けると、そこにはこの世のものとは思えない怪物がいた。
「シャドウ。生命を喰らい、表の世界に厄災をもたらそうとするもの。このシャドウは、一番弱いとされる“サイゴート”ですね」
「シャドウ?サイゴート?ノア、いったい何を知ってるんだ!?」
「知っていることしか知りません。それ以上でも以下でもない。ただ、今目の前にいるあいつは“敵”ということだけは分かってください。なので——」
「なので?」
「逃げますよ!」
ノアが駆け出す。
同時に、怪物がこちらに向かって走ってきた。
俺もノアの後を追って走り出す。
どれだけ走ればいいんだ——そう思っていたその時。
「止まってください!」
突然の声。
戸惑う間もなく、目の前からもう一体の怪物が襲いかかってきた。
咄嗟に前転して躱す。
体勢を整え、ノアの位置を確認する。
今回は運良く避けられた。
でも次はもうないかもしれない。
「零!そっちの状況は?」
「全く大丈夫じゃねぇ!どうにかする方法はないのかよ!」
「昔の私なら、この程度どうにかできたんですけどね」
「今は!?」
「無理です!でも、契約さえ行えば……」
契約——その言葉に、危険な響きを感じた。
「方法は!?どうすればいいんだ!?」
その時、怪物たちは標的を俺からノアへと変えた。
彼女は、まるで死を受け入れるように立っていた。
——また目の前で誰かが殺される?
出会ったばかりの彼女を見捨てることもできた。
でも、いや、きっと、必ず——
この行動に後悔はなかった。
「ノアーーーーーッ!!」
彼女の手を掴む。
間に合わない。
引き寄せる。
間に合わない。
避けようとする。
間に合わない。
なら——
「俺の腕をくれてやる!!」
激痛が走る。
痛い、痛い、痛い……
それでも俺は叫んだ。
「脚でも腕でもなんでもくれてやる!だから俺と契約をしろ、ノア!!」
生きるために。
死なないために。
俺は契約を選んだ。
「やっぱり運命だった。ありがとう、零。私はまたこうして生きていける」
ノアは、初めて本当の笑顔を見せた。
「汝の名を呼べ——
我が名は神和・ノア
すべての神を喰らわんとするもの
すべての厄災に終止符を打つものなり
汝の願いは?」
「俺は——生きたい!!」
その瞬間、風が巻き起こる。
光が溢れ、俺はその光に手を伸ばした。
掴む。
力が流れ込む。
激痛が全身を駆け巡る。
耐える。絶える。堪える。
これがなければ、生きられないと本能が告げていた。
「体の力を抜いてリラックスして。その力はあなたの心の力なの。だから、自分の一部として使って」
言われた通りに意識する。
痛みが嘘のように引いていき、力がさらに強くなっていくのを感じた。
そして——自分が何をすべきかを理解した。
「すごい……もう自分自身の武器を形作ることができるなんて」
刀を作った。
だが、腕は怪物に持っていかれている。
「大丈夫。安心して。そのまま目の前のサイゴートに集中して」
なぜだろう。
ノアのその一言だけで、心が落ち着いた。
刀を両手で握り、一閃。
怪物は真っ二つに斬られ、命を脅かしていた存在は儚く消えた。
「まだだ……」
そう呟いた瞬間、外から新たな敵が現れた。
空から飛来する異形の怪物たち。
ノアは銃のような武器を手に、次々と敵を撃ち落としていく。
だが、彼女の攻撃を免れた者たちがこちらに迫ってくる。
俺は、認識される前に斬る。
斬る。斬る。斬る。
何度目かの攻防の末、すべての敵は地に落ちた。
そこに残ったのは——
力を手に入れた男と、力を与えた女。
ただ、二人だけだった。
男は、度重なる戦闘の疲れから、その場で意識を落とした——。