夜の街は、まるで壊れかけた映画のフィルムみたいに、ノイズばかりが目についた。
雨が路面に叩きつけられ、ネオンの光が滲む。
人々は誰もが傘の下に隠れ、他人の存在など気にも留めない。
その中を、青年は一人、足を引きずるように歩いていた。
「……もう、何も信じられない」
声は雨音にかき消される。
信頼していた唯一の人間に裏切られた。
長年積み上げてきた努力も、友情も、金も、全部。たった一つの裏切りで瓦解した。
残ったのは空っぽの心と、どうしようもない虚無感。
生きる理由なんて、もうどこにもない。
気づけば、街の明かりが遠ざかっていた。
足元は泥にまみれ、どこかの廃トンネルへと続いている。
もう戻る気も起きなかった。
――その時だった。
「ねぇ、貴方。死にたいの?」
ふいに、背後から声がした。
女の声。
振り返ると、そこに立っていたのは一人の女性だった。
紫色の瞳。金色の髪。
日傘を肩にかけ、まるで夜そのものをまとっているような存在感。
「……誰だ、お前」
「誰だなんて、野暮ねぇ。そうね――八雲紫、とでも呼んでちょうだい」
彼女は微笑む。その笑顔は美しく、どこか人の理を外れていた。
見上げると、トンネルの奥がわずかに歪んでいる。まるで現実と夢の境界が滲んでいるように。
「貴方、壊れてるのね」
「……放っておけ」
「でも、完全には壊れてない。ほんの少し、残っているわ。“生きたい”って気持ちが」
紫の声は静かに、けれど深く響いた。
その言葉が、氷のように固まっていた心を少しだけ揺らした。
「……どうして、そんなことがわかる」
「簡単よ。貴方、泣きそうな顔をしてるもの」
彼女はゆるやかに扇を開き、空間に一筋の裂け目を描いた。
その向こうには、薄い光と、桜の花びらのようなものが舞っている。
「ねぇ。世界の“境界”を越えてみない?」
「境界……?」
「ええ。この世に絶望したなら、次は幻想を見てみるといいわ」
その言葉の意味もわからないまま、青年は一歩を踏み出した。
気づけば視界が白く染まり、風が頬を撫でた。
目を開けた瞬間、空気が違った。
柔らかく湿った風、微かに香る桜の匂い。
地面は苔むした石畳。遠くには巨大な桜の樹が、霞の中にぼんやりと立っていた。
――ここは、どこだ。
「……人?」
声に振り向くと、そこに一人の少女がいた。
白と緑を基調とした服、腰には二本の刀。
髪は月光のような銀色で、瞳は淡い翠。
「えっと……あなた、どこから来たんですか?」
少女は竹箒を手にしていた。掃除の途中だったのか、足元には散った花びらがいくつも積もっている。
「……さあ。気づいたら、ここにいた」
「そう、ですか……。ここは白玉楼という場所です。霊たちの住む屋敷なんです」
少女は警戒しながらも、声の調子は穏やかだった。
その礼儀正しい立ち居振る舞いに、不思議な安心感があった。
「俺は……人間、だと思う」
「“だと思う”?」
少女が首を傾げる。
その仕草が、なぜか心に刺さった。
「……記憶が、少し曖昧なんだ」
「そうですか。なら、しばらくここで休んでいってください」
そう言って、少女は小さく微笑んだ。
その笑顔はほんの一瞬だったが、彼の胸の奥に確かな温もりを残した。
「私は魂魄妖夢。白玉楼の庭師をしています」
「……妖夢、か」
「はい。あなたのお名前は?」
「……わからない」
妖夢は少し驚いた顔をしたが、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、静かに頷き、視線を彼に向けた。
「名前がないなら、思い出すまで“お客さん”でいいですね」
「客……俺みたいなのがか?」
「ええ。困っている人を放っておくのは、庭師としても……人としても気持ちが悪いので」
彼女はそう言って、くすりと笑った。
その笑顔が眩しくて、思わず視線を逸らす。
「……優しいんだな」
「優しい、ですか? そんなつもりはありません。……ただ、あなたの顔を見ていたら、放っておけなくて」
その言葉に、胸が少し痛んだ。
今まで、そんなふうに“気にかけてくれる”人間はいなかった。
「幽々子様にも報告しておきます。きっと、面白がって歓迎してくださいますよ」
「幽々子……?」
「白玉楼の主です。とても穏やかで、少し変わった方なんです」
妖夢は竹箒を脇に置き、手のひらを差し出した。
「立てますか?」
「……ああ」
彼はその手を取った。
小さな手。けれど驚くほど温かい。
その温もりが、冷え切っていた心を少しずつ溶かしていくようだった。
「不思議な人ですね」
「よく言われる」
「ふふ……そうでしょうね」
妖夢がそう言って笑った時、霧の向こうで桜が舞った。
風が吹き抜け、花びらが二人の間を舞い上がる。
その光景が、まるで遠い夢のように美しかった。
――この日、幻想郷に迷い込んだ一人の青年は、
白玉楼の庭で一人の少女と出会った。
それは、傷ついた心に再び“生きる意味”を見出す物語の始まりだった。
桜の香りと、柔らかな笑顔と共に。