白玉楼――それは、春の中に取り残された屋敷だった。
満開の桜が年中散り続ける庭、淡い霧が立ちこめる回廊。
そのすべてが静かに時間を止めている。
朝も夜も曖昧な光の中、風だけがかすかに季節を運んでいた。
青年は、その白い世界の中を妖夢に導かれて歩いていた。
「……ここが、白玉楼」
「はい。亡霊たちが安らぐ場所です。けれど、怖がらなくて大丈夫ですよ」
妖夢は振り返りながら微笑んだ。
その笑顔は柔らかいが、どこか無理をしているようにも見える。
「人間が来るのは、珍しいんです」
「……俺が、最初か?」
「いえ、昔は何人かいたと聞いています。でも――今は、ほとんど」
言葉を濁し、妖夢は前を向いた。
歩みの先に、白い階段が見える。その上には、どこか幻想的な屋敷。
欄干の向こうでは、霊たちが静かに漂っていた。
不思議と、恐怖はなかった。
むしろ、現世よりも穏やかに感じた。
死と隣り合わせなのに、どこか生々しく、温かい。
「……綺麗な場所だな」
思わず漏らすと、妖夢が少し驚いたように振り向いた。
「そう、思いますか?」
「ああ。死の匂いより、生の残り香がする」
「……ふふっ。幽々子様が聞いたら、きっと喜びます」
妖夢の表情がわずかに緩んだ。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなる。
彼女が笑うたびに、凍った何かが少しずつ融けていくようだった。
屋敷の中は静まり返っていた。
風鈴のような音がどこからか響き、淡い桜の香りが漂っている。
妖夢は主人の部屋の前で立ち止まり、軽く扉を叩いた。
「幽々子様、妖夢です。お客様をお連れしました」
返事はなかったが、代わりにふわりと扉が開いた。
中には、薄桃色の着物をまとった女性が座っていた。
その髪は雪のように白く、瞳はどこか遠い光を映している。
「まぁ、珍しいわねぇ。人間の匂いがすると思ったら」
西行寺幽々子――白玉楼の主。
その微笑は、まるで春風のように穏やかだった。
「初めまして。貴方、少し変わった魂をしているわね」
「……魂、ですか」
「ええ。とても“生きたがっている”のに、同時に“消えたがってもいる”。まるで迷子みたい」
幽々子の言葉に、胸の奥が疼いた。
彼女の声は柔らかいのに、心の奥まで透かされるような感覚があった。
「この人、紫様に拾われたそうです」
妖夢が補足するように言うと、幽々子は扇を軽く動かし、目を細めた。
「あら、紫の紹介なら安心ね。あの子、時々気まぐれに“欠けた人間”を拾ってくるのよ」
「……欠けた人間?」
「そう。何かを失った人。心のどこかが空洞になっている人」
幽々子の言葉に、反論できなかった。
確かに、自分はもう“人間としての何か”を失っている。
「だけどね、欠けたままでも美しいのよ」
幽々子はそう言って、微笑んだ。
「人も妖も、みんな不完全だからこそ、幻想に惹かれるの」
その言葉が、なぜか静かに胸に染みていった。
その後、妖夢が茶を淹れた。
幽々子は茶を一口すすり、満足そうに目を細めた。
「妖夢、今日のは香りがいいわね」
「はい。お客様のために、少し良い葉を使いました」
「ふふ、優しいのね。……ねぇ貴方、どう思う?」
突然話を振られ、青年は少し戸惑う。
湯呑の中で茶葉がゆらめいている。
淡い香りが心を落ち着かせた。
「……温かいです。こんなふうに、人の淹れたお茶を飲むのは、いつ以来だろう」
その言葉を聞いた妖夢の手が、わずかに止まった。
彼女の表情に、一瞬だけ寂しさのようなものが過った。
「……寂しい世界だったんですね、向こうは」
「そうかもしれない」
茶を口に含みながら、青年は微笑んだ。
久しぶりに、自分の声が少しだけ柔らかく聞こえた気がした。
その夜。
月が霧に覆われ、白玉楼は淡い蒼に染まっていた。
妖夢は縁側に座り、剣を磨いていた。
青年は庭を眺めながら、ふと声をかけた。
「ずっと刀を持ってるんだな」
「はい。これが私の仕事ですから」
「庭師なのに?」
「庭師だからこそ、です。白玉楼の庭は“死”と“静寂”の境界。護る者が必要なんです」
そう言って、妖夢は刀を鞘に戻した。
月光が刃に反射し、彼女の横顔を照らす。
「あなたは……その力、使わないんですか?」
「力?」
「ええ。紫様が言っていたでしょう。『獣を司る者』だと」
青年は目を伏せた。
あの時――紫から与えられた力。
人間離れした、恐ろしくも美しい変化。
「……使う気になれない」
「どうしてです?」
「怖いんだ。あれを使えば、自分がどこまで“人間”でいられるかわからない」
妖夢はしばらく黙っていた。
夜風が吹き、桜の花びらが一枚、青年の肩に落ちた。
「私は、あなたが人間でも獣でも、きっと変わらないと思います」
「……え?」
「どんな姿でも、“心”が残っている限り、あなたはあなたです」
その言葉は、まるで祈りのようだった。
青年の胸に、長い間閉ざされていた何かが、静かに溶けていく。
「……ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃありませんよ」
「いや、本当に……ありがとう」
妖夢は少し顔を赤らめ、視線を逸らした。
「お、お礼なんていりません。……私はただ、当然のことを言っただけですから」
そう言って、彼女は立ち上がり、竹箒を手にした。
「そろそろ休みましょう。明日は、桜の剪定がありますから」
「ああ」
妖夢が去っていく背中を見つめながら、青年は小さく息を吐いた。
その胸の奥には、ほんの僅かに“生きる熱”が戻り始めていた。
白玉楼の夜は静かだ。
けれど、桜の花びらは絶えず舞い続ける。
まるで――止まった時の中で、誰かの心だけが少しずつ動いているかのように。
幽々子は縁側の影から二人を見つめ、静かに微笑んだ。
「ふふ……いい風が吹いているわね、妖夢」
その声は風に溶け、夜桜の下に消えていった。