白の庭、獣の夢   作:八意 妖狸

3 / 7
獣の記憶

 

 幻想郷に来て、どれくらい経ったのだろう。

 空気は柔らかく、風はどこまでも澄んでいる。

 けれどこの地の“穏やかさ”は、決して平穏を意味しない。

 

 ここでは、人も妖も、生も死も、はっきりとした境界を持たない。

 “幻想”として在ることが、存在の証――それが、この世界の理(ことわり)だと妖夢は言った。

 

 「ここは、現世で居場所を失ったものが流れ着く場所なんです」

 白玉楼の庭で、妖夢はいつものように竹箒を持ちながら語る。

 桜の花が舞い、幽霊たちがその間を静かに漂っていた。

 

 「妖怪も、人間も、死者も。みんな何かを抱えている。でも……だからこそ、ここでは誰もが“生きていられる”」

 「幻想であっても、生きている……か」

 

 青年は空を見上げた。

 霧の向こうに見える青空が、どこか現実味を帯びていない。

 夢のような、しかし確かに触れられる世界。

 

 ――幻想郷。

 

 かつて彼がいた現世よりも、ずっと“現実的”な幻想の国。

 

 

---

 

 その日の午後。

 妖夢は青年を白玉楼の裏庭へ連れてきた。

 広い庭の中心には大きな桜の古木があり、周囲には誰もいない。

 

 「さて。そろそろ本格的に、あなたの“力”を見せてもらいましょうか」

 「……本格的に?」

 「ええ。訓練です。いつまでも“ただの人間”じゃ、この先やっていけませんから」

 

 妖夢の表情は真剣だった。

 腰に佩いた楼観剣と白楼剣が、月光を反射して鈍く光る。

 

 「俺の力……“獣を司る程度の能力”。けど、正直、どう扱えばいいのかもわからない」

 「その力、紫様が与えたものですよね?」

 「ああ。説明はほとんどなかった。ただ――どんな獣にも“なれる”とだけ」

 

 妖夢は腕を組み、少し考えるように目を細めた。

 

 「つまり、あなたの“想像力”と“感情”が鍵になるということです」

 「想像と感情……?」

 「はい。獣は理性ではなく本能で動きます。あなたが何を求め、何を恐れ、何を護りたいか――その心が形になる」

 

 彼女の言葉に、青年は小さく息を呑んだ。

 “護りたい”という感情……。

 そんなもの、もう自分の中には残っていないと思っていた。

 

 「では、試してみましょう」

 

 妖夢は一歩下がり、刀を抜いた。

 鋭い音が空気を裂く。

 

 「え、ちょ、ちょっと待て。いきなり斬る気か?」

 「ええ。手加減はしますから安心してください」

 「安心できるか!」

 

 妖夢は微笑んだ。

 その微笑には、どこか楽しげな色があった。

 

 「大丈夫です。怪我をしても、幽々子様が治してくださいますから」

 「余計怖い!」

 

 それでも、青年は構えを取った。

 拳を握ると、指先に熱が集まる。

 胸の奥に、獣の咆哮のような鼓動が響いた。

 

 

---

 

 「いきます!」

 

 妖夢が地を蹴った。

 瞬間、視界から消える。風が一閃、頬を掠めた。

 

 ――速い!

 

 反射的に身を引く。

 刀の軌跡が目の前を掠め、髪の先を切り裂いた。

 

 「見えてますね。さすがは紫様のお眼鏡にかなった方」

 「褒めてる場合かっ……!」

 

 次の瞬間、妖夢の姿が左右にぶれた。

 分身のように残像を残しながら、四方八方から斬撃が迫る。

 

 心臓が跳ねる。

 視界が狭まり、時間が伸びるように遅く感じた。

 

 ――逃げたい。

 ――いや、抗いたい。

 

 その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

 

 身体が熱を帯び、指先が黒く変化していく。

 爪が伸び、皮膚が硬質化する。

 筋肉が盛り上がり、血管が獣のように脈打つ。

 

 黒い毛並みが腕を覆い、月光を受けて青黒く光った。

 それは――**黒豹(くろひょう)**の前脚を思わせる形。

 滑らかで、しなやかで、しかし一撃の重みは岩を砕くほどの力を宿していた。

 

 「……ッ!」

 

 妖夢の刀が振り下ろされる。

 青年は咄嗟にその獣腕で受け止めた。

 金属音が鳴り、火花が散る。

 

 「なっ……!」

 

 妖夢が驚愕する。

 黒豹のような腕が白楼剣を弾き返し、地面に深い爪痕を刻む。

 空気が唸り、獣の息づかいがその場を満たした。

 

 「……これが、俺の力」

 息を荒げながら、青年は呟く。

 

 「すごい……本当に、獣そのものですね」

 「でも……制御が、難しい……!」

 

 力が暴れ出す。

 心臓が早鐘を打ち、理性が少しずつ溶けていく。

 視界の端が赤く染まる。

 

 ――狩れ。

 ――敵を屠れ。

 

 脳裏に響くのは、黒豹の本能。

 しなやかで、静かで、だが殺意の塊のような“狩りの衝動”が、理性を喰らおうとしていた。

 

 「……ッ、やめろ!」

 

 青年は自らの腕を掴み、地面に叩きつけた。

 土煙が上がり、爪が砕け散る。

 

 妖夢が慌てて駆け寄る。

 「もういい! それ以上は危険です!」

 「だい、じょうぶだ……制御は、できる……!」

 

 彼は深呼吸を繰り返した。

 徐々に黒い獣の腕が人の形へと戻っていく。

 額から汗が流れ、呼吸が荒い。

 

 「……本能の暴走、ですか」

 「そうだ。理性が負ければ、俺はただの“獣”になる」

 「でも、今は戻れました」

 「……妖夢が、声をかけてくれたからだ」

 

 妖夢は目を瞬かせ、そして、ゆっくりと微笑んだ。

 

 「なら、きっとあなたは大丈夫です」

 「そう思うか?」

 「はい。獣が“護るために牙を剥く”なら、それは人の心と同じです」

 

 その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。

 

 「……ありがとう。怖かったけど、少し、わかった気がする」

 「何がです?」

 「この力は、呪いじゃない。“誰かを護るため”に使うものだって」

 

 妖夢は静かに頷いた。

 「ええ。その気持ちがあれば、きっと大丈夫です」

 

 

---

 

 その夜、白玉楼の桜は一段と強く咲き誇っていた。

 幽々子は縁側で茶を飲みながら、二人を遠くから見つめていた。

 

 「ふふ、若いわねぇ」

 

 桜の花びらが幽々子の肩に落ち、すぐに消える。

 その目はどこか懐かしさと優しさを湛えていた。

 

 「紫が拾ってきた人間……やっぱり面白いわ。

  あの子、獣の力を持つというより……“心”が獣みたいね」

 

 桜が静かに舞う。

 幽々子の扇が閉じられ、夜風が白玉楼を撫でていった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。