幻想郷に来て、どれくらい経ったのだろう。
空気は柔らかく、風はどこまでも澄んでいる。
けれどこの地の“穏やかさ”は、決して平穏を意味しない。
ここでは、人も妖も、生も死も、はっきりとした境界を持たない。
“幻想”として在ることが、存在の証――それが、この世界の理(ことわり)だと妖夢は言った。
「ここは、現世で居場所を失ったものが流れ着く場所なんです」
白玉楼の庭で、妖夢はいつものように竹箒を持ちながら語る。
桜の花が舞い、幽霊たちがその間を静かに漂っていた。
「妖怪も、人間も、死者も。みんな何かを抱えている。でも……だからこそ、ここでは誰もが“生きていられる”」
「幻想であっても、生きている……か」
青年は空を見上げた。
霧の向こうに見える青空が、どこか現実味を帯びていない。
夢のような、しかし確かに触れられる世界。
――幻想郷。
かつて彼がいた現世よりも、ずっと“現実的”な幻想の国。
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その日の午後。
妖夢は青年を白玉楼の裏庭へ連れてきた。
広い庭の中心には大きな桜の古木があり、周囲には誰もいない。
「さて。そろそろ本格的に、あなたの“力”を見せてもらいましょうか」
「……本格的に?」
「ええ。訓練です。いつまでも“ただの人間”じゃ、この先やっていけませんから」
妖夢の表情は真剣だった。
腰に佩いた楼観剣と白楼剣が、月光を反射して鈍く光る。
「俺の力……“獣を司る程度の能力”。けど、正直、どう扱えばいいのかもわからない」
「その力、紫様が与えたものですよね?」
「ああ。説明はほとんどなかった。ただ――どんな獣にも“なれる”とだけ」
妖夢は腕を組み、少し考えるように目を細めた。
「つまり、あなたの“想像力”と“感情”が鍵になるということです」
「想像と感情……?」
「はい。獣は理性ではなく本能で動きます。あなたが何を求め、何を恐れ、何を護りたいか――その心が形になる」
彼女の言葉に、青年は小さく息を呑んだ。
“護りたい”という感情……。
そんなもの、もう自分の中には残っていないと思っていた。
「では、試してみましょう」
妖夢は一歩下がり、刀を抜いた。
鋭い音が空気を裂く。
「え、ちょ、ちょっと待て。いきなり斬る気か?」
「ええ。手加減はしますから安心してください」
「安心できるか!」
妖夢は微笑んだ。
その微笑には、どこか楽しげな色があった。
「大丈夫です。怪我をしても、幽々子様が治してくださいますから」
「余計怖い!」
それでも、青年は構えを取った。
拳を握ると、指先に熱が集まる。
胸の奥に、獣の咆哮のような鼓動が響いた。
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「いきます!」
妖夢が地を蹴った。
瞬間、視界から消える。風が一閃、頬を掠めた。
――速い!
反射的に身を引く。
刀の軌跡が目の前を掠め、髪の先を切り裂いた。
「見えてますね。さすがは紫様のお眼鏡にかなった方」
「褒めてる場合かっ……!」
次の瞬間、妖夢の姿が左右にぶれた。
分身のように残像を残しながら、四方八方から斬撃が迫る。
心臓が跳ねる。
視界が狭まり、時間が伸びるように遅く感じた。
――逃げたい。
――いや、抗いたい。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
身体が熱を帯び、指先が黒く変化していく。
爪が伸び、皮膚が硬質化する。
筋肉が盛り上がり、血管が獣のように脈打つ。
黒い毛並みが腕を覆い、月光を受けて青黒く光った。
それは――**黒豹(くろひょう)**の前脚を思わせる形。
滑らかで、しなやかで、しかし一撃の重みは岩を砕くほどの力を宿していた。
「……ッ!」
妖夢の刀が振り下ろされる。
青年は咄嗟にその獣腕で受け止めた。
金属音が鳴り、火花が散る。
「なっ……!」
妖夢が驚愕する。
黒豹のような腕が白楼剣を弾き返し、地面に深い爪痕を刻む。
空気が唸り、獣の息づかいがその場を満たした。
「……これが、俺の力」
息を荒げながら、青年は呟く。
「すごい……本当に、獣そのものですね」
「でも……制御が、難しい……!」
力が暴れ出す。
心臓が早鐘を打ち、理性が少しずつ溶けていく。
視界の端が赤く染まる。
――狩れ。
――敵を屠れ。
脳裏に響くのは、黒豹の本能。
しなやかで、静かで、だが殺意の塊のような“狩りの衝動”が、理性を喰らおうとしていた。
「……ッ、やめろ!」
青年は自らの腕を掴み、地面に叩きつけた。
土煙が上がり、爪が砕け散る。
妖夢が慌てて駆け寄る。
「もういい! それ以上は危険です!」
「だい、じょうぶだ……制御は、できる……!」
彼は深呼吸を繰り返した。
徐々に黒い獣の腕が人の形へと戻っていく。
額から汗が流れ、呼吸が荒い。
「……本能の暴走、ですか」
「そうだ。理性が負ければ、俺はただの“獣”になる」
「でも、今は戻れました」
「……妖夢が、声をかけてくれたからだ」
妖夢は目を瞬かせ、そして、ゆっくりと微笑んだ。
「なら、きっとあなたは大丈夫です」
「そう思うか?」
「はい。獣が“護るために牙を剥く”なら、それは人の心と同じです」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……ありがとう。怖かったけど、少し、わかった気がする」
「何がです?」
「この力は、呪いじゃない。“誰かを護るため”に使うものだって」
妖夢は静かに頷いた。
「ええ。その気持ちがあれば、きっと大丈夫です」
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その夜、白玉楼の桜は一段と強く咲き誇っていた。
幽々子は縁側で茶を飲みながら、二人を遠くから見つめていた。
「ふふ、若いわねぇ」
桜の花びらが幽々子の肩に落ち、すぐに消える。
その目はどこか懐かしさと優しさを湛えていた。
「紫が拾ってきた人間……やっぱり面白いわ。
あの子、獣の力を持つというより……“心”が獣みたいね」
桜が静かに舞う。
幽々子の扇が閉じられ、夜風が白玉楼を撫でていった。