夜の白玉楼は、昼とはまるで違う顔を見せる。
月光に照らされた桜は淡く光り、花びらが風に舞うたびに、夜気がほんのりと桜の香りを運んだ。
幽霊たちの群れが漂い、静かな音もなく花の間を渡っていく。
その中を、一人の青年が歩いていた。
先ほどの訓練で、まだ身体の奥に残る熱が抜けきらない。
獣の力を使うたびに、あの「黒い衝動」が胸の奥で蠢くのを感じる。
――本能に飲まれる。
あの感覚は、恐怖に近かった。
彼は拳を握りしめる。
指先には、まだ黒豹の爪の名残のような違和感があった。
「……“護るために使う”か」
妖夢の言葉が、頭の中で何度も反響する。
護る――そんなことを考えたのは、いつぶりだろう。
かつての現世では、裏切られ、失い、信じることすらやめてしまった。
自分自身さえも。
けれど、この幻想の地で出会った少女は、まっすぐに自分を見つめてくれた。
偽りも恐れもない瞳で。
ふと顔を上げると、桜の木の下に妖夢の姿があった。
白い髪が月光を受けてきらめき、淡い夜風にふわりと揺れる。
その横顔は、まるでこの世のものではないほど儚く見えた。
「眠れませんか?」
青年に気づいた妖夢が、静かに声をかける。
「少し、頭を冷やしたくて」
「……私もです。訓練のあと、どうしても胸がざわついて」
二人はしばし、桜の下で並んで立った。
幽霊の灯りが、まるで蛍のように漂う。
その光の中で、妖夢の表情はどこか寂しげだった。
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「この桜……見事だな。まるで生きてるみたいだ」
青年の言葉に、妖夢は少し微笑む。
「“生きている”というのは、あながち間違いでもありませんよ」
「え?」
妖夢は桜を見上げた。
その花は淡く、まるで幽霊が形を取ったように、光をまとって揺れている。
「この桜の名は――西行妖(さいぎょうあやかし)。
人の魂を喰らい、永遠に咲き続ける妖樹です」
青年は思わず息を呑む。
「魂を……喰らう?」
「ええ。かつて、この地にいたある亡霊の姫が、この木に自らの魂を縫い止めたのです。
それ以来、この桜は春を越えても散ることなく、幽々子様と共に在り続けている――」
妖夢の瞳は、月光の中でどこか遠くを見ていた。
「西行妖は、“死と再生”の象徴でもあります。
この花が咲く限り、幽々子様はこの世に留まり続ける。
だから、私はこの桜を護り続けているんです」
「……死を抱えた桜、か」
「はい。けれど、美しいでしょう?」
妖夢は静かに微笑んだ。
その微笑は、どこか切なく、しかし不思議な温かさがあった。
「私は半人半霊。
この桜と同じように、“生”と“死”の間に立つ存在です。
どちらにも寄り切れず、ただこの場所で――揺れている」
「……それでも、お前は綺麗だ」
青年の言葉に、妖夢は驚いたように瞬きをした。
だがすぐに、頬をほんのりと染めて目を逸らす。
「……もう、そういうことを突然言わないでください」
「本心だよ」
「……知ってます」
静かに笑い合う二人の間を、桜の花びらが舞い抜けていった。
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「怖くなかったのか?」
「何がです?」
「俺が……あの“黒豹”になった時。制御できなかったら、斬られてたのはお前だった」
妖夢はゆっくり首を振った。
「不思議と、怖くはなかったんです」
「どうして」
「あなたの目が、まだ人のままだったから」
青年は息を呑む。
「……そんなふうに、見えてたのか」
「ええ。獣の力に呑まれそうになっても、あなたの中には“理性”が残っていた。だから――大丈夫だと思えたんです」
その言葉に、胸が温かくなる。
妖夢は静かに桜を見上げた。
「西行妖も、本当は“理性”を失った妖でした。
けれど、幽々子様と過ごすうちに、少しずつ穏やかになったんです。
たとえ“妖”でも、心があれば、変われるんだと思います」
青年はその言葉に、しばらく沈黙した。
そして小さく呟いた。
「……俺も、変われるかな」
「ええ。あなたならきっと」
妖夢の声は、夜風のように柔らかかった。
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「俺、ここで生きてみたい。
過去は変えられないけど、この場所なら――もう一度やり直せる気がする」
妖夢は少し俯いて、そっと呟いた。
「私も、そう思います」
「え?」
「あなたといると……何かが変わる気がするんです。
“死者を導く”という役目を超えて、“誰かと生きる”ということを、考えられるようになる」
その言葉に、青年の胸が強く打った。
――それは、まるで約束のように聞こえた。
「じゃあ、約束しよう」
「約束?」
「互いに、もう“独り”にはならないって」
妖夢は小さく微笑み、頷いた。
「ええ……約束です」
その瞬間、夜空でひときわ大きな風が吹いた。
花びらが一斉に舞い上がり、月光がその中を照らす。
まるで、二人の誓いを祝福するように。
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だが――その静寂の裏で、微かな異変が蠢いていた。
夜の境界の向こう、森の奥から、低い唸り声が聞こえる。
それは獣のものか、妖のものか、あるいは何か別の“存在”の声か。
桜の花びらがふっと一枚、血のように赤く染まり、地に落ちた。
気づいた者はまだいない。
幻想郷に、再び“異変”の兆しが生まれつつあることを。