朝靄のかかる白玉楼。
いつもと変わらぬ静寂の中で、ひとつだけ違う音があった。
――鍛錬の音。
石畳の上で、青年は木刀を振っていた。
夜が明けきる前の、薄暗い庭の空気を切り裂くように。
汗が滴り、息が白く散る。
妖夢がそれを黙って見つめていた。
背後の桜、西行妖は今日も淡く光りながら、無言で花を落としている。
「だいぶ、様になってきましたね」
妖夢が微笑むと、青年は木刀を止めて息を整えた。
「まだまだだ。お前の一振りには、遠く及ばない」
「でも、最初の頃よりずっと落ち着いてます。力の制御も」
「……あの夜の約束が、支えになってるからな」
妖夢の頬が、少しだけ赤くなった。
「そんな、照れくさいことを言わなくても」
「事実だ」
二人の間に柔らかな空気が流れた。
そこへ、ひらりと舞い降りる桜の花びら。
そして――扇子を手にした幽々子が、音もなく現れた。
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「まぁまぁ、朝から仲がよろしいことで」
「ゆ、幽々子様! いつから見ていたんですか!?」
「ん〜……最初からかしら?」
妖夢が顔を真っ赤にして慌てる一方、幽々子は涼しい顔で青年に視線を向けた。
「あなた、本当に不思議な方ね。
獣の力を持ちながら、獣に堕ちない。
人のままでいようとする。――まるで、あの子(妖夢)みたい」
青年は少し困ったように笑った。
「俺はまだ、ここで生き方を探している途中です」
「ふふ、それならちょうどいいわ」
幽々子が扇を開き、月のような微笑を浮かべる。
「正式に、白玉楼の従者として働いてもらおうかしら」
「……俺が?」
「ええ。あなたはもう、ただの“客人”ではないでしょう?
妖夢だけに任せるのも不公平ですもの。ね?」
妖夢が慌てて口を開く。
「ゆ、幽々子様! まだ彼は修行の途中で――!」
「修行中だからこそ、学びがあるのよ。
それに……」幽々子の視線が、青年へと向く。
「あなたの中に“死”を恐れない強さがある。
ここ、死者の楽園にいるにはうってつけじゃない?」
幽々子の言葉は、柔らかくも逃れられない重みを持っていた。
青年はしばらく黙って考え、やがて静かに頷いた。
「……わかりました。
俺でよければ、この屋敷に仕えさせてください」
「ふふ、いい返事ね」
幽々子は扇で口元を隠しながら、微笑んだ。
「じゃあ、今日からあなたも白玉楼の一員。
妖夢、教育係はあなたに任せるわね」
「えっ、私ですか!?」
「当然でしょう?」
幽々子はふわりと舞うように踵を返し、庭の奥へと消えていった。
残された妖夢は、呆然とした顔で青年を見つめる。
「……その、これから、よろしくお願いしますね?」
「こちらこそ、先生」
「せ、先生って呼ぶのはやめてください!」
思わず笑いがこぼれた。
西行妖の花びらが、二人の肩に静かに降り積もっていく。
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昼下がり、白玉楼の廊下を歩いていると、どこか遠くで鐘の音のようなものが響いた。
青年は立ち止まり、耳を澄ます。
その音は風に乗って遠くから流れてくる。
どこか、懐かしいような、不吉なような響き。
「妖夢、今の音……」
「聞こえましたか。最近、里の方で妙な噂が立っているんです。
“赤い霧”が山を越えて広がっているって」
「赤い霧……?」
妖夢は真剣な顔で頷く。
「博麗神社の霊夢さんも調査に動いているそうです。
このままだと、幻想郷全体が覆われるかもしれないって」
青年の心臓が小さく跳ねた。
「異変……か」
「ええ。いつも幻想郷を包むように現れる“何か”。
でも、今回は少し……違う気がします」
彼女の言葉が、胸の奥に重く響く。
空を見上げると、遠くの雲の端がほんのりと赤く染まっているように見えた。
「まるで、血の色だ……」
妖夢が目を細める。
「もし異変が広がるようなら、私たちも動くことになります。
幽々子様の御心があれば、ですが」
「俺も行く」
「えっ?」
「この屋敷の従者として――いや、“仲間”として。
もう逃げたくないんだ」
妖夢は一瞬、驚いたように目を見開き、すぐに柔らかく笑った。
「……はい。では、その時は一緒に」
桜の花びらが風に舞い、二人の間を流れていった。
それはまるで、約束の証のように美しく輝いていた。
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夜。
白玉楼の庭に、幽々子が一人、月を見上げていた。
扇を静かに開き、夜風を受けながら呟く。
「紅い霧、ねぇ……。懐かしいわ」
その声は、どこか楽しげで、どこか悲しげでもあった。
西行妖の花びらが、ひとひら、彼女の扇に舞い落ちる。
「また“動き出す”のね、幻想郷が」
風が吹き抜け、桜の木がざわめいた。
夜空の端が赤く染まり始め、ゆっくりと霧のような影が広がっていく。
紅――
それはまるで、血の色にも似た“紅魔の風”だった。