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紅魔館の中庭には、濃い霧と血のような月光が満ちていた。
その中心で、青年は静かに息を整える。
獣の鼓動が内側で鳴り響き、皮膚の下を黒い衝動が這う。
「……これ以上、暴れさせるわけにはいかない」
湖を渡ってきた冷たい風が頬を撫でる。
そこへ――赤髪をなびかせた門番、紅美鈴が姿を現した。
「ここを通すわけにはいかない。お嬢様の安寧を乱す者は、誰であれ排除する!」
「……話しても無駄、か」
美鈴が構えた瞬間、気が変わる。
地を踏み鳴らすたび、庭の石畳がひび割れた。
その身体から立ち上る“気”は、龍のようにうねり――
「華人小娘・龍拳、第一式――青龍衝!」
拳が放たれた瞬間、空気が爆ぜた。
青年は咄嗟に熊の腕を模した防御を取るが、衝撃波に吹き飛ばされる。
背中が地面を削り、紅の砂埃が舞い上がる。
「ぐっ……!」
「立ちなさい! その程度で終わりじゃないでしょう!」
美鈴の声が真っすぐに響く。
青年は唇を噛み、獣の脚を解放する。
「狼脚・疾駆――!」
瞬間、視界が流れる。
彼の足跡が残像を引き、美鈴の懐に踏み込む。
右の拳が交錯し、衝撃音が夜を裂いた。
「はぁっ!」
「おおおっ!」
拳と爪がぶつかる。
互いに後退し、再び距離を取る。
美鈴の頬を掠めた爪の傷から、血が一筋流れた。
「……やるわね。でも、私は門番として退けない!」
再び彼女の足元が光る。
気の奔流が龍の形を取り、空へ昇る。
青年は咄嗟に地を蹴り、黒豹の脚力で空中へ跳ぶ。
その瞬間、彼の拳が閃いた。
「獣王衝――!」
着地と同時に叩き込まれた拳が、美鈴の腹を直撃する。
紅い衝撃波が爆ぜ、彼女の身体が後方の柱を貫いて崩れ落ちた。
「……悪い。俺は、前に進む」
青年は低く呟き、霧の奥へ歩を進めた。
紅魔館の中庭を抜け、青年は静まり返った館の中へと足を踏み入れた。
外では紅い霧がまだ揺らめいているが、館内は異様なほどの静寂に包まれている。
先ほどまでの戦い――紅美鈴との激闘で、全身の筋肉が焼けるように痛んでいた。
だが、立ち止まるわけにはいかない。
霧の中心、異変の根源へと進まなければならなかった。
「……ここが、紅魔館……」
赤いカーペットが廊下に長く続く。
ステンドグラス越しの月明かりが、血のような色で壁を染めていた。
そのとき――
背筋に、冷たい殺気が走る。
「動かないで」
銀の声。
振り向くより早く、首筋をかすめる風。
銀色のナイフが、頬のすぐそばを通り抜けて壁に突き刺さった。
「――!」
青年が飛び退いた瞬間、闇の中から姿を現す者がいた。
月光を反射する銀髪。完璧な姿勢。青い瞳。
十六夜咲夜。
「ここまで入り込むなんて……貴方、何者?」
「白玉楼の者だ。紅い霧の源を止めに来た」
「白玉楼?……ふふ、面白いお客様ね。でも残念。
お嬢様に近づくことは許されないわ」
咲夜の足元に落ちたナイフが、月光を反射して光った瞬間――
次の刹那、彼女の姿が消えた。
「……え?」
青年の視界から、銀髪の姿が掻き消える。
音も、気配もない。
次の瞬間、背後から頬を裂く衝撃。
「ぐっ……! な、なんだ……!?」
振り返るが、誰もいない。
気配がしたと思えば、また別の方向から斬撃。
銀の閃光だけが、瞬きの合間に現れては消える。
「ど、どうなってる……? 動きが――見えない!」
咲夜は淡々と微笑みながら、まるで幻影のように現れては消えていく。
時間の断絶を理解できない青年には、それは**「空間を跳ぶ敵」**としか見えなかった。
「貴方、目がいいのね。でも、視界だけでは追いつけないわよ」
言葉と同時に、銀の閃光が四方八方から降り注ぐ。
青年は咄嗟に獣の反射で跳び、虎の前脚を顕現させてナイフを弾く。
火花が散り、空気が震える。
「速すぎる……見えない。どこから――!」
焦燥が喉を焼く。
彼は獣の感覚を研ぎ澄ませ、咲夜の“匂い”を探る。
が、風の流れすら途切れ途切れに感じられ、動きの軌跡が途絶する。
「……まるで、この世界から消えてるみたいだ……!」
咲夜は冷ややかに微笑んだ。
「それで正解。貴方が見ている“今”には、私はもういないの」
再び――姿が消える。
刹那、胸元に冷たい感触。
血の匂い。
左肩を切り裂かれ、青年は膝をつく。
(何だ……何が起こってる? 俺の動きが鈍いのか? 違う……世界のほうが……止まってる……?)
混乱が理性を削る。
彼の中の“獣”が、再び囁く。
――怖いなら、壊せ。
――見えないなら、嗅ぎ分けろ。
――感じろ、本能で。
黒い衝動が、胸の奥でうねりを上げた。
紅美鈴との戦いで抑えていた力が、亀裂のように滲み出す。
「……まだ、終わってないッ!!」
咆哮とともに、獣の紋様が腕に浮かび上がる。
彼の背から黒い霧が立ち昇り、目が黄金に輝いた。
世界の輪郭が歪む。
音が遅れ、匂いが濃くなる。
――止まった世界の中で、わずかに“動くもの”を感じ取った。
「見えた……!」
咲夜がわずかに動いた軌跡を捉え、拳を振るう。
漆黒の狼の前脚が形を取り、風を裂くように叩き込む。
「がっ……!」
咲夜の身体が後方に吹き飛び、壁に叩きつけられる。
ナイフが床に散り、銀の音を響かせた。
「く……はぁ……っ……。まさか、反応してくるなんて……」
彼女の額に汗が滲む。
青年は荒い息を吐きながら、一歩、また一歩と歩み寄る。
その姿はもう、人ではなかった。
爪、牙、黒い靄――
獣の本能が全てを塗り潰そうとしていた。
「やめ……なさい……!」
咲夜が必死に叫ぶ。だが、その声は届かない。
獣の瞳が、彼女を“敵”として捉えていた。
――その時。
“貴方には、まだ人の心がある”
あの声が、闇の奥から響いた。
妖夢の声。
白玉楼の庭に立つ、あの穏やかな笑み。
青年の中で、何かが止まった。
獣の咆哮が喉で詰まり、腕が震える。
爪が咲夜の喉元をかすめたまま、力を失って垂れ下がった。
「うっ……ぐ……あああああ……!」
理性が暴走を押し返す。
視界が白くなり、膝をつく。
黒い霧がほどけ、ただの人間の腕が戻る。
「……お前、何者……?」
咲夜の声が遠く聞こえた。
青年は答えることなく、意識を手放した。
最後に感じたのは、紅い霧が薄れていく気配。
そして、霊夢の声だった。
「――紅魔館の異変、解決よ」
その言葉を最後に、青年の意識は闇へと沈んでいった。