「えっほ……えっほ……」
早朝5時、日も昇らぬうちに私は家を出た。師匠に言われて始めた体力トレーニングの一環である。
「ふーっ……」
しばらく走って、私は折り返し地点にある町中の神社に着いた。
『努力は人に見せるものではないけれど、誰かに見られてると思ったほうが身に入るでしょ』と師匠が言っていたので、ランニングコースに組み込んだ場所だ。
神様に見られてると思って、自分の身を引き締める。
「神様、今日も走りに来ました。どうか私もママみたいなスーパーアイドルになれますように」
お祈りをしたら境内を出て10秒で摂れるゼリー飲料を飲み、再び走り出す。
「にしても、なんかたくさんカラスいたなぁ。不思議」
餌になるものでもあるんだろうか。
「ただいまー」
「おかえりなさいルビー」
家に帰れば、もうミヤコさんが仕事を始めていた。毎日毎日パソコンにしがみついていて大変そうだ。その分、私がしっかりしないとね。
「おはようミヤコさん。シャワー浴びたら朝ごはん作るけど、ミヤコさんも食べる?」
「お願いしても良いかしら」
「もちろん」
最近は私が一番早起きだから、私が朝ご飯を作ることが多い。
昨日の晩のお米が炊飯器に残ってるよね。お味噌汁はインスタントで、だし巻き卵とウインナーだけ焼けば良いかな。
よし、朝7時だ。お兄ちゃんを起こしに行こう。
「お兄ちゃん、もう朝だけど起きてる?」
私はドアをノックする。
『……ッ!』
すると返事ではなく、呻き声が聞こえた。
「え、お、お兄ちゃん? 入るよ?」
心配になって中に入ってみれば、ベッドの上で苦しそうに呻くお兄ちゃんがいた。
「お兄ちゃん大丈夫!?」
「はぁ……はぁ……アイ……!」
ママの名前を呟くお兄ちゃん。
もしかして、ママが刺された日の夢を見てるのかな。だとしたらこの反応も納得できる。
私は扉越しだったけど、お兄ちゃんはママが死んでいく様を間近で見ていたから私よりもショックは大きいだろうし。
そういえば昨日、監督のところから帰ってきたときのお兄ちゃんは顔が土気色で、調子悪そうだった。それで思い出しちゃったのかな。
「起きてお兄ちゃん、大丈夫だよ。ここに怖いものはなにも……」
「うるさいッ!」
「いたっ」
お兄ちゃんの手に突き飛ばされて、尻もちをつく。
「……ルビー? わ、悪い。俺は──」
「いたた……あはは、だいじょぶだいじょぶ! 寝ぼけてただけなんでしょ? 朝ごはんできてるから食べてね」
気まずくなった私はお兄ちゃんの部屋を出た。
「何か音がしたけれど、どうかしたの?」
「ちょっと転んじゃっただけ。私もう行ってくるね、ミヤコさん」
「あんまり迷惑かけてはだめよ?」
「はいはーい」
「ということがあったんです。お兄ちゃん、大丈夫ですかね?」
「普通そういうことは保護者のミヤコ社長に相談するんじゃないの?」
「ミヤコさんは苺プロの立て直しで毎日忙しそうだから……」
ジムに来た私は師匠に今朝起きたことを相談していた。
「にしても母親を目の前で……か。大変だったね」
師匠は優しく私を慰めてくれるので、我慢できず私は涙を零してしまった。
「君の兄の中で、それがトラウマになってるのは間違いないと思う。あと考えられるのは、幼少期に十分な愛を与えてもらえず、心が不安定なのかもね。無意識に親の愛情を求めてる」
お兄ちゃんが愛情不足? いやいや、同じママのもとで一緒に育ったのにそれはない──。
『ママの愛は私のモノ!』
『ママのおっぱいを吸って良いのは私だけ!』
『ママァ! ヨシヨシしてぇ!』
もしかして私がママの愛を独り占めしてたせい!? それでお兄ちゃんが十分甘えられなかった!?
……あ、あり得る!
「私はなんてことを……」
「ルビーちゃん?」
「ほんとはお兄ちゃんだってママのおっぱい吸ったり、たくさんナデナデしてほしかったはずなのに……」
「おーい」
「かくなる上は、私がお兄ちゃんのママになるしかない!」
「聞こえてないのかな」
「師匠。私が兄にオギャバブランドを提供したら、兄の心は静まりますか?」
「あ、戻ってきた。それと兄妹でそれをやるのは罪深すぎるかな。人肌が効果的なのは認めるけどね。30秒のハグで一日のストレスの三分の一を解消する効果があるらしいし」
「家に帰ったらやってあげよ」
待っててお兄ちゃん。妹の私がお兄ちゃんのママになってあげるから!
「本気で治すならお医者さん……って、それは余計なお世話か。まあ記録ぐらいは取ったほうが良いと思うよ」
「記録?」
「君の兄の症状を毎日観察して、記録しておく。そしたら本当にお医者さんが必要になったとき、上手く説明できるでしょ」
「なるほど」
「うん。さて、君の兄についての話はこれくらいにしておいて、今日の特訓に移ろうか」
「よろしくお願いします!」
「今日はボイトレをしてもらうよ」
ジムの中にある防音のカラオケルームに移動した師匠はそんなことを言い出した。
「ボイトレ?」
「うん。この前のやったアレ、踊りはすごいと思ったよ。でも歌ははっきり言って微妙だったね」
「うっ……」
「なのでこのボクが直々に鍛えましょう。こう見えても声を売りにしてるからね」
「師匠が?」
「うん。趣味でボイス投稿と声優やってる。少し前だけど、ニチアサの妖精枠をやったりしたかな」
あの『モプモプ』とか『チャムチャム』とか、謎の語尾つけて喋る妖精をやったの? 師匠が?
「えー、うっそだー」
「『メルメルメルヘン! 次回のメルキュアは──』」
「ほんとに聞いたことあるやつ!?」
師匠ってクール顔なのに萌え声出せるんだ。意外だ。
「では早速だけど、一曲歌ってくれる? 曲は何でも良いよ」
「じゃあB小町の曲を……」
流れてくる曲に合わせて、私は歌を歌った。
『55点!』
「あれ、前よりも点数良くなってるかも?」
「少しずつ筋力も肺活量も上がってきたから、きっとそのおかげだよ。成長の証だね」
「はい!」
「それはそれとしてこの点数はアイドルとして終わってるけれどね」
「うぐ……」
自覚がある分、その言葉は私の心に深く突き刺さった。
「じゃあ次。ここの機材は録音機能あるから、一度自分の声聞いてみようか」
「わざわざ自分の声を聞くんですか?」
「改善点を確かめるためにね」
『──♪』
自分の声を録音して聞いたとき、気持ち悪いと思ったことはないだろうか。あれは直接聞くときは頭を通って耳に自分の耳に入ってくるけれど、機械を通して聞くときはそれがないからいつもと違って聞こえて、その違和感に気持ち悪くなるらしい。
つまり、何が言いたいかと言うと。
「うえ……ゲロ下手だ……」
私の歌唱力でそれをやると死ぬほど気持ち悪いんだよね! 最悪だぁ!
「私がこの世で一番歌が下手な人間です。すいません」
「これでもまだマシな方だよ? 世の中もっと下手な人がいるからね。ナマコの内臓が耳に入ってくるみたいな歌声の人」
「なんですかその独特な例え方は」
「ルビーちゃんはそこまでじゃないから良かったよ。もし君もナマコの内臓ボイスなら千花さんを連れてくるハメになっていた」
「誰かは知らないけれど、そんな理由で呼びつけたらその人がかわいそうだよ師匠」
私はまだ見ぬ師匠の知り合いに同情した。
「ダンスができる分、リズムの取り方は合ってる。だから変なのは音程かな。あと声がブレてる。踊りながらだと余計に下手に聞こえるのはそのせい。それに抑揚が控えめだし、歌いだしと終わりがズレるのも──」
容赦がないツッコミに私は自分の体が段々と小さくなっていくような気分で頷くしかなかった。
そしてまたしても始まる、スパルタ特訓の日々。
「あめんぼあかいなあいうえお! かきのきくりッ!」
「噛んだね? はい、レロレロ30回」
「レロレロレロレロ──」
「ドーレーミー
「ファが半音高い。はい、『キラキラ星』を音階で歌って」
「ドードーソーソーラーラーソー──」
「『あなたのアイドル──!』」
「もっとお腹から声出して。それともっと伸ばす。頭の上を通して遠くに呼びかけるように、もう一回」
「『あな──』」
「音源に遅れてる! もう一回!」
「今日はこのくらいにしておこうか」
相変わらず私は全然だめだった。でも良いもん! 継続してって、未来に上手くなっていれば!
「そうだ。家でも練習したいなら、おすすめの教材を教えてあげるよ」
「教材?」
「君と同年代で、君より遥かに上手くて、だけど歌手じゃない。君が目指し、そして超えるべき人の動画。見る?」
「見ます!」
師匠が見せてくれたスマホの画面には、見覚えのある少女が映っていた。
「あれ、この子どこかで見た事あるような……」
「それはそうでしょ。多少露出が減ったとは言え、有馬かなは有名な子役なんだからさ」
「あ! そうだ有馬かなだ! 重曹を舐める天才子役!」
「どこでそんな珍妙な異名を覚えたの?」
「私が命名者です!」
「おもしろ。ネットの海に流せば定着するんじゃない?」
「そう思いますか? なら今度スレ立ててみます。この子生意気であんまり好きじゃないし、変なあだ名定着させてやろーっと」
「ルビーちゃんも大概生意気なマインドしてるけどね」
うるさいよ師匠。
それに思い返せば、お兄ちゃんには泣かされてたけど、私はまだママをバカにされた仕返しできてなかったな。
私がスレを立てて……。
【有馬かなとかいう生意気な子役】
1.星野ルビー
何が『10秒で泣ける天才子役』だよ。このガキんちょには『重曹を舐める天才子役』で十分だわwww
2.世間の人たち
草
3.有馬かな
あんたマジぶっ殺すわよ
4.世間の人
おは重曹ちゃん。舐めるのは重曹だけにしとけや
5.世間の人
重曹を舐めても、心の汚れは落とせないんだね。かなちゃんを見て勉強になったよ
「みたいなことになってくれたら良いのに!」
「いるよね、ネット上だと性格変わる人」
「『く・さ・は・え・る』……っと。え、何か言った師匠?」
「なんでもないよ。鈴木さんがもう駐車場に来てくれてるから、帰りに車の中で聞いてみてね。きっと驚くから」
「あはは、言ってもこの子の代表曲ってピーマン体操じゃないですか! 似たような曲を聞いたところで驚いたりしませんよ!」
──なんて、私は考えていたけど。
「すごい……」
有馬かな、職業子役。本業は歌がメインじゃないのに、彼女のそれはスッと心に染み込んでくるような澄んだ歌声だった。
私よりたった一歳年上なだけの彼女は、私より抜群に歌が上手い。
私はあと一年で、彼女のように上手くなれるの……?
「いいや、なってやる。私はアイドルになるんだ、子役に歌で負けるなんてあってはならない」
だからこの子の歌から、私の足りない部分を吸い取ってやる。
「でもこんなに歌が上手なのに、どうしてあんまり伸びてないんだろう」
再生数も、高評価も、コメントも少ない。私はなんとなくそれがもったいない気がして、一言書き込んだ。
『あなたの歌を見つけてファンになりました。これからも頑張ってください。周りには評価されてないかもしれないけれど、陰ながら応援してます』
「ただいまー、あ、お兄ちゃん」
「ルビー。今朝は悪かった。いきなり突き飛ばして──」
「おーよちよちよち。アクアはメンタルよわよわでかわいちょうでちゅねー。妹の私がしっかり癒してあげまちゅからねー」
「ル、ルビー???」
「どう? 妹に抱っこナデナデされて幸せ?」
「……まぁ、多少は」
「ただいま……って、あなたたち何してるの? そんなインモラルな子に育ては覚えはないんですけれどね。とりあえずそこに座りなさい!」
「「いや、誤解だから!?」」
「『重曹を舐める天才子役』……? だ、誰よこんな変なあだ名つけたやつ! しかもなんか聞き覚えあるし!」
「ん? 全然気にしてなかったけど私の曲のMVにコメントついてるわね。ま、どーせ『子役に集中しろ〜』みたいな説教コメでしょうけど──」
「でしょう、けど……?」
「……」
「ふ、ふん! 殊勝なやつもいたもんね! 私子役なんですけどー? そんなこと言われたって歌手になんか転身しないんですけどー? まったくまったく!」
「かなちゃん、なんだか嬉しそうだね」
「別に! ADさんには関係ないし! それと今日は気分が良いから、自分のカバンは自分で持つわ!」
「普段からそうしてくれると、私も嬉しいんだけどなぁ……」
「……か、考えとく」
「あの有馬かなが自分を曲げた? 宝くじ買わなきゃ……」