二日ぶりの通学路。普段より冷え込んだ空気が、身体に刺さる。
鞄を掛け直して歩くと、腰をとどめるコルセットが軋み、皮膚の下で呼吸を妨げた。あの日から、まだ三日しか経ってない。にもかかわらず、街は何事もなかったように日常を取り戻していた。
杖を使うのは、駅で電車に乗るまで。苦しいが、杖を突いて登校すれば皆に余計な心配をさせるだろう。個性で何とかするのも許されたし、誰にも気付かれないよう隠せばいい。
メインストリートを歩きながら、空を見上げる。雲一つない快晴──とまでは言えないが、青い空と太陽が眩しい。
ゆっくり歩いていると、飯田くんが走るのをやめて並んでくる。
「天成くん、おはよう! 怪我がひどいと聞いていたが、こんなに早く来て大丈夫なのか?」
「おはよう、飯田。それも含めて、皆がいるときに話そう」
「確かに……! 何度も同じ説明をさせるのは忍びない! それなら、荷物を持たせてくれ!」
……この前よりも、老人扱いが加速している気がする。ほとんど強引に荷物を持たれた。
昇降口に近付くにつれ、足音と笑い声が増えてくる。ここも、変わらない。何かがあったのは俺たちA組だけ。当たり前と言えば当たり前なんだろうな。人って言うのは、何事も直面するまではまさしく〝他人事〟だ。前世の俺も例外じゃない。
ふと、身体の痛みがそれに感じられて、立ち止まる。ベッドのシーツの感触と硬いコントローラーが手にあるように、まざまざと蘇った。
──よくない。ただでさえ重傷で不安にさせてるのに、これ以上弱った姿を見せては、皆が〝ばーちゃん〟じゃなくて、弱い別の誰かと認識してしまう。それは、困る。
「……天成君?」
「いや、何でもない。大丈夫だ」
飯田くんは心配げにこちらを見てくる。心配を掛けないといったそばからやってしまった。俺はもう、■■■■じゃない。この世界で生きる〝天成あまり〟だ。
靴を履き替えて、教室へと向かう。飯田くんが先に入るように促してくれたので、従う。
教室に踏み入った瞬間、明るい声が弾けた。
「天成くんおはよう!」
「お、ばーちゃん。復活早くね?」
「身体は大丈夫なのかしら。無理は禁物よ」
「ケッ、全然〝ばーちゃん〟じゃねぇだろ。クマムシが」
一斉に話しかけられて困惑する。オールマイトが初めて授業したときもこんな感じだったんだろうな。聖徳太子……。
デクくんが控えめに「痛いところとかない?」と聞いてくる。うんうん、大丈夫。痛み止め切れたら全部痛いから。安心して欲しい。俺はいつもの表情で、軽く右手を上げた。ちょっと突っ張るけど、たぶん問題ない……はず。
「そなたらが心配するほどの怪我ではない。リカバリーガールと、病院の先生のおかげだ」
口調も仕草も変わらない、はずだ。理知的ながら柔らかく、時折冗談も言う〝
予鈴が鳴って、いつものように飯田くんが着席を促す。それに従って、荷物を返してもらった俺も席につく。
相澤先生が入ってきて、いつもと変わらぬ表情のままホームルームを始める。出席確認が終わった後、振ってきたのは俺への言葉だった。
「天成」
はい? なんかやったっけ。
「杖はどうした」
教室が一層静かになった気がした。視線が一斉にこっちに向いて、クラスの空気が張り詰める──なんでそんなこと言ったんだ。皆が心配するだろ。
「家に置いてきました。もう必要ないので」
実際は鞄の中に入ってるけど。
「そうか」
先生は動かない。変わらぬ目のまま続ける。
「昨日と同じやり方でいくか、素直に話すか。選ばせてやる」
肩が強張ったのを感じた。ああ、それはつまり〝
逃げ場を探すように周囲を見渡したが、もちろん助けはなく。……結果が同じなら白状するのが正解だ。
「まだ、コルセットと杖が必要だ。長距離を歩くのは難しいだろうし、実技は言わずもがな。飯田。正直なところ、さっきは助かった」
「あ、いや……それは」
視界の端で、デクくんが心配そうな顔をしている。さっきも気付いてたみたいだし、本当にごめん。爆豪は肘をついて外を見てるけど時々視線を向けてくるし、轟くんは無表情でこっちをじっと見つめてくるし。
先生は肺活量の限界に挑戦するようなため息を吐いた。
「心配を掛けたくなかった、ってところか」
「そんなところです。過度に心配をさせるのも、どうかと考えました」
「適度な心配だ。誤魔化して悪化させる方がより悪いだろ」
声色は同じだけど、その裏に、昨日と同じ温度があるのを感じ取ってしまった。
胸の奥で、針に刺されるみたいな痛みがある。
「医者の指示も守れ。ここは死にかける場所じゃない」
「……痛み入ります」
周囲の空気が和らいだ。先生はホームルームの終了を告げて、教室から出ていく。
息を吐きだす。全身に走った緊張が、ようやく薄れていく。そしてこの場で──俺はもう一つ、確かめた。俺はまだ、このクラスの誰にも〝本当の自分〟を見せてない。昨日先生に見せたあれ。恐怖とか後悔とか、全部混ざったあれは、この教室では必要ない。誰も望んでない。自分を削る訳でもないから、先生も許してくれたのだろう。
だから、見せない。昨日みたいなのは、もう十分だ。
昼休み。広大な食堂は、いつも通りの喧騒に満ちている。炊けた米の匂いや油、出汁。金属や食器の触れ合う音が重なり合っていた。いつも通り、緑谷やお茶子、飯田といった面々と座った天成は、トレーに置かれた昼食を前に手を合わせた。
「いただきます」
白米、海藻サラダ、鶏むね肉ときのこの柚子胡椒炒め。それからデザートにブルーベリーヨーグルト。栄養と消化を考えつつ、好みの味を選ぶのが天成の常だ……が、彩りは少々味気ない。赤色の一つでも差せばがらりと変わるのだろうが。トマトも取っておくべきだった、と少しばかり後悔した。
口に運ぶたびに、柚子胡椒のびりりとしたさわやかさが通っていく。味覚が鈍いのか感じられる味はわずかだったが、痛覚は別である。向かいでは飯田と緑谷が話していて、お茶子が百面相というのがふさわしい反応を返している。それを見守りながら、最後の一口を口に運ぼうとして──ふいに、向けられた視線に気づいた。
値踏みするような視線。天成は振り向くと、そこに立っていたのは金髪の少年。
物間寧人。軽薄な態度とやたらA組に絡んでくる
「へえ、君が天成くんかぁ。いろんなところで話題になってるよ」
「物間寧人。用事があるなら単刀直入に言え、食事が冷める」
淡々と、対話を拒否するでも受け入れるでもない返答。事務的な返しに物間はわずかに眉を上げ、それから態度を変えずに続ける。
「君みたいな人に覚えてもらえて光栄だよ。聞いてるよ、USJのこと。一人だけ入院してたんだって? 今も杖が要るみたいだし、A組も大変だねぇ」
飯田が箸を止め、お茶子の笑顔が消える。緑谷は口を開きかけたが、制したのは天成だ。
「仲間一人守れなくて。君のクラスメイトも同じだよね。これからやっていけるの?」
風を何かが引き裂き、音を奪った。──杖の先が物間に向いているのだと、そこで気付いた。額ではなく胸部、的確に心臓の位置に突き付けられている。
「もう一度仲間を馬鹿にしてみろ。どうなっても知らんぞ」
低く落ちた声は、氷で作られた刃のようだった。杖は金属とゴムの組み合わせであるけれど、それを向けられた物間は一瞬、プレッシャーに息を詰まらせた。
──息ができない。
──動けない。
この場にいる誰もが、その圧力で地に伏すような錯覚を感じていた。
天成の瞳にも表情にも、怒りや殺意はない。ただ研ぎ澄まされた冷たさと侮蔑が宿っている。
「今の状態でも勝てるだろうな。貴様のような馬鹿には」
天成は吐き捨てた。
「どうした。槍を使われるのは初めてか?」
挑発というより、宣告。杖を握る指先と呼吸、向けた先。それが数秒の間に〝実戦の距離〟を生み出している。言外に含んだのは一言──反応できないお前も同類か、それ以下だ。
冷や汗をかきながらも虚勢を張ろうとした物間が、崩れ落ちる。
物間の背後から現れたのは、サイドテールの女生徒。手刀を見るに、彼女が物間を
引きずられていく物間。そのつま先が見えなくなってようやく、食堂には喧騒が戻り始めた。
「あ、天成くん……」
震えた声のまま、お茶子が天成を呼んだ。余程怖い顔をしていたのだろうと天成は考え、杖を下ろすと共に彼女に微笑んだ。
「怖がらせて済まない。見ていられなかったものでな」
「でも、天成くんがそんな風にする必要、なかったから……身体、大丈夫?」
大丈夫だ、と言おうとしたところで手が攣って、杖が手から離れる。鈍い音と共にバウンドし、転がったのを飯田が拾った。
「天成くん、どうしてこんな無茶を……!」
「……言っただろう、見ていられなかった、と。じきに治まる。それに、彼を害すつもりも、なかった」
そう笑っている天成の服の下では、冷や汗が滲んでいた。
放課後の校舎は、静かだった。つい一時間ほど前までは体育祭前のトレーニングをしていたのに、その名残もない。鞄を肩にかけて、もう片方の手で杖をついた。あれから二日経ってもう支えはいらないけど、今日までは大事をとって使っている。
大事をとって、でなんか引っかかると思ったら初日の登校だ。あの時は薬液の配合間違えて体調崩したんだっけ。アホか。
職員室に行って、先生を呼んでもらうようお願いする。壁にもたれて待っていると、見慣れた黒が見えた。
「どうした」
「少し見てもらいたくて」
「何をだ」
「身体の具合です。リカバリーガールにも確認してもらいましたが、もう動かしていいとのことで」
俺の目的を一通り聞いて、先生は嘆息する。
「その口ぶりからするに、あいつらと練習してたわけじゃなさそうだな」
「周りに止められますから。ノート借りたの写してましたよ」
「そこまでして今日来るのは、合理的じゃない」
「先生に言われたら反論できませんよ」
笑うと、相澤先生の口元が僅かに動いた……気がした。呆れてるのに、でも拒絶するわけじゃない感じの。
先生は「待ってろ。許可取ってくる」と告げて、戻っていく。一分ほどで戻ってきて、その手には鍵が握られていた。どこに行くかも告げられないまま、俺は相澤先生の背中を追うしかない。
連れてこられたのは、区切られた演習場の一つ。俺は初めて来たが、確かにここなら動き回っても良さそうだ。体育祭のトーナメントで使うくらいの広さだし、それを想定して作られた場所なんだろうか。
先生は捕縛布とゴーグルを外す。実力はあっちが勝ってる上に、病み上がりの状態では尚のこと雑魚狩りにしかならない。まさかそこまでしてくれるとは思っていなかったが、手合わせした方が分かるのだろう。
「十五分だ。そのうち八分だけやる」
「分かりました」
「本気は出すな。俺も出さない」
「はは、先生が本気出したら俺なんて即退学ですよ」
軽口の応酬の刹那、残像があった。音もなく黒い何かが迫っていて、身を捻った俺の身体を服の裾が掠めた。
頬に感じる風圧だけで理解できる。本当に本気でかからない。半分も出していないんじゃないだろうか。振った拳は受け流され、地面へと放り出される。
回避、攻撃、その繰り返し。動けるし、息も続く。筋肉が軋むし皮は突っ張るが、痛みはない。
やっと。やっとだ、戻ってきた。最低限、まともに戦えるだけの身体が出来ている。動かせなかった分は取り返すとして、体育祭に間に合う。その実感が、緊張を緩めた。
──傾いていく陽の影で、赤い残光がこちらを射抜いた。
世界から、一切の音が消える。
「……それ。ずるいと思いません?」
「個性を使わないとは言ってない」
「そういうの、職権乱用って言うんじゃないですか?」
「お前が嘘をついて、個性で補強してる可能性もある。合理的行為だ」
取り出した目薬を差して、先生は数度、瞬きをする。
「待たずに来てもよかったが」
「そこまで性格の悪いことしませんって」
そこから再開。蹴りも拳も、まるで手応えを感じなかった。捕縛布があれば五秒で終わってしまったんじゃないだろうか。そこから更に本気を出されると思うと……無力がすぎる。そりゃ守る術持てって言われるわ。
肩で息をしながら、先生を見ている。何度やってもいなして転がされての繰り返しだ。俺にダメージを与えないよう、直接的な攻撃をされていないのに消耗が酷い。
膝に手をついた俺に、先生が訊いてくる。
「調子はどうだ」
「おかげさまで。っていうか先生、その聞き方性格悪いですよ……」
「状態を聞いただけだ」
「その聞き方がよくないんですって……」
思わず疲労の滲んだ返答が出る。地面に腰を下ろし、水筒から水を引っ張り出した俺に、先生が聞く。
「あともう一つ。我流か?」
「……分かります?」
「そこいらのチンピラには分からんだろうが。重心の置き方は特に始め、剣道に近いが……間合いの取り方は軍隊格闘術。ボクシングにクラヴ・マガ、あとシラットも混じってるな。型なしを型に組み立ててるのは分かるが、どうしてそうなった」
「自分じゃどこまで何か分かりませんけどね。そう言われるなら、そうなんじゃないですか?」
「その割に判断が早い。自覚がないのか」
「見てきたのと感覚を結びつけてたんで。中学がそれなりに荒れてたから、殴る蹴るでしかまともに学校生活維持できないんですよ」
事実だ。廊下を自転車が走るし、爆竹なんて当たり前。今思えばなかなかの治安だ。外見が細いのも含めて目をつけられがちだった俺は、何とかして対抗するしかなかった。もちろん最初はボコボコにされてたけど、二ヶ月くらいで殴りあえるようになった。
俺が卒業すると同時に、怖い先生が沢山配属されて治安が良くなったと聞いている。
あ、と思った。先生が瞬きを止めたのが見える。俺の言動でなく、その根底にあるものを見抜くような視線がこちらに向いている。
中学の時、と言ったがそれは前世だ。去年まで通ってた
答えは百点、怪しさ満点。お互いの間に冷たい空気がある。
「……なるほどな」
変わらぬトーンでの、納得。そこにどんな意味が含まれているのか、俺には分からなかった。隣に腰を下ろし、視線を遠くに向けている。
「その判断力も悪くない。下手な増強型では相手にならんだろうな。だが、左で流す時の重心がブレる。飯田みたいな重さと速さがあるやつにはきついぞ」
「実際それで、肩を痛めかけました。気をつけます」
「早めに身につけろ。今は通じても、これからやり合えるかは分からん」
否定はできない。実際、こうやって相澤先生にボコられてる訳だし。あっつい。心拍は元に戻ったけど、そこから送り込まれる熱は変わらないし汗もある。授業ひとつ分位の体感だった。疲労もあるが、それよりも強く実感する。本当に大丈夫なのだと。
「もう一つ、と言ったが嘘だ。お前、戦う時に瞬きしないな」
「え。悪いやつですか」
「違う。相手の呼吸、頭から足まで、僅かな動きでもずっと全体を捉えている。その一瞬で着く勝負の為に、ほとんど」
「俺は味方撃ちOKの
「変な言い方すんな」
先生は膝に腕を回したまま、口を噤んだ。何かを考えている、というより決定事項への言葉を選んでいるみたいだ。
「……本当は、予定になかったんだが」
「はい?」
「お前は動けると思ってるし、俺も最低限は戻っていると判断する。が、まだ確認する必要があるらしい。職場体験を秋に回すのは非合理的だ、暫くは続ける」
「え、それって体育祭終わったあとじゃないんですか?」
「本来はな。遅れを取るのも嫌だろ」
それはそう。職場体験のあとは合宿が待ってるし、あとプールの話もあったはずだ。
「お前が見て欲しいと言わなくても、遅かれ早かれ呼び出すつもりだった。こういうやり方でな」
「……それ、贔屓って言われません?」
「さあな。俺は事実に基づいた判断と思うが。贔屓と非難する人間は、あのクラスにいない」
「クラスにはね。物間みたいな例もあります」
数日前に煽ってきた奴だ。原作でも、やたらとA組に突っかかっていた奴で、合宿では自分も赤点なのに「B組は俺だけなのにA組は四人いるのwwww」みたいな内容を喋っていたはず。
「なにか支障があるか」
「いやまぁ無いですけど。俺の怪我の状況知っててわざわざ言う馬鹿は少ないでしょう」
暫くは近付いて来ないだろうけど、ああいうのは忘れたらすぐやらかす。頼むから学習してくれ。
「あー、あと。先生って意外と俺の事好きなんですね」
「混ぜっ返すな」
「経過観察とか確認とか。要は気になるって事でしょう?」
「お前の言葉選びは面倒だ」
「褒め言葉ですよ」
いつも通りに喋っていたはずなのに、相澤先生は黙ってしまった。立ち上がった先生はほんの少しだけ目を細め、俺を見下ろしている。それに続きながらも、胸の奥で何かが軋んだ、気がした。
「……俺、そんなに面倒な喋り方して……」
──軽い。自覚した時、治ったはずの背骨を掴まれたみたいに中腰で止まって、バランスを崩しかけた。転ばなかったのは先生が立て直してくれたからだ。
「ま、す……?」
──今、なんて。
──〝俺〟って。
その単語だけが、胸の中で突き刺さる。誰よりも自分が、その音を聞いて動揺していた。
いつもの〝私〟じゃない。〝天成あまり〟の──彼女の、言葉でない。
思い返して喉がひりつく。一人称だけでなく砕けた敬語。高校生特有の、軽いノリだ。〝アナ・アマリ〟のものじゃない。
「……今の、聞かなかったことに。してくれませんか?」
無理矢理笑って誤魔化したけど、先生は何も言わなかった。そもそも一昨日、先生には見せてしまったのだ。今更こんなことを言っても意味がないだろう。でもこれは、動揺している状態で出たわけじゃなく、普通に、ただ、曝け出している。気が、緩んでいる。
先生はもちろん気付いているし、その上で触れてこなかった。沈黙が重苦しいが、それでいい。先生が何も言わないなら、ここで終わるなら、いい。どうか口にしないでくれ。一言でもあれば、俺という存在は壊れてしまう。
ちょっと〝ばーちゃん〟っぽい、変だけど頼れる支援型のヒーロー志望。それが、皆の知っている私だ。そうあらなければならない。彼女のように在り、理性的で落ち着いていて、厳しいことも言いながら皆を後ろから見て、包んでくれる存在。あの人みたいに。そうしていれば前に進める。強くなれる。誰にも心配されないし頼られる。毅然と立っていられる。それが俺の願いだった。
だからいつも、鏡の前で言うのだ。「私はアナ・アマリだ」と。
でも、喉の奥から滲むのは別の声だ。俺と口にした瞬間、何かが綻んでいく感覚があった。彼女に似た皮を縫い留めていた糸が、一本ずつ切れていくみたいに。
あの時決めた生き方が、崩れていくのが分かる。俺はアナじゃない。でも、彼女のようになりたかった。そうあれるように、心の姿を似せようとした。切り替えることさえできなくなってしまったら、何が残る?
俺は、誰だ?
問いが浮かんだ瞬間、治ったはずの背骨が砕けたような、そんな気がした。──誰なんだ、俺は。前世の、ゲームの中の人物を真似て、演じて、積み上げてきたこの存在。優しく、冷静で、守るために銃を取ったアナのスイッチ。それを切り替えられなくなったら、そこに残るのはいったい何だ。
視界が狭くなった気がした。呼吸はできているのに空気が胸に入ってこない。足先から黒い何かが這いあがってきたような感覚がして振りほどこうとした足が縺れた。
どうしてだ。たったそれだけで。今まで何度も、心の中では〝俺〟って呼んでたはずだ。それなのに、形に出したのを自覚した瞬間、全部が崩れ落ちていく。自分が作っていた天成あまりがひび割れていくのが分かる。ずっと忘れなかったはずの彼女の声も姿もどこか遠くに行ってしまう。
あの日、あの夜、決めたはずだった。ささやかな幸せと結末を見届けるという誓い。誰かを救う側になって、彼女のように強く優しく。行動の指針は俺が決めて、振る舞いは彼女のように。
「た、すけ──」
吐き出しかけた言葉は、喉の奥にべったりと貼りついて消えなかった。それは俺が守るものが発する言葉で、俺が言うべきものじゃない。ただ、誰かに教えてほしかった。ここにいる俺が、まだ〝俺〟でいいのか、分からなかった。
指先が震えて、力が入らない。頭の中では何度も、同じ言葉を口にしている。──〝私はアナ・アマリだ〟。繰り返しても、切り替わらない。スイッチが壊れた。叩き壊されて操作もかなわない。
俺は、アナじゃない。
でも、彼女をなくした俺は、何者だ?
〝天成あまり〟って、誰だ?
誰が、こんな俺を望んだ? 必要とした?
少なくとも俺も、クラスのみんなも、誰も望まない。
床も握った杖も先生の足元も全部、黒い光の粒みたいに溶けていく。耳の奥で何かが鳴っていた。何の音かは分からない。助けてほしい。──誰に? どこから? わからない。あの頃の俺は、そんな泣き言を言わないためにも彼女の心を纏ったはずだった。厳しい鍛錬にも耐えて、未来に進むために、彼女なら吐かない言葉だと自分を戒めることができるから。
けれど今、彼女を呼んでも戻らない。切り替えるスイッチは沈んだまま戻らない、ただの〝俺〟だけが残っている。
もう、声を出そうとしても出ない。言葉にする前に、喉の奥に貼り付いて声帯に絡まる。
不意に、肩を掴まれた。
相澤先生の手だ。さっきまでのごちゃごちゃが嘘のように、先生だけが俺の視界へ輪郭を作った。俺を支える手は強い力が込められている訳でもなく、ただ現実に引き戻すようにそこにあった。
「呼吸しろ」
ただそれだけ。無駄を排した一言だけで、空気が通った。焼けるように痛い気道が外気で冷やされ、肺を酸素が満たしていく。
「戻ってこい」
戻る? どこに……? 疑問の糸を手繰るようにしながら、俺は先生の腕を握った。耳の奥にあった騒がしい音が引いて、風の音だけが耳朶を打つ。
弱々しく縋るだけの俺とは違って、先生の手はしっかりと俺の肩を掴んでいた。
「……いき、してます」
たどたどしく、そう漏らすことしかできない。
「それでいい」
問いも慰めもなく、ただ短い音。俺の肩から一本ずつ指が離れていって、最後に掌が温もりを残し消えていく。それに伴って、絡まっていた何かが解かれていく気がした。
何になろうとしたのか、何を願ったのか、もう分からない。〝アナ・アマリ〟という外装も、彼女の姿も、全部。砂みたいに手のひらから零れていく。
「迷うのは、生きてる証拠だ。止まるな」
今日は帰れ、締めて、先生は俺が立ち上がるのを待っていた。震える足を叱咤しながら元の状態に戻って、床に置かれた鞄と杖を拾う。
冷えたとはいえ、喉はうっすら熱を持ったまま。落ち着いた肺は、どうしようもない空白があった。
迷うのは、生きてる証拠。
そう言われても、〝俺〟は迷っているのかさえ分からない。崩れたものを立て直そうとして、なっていない基礎で崩れる。また立て直す。そんなのは生きていると言えるのだろうか。
「……付き合ってくれて、ありがとうございました」
まだ戻らない声で、お礼だけ。転ぶほどではないが、足元が覚束無い自信はある。今日も駅から自転車を回収出来なさそうだ。
日はすっかり沈んで、オレンジと深い青が混ざりあっている。焼けそうと言うほど激しくはない色を見ながら、真っ直ぐな道を歩いた。
止まるな、と相澤先生の声が聞こえた気がする。その言葉の通り、俺は歩いている。心は、どうだろうか。迷っているかも怪しいけど、どちらかを先に進めるのが正しいか分からない。
考える度、頭の奥が軋んだ。
駅の改札を通って、丁度止まった電車に乗る。ガラガラの車内で座席に座り、振り返ると、窓の向こうの光が流れていった。
腰を捻っても痛くない。歩くのも、腕を回すのも、胸を圧迫する気配は無い。なのに、動く度に身体が沈んでいく。底なし沼でもがいているような錯覚に陥った。……自覚するまでは、戻ってきた身体に喜んでいたのに。
あの時、「俺」と口にした瞬間、壊れたものはどこまで戻るのだろう。
「私」として過ごした時間は、もう演技なのか、本物なのか。
どっちが本物なんだ? どちらが、〝天成あまり〟なのか?
電車を降りて、バス停へと向かった。この時間、家の最寄りに着くのは三十分に一度だけ。十分前に発車したのを知っているから、それまではベンチに座ろう。
ゆらゆらと形を変える影を見下ろしながら、自分みたいだな、と詩的なことを考える。形はないし、触ることも出来ない。
……俺は、何を作ってきたんだろう。
彼女のようにありたかった。けれどその背中を追うたびに、俺という人間が薄まっていくのから目を逸らしていた。
「違う」
薄くなったんじゃなく、今、見え始めたんだ。
天成あまりと呼ばれている俺は、十五歳の身体で、けれどの奥には二十四歳の記憶が詰まっている。十五年分の肉体が二十四年分の思考を抱えて、どっちが上なのか分からなくなっている。
声も、口調も、反応も、全部。誰かと一緒にいたい、誰かに笑って欲しい。高校生らしい馬鹿なことや俗っぽいことをして過ごしたい。弟が見せてくれた画面の向こうのように、初めて〝高校生〟になった自分が、確かにそこにいる。
だからか。
だから、〝俺〟が出たんだ。
その気付きは、気付いたというそれだけだった。
正しいのか、間違いなのかは分からない。けれど少なくとも、今の俺を否定するのは違う気がした。
そういえば相澤先生の抹消使ってる時の色どっちが好き? 原作とアニメでゴリゴリに違うんですけどぉ……
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赤(アニメ)
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金(原作)