STEINS; GATE ~存在証明のレジスタンス~ 作:明治アル蜜柑
2010年11月28日(日)
池袋から急行で10分ほど。埼玉県の和光市という駅からさらにバスで10分。独立行政法人『理化学研究所』からほど近い場所に立っているビルの2階に、目的のオフィスはあった。
『世界脳科学総合研究機構 日本オフィス準備室』
入口のプレートにはそう書かれていた。
三種類の特殊な鍵を使い、さらにセキュリティカードまで使ってようやく、中に入ることができた。
「ここは…?」
「各国の脳科学研究者が連携をして、新しい機構を作る予定なの。私たちの研究所が主導してね」
比屋定真帆が案内してくれた。
オフィスと言っても借りてからまだ間もないのだろう。並んだ事務机のうち、ほとんどが空席で、誰も使った形跡がない。ホワイトボードすら掲げられておらず、殺風景な部屋の印象をさらに濃くしていた。
「ここはあくまでも準備室だから」
そんな中、2席だけ書物などが置かれている机があった。そのうちのひとつ——メモやら計算機やらコーヒーカップやらサプリメントの瓶やら、とにかく色々な物が散乱してグチャグチャと汚い方——に、彼女はバッグを置いた。
もうひとつの整理整頓された机がレスキネン教授のものだろう。
俺は何もコメントしなかった。偉いぞ。
「教授は?」
「今日はオフ」
まぁ日曜だし当然だ。
「君も?」
「ええ。そうじゃなかったら昼過ぎまで寝ていられるわけないでしょう?」
確かに、さっき和光氏の駅前にあるホテルまで迎えに行ったら、寝ぼけ眼で部屋から出てきた。
俺はこの日、レスキネン教授から提案された通り、『Amadeus』の紅莉栖と会せてもらうことになっていた。
ここに来るまでにテスターについての話も教えてもらっていた。
要はサンプルデータが欲しいらしく、俺に24時間いつでも対話をできるような環境を与えてくれる、ということらしい。
「あいつは…紅莉栖の『Amadeus』はここにいるのか?」
「ええ」
彼女は頷いてから俺の方をチラリと一瞥した。
「あいつ、と呼んだわよね。今」
「え、ああ」
「私が思っているよりもずっと親しかったのね、あなたたち」
「………」
答えないことが答えになってしまったかもしれない。
そんな俺の態度に、珍しく逡巡した様子を見せた。
「だとしたら、会うのはやめたほうがいいかも知れないわよ…」
「…どうしてだ?」
「相手が…親しい人であればあるほど、あのシステムは残酷だと思うから」
言いたいことがよく分からない。だが、俺には引くつもりはなかった。
「大丈夫だ」
「…分かった、もう言わない。でもその代わり、ひとつ覚えておいて。ロードする記憶は、紅莉栖が最後に更新をした3月のデータをベースにしたものよ。だから、3月以降……たとえば彼女が日本に留学していたときのことを聞いても、まったく通じない」
そういうことになるな。
「それに、3月から今までの間に、私や教授が何度も起動してしまっているから。そのたびに紅莉栖は——ああ、『Amadeus』の方の紅莉栖ね——彼女は、元の紅莉栖とは違う記憶を蓄積しているわ。私たちが聞かせた話、ネットで検索した情報、新しく会話を交わした人たち……そういったものをね」
「………」
「つまり、これから会うのは、あなたの友人だった牧瀬紅莉栖ではない、ということ。ま、これもこのシステムの問題点のひとつなんだけれど、往々にしてこちら側——つまり人間の方が混乱してしまうのよ。まるで、本当の紅莉栖と、今この瞬間にチャットでもしているような錯覚に陥るから……」
現実と虚構を混同するな、ということか。
「共有できていない記憶の齟齬に関して、こちらの脳がついていけなくなってしまうのね」
共有できていない記憶の齟齬。その感覚なら、うんざりするほどに分かるさ。
リーディングシュタイナー。俺だけが持つ、自分と他者との間に記憶の食い違いを生じさせてしまう力。
「…案内してくれ」
彼女は小さくうなずいた。
「…こっちよ」
部屋の奥へと足を向けた。
その先に分厚いパーテーションで仕切られたブースがあり、その中に入るためには先ほどの鍵とは別のカードキーと暗証番号が必要だった。
「…ずいぶん厳重なんだな」
「今の時代、産業スパイが一番恐ろしいの」
暗証番号を入力すると、ドアのロックが解除された。
「どうぞ」
ブースの中は四畳半ほどの広さになっていた。真っ白なデスク。その上にはモニター一体型のPCが鎮座しているだけ。
「少しだけ後ろに座っていて」
PCでの作業を後ろから見学できるよう、やや小さめのソファが置いてあった。俺はそこに腰掛ける。
彼女はPCの電源を入れ、キーボードを叩き始めた。しばらくして画面に“Amadeus system”という文字が浮かび上がる。IDを打ち込むのが見えた。
“Salieri”
サリエリ?アマデウスに対してサリエリか…。
何か意味があるんだろうか。
そういえば、『アマデウス』という有名な映画には、モーツァルトの天賦の才を妬み、憎み、恨み、しかし心の奥底では彼に心酔しきっている人物が登場する。その人物こそが、サリエリだ。
「パスワードは見ないで」
彼女は自分の身体で手元を隠すようする。俺も視線を逸らした。
システムへのログインが完了し、モニターはコマンドプロンプトが表示されているだけの何の飾り気もない真っ暗な画面になった。
「……準備はいい?」
「ああ。頼む」
プロンプトのあとにコマンドをいくつか打ち込んだ。
「ごめんなさい。ここはちょっと見せられないの」
「まぁ、俺が見たところでさっぱりだけどな…」
「でも、一応ね」
モニターがいったんオフにされる。彼女は椅子を回して俺へと向いた。
「………」
ふと、自分が拳を固く握りしめていることに気づいた。いつからそうしていた?手のひらはジワリと汗ばんでいて、親指の根元のふくらみにツメの食い込んだ跡ができていた。もしかして、思いのほか緊張しているのか、俺は。
「………」
ATFがあったあの日。俺は『Amadeus』の中にタイムマシン論文が眠っている可能性についてしか考えていなかった。だが、これから会うのは“牧瀬紅莉栖”の生き写しなのだ。研究者である比屋定さんが、現実と虚構を混同してしまうほどに精巧に作られた人工知能。
俺はあの日から、紅莉栖の死を吹っ切れたつもりでいた。いや、死なんて言葉で誤魔化すべきじゃない。俺がこの手で殺したというのが真実。
まゆりのおかげで立ち直る事が出来たのだと、自分に言い聞かせてきた。
だが、本当にそうだろうか?
前向きな言葉で着飾って、自分を騙していただけじゃないのか?
こんな俺に、“紅莉栖”と会う資格なんてないんじゃないのか?
そんなネガティブな思考が渦巻く。
「どうしたの?」
「あ、いや…今になってちょっと怖気づいてきた」
「まだ間に合うわよ。今すぐここから出ていけばいいわ」
ここで立ち止まるわけにはいかない。
この手で殺しておいて、被害者のように振舞おうだなんておこがましいにも程がある。
事実は受け止めた。全身全霊で向き合えていないとしても、言葉で飾って逃げようとしていたとしても、それでも俺は前に進むと決めたんだ。シュタインズゲートを目指すと決めたんだ。
拳をギュッと握りしめる。
「…意地が悪いな」
「そう?あなたのこと、心配してあげてるのに」
「だったら、もう少しそれらしい言い方をした方がいい。紅莉栖といい君といい、実験大好きっ子は——」
そう言おうとして踏みとどまる。
何となくだが、この人はその手の表現に理解がないように思う。紅莉栖がねらーであることをひたすらに隠そうとしていたのは、この人に知られたくないからではないだろうか?
この人の前では鳳凰院凶真モードを出すのは控えるべき。そんな気がする。
「実験ばかりに明け暮れているヤツは、可愛げがない」
「今の発言は明らかに誹謗中傷ね。侮辱罪で訴えてあげてもいいわ」
「やめてくれ、恐ろしい」
「いい弁護士を知っているから、紹介してあげましょうか?」
「その前に告訴を取り下げてくれ」
「示談に持ち込もうというのなら、それ相応の金額は覚悟することね」
「あとでドクペをおごるから」
「ふふ。安い」
彼女は喉の奥でくっく……と小さな音を立てた。どうやら笑っているらしい。普通なら癪に障る仕草なのだろうが、不思議と目の前の少女——いや、もう立派な成人女性なのだが——のそれは、不快に感じなかった。
彼女は科学者特有の気難しさが目立っていて、いつもどこか不機嫌そうで、気ばかりやたら強いという印象が強かったのだが、案外憎めない一面もあるみたいだ。
……ああ、そうだ。
彼女はやはり……。
紅莉栖に似ている……。
「…………」
はじめて会った頃の紅莉栖が、やはりそうだった。高慢でいけ好かないヤツ。決して自説を曲げようとせず、頑固で、意固地で、何かひとつ言うと、眉を吊り上げながら詰め寄ってきてはいちいち反論をしてきた。なんて可愛くない女だろうと、心の底から思っていたものだ。
ところが第一印象とは裏腹に、紅莉栖の内面はとてももろく、傷つきやすく、そして、どこまでも優しく、愛おしく——。
『何がおかしいんです、先輩?』