【TS】神様のミスで死にましたが、補償内容が羞恥プレイなんですけど 作:もろきゅー
今夜は、ネリィの家を訪ねる約束をしていた。
先日、夜蜜亭で化粧を教えてもらう話をした際、ネリィの休みを聞いておいたのだ。
「これでよし、と」
化粧道具はアイテムボックスに入っているが、ネリィの前で何もないところから取り出すわけにはいかない。
そこで、大きめの布袋を一つ用意しておいた。袋へ手を入れながら取り出せば、中に入れてきたように見えるはずだ。
俺はローブのフードを深く被ると、いつものように人目のない街の路地へワープした。
薄暗い路地から顔を出すと、通りにはまだ多くの人が行き交っていた。
少し前に妙な男から絡まれたばかりだ。
今夜はできるだけ大通りを選んで歩いた方がよいだろう。
ネリィから教えてもらった道を思い出しながら、街の中心部を抜けていく。
しばらく歩いたところで、甘い匂いが鼻をくすぐった。
通りの端に出された小さな屋台で、丸く平たい焼き菓子が売られている。
焼き上がったばかりらしく、鉄板の上から白い湯気が立ち上っていた。
そういえば、人の家を訪ねるのに手ぶらというのも何だな。
ネリィは気にしないだろうが、ちょっとした手土産くらいは持っていった方がよいだろう。
「これを六つください」
「あいよ。今焼けたところだから、気をつけて持ちな」
俺は代金を払い、紙に包まれた焼き菓子を受け取った。
せっかくなので、一つだけその場で食べてみる。
「あつっ」
思った以上に熱かった。
少し冷ましてから噛みつくと、柔らかい生地から蜂蜜の甘みが広がった。
特別な材料を使った高級な菓子ではない。
麦の香ばしさと、控えめな甘さ。
どこか懐かしさを感じる、素朴な味だった。
めちゃくちゃ美味しいというわけではないが、焼きたてということもあって、なかなか美味い。
この手のものは、やはり出来たてが一番だろう。
俺は残りの焼き菓子を布袋へ入れるふりをして、アイテムボックスへ収納した。
これなら、ネリィの家へ着いてからも温かいままだ。
……ティナ達への土産に、もうちょっと多めに買っておけばよかったかもしれない。
そんなことを考えながら歩き続け、やがて街の外れに近い一角へたどり着いた。
中心部と比べると道幅は狭く、並んでいる建物も古い。
とはいえ、荒れているわけではなかった。
家々の前には小さな鉢植えが置かれ、窓からは暖かな灯りが漏れている。
古くても、住んでいる者たちがきちんと手入れをしているのだろう。
ネリィから教えられた場所にあったのは、二階建ての共同住宅だった。
一つの建物をいくつもの住居へ区切っているらしく、外壁に沿って扉が並んでいる。
壁や階段には年季を感じるが、壊れたところは補修されており、思っていたよりも清潔な印象だった。
夜蜜亭で華やかに働くネリィの住居としては、少し意外だ。
もっと高級な場所に住んでいるものだと思っていた。
教えられていた二階の部屋まで上がり、扉を軽く叩く。
間もなく、内側から足音が聞こえてきた。
「はーい」
扉が開き、ネリィが顔を出す。
「いらっしゃい、モモちゃん!」
「こんばんは。今日はよろしくお願いします」
「うん。どうぞどうぞ。狭いところだけど、入って」
ネリィは笑顔で俺を部屋へ招き入れた。
今日は店で着ていたような華やかな服ではなく、飾り気のない上着と長いスカートを身につけている。
髪も簡単に後ろで束ねているだけだ。
何より、顔にはほとんど化粧をしていない。
店にいる時よりも随分と幼く見える。
美人というより、可愛らしいという言葉の方が似合いそうだった。
仕草も仕事中ほど大人びておらず、どこか年相応に感じられる。
……うん、俺はこっちのネリィの方が好きかもしれない。
いや、別に変な意味ではない。
店で客を相手にしている時より、今の方が自然に見えるというだけだ。
「そこに座って。今、お茶を淹れるから」
「ありがとうございます。あ、そうだ」
俺は肩から布袋を下ろした。
「来る途中で焼き菓子を売っていたので、よかったら一緒に食べませんか?」
「わあ、わざわざ買ってきてくれたの?」
ネリィが嬉しそうに顔を輝かせる。
「ありがとう。じゃあ、お茶と一緒に食べようか」
俺は袋の中へ手を入れ、アイテムボックスから焼き菓子の包みを取り出した。
ネリィは特に疑うことなく受け取ると、小さな卓の上へ置く。
その間に、俺は部屋の中を見回した。
決して広い部屋ではない。
小さな寝台と卓、椅子、衣装箱。それに簡単な調理ができそうな場所がある。
物は多いが、掃除はきちんとされていた。
しかし、何より目についたのは、壁や棚に飾られた品々だった。
色の違う布を縫い合わせて作られた不格好な人形。
木の枝と紐で作った飾り。
誰かの顔らしきものが描かれた絵。
どれも子どもが作ったものに見える。
壁に飾られた一枚の絵には、長い髪の女性が大きく描かれていた。
おそらくネリィなのだろう。
周囲には小さな子どもたちが並び、全員が笑っている。
さらに部屋の奥にある机には、縫いかけの小さな服が何着も置かれていた。
……まさか、ネリィって子持ちなのか?
いや、待て。
そんな話は一度も聞いていないぞ。
俺が部屋を見回していると、二つのコップを持ったネリィが戻ってきた。
「はい、お待たせ。あんまり高いお茶じゃないから、口に合うといいんだけど」
「いえ、ありがとうございます」
ネリィはコップを置くと、俺が見ていた壁へ目を向けた。
「ふふ、たくさんあるでしょう?」
「えっと、この絵や飾りは……」
「全部、私の弟や妹みたいな子たちが作ってくれたの」
「弟さんや妹さんですか?」
「本当の家族じゃないけどね」
ネリィは壁の絵を見上げ、穏やかに笑った。
「私は、この近くにある孤児院で育ったの。そこにいる子どもたちが、私の弟や妹みたいなものなんだ」
「そうだったんですね」
「今でも休みの日には、よく顔を出してるよ。そうすると、みんな『お姉ちゃん』って寄ってきてくれてね。絵を描いたり、変な物を作ったりして渡してくれるの」
変な物とは言いながらも、ネリィの声には嬉しさが滲んでいた。
一つ一つ、捨てずに大切に飾っている。
それだけでも、ネリィが子どもたちを大切に思っていることが分かった。
「奥にある服も、孤児院の子どもたちのものですか?」
「うん。破れた服を預かって直したり、新しい服を作ったりしてるの。子どもって、すぐ服を駄目にしちゃうでしょう?」
そう言いながら、ネリィは苦笑する。
「孤児院の人……私たちはみんなママって呼んでるんだけど、ママも結構な歳だからね。できるだけ楽をさせてあげたくて」
「ネリィさんは、孤児院を出たあとも支援を続けているんですね」
「支援なんて大げさなものじゃないよ。育ててもらった恩返しをしてるだけ」
ネリィは焼き菓子を一つ手に取った。
まだ温かいことに気づき、驚いたように目を丸くする。
「これ、まだ温かい」
「買ってから、それほど経っていませんから」
「じゃあ、冷めないうちに食べよう」
二人で焼き菓子を口にする。
ネリィは一口食べると、嬉しそうに頬を緩めた。
「おいしい。こういう素朴なの、私好き」
「私も先ほど一つ食べましたけど、美味しかったです」
「ふふ。モモちゃん、いいお店を見つけたね」
お茶と焼き菓子を楽しみながら、ネリィは孤児院について話してくれた。
孤児院を出る年齢になった時、自分で暮らすだけでなく、育ててくれた者たちへ何か返したいと考えたらしい。
そこで、普通の仕事よりも多く稼げる夜蜜亭で働くことを選んだ。
「楽な仕事じゃないけどね。でも、頑張った分だけお金にはなるから」
ネリィはそう言って笑った。
「最初は、稼いだお金をそのままママに渡そうとしたの。でも、受け取ってくれなくて」
「遠慮されたのですか?」
「自分のために使いなさいって怒られちゃった」
その時のことを思い出したのか、ネリィが頬を膨らませる。
「だから、今は先に服や食べ物を買って持っていくの。もう買っちゃったから返品できないよって言えば、受け取るしかないでしょう?」
「なるほど」
かなり強引だが、よい方法かもしれない。
「私だけじゃないよ。孤児院を出た子たちは、みんな自分のできるやり方で手伝ってるの。私みたいに食べ物とかを用意して届ける子もいれば、休みの日に料理や掃除をしに来る人もいる」
「皆さん、孤児院のことが好きなんですね」
「うん。貧しかったけど、あそこは私たちの家だから」
ネリィは静かにそう答えた。
「今はお金を貯めて、古くなった建物を直したいと思ってるの。それと、ママの仕事が少し楽になる魔道具も買ってあげたくて」
ネリィ……なんていい子なんだ。
夜蜜亭では客をからかったり、俺を勝手に新人扱いしたりしていたが、その裏でこんなことをしていたとは思わなかった。
「……ネリィさんは、すごいですね」
「あはは、大げさだってば」
ネリィは照れたように笑い、焼き菓子をもう一口齧った。
しばらく他愛のない話をしていると、今度はネリィが俺へ尋ねてきた。
「そういえば、モモちゃんはどうしてドゥル=ブルムへ来たの?」
「私ですか?」
「うん。この街は冒険者や商人には人気があるけど、普通の女の子が住むには、ちょっと物騒でしょう?」
ダンジョンが近く、周辺には強い魔物もいる。
確かに、何の目的もない若い娘が、わざわざ移り住むような街ではない。
どう答えるべきか考える。
ネリィになら、少しくらい事情を話してもよいかもしれない。
聖女に似ていることや、教会から狙われていることまで明かさなければ、問題はないだろう。
「実は、私とよく似た人がいるらしいんです」
「よく似た人?」
「はい。その人が厄介な相手から狙われているようで……私まで、その人と間違えられて追われることがあって、逃げてきたというか……」
ネリィが目を瞬いた。
それから、何かを理解したように「ああ」と声を漏らす。
「それで、化粧を使って別人に見えるようになりたいんだ?」
「そういうことです」
「なるほどねえ」
ネリィは俺の顔をじっと見つめた。
何かを疑っているというより、どう変えればよいか考えているようだ。
「詳しいことは聞かない方がいい?」
「えーっと……」
「うん。分かった」
ネリィはあっさりと頷いた。
「言いにくい事情なら、無理に話さなくていいよ。知らない方がいいこともあるだろうしね」
「ありがとうございます」
余計な詮索をされないことに、少しだけ肩の力が抜ける。
「それで、先日買った化粧道具を持ってきました。教えていただけますか?」
「もちろん!」
俺は大きな布袋を持ち上げた。
手を中へ入れたままアイテムボックスを使い、化粧品を一つずつ取り出していく。
肌へ塗る粉や香油。
眉や目元へ使う細い筆。
色の違う化粧料。
頬や唇へ使うもの。
最後に、先日購入した栗色のウィッグも取り出した。
「わあ……」
最初は楽しそうに見ていたネリィの顔が、次第に引きつっていく。
「モモちゃん、ずいぶん買ったね」
「何が必要なのかよく分からなかったので、勧められたものを一通り買ってみました」
「一通りって量じゃない気がするけど……このウィッグも、かなりいい物だよね?」
「だいぶ奮発しました」
「でしょうね……」
ネリィはウィッグを手に取り、毛の質を確かめる。
それから化粧品を一つずつ確認し、何度も頷いた。
「うん。これだけあれば十分。むしろ、余るくらいだよ」
「本当ですか?」
「本当本当。じゃあ、そろそろ始めようか」
ネリィは卓の上を片づけると、鏡と小さな灯りを用意した。
俺を鏡の前へ座らせ、自分は隣へ腰を下ろす。
「まず覚えておいてほしいんだけど、綺麗にする化粧と、別人に見せる化粧は違うの」
「なるほど」
「モモちゃんを綺麗にするだけなら簡単だよ。元がいいから、少し整えるだけでいいもの」
ネリィは俺の前髪を軽く持ち上げ、顔を観察する。
「でも、今回はモモちゃんの顔を綺麗にするんじゃなくて、見た人の印象を変えたいんでしょう?」
「はい」
「だったら、目立つところを強調するんじゃなくて、少し隠していくの。化粧は色を足すだけじゃないんだよ」
ネリィは、俺の顔の右半分へだけ化粧を始めた。
「まずは肌。最初から厚く塗ったら駄目。薄い色を少しずつ重ねていくの」
俺の肌よりも僅かに温かみのある色を使い、丁寧に馴染ませていく。
「それと、モモちゃんは目の下のクマも隠した方がいいね」
「やっぱり目立ちますか?」
「うん。肌が白いから、余計に目立つんだと思う。でも、上から明るい色を厚く塗るだけじゃ駄目だよ。そこだけ白く浮いちゃうから」
ネリィは目の下へ、俺の肌より僅かに温かみのある色を薄く置いた。
「まず、暗く見える部分にこの色を薄く馴染ませてから、周りの肌と同じ色を少しずつ重ねるの」
筆が何度か優しく動く。
鏡を確認すると、目の下に残っていた暗い影が、ほとんど分からなくなっていた。
「おお……消えた」
クマがなくなっただけで、随分と健康そうな顔に見える。
っていうか、これではますますシエルと同じ顔だ。
「完全に塗り潰そうとしないのが大事。近くで見ても不自然にならない程度でいいんだよ」
次に眉の形を変えた。
普段より少し太く、柔らかく下がった形に整える。
「眉だけでも、結構印象が変わるでしょう?」
「本当だ……」
「モモちゃんは目がすごく印象的だから、ここも少し変えようか」
目を大きく見せるのではなく、横幅を短く見せるように影を入れる。
さらに目尻を僅かに下げ、丸みを強くした。
頬にも薄く色を加え、顔の輪郭が少しふっくら見えるように調整する。
最後に鼻の上へ、小さなそばかすをいくつか描いた。
「よし。これで片側は終わり」
鏡を見る。
「おお……」
顔の右側と左側で、印象がまるで違っていた。
左側は見慣れた自分の顔だ。
右側は、少し幼く、柔らかそうな少女に見える。
同じ顔なのに、ここまで変わるものなのか。
「ネリィさんは、いつから化粧をしていたんですか?」
「化粧道具に触り始めたのは、孤児院にいた頃からだよ。孤児院を出たお姉さんが、古い道具を譲ってくれたことがあってね」
「そんなに小さい頃から?」
「最初は、みんなの顔に塗って遊んでただけだよ。本格的に教わったのは夜蜜亭に入ってから。でも、顔の印象を変えるのは昔から好きだったの」
「顔の印象を変えるのが得意なのは、その頃からなんですね」
「そうかもね」
ネリィは楽しそうに笑う。
「それじゃあ、反対側はモモちゃんがやってみて」
「わかりました」
ネリィから道具を受け取り、鏡を見ながら左側へ化粧を始める。
まずは肌の色を整える。
ネリィの動きを思い出しながら塗ってみたが、どうにも上手くいかない。
「……何だか、ぺったりしていませんか?」
「塗りすぎだね」
「やっぱりですか」
「力を入れないで。色を塗るんじゃなくて、薄く置いていく感じ」
言われたとおりにしてみるが、今度は薄すぎる。
眉も片方だけ妙に高くなってしまった。
鏡の中では、右側の俺が優しそうに笑い、左側の俺が怒っているように見える。
「顔の左右で、別の感情になってますね……」
「ふふっ……ご、ごめん。笑っちゃ駄目なんだけど」
ネリィは口元を押さえながら肩を震わせている。
「うぐぐ……笑ってるじゃないですか……」
「だって、片方だけすごく強そうなんだもの」
一度、左側の化粧だけを落とし、最初からやり直す。
二度目は眉の高さを揃えることができた。
しかし、今度は目元の影を濃くしすぎた。
「これだと、別人というより疲れてる人だね」
「うぅ……難しいですね」
「最初から上手くできる人なんていないよ。ほら、ここをもう少し薄くして」
ネリィに手を添えられ、筆の動かし方を教えてもらう。
三度目は、頬へ入れる色が濃すぎた。
まるで熱でもあるような顔になった。
四度目。
ようやく、ネリィが作った右側と大きく変わらない仕上がりになった。
「うん。今度はいい感じ」
「本当ですか?」
「初めてにしては上手だよ。モモちゃん、結構器用なんだね」
ネリィが細かな部分を直していく。
眉の端を少し整え、目元の影を馴染ませる。
そばかすの位置も、左右で不自然にならないように調整した。
化粧が終わると、今度はウィッグを被る。
髪は肩へ触れるほどの長さで、毛先が僅かに内側へ曲がっている。
ネリィは生え際が見えないように位置を整え、前髪を少しだけ下ろした。
「はい。完成」
鏡に映った自分の顔を見つめる。
金髪のアウラとも、青い髪のモモとも違う。
栗色の髪に、柔らかく下がった眉。
目元は普段より丸く見え、顔つきも少し幼い。
いつも目の下にあったクマもほとんど見えず、普段より健康的で明るい顔に見えた。
鼻の上に描かれたそばかすもあって、どこか素朴な雰囲気がある。
美人というより、可愛らしい少女という印象だ。
「おお……本当に別人みたいですね」
「でしょう?」
ネリィが満足そうに胸を張る。
「普通の顔にするのは難しいけどね」
「難しいんですか?」
「だって、モモちゃんは元が綺麗すぎるもの。どうやっても可愛くなっちゃうよ」
そう言われ、もう一度鏡を見る。
うん、これはこれで、なかなか可愛い。
少し幼くなった感じも悪くないな。
「モモちゃん、今、自分のこと可愛いって思ったでしょう?」
「な、なぜ分かったんですか?」
「顔に出てた」
ネリィが声を上げて笑う。
そんなに分かりやすい顔をしていただろうか。
「うんうん、今日はこれくらいでいいんじゃないかな」
「ありがとうございました。本当に助かりました」
「これから何度も練習すれば、もっと早く上手にできるようになるよ」
「これで、前よりは安心して外を歩けそうです」
「でも、油断は駄目だからね」
ネリィは人差し指を立てた。
「相手がモモちゃんのことをよく知ってたら、声や動きで気づくかもしれない。顔が変わったからって、絶対に見つからないわけじゃないよ」
「はい。気をつけます」
化粧の練習をしているうちに、随分と時間が経っていた。
窓の外はすっかり暗くなっている。
「そろそろ遅いので、今日は失礼します」
「うん。また来てね」
ネリィは俺を扉まで見送る。
「お店にも、家にもね」
「あはは……お店は、客としてなら」
「えー。また一緒にやろうよ。モモちゃん、すごく似合ってたのに」
「か、考えておきます」
「今、考えておくって言ったからね?」
「言いましたけど、やるとは言ってませんよ」
「ふふ。じゃあ、気が変わるのを待ってる」
笑顔で手を振るネリィに頭を下げ、部屋をあとにした。
二階から階段を下り、共同住宅の外へ出る。
夜の空気が頬へ触れた。
辺りはすっかり暗くなっているが、通りには一定の間隔で魔道具の灯りがともっている。
俺は反射的にローブのフードへ手を伸ばしかけた。
しかし、今はいつもの顔ではない。
栗色のウィッグを被り、ネリィに教わった化粧をしている。
せっかくなので、フードを被らずに歩いてみることにした。
「おお……」
何だか、すごい開放感だ。
最近は街へ出るたびにフードを深く被っていた。
周囲から顔を見られないよう、常に気を遣っていたのだ。
今は堂々と顔を出して歩ける。
すれ違う人がこちらを見ることはあるが、驚いて立ち止まるほどではない。
以前の俺なら、何人もの男が振り返っていたはずだ。
ネリィの化粧は、しっかり効果を発揮しているらしい。
このまま帰ってもよいが、もう少しだけ新しい姿を試してみたい。
俺は人通りの多い道を選び、夜の街を散歩することにした。
店じまいを始めた商店の前を通り過ぎようとした時、積み上げられた大きな木箱が目に入った。
腰の曲がった老店主が、一つの木箱を持ち上げようとしている。
「そっちは依頼に入ってないから、もういいんだよ」
店主が、誰かへ声をかけた。
「でも、このまま外へ置いておくわけにはいかないですよね?」
聞き覚えのある声だった。
俺は足を止める。
「これくらいなら、ついでにやっちゃいますよ~」
木箱の陰から姿を現したのは、背の高い黒髪の女性だった。
短く切られた髪。
鍛え抜かれた大きな身体。
修道服にも似たローブの背には、飾り気のないメイスが下げられている。
「ヴェルノ……?」
思わず小さく名前を漏らす。
ヴェルノは大きな木箱を両腕で抱え上げた。
普通なら二人がかりで運びそうな大きさだが、本人は軽い箱でも持っているような顔をしている。
「これは、どこへ置けばいいですか?」
「奥の倉庫だけど、本当にいいのかい?」
「はい。すぐ終わりますから」
ヴェルノは木箱を抱えたまま、店の奥へ歩いていった。
間もなく戻ってくると、今度は残っていた二つの箱を一つずつ両脇へ抱える。
「そ、それも一度に運ぶのかい?」
「何度も往復するより早いですから!」
ヴェルノは明るく笑い、二つの木箱をひょいひょいと運んでいく。
店主は呆れたように見送っていたが、やがて楽しそうに笑った。
「本当に力持ちだねえ。助かったよ、ヴェルノちゃん」
「いえ! これくらい大したことじゃありません!」
最後の荷物を運び終えたヴェルノが、嬉しそうに胸を張る。
どうやら、店主ともすでに顔馴染みらしい。
冒険者になったあと、どうしているのか少し気になっていた。
いきなり危険な依頼へ出ていなければよいと思っていたが、今は街中の仕事を受けているようだ。
「よう、ヴェルノ」
別の方向から、女の声がした。
振り返ると、一人の冒険者がこちらへ歩いてくる。
サラだった。
「また頼まれてないところまで手伝ってたのか?」
サラが呆れたように尋ねる。
「だって、店主さん一人では大変そうだったんです」
ヴェルノは悪びれる様子もなく答えた。
「それに依頼された分は、ちゃんと終わらせましたよ!」
サラが店先を見回し、笑みを浮かべる。
「依頼主が喜んでるなら悪いことじゃないけど、報告の時間には遅れるなよ」
「はい!」
元気よく返事をしたあと、ヴェルノが空を見上げる。
途端に表情が変わった。
「も、もうこんな時間ですか!?」
「まだ間に合うから、そんな顔するな」
サラが苦笑する。
「ほら、依頼の報告に戻ろうぜ」
「はい!」
「ヴェルノちゃん、今日は本当にありがとうね」
店主が声をかけると、ヴェルノは振り返り、大きく手を振った。
「また何か困ったことがあったら、声をかけてください!」
「だから、何でも無料で引き受けるなって」
「無料ではありませんよ。今日はちゃんと依頼を受けています!」
「追加分の話をしてるんだよ」
「あっ……」
サラが笑い、ヴェルノも照れくさそうに笑った。
二人は親しげに話しながら、こちらへ歩いてくる。
俺は通行人を装い、道の端へ寄った。
ヴェルノが一瞬だけ俺へ視線を向ける。
目が合った。
「こんばんは」
ヴェルノは見知らぬ相手へするように、軽く頭を下げた。
「こ、こんばんは」
俺も返事をする。
それだけだった。
ヴェルノは俺だとは気づかなかったらしく、サラとともにそのまま通り過ぎていった。
おお、本当に気づかれなかった。
少なくとも、ヴェルノもサラも俺に気づいた様子はなかった。
変装はかなり上手くいっているのではないだろうか。
それにしても、冒険者として上手くやれているのか心配していたが、どうやら余計な心配だったらしい。
依頼主からは感謝され、先輩のサラにも可愛がられている。
ヴェルノは、俺が思っていた以上に早く、この街へ馴染んでいるようだ。
二人は冒険者ギルドへ依頼の報告に戻るらしい。
俺は少しだけ考えた。
ここまで来たのなら、ヴェルノが冒険者としてどのように過ごしているのか、もう少し見ておいてもよいかもしれない。
シエルにも伝えてあげれば、きっと安心するだろう。
新しい変装の効果を確かめることも兼ねて、俺は二人の背中を追うことにした。