【TS】神様のミスで死にましたが、補償内容が羞恥プレイなんですけど 作:もろきゅー
ゲオルグは屋敷に残る騎士たちへ一通りの指示を出した後、自室へ戻っていた。
街の各所に魔物が現れたという報告は受けている。しかし、正門が破られたわけでも、城壁を越えて大軍が侵入してきたわけでもない。にもかかわらず、いつの間にか街の中へ魔物が入り込んでいるという。
ならば、ブルム家の敷地内だけは安全だと考える理由もなかった。
万が一ここまで魔物が入り込んできた時、主の屋敷を、そしてラルフやリリアを守れなければ、何のために自分が残っているのか分からない。
自室の奥に置かれていた、若い頃から使い続けてきた剣を手に取る。何度も研ぎ直し、刃こぼれを修復し、柄も交換してきたため、最初の頃から残っている部分がどれほどあるのかは分からない。それでも、ゲオルグにとっては間違いなく長年連れ添ってきた相棒だった。
鞘から僅かに引き抜いて刃の状態を確かめた後、剣を腰へ下げ、今度は動きを阻害しない革の胸当てを身につける。
現役だった頃ならば、この程度の装備で戦場へ出ようなどとは考えもしなかっただろう。もっと重い鎧をまとい、それでも一日中走り回っていたものだ。
だが、今の身体で同じことをすれば、敵と戦うより先に自分の体力が尽きる。軽い胸当てを身体へ固定しながら、ゲオルグは小さく苦笑した。
こうして実際に有事となってみると、何とも心許ない。
とはいえ、自分一人ですべてを背負わなければならなかった時代は、とうに過ぎている。
カルスをはじめ、若い騎士たちも随分と成長した。カルスの父とは若い頃に何度も剣を競い合ったものだが、あの父にしてあの息子ありということなのだろう。剣技だけなら、自分たちが同じ年頃だった時よりも上かもしれない。礼儀も覚え、部下の面倒も見られるようになった今なら、いずれ安心して後を任せられる。
それに、最近クラウスが盾の会から引き抜いたロイドもいる。
騎士としての礼儀作法はまだ学ぶところが多いが、その分、冒険者として培ってきた柔軟さがある。対魔物という一点ならば、下手な騎士より余程頼りになるだろう。
これからのブルム家には、ああいう者も必要なのかもしれない。
装備を整えたゲオルグは自室を出ると、屋敷の各所を見回った。貴重品を保管している部屋の施錠を確認し、残っていた使用人へ避難を急ぐよう声を掛ける。外へ通じる扉や窓についても、一つずつ確かめていった。
歳を取ったせいなのか、こういう時ほど昔のことや、これから先のことが頭へ浮かんでくる。
ゲオルグは小さく首を振った。今は感傷に浸っている場合ではない。クラウスが不在の間、この屋敷を守るのが自分の役目だった。
そう考えた直後、腹の底まで揺さぶるような轟音が響いた。
「っ……!」
屋敷そのものが大きく震え、ゲオルグの身体も僅かによろめく。壁に飾られていた絵が傾き、棚の上に置かれていた小物が床へ落ちた。
地震などではない。
音のした方向へ顔を向け、近くの窓から外を確認する。
「……何という」
思わず声が漏れた。
つい先ほどまでそこにあったはずの、歴史あるブルム家の正門が半ば吹き飛んでいる。
分厚い門扉は原形を失い、周囲の石材まで砕けて地面へ散乱していた。
土煙の向こうでは門を警備していた騎士たちが倒れ、ある者は身体を起こそうとし、ある者は仲間へ肩を貸している。
そして、その中心に一人の少女が立っていた。
奇妙な形状の兜に、丸みを帯びた箇所と鋭角的な箇所が入り交じった特徴的な鎧。肩には、人間が扱うにはあまりにも大きな、髑髏の意匠が施された巨大な鉄槌を担いでいる。
見間違えるはずがない。
以前、リリアがアウラたちと外出した際に出会った少女だ。
確か──フィア。
ゲオルグはすぐに踵を返し、屋敷の外へ向かった。なぜフィアがここにいるのか。何のためにブルム家を襲ったのか。疑問はいくらでもあったが、今は考えるより先に動かなければならない。
外へ出ると、すでに数人の騎士がフィアを取り囲んでいた。
「何者だ!」
一人が声を張り上げる。
問われたフィアは、大きな鉄槌を肩に担いだまま楽しそうに笑った。
「んー? ただの侵入者だよ~。ほらほら、遠慮しなくていいから、早く掛かってきなよ」
「ほざけ!」
騎士の一人が地面を蹴り、正面から距離を詰めてフィアへ剣を振り下ろす。
だが、フィアは慌てる様子すら見せなかった。肩に担いでいた巨大な鉄槌を軽々と動かし、その柄で振り下ろされた剣を受け止める。
金属同士が激しくぶつかり合った直後、フィアは鉄槌の柄を軸にするように身体を回転させ、その勢いのまま騎士の腹を蹴りつけた。
「ぐぁっ!」
鎧を着込んだ男の身体が、冗談のように宙へ浮く。数メートルも吹き飛ばされ、そのまま地面を何度も転がっていった。
「一人ずつじゃ相手にならないんじゃないかな~。全員で掛かってきた方がいいと思うよ?」
「三人で行くぞ!」
今度は騎士三人が動いた。一人が正面から注意を引き、左右へ分かれた二人が同時に距離を詰める。日頃から訓練している者たちらしい、悪くない連携だった。
しかし、フィアは背後から振るわれた剣を、まるで最初から見えていたかのように身体を沈めてかわす。
「ほら~。だから、もっと来た方がいいって言ってるじゃん~」
そのまま鉄槌の柄を地面へ突き立て、それを軸に身体を浮かせると、伸びた脚で騎士の足を払った。体勢を崩した一人が倒れると、今度は別の騎士の胸当てを片手で掴む。
「なっ──」
成人男性、それも鎧を着込んだ騎士の身体が、片腕だけで持ち上げられた。
そのまま投げ飛ばされた男は三人目へ激突し、二人揃って地面へ転がる。
ゲオルグは思わず眉を寄せた。
人間の力ではない。
鎧を着た騎士を片手で投げ飛ばすほどの膂力を持ちながら、本人は重量のある鎧と巨大な鉄槌を身につけているとは思えないほど軽快に動いている。
自分が現役だったとして、あれにどこまで食らいつけるだろうか。
そう考えたところで、答えは出なかった。
「侵入者だ! 巡回中の者は正門へ! 持ち場にいる者はそのまま警戒を続けろ!」
屋敷外の指揮を任せていた騎士が声を張り上げる。その判断に、ゲオルグは内心で頷いた。
全員をここへ集めるべきではない。フィアが単独だという保証はない。
むしろゲオルグには、もう一人覚えている人物がいた。
以前フィアを迎えに来た、長い黒髪の少女。名は確か、リゼット。
自らフィアの仲間だと名乗っていたはずだ。
フィアがここにいるからといって、必ずリゼットもいるとは限らないが、警戒しておくに越したことはない。
「ゲオルグ様!」
「こちらへ二名。裏手と東側の警戒を強めてください。正面だけを見ないように」
「はっ!」
騎士たちへ指示を出しながら、ゲオルグはフィアから目を離さなかった。
新たに集まった騎士たちが距離を取りながら彼女を囲む。それでもフィアは全く動じておらず、兜によって目元までは見えないものの、その口元には明らかな笑みが浮かんでいた。
「うーん……おにーさんはいないのかな。ちょっと残念」
ロイドのことだろう。
以前顔を合わせた時、この少女は彼のことをそう呼んでいた。どういう理由でロイドを気に入っているのかまでは分からないが、今この状況で名前を出す余裕があることだけは確かだった。
騎士たちが一斉に動く。
四方から剣が迫る中、フィアは巨大な鉄槌を大きく振り上げた。何かを察した騎士たちが咄嗟に距離を取った直後、その鉄槌が地面へ叩きつけられ、眩い光が弾ける。
「──っ!」
轟音と共に爆発が起こった。
空気そのものが叩きつけられたような衝撃に、騎士たちがまとめて吹き飛ばされる。ゲオルグも腕で顔を庇いながら数歩後退し、地面へ目を向ければ、大きな亀裂が走り、砕けた石が辺りへ散らばっていた。
先ほど正門を破壊したのも、あの武器なのだろう。
蒸気が抜けるような奇妙な音と共に、フィアの兜や鎧の隙間から熱気が吹き出している。爆発を制御するためのものなのか、それとも別の役割があるのかまでは分からないが、あの鉄槌と鎧には何らかの仕掛けが施されているらしい。
それでも、吹き飛ばされた騎士たちは動いていた。
威力を抑えた。
ゲオルグはすぐに気づいた。本気で殺すつもりなら、今の一撃で何人かは死んでいてもおかしくない。
「痛たた……」
「立て! まだ来るぞ!」
騎士たちが互いに支え合いながら立ち上がる。それを見たフィアは、むしろ楽しそうに鉄槌を肩へ戻した。
「まだまだいけるよね?」
何かがおかしい。
ただブルム家を襲うつもりなら、なぜ手加減する。門を破壊するほどの力を見せながら、人間そのものは殺そうとしない。それどころか、何度もこちらを煽り、より多くの騎士を自分へ集めようとしているようにすら見える。
時間を稼いでいる。
その考えが浮かんだ瞬間、ゲオルグは屋敷へ目を向けた。
「……まさか」
フィアには仲間がいる。
そして今、屋敷にいる中で最も守らなければならないのは──。
「あなた」
近くにいた騎士を呼び止める。
「はっ!」
「ただちにリリア様たちの避難室へ向かってください。ラルフ様へ、避難路を使い屋敷から離れるようお伝えするのです」
「避難室を出られるのですか?」
「状況が変わりました。敵が敷地内へ侵入した以上、屋敷の中に留まる方が危険です」
「承知しました!」
「避難を開始されたことを確認したら、必ず私のところへ戻って報告してください」
「はっ!」
騎士が屋敷へ駆け込んでいくのを見送ると、ゲオルグは再びフィアへ視線を戻した。
戦いは続いていた。
騎士たちは決して弱くない。フィア一人を相手に複数人で連携し、時には剣を届かせるところまで迫っている。それでも攻撃は届かず、フィアは鉄槌の柄で受け、身体を捻ってかわし、時には素手で剣の軌道そのものを逸らしてしまう。
そして反撃は、やはり致命傷にならない程度だった。鎧ごと殴られ、蹴り飛ばされ、投げられ、騎士たちは次々と倒れていく。それでも多くが再び立ち上がれる程度には手加減されていた。
完全に遊ばれている。
だが、それ以上に気になることがあった。
先ほど送った騎士が戻ってこない。
避難室までは、それほど時間のかかる距離ではない。ラルフたちへ事情を伝え、避難路へ送り出して戻ってくるだけなら、そろそろ姿を見せてもよい頃だった。
ゲオルグは楽しそうに騎士たちを相手にするフィアを見つめ、その脳裏にもう一人の少女の姿を浮かべる。
「……遅い」
嫌な予感がした。
「こちらをお願いします」
ゲオルグは屋敷外の指揮を任せていた騎士へ歩み寄った。
「ゲオルグ様?」
「あの者を倒そうとは考えないでください」
「しかし──」
「今の我々では無理です」
きっぱりと言い切る。
認めたくないことではあるが、状況を正しく判断できなければ指揮官とは言えない。
「あの者は我々を殺すつもりなら、とっくにそうしています。生き残ることを最優先に、可能な限り引きつけてください。くれぐれも深追いはしないように」
「……承知しました」
「私はリリア様たちの避難を確認して参ります。もしまだ出ていないのであれば、そのまま避難路から脱出させます」
「お気をつけて」
「ええ。ここを頼みます」
ゲオルグは屋敷へ戻り、廊下を早足で進んでリリアたちを案内した隠し通路へ向かった。
やがて目的の場所へ辿り着いたところで、足が止まる。
壁に隠されているはずの入口が、開いたままになっていた。
「……」
本来ならば、使用後は必ず閉じる決まりになっている。侵入者に避難室の存在を悟らせないためであり、伝令の騎士がその程度の決まりを忘れるはずもない。
ゲオルグは腰の剣を抜くと、それまでの速足から一転して足音を抑えながら地下へ下りていった。壁際の灯りが一つずつ点灯し、階段を下りきって間もなく、前方に倒れている人影が見える。
「……っ」
先ほど送り出した騎士だった。
ゲオルグはすぐに傍へ膝をつき、首筋へ指を当てる。脈はあるが、首には何かを強く巻きつけられたような傷跡が残っていた。死んではいないようだが、声を掛けても反応はなく、完全に意識を失っている。
「やはり、侵入者が……」
その時だった。
「うぉぉぉぉおおおお!」
地下通路の奥から騎士の雄叫びが響き、直後に何かが激しく壁へ叩きつけられるような音がした。
ゲオルグは即座に立ち上がり、剣を手にしたまま走る。
避難室へ続く通路を抜けると、頑丈な扉は開かれ、その手前には騎士が一人倒れていた。室内にいるもう一人の騎士も、壁際へ吹き飛ばされたのか、苦しげに身体を起こそうとしている。
そして、その避難室の入口に一人の女が立っていた。
長い黒髪に、地味なローブ。その後ろ姿には見覚えがある。
「……これはこれは」
ゲオルグが声を掛ける。
「あの時のお嬢さんではありませんか」
女が振り返った。
整った顔立ちには、場違いなほど困ったような表情が浮かんでいる。
間違いない。以前、リゼットと名乗っていた女だ。
「あら……」
リゼットが僅かに目を丸くする。
「覚えているんですか?」
「もちろんでございます。フィアさんを迎えに来られ、リゼットと名乗っておられましたね」
ゲオルグはリゼットから目を離さないまま、その向こうを確認する。
ラルフが剣を抜き、リリアを背後へ庇っている。さらにティナとカイトも武器を手にしていた。
四人とも無事だ。
どうやら、危機一髪だったらしい。
倒れた騎士へ一瞬だけ視線を落とし、ゲオルグは再びリゼットを見た。
「上でフィアさんが騒ぎを起こしている時点で、あなたも関わっている可能性は考えておりましたが……まさか、すでにここまで入り込まれているとは」
「あ、あはは……。フィアさんが目立ってくれている間に、私は裏から入らせていただきまして……。騎士の方々には、少し眠っていただきました」
ゲオルグは倒れた騎士たちに視線を向け、その後に開け放たれた避難室の扉へ目を向けた。
扉そのものが破壊された様子はなく、鍵も壊されてはいない。
「……しかし、一つ分かりませんな」
「はい?」
「この避難室の鍵を、どうやって開けられたのです?」
「あぁ、これですか?」
リゼットは思い出したようにローブへ手を入れると、手のひらほどの小さな箱を取り出した。
「うねうね君です」
「……うねうね君?」
「はい。主様に作っていただいたんです。鍵穴に入れると、中の形を調べて開けてくれるんですよ」
そう言いながら、リゼットが箱の先端をこちらへ向ける。
小さな突起の先から細いものが何本も顔を覗かせ、糸とも触手ともつかないそれらは、何かを探すように空中でうねうねと蠢いていた。
ゲオルグは思わず眉をひそめる。
「……随分と悪趣味な道具ですな」
「えっ、こんなに可愛いのに?」
「その感性については、理解しかねます」
「あ、あはは……よく言われます」
目の前に倒れている騎士など存在しないかのような口調だった。その態度に薄気味悪さを覚えながらも、ゲオルグは表情を変えない。
「それで、目的は何ですかな?」
「あぁ、そうでした」
リゼットが思い出したように手を合わせる。
「ええっと……どうか教えていただきたいんですが、聖女様を迎えに来たんです。こちらにいらっしゃるんじゃないかと思ったんですが……」
「聖女様、ですか?」
「はい。ほら、この間リリア様と一緒にいた方です。緑の瞳をした……アウラ、と名乗っている方ですよ」
ゲオルグは僅かに眉を動かした。
アウラを狙っている者たちは、彼女を聖女と勘違いしている──アストルの冒険者ギルド長、ロドリスから届いた書簡にもそう記されていた。どうやら、その者たちというのがリゼットたちらしい。
「さあ……いずれにしても、その方はこちらにはいらっしゃいません。お帰り願えませんかな?」
「そ、そんなぁ……。ここだと思ったんですけど……。どうしよう。このまま帰ったら、ドルガさんに怒られちゃいます……」
リゼットは本当に困ったように眉を下げた。
会話を続けながら、ゲオルグは僅かに視線を動かした。
ラルフと目が合う。
避難路。
ほんの一瞬だけ奥の扉へ視線を送り、すぐに戻す。それだけでラルフの表情が変わった。
伝わった。
ゲオルグは何事もなかったようにリゼットへ視線を戻す。
「残念ですが、私には分かりかねますな」
「困りました……。どうしよう……」
その間にラルフがゆっくりと後退し、リリアの肩を抱いてティナとカイトへ合図を送る。
奥の扉が静かに開いた。
「あ」
リゼットが気づく。
「ちょ、ちょっと~……」
振り返ろうとした、その瞬間。
「大丈夫ですよ」
「ほえ?」
ゲオルグの声に、リゼットの顔がこちらへ戻った。
「あなたは怒られません」
「ど、どうしてですか?」
ゲオルグの表情から、執事としての柔らかさが消えた。
「ここまでのことをしておいて──」
腰を落とす。
「楽に死ねると思うなよ、小娘」
「えっ──」
ゲオルグの身体が一気に前へ出た。
歳を重ねたとはいえ、何十年と繰り返してきた動きだ。一瞬で間合いへ入り、狙うのは肩口。まず片腕を使えなくし、その後で拘束する。
何者なのか。何を目的としてブルム家を襲ったのか。そして仲間は何人いるのか。
知っていることを、すべて吐かせる。
獲った──そう思った瞬間、刃が硬い何かへ激突した。
「なに!?」
リゼットの前に、突如として氷の柱が生えていた。剣がその表面へ食い込み、細かな氷片が飛び散る。
「こわいこわい……」
リゼットが肩を竦めた。
「お年を召されているのに、すごく速いのでびっくりしました」
「チッ……魔法使いか」
ゲオルグは剣を引き抜く。
「大人しく斬られておけば楽だったものを」
そのまま踏み込み、リゼットの腹へ蹴りを叩き込んだ。
「うぐっ!」
小柄な身体が壁へ吹き飛ばされる。
間を置かず追撃に移ろうとした瞬間、リゼットの右腕が僅かに動いた。長年の経験が危険を告げ、ゲオルグは咄嗟に身体を横へ逸らす。
空気を切り裂くような音と共に、何かが顔のすぐ横を通過した。
「鞭……か」
リゼットの右手から、細長い鞭が伸びている。
「すごいです……」
リゼットが目を丸くした。
「初見で避けた方、初めてかもしれません」
床を這う鞭は、まるで生き物のように僅かにうねっている。
「うねうね君と似てて、とっても可愛いんですよ、この子」
「私には理解できませんな」
言葉が終わるより先に、リゼットの腕が振られた。
鞭が唸る。
速い。
しかし、見えないわけではない。
ゲオルグはリゼットの肩と手首の動きから軌道を読み、半歩だけ身体をずらした。鞭が目の前を通り過ぎる。普通の鞭なら、ここで隙が生まれる。
ゲオルグは一気に距離を詰めようとしたが、その足元から氷が突き出した。
「っ!」
咄嗟に踏み込みを止め、身体を捻る。鋭く尖った氷柱が服の端を掠め、さらに二本、三本と氷が飛来した。
ゲオルグは一つを剣で弾き、残りを身体を沈めてかわす。
直後、再び鞭が迫った。
「チィ……!」
氷と鞭、二つの攻撃を同時に捌かなければならない。
若い頃ならば、もう少し余裕があっただろうか。
呼吸は次第に早くなり、脚にも重さを感じ始めていた。それでも、長い年月を騎士として生きてきた身体は、考えるより先に最適な場所へ足を運んでくれる。
氷をかわし、鞭を避け、時には剣で氷を砕きながら、少しずつ間合いを詰めていく。
焦るな。
必ず隙はできる。
リゼットの右腕が大きく振られ、鞭が横薙ぎに走る。ゲオルグはその下へ潜り込んだ。
同時に氷が二本、左右から飛んでくる。
身を捻って一方をかわし、もう一方を剣で叩き落とした。
リゼットの身体が開く。
今だ。
「だらああああああっ!」
残っていた力を一気に脚へ込め、剣を突き出す。
狙いは胸。
刃先がリゼットを捉えた。
「──っ!」
確かな手応えと共に、小柄な身体が勢いよく後方へ吹き飛び、そのまま床を転がっていく。
リゼットは動かない。
「はぁ……はぁ……」
ゲオルグは肩で息をしながら剣先を下げた。
身体がひどく重い。この程度の戦闘で、これほど息を切らす身体になっていたのかと思うと、否応なく老いを実感させられる。
現役だった頃の自分が見れば、何と言うだろうか。
だが、仕留めた。
間違いなく急所を捉えたはずだ。
膝が折れそうになるのを堪えながら避難路へ目を向ける。すぐにラルフたちを追わなければならない。
そう思った時だった。
「び、びっくりしましたよぉ……」
声がした。
「……何?」
倒れていたリゼットの身体が動き、ゆっくりと上体を起こすと、そのまま何事もなかったかのように立ち上がった。
「主様に頂いた鎧がなかったら、本当に死んでいたかもしれませんね……」
リゼットが破れたローブへ手を掛け、そのまま脱ぎ捨てる。
下から現れた奇妙な鎧を見て、ゲオルグは目を細めた。
異様なほど肌を露出する形状。細かな意匠こそ異なるものの、髑髏の装飾が施されたその鎧は、アウラが身につけているものとどこか似ている。
「ちょっと、大胆なところが玉に瑕なんですが……」
リゼットは服についた埃を払うような仕草をした。
「これを着ていると、私みたいなのでも戦えるんです」
そして、先ほどまでとは違う目でゲオルグを見る。
「でも……おじいさん、思ってたよりずっと強いですね」
「……お褒めに与り光栄ですな」
「だから、ちゃんとやります」
リゼットの右手が動き、再び鞭が走る。
先ほどと同じ。
そう判断したゲオルグは軌道の外へ身体を逃がした。
完全にかわした──はずだった。
「ぐっ!?」
脇腹へ激痛が走る。
避けたはずの鞭が空中で軌道を変え、まるで獲物を追う蛇のように折れ曲がって背後からゲオルグの身体を叩いたのだ。
身体が大きくよろめく。
「……何、だと」
「この子、私の思った通りに動いてくれるんですよ」
リゼットの腕が再び振られる。
今度こそ見切ろうと鞭を目で追ったが、正面から迫っていたそれは、ゲオルグが身体を逃がそうとした方向へ途中から軌道を変えた。
「ぐぅっ!」
肩を打たれる。
革の胸当てでは守れない場所だった。
さらに次の瞬間には氷が迫り、ゲオルグは身体を無理やり捻ってかわす。しかし、その動きを待っていたかのように鞭が足元へ回り込み、脚を払われて片膝が床へ落ちた。
「なるほど……」
息を吐きながら立ち上がる。
「……先ほどまでは、遊んでおられたということですかな?」
「そんなつもりじゃなかったんですけど……お年寄りですし、すぐ気を失うかなって」
「随分と舐められたものですな」
「ご、ごめんなさい。でも、本当にもう倒れてくれていいんですよ?」
鞭が迫り、氷が飛ぶ。
今度はどちらも、先ほどまでとは比べものにならない。
ゲオルグは剣で鞭を防ぎ、時には身体を沈めながら必死に攻撃をかわし続けた。それでも、一撃、また一撃と防御をすり抜けてくる。鞭が頬を裂き、氷が腕を掠め、脇腹を強く打たれた瞬間には呼吸さえ止まりかけた。
予測できない。
いや、予測した軌道から変わる。
長年培ってきた経験が、逆に判断を狂わせる。それでもゲオルグは倒れず、再び剣を握り直した。
その姿を見て、リゼットが僅かに眉を寄せる。
「……まだ立つんですか?」
「はぁ……はぁ……仕事ですのでな」
ゲオルグは笑った。
足は重く、腕にもほとんど力が残っていない。それでも、まだ終わるわけにはいかなかった。
背後の避難路からは、もうラルフたちの声も足音も聞こえない。どれだけ先まで進んだかは分からないが、自分がここで戦い始めてから十分な時間は経っている。
あと少し。
もう少しだけ、この女をここへ留めておけばいい。
「……本当に、しつこいですね」
リゼットが鞭を振るう。
ゲオルグは身体を沈め、頭上を通り過ぎたそれが途中で軌道を変え、今度は真下へ落ちてくるのを見る。
分かっている。
どうせ変わる。
ならば最初から、鞭の軌道など信じなければいい。
ゲオルグは鞭ではなく、リゼット自身を見た。
視線。肩。僅かな身体の向き。
鞭を操っているのが彼女ならば、完全に意思と無関係に動いているはずはない。
氷が飛来し、そのうち一本が肩へ突き刺さった。
「ぐっ……!」
それでも止まらない。
横から迫る鞭を身を沈めてかわし、先端が軌道を変えるよりも先に踏み込む。
「えっ?」
リゼットの顔から余裕が消えた。
ゲオルグはついに懐へ潜り込む。
胴体を狙っても、あの鎧に阻まれる。
ならば──。
守られていない場所を斬ればいい。
「っ!」
剣を横薙ぎに振るう。
リゼットが咄嗟に顔を逸らしたため、刃を深く食い込ませることはできなかった。
それでも剣先が頬を掠める。
「……あ」
鮮血が散り、白い頬に一本の赤い線が走った。
リゼットは数歩後退すると頬へ指を触れ、そこについた血を不思議そうに見つめる。
「……血」
ゲオルグは荒い呼吸を繰り返しながら、再び剣を構えた。
「鎧で守られているなら、守られていない場所を斬ればよいだけです」
「……」
リゼットが顔を上げる。
先ほどまで浮かんでいた困ったような笑みは、もうどこにもなかった。
「もう……」
低い声が漏れる。
「もう、いいです」
鞭が床を這う。
「こっちは早く追いかけたいのに……」
ゲオルグは動かなかった。
「邪魔くさいなぁ……」
リゼットの足元から冷気が広がる。
ゲオルグは剣を握り直した。もう指先の感覚も薄く、全身が痛んでいる。それでも、背後へ通すわけにはいかない。
「早く死んでくださいよ」
床が白く染まった。
ゲオルグが異変を感じた時には、もう遅かった。
「──っ!」
鋭い氷の棘が地面から突き上がる。
身体を捻ろうとしたが、疲れ切った脚はかつてのようには動いてくれなかった。
氷の棘が腹部を貫く。
「がっ……!」
身体が浮くほどの衝撃を受け、剣を握ったままゲオルグの膝が床へ落ちた。
口から血が溢れ、視界が揺れる。
「……もう、いいですよね?」
避難路の奥からは、もう何も聞こえない。
これだけ時間を稼げたのなら、ラルフたちも十分に離れたはずだ。
「ええ……十分でございます」
ゲオルグは俯いたまま、微かに笑った。
十分に時間は稼いだ。
だが、あと一秒でも長く、この女をここへ留めておけるのなら──。
剣を杖代わりにしながら、ゆっくりと立ち上がる。
「……まだ立つんですか?」
「申し訳ありませんな」
血を吐きながら、それでも剣を構えた。
「まだ、勤務中ですので」
リゼットが目を見開く。
ゲオルグは最後に一歩、前へ出た。
その身体には、もう先ほどまでの速さは残っていない。それでも残された力を振り絞り、剣を振り上げる。
リゼットの鞭が動く。
次の瞬間、鞭がゲオルグの身体へ巻きつき、そのまま軽々と宙へ放り投げた。
背中から壁へ叩きつけられる。
凄まじい衝撃が全身を貫き、握っていた剣が手を離れて床へ転がった。
ゲオルグの身体も、その場へゆっくりと崩れ落ちる。
霞み始めた視界の先には、長年使い続けてきた剣が落ちていた。
もう、手を伸ばす力も残っていない。
それでも、不思議と悔いはなかった。
クラウスにはレオンがいる。ラルフもいる。
若い騎士たちも育った。カルスも、ロイドもいる。
そして、リリアの傍には今、彼女を守ろうとしてくれる者たちがいる。
自分一人がいつまでも屋敷を守り続ける必要など、最初からなかったのだ。
ゲオルグは静かに目を閉じた。
最後に浮かんだのは、幼い頃から何度も見てきた、ブルム家の子供たちの笑顔だった。