【TS】神様のミスで死にましたが、補償内容が羞恥プレイなんですけど 作:もろきゅー
「……なんだ、あれ」
藍色の空に浮かんだ、白い花。
俺だけではない。一緒にいた騎士たちも足を止め、木々の向こうに広がる光を見上げていた。
「魔法……か?」
「だろうな。自然にあんなものが出るとは思えん」
四人の騎士が口々に言葉を交わす。
白い花は少し離れた場所に浮かんでいるらしく、ここからではその下に何があるのかまでは分からない。それでも森の木々より遥かに高い位置に現れたそれは、夕暮れの空を背景にすれば嫌でも目についた。
近くに見張り台があるのなら、そこにいる兵士たちにも間違いなく見えているだろう。
「二手に分かれよう」
騎士の一人が素早く判断を下し、残る三人へ順に視線を向ける。
「そちらの二人は見張り台へ向かってくれ。ブルム家で何が起きたのか説明し、可能であればリリア様の捜索に兵を出してもらう。それと、先行した三名について何か情報がないかも確認してほしい」
「分かった」
「我々はあの光の方角へ向かう。確認が済み次第、そちらも同じ方角へ来てくれ。途中で合流できなかった場合は、いったん見張り台へ戻って情報を共有する」
「了解した」
騎士たちが迷いなく頷く。
俺はそのやり取りを聞きながら、もう一度空に浮かぶ白い花を見上げた。
「アウラ様は、いかがなさいますか?」
一人に尋ねられ、俺はすぐに答える。
「私も、あの花の方へ行きます」
「分かりました」
騎士はそれ以上止めようとはせず、代わりに俺と共に向かうことになった二人へ顔を向けた。
「アウラ様を頼むぞ」
「任せろ」
「そちらも気をつけろよ」
短く言葉を交わし、四人の騎士は二手に分かれる。
見張り台へ向かう二人が木々の間を駆けていくのを横目に、俺も残った二人と一緒に、空の白い花を目印に森の奥へ走り出した。
地下道を走ってきたばかりだが、休んでいる暇なんてない。
あれが何なのかは分からない。それでも、この状況で突然現れた魔法らしきものだ。リリアと無関係だとは思えなかった。
枝を避け、木の根を跨ぎながら森の中を進んでいく。
見上げれば、白い花はまだそこにあった。
夕暮れの中に浮かぶ巨大な花は、白い光の中に僅かな青を含み、遠目にも何枚もの花びらが重なるような形をしている。
綺麗だ。
こんな時なのに、そんなことを思ってしまう。
けれど、走りながら何度も見上げているうちに、胸の奥に妙な引っ掛かりを覚えた。
どこかで見たことがある。
もちろん、空にあんな巨大な花が浮かんでいるところなんて見たことはない。そうじゃない。
花の形だ。
あの白い花を、俺は知っている。
「……どこだったっけ?」
「アウラ様?」
「いえ……」
返事をしながら記憶を探る。
白い花。
何枚もの花びら。
薄暗くなるほど白さが目立つ花。
あれは──。
「あ」
思い出した。
ブルム家の庭だ。
白い花をいくつも咲かせていた、月白花。
そして、それだけじゃない。
以前、リリアが俺に見せてくれた。小さな手の上に魔力を集めて、嬉しそうに作ってみせた氷の花。
母親が好きだったのだと教えてくれた、月白花を模した氷細工。
形は同じだ。
大きさこそ全く違うが、あれは間違いなく──。
「月白花です」
「え?」
隣を走っていた騎士がこちらを見る。
俺は走りながら空を指差した。
「あの花です。あれ、月白花を模して作られているんです」
騎士たちも空を見上げる。
「言われてみれば……確かに」
「でも、どうして月白花が?」
「リリア様です」
二人が揃って俺を見る。
「以前、リリア様が私に見せてくれたんです。氷の魔法で月白花を作って。お母様が好きだった花だって」
そこまで口にした途端、胸の鼓動が速くなった。
そうだ。
どうしてすぐに気づかなかった。
あれはただの魔法じゃない。リリアが作ったものだ。
だったら──。
「あの花の下に、リリア様がいる可能性が高いです」
「リリア様が!?」
「急ぎましょう!」
「はい!」
走る速度を上げる。
白い花を見失わないよう何度も空を確かめながら、木々の間を駆け抜けていく。
リリアが自分であれを放ったのなら、きっと誰かに気づいてほしかったんだ。
自分はここにいる。
ここまで来てくれ。
そう伝えるために。
「待ってろよ……」
小さく呟き、さらに足へ力を込める。
俺たちは白い花の真下を目指して森を進んだ。
やがて、風に紛れてかすかな人の声が聞こえてきた。
「……声?」
思わず足を緩める。
騎士たちも気づいたらしく、すぐに足音を殺して周囲へ目を凝らした。
「向こうです」
騎士の一人が声を落として指差す。
木々の向こうから、女の声が聞こえてくる。
「いいですよねぇ……」
間延びした、どこか場違いなほど穏やかな声だった。
「私みたいに何も持たざる者と違って、生まれた時から何もかも持っている方は……」
俺たちは木々に身を隠しながら、少しずつ距離を詰めていく。
今度は別の声が返ってきた。
「……そんなこと、ありませんわ」
聞き覚えのある声。
間違いない。
リリアだ。
「それに、すぐにお父様たちが来ます! あなたなんて、絶対に捕まりますわ!」
怖いはずなのに、精一杯強がっているのが声だけでも分かった。
「そうですかぁ」
女は大して気にした様子もなく答え、それから深いため息を吐く。
「まったく……余計なことをしてくれましたねぇ。こんな目立つものを空に出してしまって。おかげで、余計な方々まで集まってきそうじゃないですか」
やっぱり。
あの花はリリアが作ったんだ。
俺たちは木々の隙間から、ようやく二人の姿を確認した。
少し開けた場所に、一人の女が立っている。
黒い髪。
そして、ティナから聞いていた通りの露出の多い鎧。
細かな意匠こそ違うが、その形は確かに俺のハイレグアーマーによく似ていた。
間違いない。
以前、フィアと一緒にいた女だ。
その手には一本の鞭が握られている。
鞭は蛇のように不自然な曲線を描きながら伸び、その途中がリリアの胴体と両腕へ巻きついていた。さらに余った先端が地面へ垂れ、まるで生き物の尾のようにゆらゆらと揺れている。
リリアの身体は地面から僅かに浮かされ、苦しいのか顔を歪めながら、それでも女を睨みつけていた。
「リリア様!」
隣の騎士が叫ぶと同時に、二人が剣を抜いた。
「お待ちを!」
制止するより早く、一人が一歩踏み出す。
その瞬間、女の指先が僅かに動いた。
リリアを拘束していた鞭が一気に縮み、その身体を女のすぐそばまで引き寄せる。
「きゃっ!」
騎士たちの足が止まった。
「それ以上近づけば──」
女がにっこりと笑う。
「リリア様がどうなるか、保証できかねますよぉ?」
「くっ……!」
「貴様ッ!」
二人は剣を構えたまま動けなくなった。
当然だ。
あの距離では何かする前にリリアを傷つけられる。下手に魔法を使うことだってできない。
俺も足を止め、女を睨む。
すると、その視線がこちらを捉えた。
「あら」
一瞬きょとんとした後、その表情がぱっと明るくなる。
「まぁ……!」
本当に嬉しそうな声だった。
「こんなに早くお会いできるだなんて」
どう見ても人質を取っている奴の顔じゃない。
女は頬を緩め、俺をまじまじと見つめる。
「やはり、リリア様に来ていただいて正解だったようですねぇ」
そう言いながら、女は鞭で拘束したリリアの髪を空いた手で優しく撫でた。
リリアが怯えたように身体を強張らせる。
それを見た瞬間、腹の底に押し込めていた怒りがまた熱を持った。
けれど、今は駄目だ。
ここで俺が動けば、一番危ないのはリリアだ。
「あなたが、アウラさんでよろしいですよね?」
「……ええ」
「よかったぁ」
女は心底安心したように胸へ手を当てた。
「違う方だったら、どうしようかと思っていたんですよぉ」
何なんだ、こいつ。
「まずは、お互い気持ちよくお話ができるようにしましょうか」
女は笑顔のまま、俺たち三人の武器へ視線を落とした。
「武器を地面へ置いて、こちらへ送っていただけますか?」
「ふざけるな!」
騎士の一人が怒鳴る。
女は困ったように眉を下げるだけだった。
「嫌でしたら構いませんけど……」
鞭が僅かに締まる。
「うっ……!」
「リリア様!」
騎士が反射的に前へ出かけ、もう一人に腕を掴まれる。
俺は歯を食いしばった。
「分かりました」
「しかし!」
「今は言う通りにしましょう」
二人の騎士へ目を向ける。
納得してはいない。
それでも、リリアを見れば他に選択肢がないことは分かっている。
俺が腰の魔剣を鞘から抜いて地面へ置くと、二人も苦々しい表情のまま剣を下ろした。
「前へ」
言われるまま、足で武器を滑らせる。
三本の武器が女の前まで届いた。
「ありがとうございます」
女は嬉しそうに頷いた。
「やっと聞き分けの良い方たちに出会えて嬉しいですよぉ。今までの方は、なかなか言うことを聞いてくださらなかったものですから」
首を傾げながら、本気で不思議そうに言う。
言うことを聞かなかったから、あれだけの人数を傷つけたとでも言いたいのか。
「それで……アウラさん」
女は改めて俺へ目を向けた。
「何でしょう」
「あなたに、私たちと一緒に来ていただきたいんです」
「私に?」
「はい」
迷いなく頷く。
「あなたが大人しく付いてきてくださるのであれば、リリア様はお返しします」
「分かりました」
「アウラ様!?」
間髪入れずに答えた俺に、騎士が声を上げる。
「大丈夫です」
「ですが──」
「リリア様を助けるのが先です」
それだけ言うと、騎士は悔しそうに口を閉じた。
女は俺たちのやり取りを見ながら嬉しそうに何度も頷いている。
「本当に助かります。そう言っていただけて嬉しいですよぉ」
そのまま鞭を握った手を僅かに動かす。
「では、その前に──」
嫌な予感がした。
「騎士様のお二人には、少し眠っていていただきましょうか」
「何?」
「安心してください。殺したりはしませんよぉ。アウラさんを連れて行くのに、邪魔をされると困るだけですから」
そう言うと、リゼットが鞭を僅かに動かした。
リリアの身体へ巻きついていた鞭がするりとほどけ、足が地面へ落ちる。
「えっ──」
自由になったリリアが動くより早く、リゼットはその身体を自分の方へ引き寄せた。片腕をリリアの首へ回し、後ろから抱え込むようにしてしっかりと拘束する。
「動かないでくださいねぇ」
耳元で囁きながら、空いた手に持った鞭を振るった。
「なっ──!」
鞭が地面すれすれを走り、一人の騎士の胴へ巻きつく。
「ぐっ!?」
そのままリゼットが腕を振るうと、騎士の身体が勢いよく持ち上げられた。
「避けろ!」
もう一人が叫ぶ。
だが、間に合わない。
宙へ持ち上げられた騎士の身体が横薙ぎに振られ、そのまま隣にいた騎士へ激突する。
「がっ!」
「ぐぁっ!」
二人は絡み合うように地面へ倒れ、そのまま動かなくなった。
「大丈夫ですか!?」
呼び掛けても返事はない。ただ、胸は動いている。どうやら気を失っているだけらしい。
「……てめぇ」
「ですから、殺してはいませんよ?」
何が問題なのか分からないという顔で、リゼットは首を傾げる。
それから抱えていたリリアを僅かに前へ押し出すと、再び鞭をその身体へ巻きつけた。
「もう少しだけ、大人しくしていてくださいねぇ」
リリアを再び鞭で拘束すると、何事もなかったかのように足元へ視線を落とし、そこに転がっていた俺の魔剣を拾い上げた。
「それにしても……」
俺の魔剣を興味深そうに眺めた。
「すごい剣ですねぇ。これ……イグジィ様がお持ちのものと、似ている気がします」
イグジィ?
聞き覚えのない名前だった。
気にはなったが、今はそれよりもリリアだ。
「約束は守ってくださいよ」
「もちろんです」
女はあっさり頷くと、今度こそ鞭を動かした。
「では、リリア様。どうぞ」
身体へ巻きついていた鞭がほどける。
「あっ……!」
突然支えを失ったリリアの身体が落ち、足が地面についた瞬間によろめいた。
それでも何とか踏ん張り、転ばずに済む。
「リリア様!」
「あ、アウラ……!」
リリアがこちらへ駆けてきた。
俺も両腕を広げ、その小さな身体を受け止める。
「アウラ……アウラぁ……!」
「大丈夫です。もう大丈夫ですよ」
抱きしめる腕に力を込め、髪を何度も撫でてやる。
張りつめていたものが切れたのか、リリアは俺の胸元に顔を押しつけ、声を上げて泣き始めた。
怖かったに決まっている。
それでも、一人であんな魔法を空へ放って、自分の居場所を知らせた。
「よく頑張りましたね」
「うぅ……」
「もう少しだけ頑張れますか?」
泣きながらリリアが顔を上げる。
俺は木々の向こうに見えている見張り台を指差した。
「あそこに塔が見えますね?」
「……ええ」
「見張り台です。騎士の方たちや兵士の方もいるはずです」
リリアが塔を見る。
「そこまで走ってください。着いたら、ブルム家のリリアだと伝えれば保護してもらえるはずです」
「アウラは……?」
不安そうな目が俺を見る。
「アウラは、どうするんですの……?」
俺は笑った。
少なくとも、笑えているつもりだった。
「私は大丈夫ですよ」
「でも……」
「大丈夫です」
もう一度、頭を撫でる。
「だから、今は行ってください」
リリアは俺と女を交互に見たあと、倒れている二人の騎士にも視線を向けた。
最後にもう一度俺を見ると、泣きながらも小さく頷く。
「……絶対に、戻ってきてくださいませ」
「ええ、必ず」
リリアが走り出す。
何度も振り返りながら、見張り台の方角へ向かっていく。
俺はその背中を見送った。
女──リゼットも止めようとはしない。ただ、少しつまらなさそうな顔で遠ざかっていくリリアを眺めていた。
まだ近い。
今動けば、あいつの鞭なら届くかもしれない。
だから俺も動かない。
リリアの背中が木々の向こうへ小さくなり、やがて枝葉の隙間からも見えなくなるまで待った。
「では」
リゼットが俺へ視線を戻す。
「そろそろ向かいましょうか?」
「その前に一つ聞かせてください」
「はい?」
「あなた達は、一体何なんです?」
リゼットが首を傾げる。
「魔道国家の人間ですか?」
「……魔道国家?」
一瞬きょとんとしたあと、次の瞬間には露骨に嫌そうな顔をした。
「やめてくださいよぉ」
「違うんですか?」
「あんな所と一緒にしないで下さい」
即答だった。
「向こうも最近また何かしているらしいですが、私たちとは何の関係もありませんよ」
「……何かしてる?」
「さぁ?」
あっさり返される。
「さぁって……」
「私、魔道国家のことなんて詳しく知りませんもの」
「じゃあ、何でそんなに嫌そうなんですか」
聞くと、リゼットは逆に不思議そうな顔をした。
「イグジィ様がお嫌いですから」
「……それだけ?」
「それだけで十分でしょう?」
「…………」
何だそりゃ。
冗談を言っている様子はない。
本気でそう思っているらしい。
「じゃあ、そのイグジィってのは誰なんです?」
その名前を口にした途端、リゼットの表情が変わった。
先ほどまでのどこか気の抜けた笑顔とは違い、頬を僅かに紅潮させ、うっとりと目を細める。
「私たちを救ってくださった方です」
「救った?」
「ええ」
その声には、欠片ほどの迷いもなかった。
「骸の君──イグジィ様」
骸の君。
知らない言葉が出てきた。
「私たちは、あの方に従っているだけですよ」
「……骸の君、イグジィ」
リゼットが嬉しそうに笑う。
「私たちの救世主様です」
魔道国家とは別。
ネグロスも、ドルガも、こいつも。
少なくともこいつらは、魔道国家ではなく「イグジィ」とかいう奴の配下らしい。
しかも魔道国家は魔道国家で、何か動いているらしい。少なくとも、こいつらとは仲間じゃない……?
頭の中に一気に知らない情報が増えた。
「何のために私を狙ってるんです?」
「さぁ?」
「……さぁって何ですか。まるで知らないような言い方ですね」
「だって、本当に知りませんもの」
リゼットは悪びれる様子もない。
「私のような者には考えもつかない、何か深いお考えがおありなのでしょう」
「あなた、何も知らずに私を攫おうとしてるんですか?」
「イグジィ様がお望みですから」
迷いがない。
「あなたもお会いすれば分かりますよ」
駄目だ。
こいつに聞いても、それ以上は何も知らなさそうだ。
イグジィとかいう奴を信じ切っている。
何をするにも、理由はそれだけで十分なんだろう。
それに、そろそろ頃合いだ。
視線だけを横へ向ける。
リリアの姿はもう見えない。
かなり距離を取れたはずだ。
倒れている騎士二人も息はある。
もういいだろう。
「なるほど」
「ご理解いただけました?」
「ええ。よく分かりました」
俺はリゼットの手にある魔剣を見る。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
「ええ」
リゼットが嬉しそうに頷いた。
「では、私についてきて──」
「ばーか」
「……はい?」
笑顔のまま固まった。
俺も笑う。
「てめぇを俺が連れて行くんだよ」
「何を──」
「来い、魔剣!」
手を伸ばす。
次の瞬間、リゼットの手から魔剣が消えた。
「えっ?」
一瞬で俺の手へ戻ってくる。
そのまま地面を蹴り、一気にリゼットとの距離を詰める。
「なっ──」
目を見開くリゼットへ、魔剣を横薙ぎに振り抜いた。
「きゃっ!?」
完全に不意を突いた。
それでもリゼットは咄嗟に身体を捻り、刃の軌道から急所を外す。
剣がハイレグアーマーの硬い部分へぶつかり、金属とも骨とも違う重い音が響いた。
衝撃に耐えきれず、リゼットの身体が大きく吹き飛ぶ。
地面を転がり、背中から木の幹へ叩きつけられた。
「ぐっ……!」
「てめぇらは、俺の大事な人たちを傷つけすぎた」
魔剣を構え直す。
もう怒りを隠す必要はない。
「お前も、お前の仲間もだ」
地面に倒れたリゼットを睨みつける。
「全員きっちり捕まえて、やったことの報いを受けてもらう」
「……まったく」
リゼットが木の幹へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
その途中で一瞬だけ膝が揺れ、立ち上がってからも呼吸は荒い。
それでも、浮かべたのはまるでちょっと困った、とでも言うような笑顔だった。
「どうして皆さん、言うことを聞いてくださらないんですかねぇ……」
手に残っていた鞭を握り直す。
「私、争いごとはあまり好きじゃないんですけど」
「よく言うな」
「本当ですよぉ」
リゼットは深く息を吐き、いかにも疲れたと言わんばかりに肩を落とした。
「もう私、かなり疲れてるんです」
「……はぁ?」
「屋敷にいた騎士の方たちとは何人も戦いましたし、その後も追いかけるのに魔力をたくさん使って、地下の道を滑ってここまで来たんですよ?」
本当にしんどそうに、やれやれといった仕草をする。
「おかげで、魔力なんてもうほとんど残ってないんです」
「……それ、俺に言っていいのか?」
「え?」
本気で意味が分かっていない顔をされた。
「何がです?」
「…………」
駄目だ。やっぱりこいつ、どこかズレてる。
「ですからぁ」
リゼットは困ったように首を傾げる。
「これ以上無駄なことをせずに、大人しく付いてきていただけませんか?」
「断る」
「もう……」
心底残念そうに肩を落とす。
「仕方ありませんね」
次の瞬間、鞭が動いた。
速い。
さっきまでの気の抜けた態度が嘘みたいな速度で、細い鞭がこちらへ飛んでくる。
普通なら目で追うことすら難しかっただろう。
けれど、身体はすでに反応していた。
心眼が鞭の軌道と、その先にあるほんの僅かな未来を見せてくる。
横へ避ける。
反射的にそう判断した瞬間、横へ跳んだ俺を追うように鞭が途中でぐにゃりと曲がり、そのまま身体へ巻きついてくる未来が頭の中へ流れ込んだ。
当たる。
同時に、ティナの言葉が蘇る。
真っ直ぐ来たと思ったら途中で曲がる。
避けても追ってくる。
なら、横へ逃げても駄目だ。
追いかけられない場所まで下がるしかない。
俺は地面を強く蹴り、一気に後ろへ跳んだ。
鞭が目の前を通り過ぎる。
それでも先端は蛇のように曲がり、逃げる俺を追って軌道を変えた。
さらに一歩。もう一歩。
心眼が見せていた未来から、身体へ鞭が巻きつく光景が消える。
次の瞬間、鞭が伸び切った。
先端が俺の目前で勢いを失い、そのまま力なく地面へ落ちる。
射程の外だ。
「……なるほど」
かなり厄介だ。
ティナたちが苦戦した理由も、実際に相手をしてみればよく分かる。
もし何も知らず、最初に思った通り横へ避けていたら、心眼が危険を知らせてくれても対応が一瞬遅れていたかもしれない。
ティナが事前に教えてくれていたからこそ、迷わず距離を取れた。
助かった。
俺は魔剣を握り直し、リゼットを睨む。
向こうも鞭を引き戻しながら、少し意外そうにこちらを見ていた。
「……あなたで二人目ですよ」
「何がだよ」
「この鞭を初見で避けた方です」
へえ、前にも避けた奴がいたのか。
誰だか知らないが、大した奴だ。
「悪いな」
魔剣の切っ先をリゼットへ向ける。
「お前と戦った奴から、色々聞いてきたんだよ」
その言葉を聞いたリゼットが、ほんの少しだけ目を細めた。