【TS】神様のミスで死にましたが、補償内容が羞恥プレイなんですけど 作:もろきゅー
食事が終わったあとも、しばらくの間、食堂には穏やかな空気が流れていた。
目の前に並んでいた皿は少しずつ下げられ、代わりに温かいお茶が運ばれてくる。
料理を出し終えた使用人たちは、俺たちの会話を邪魔しないように部屋の端へ下がり、静かに控えていた。
貴族の食事というものがどういうものなのか、正直なところ俺にはよく分からない。
だが、少なくとも今夜の食卓は、俺が想像していたような堅苦しいものではなかった。
そう考えながら、ふと視線を動かした時だった。
部屋の端に、一人の男性が立っていることに気がついた。
使用人たちとは少し雰囲気が違う。
料理を運ぶわけでもなく、食器を片づけるわけでもない。
誰かに声をかけることもなく、ただ静かに、その場に立っている。
黒に近い、落ち着いた色の上着。
派手さはないが、きちんと整えられた服装。
そして、腰には剣。
クラウスの……護衛、だろうか。
そう思って眺めていると、男性はこちらの視線に気づいたのか、ほんのわずかに頭を下げた。
うわ、見てたのバレた。
慌てて俺も小さく会釈を返す。
別に悪いことをしていたわけではないのだが、なんとなく居心地が悪い。
やっぱり、こういう場所にいる人は隙がないな。
使用人の人たちもそうだが、貴族家に仕えている人たちは、何というか立ち居振る舞いが綺麗だ。
動きに無駄がなく、声も大きすぎず、小さすぎない。
俺なんて、さっきから椅子に座っているだけで妙に疲れているというのに。
そんなことを考えていると、ゲオルグがクラウスのそばへ歩み寄り、何事か小さく耳打ちした。
クラウスはそれに頷くと、こちらへ視線を向ける。
「さて、話したいことはまだまだあるが、今夜はこのくらいにしておこう」
その声に、食堂の空気が少しだけ改まった。
「遠路を来て疲れてもいるだろう。ここにいる間は遠慮はいらん。困ったことがあれば、言ってくれ」
クラウスは、にっと笑う。
「改めて歓迎しよう。今夜はゆっくり休んでくれ」
そう言われて、俺は少しだけ背筋を伸ばした。
「は、はい。ありがとうございます」
慌てて返事をしてから、少し言葉を探す。
こういう時、どう言うのが正解なのか分からない。
貴族相手の礼儀なんて習った覚えはないし、そもそも元の世界でも、こんな食卓に招かれたことなんてない。
ただ、感謝しているのは本当だった。
「急な話だったのに、ここまでしていただけるとは思っていませんでした。しばらくお世話になります。ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
俺がそう言って頭を下げると、クラウスは愉快そうに笑った。
「なに、構わん。こちらこそ賑やかになってありがたいくらいだ」
「そうですわ!」
横から明るい声が飛んでくる。
リリアだ。
彼女は椅子に座ったまま、両手を胸の前で合わせ、ぱあっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「どうかごゆっくりなさってくださいませ! わたくし、皆様とまたお話ししたいですわ!」
ああ、かわいい。
何というか、素直にかわいい。
この子は本当に、見ているだけで場の空気を柔らかくする力がある気がする。
「ええ。こちらこそ、よろしくお願いします」
そう答えると、リリアは嬉しそうに頷いた。
その様子を見て、ラルフが穏やかに微笑み、ゲオルグは相変わらず静かな表情のまま、しかしどこか柔らかい目をしていた。
こうして、ブルム男爵家での歓迎の食事は終わった。
本館を出て、俺たちは使用人の人たちに案内されながら離れへ戻った。
夜の屋敷は、昼間とはまた違った雰囲気があった。
廊下には灯りが落とされ、必要な場所だけが柔らかく照らされている。
窓の向こうには暗い庭が広がっていて、植え込みや木々の影が静かに揺れていた。
貴族の屋敷というと、もっと煌びやかで、無駄に明るくて、どこもかしこも金ぴかしているような印象があったのだが、ブルム家はそういう感じではない。
落ち着いている。
そして、どこか実用的だ。
さすが要塞都市を治める家というべきか、派手さよりも堅実さを重視しているように感じる。
いや、もちろん俺の泊まっている離れだけでも十分豪華なのだが。
離れに戻ると、ミレイユたち使用人がそれぞれ俺たちを部屋へ案内してくれた。
そして、部屋に入るなり、ミレイユが丁寧に頭を下げる。
「お召し替えをお手伝いいたします」
「あ、えっ?」
思わず変な声が出た。
いや、まあ考えてみれば当然なのかもしれない。
今の俺はドレス姿だ。
いかにも一人で脱ぐのが難しそうなやつである。
背中の留め具とか、紐とか、どこをどう外せばいいのか分からない。
下手に引っ張って破ったりしたら大変だ。
このドレス、たぶん高いんだろう。
値段を聞いたら目ん玉が飛び出るやつかもしれない。
「ええと……お願いします」
「はい、お任せ下さい」
ミレイユは、にこりと穏やかに微笑んだ。
その笑顔には、妙な安心感があった。
任せておけば大丈夫だと思わせる、職人のような落ち着きがある。
俺は言われるがまま立たされ、まず髪飾りを外してもらった。
細かい飾りが一つずつ外されていくたびに、頭が少しずつ軽くなっていく。
次に首元の装飾、手首の飾り、腰のリボンのようなもの。
自分ではどこに何が付いているのかすらよく分かっていなかったが、ミレイユは迷うことなく、手早く、しかし乱暴ではない動きで外していく。
そして、ドレスの留め具が外され、重なった布がゆっくりと肩から離れた。
その瞬間、体がふっと軽くなった。
「……おお」
思わず声が漏れる。
窮屈だとは思っていた。
だが、脱いでみて初めて、思った以上に体に力が入っていたことに気づく。
肩や背中、腰のあたりが妙に楽だ。
ドレスそのものは柔らかくて着心地も悪くなかったのだが、やはり普段着とは全然違う。
姿勢も勝手に正されるし、動きも慎重になる。
見た目は華やかだが、着る側はなかなか大変だ。
「お疲れではございませんか?」
「あ、いえ。大丈夫です。ただ、脱いだらかなり楽になったなって」
「初めてお召しになる方は、皆様そうおっしゃいます」
ミレイユは、少しだけ楽しそうに言った。
やはり、そういうものらしい。
その後、俺は椅子に座らされた。
目の前にはぬるま湯の入った器と、柔らかそうな布。
さらに、小さな瓶がいくつか並べられている。
「あの、これは?」
「お化粧を落とさせていただきます。その後、お肌を整えますので、そのままお待ちくださいませ」
「いや、そこまでしてもらわなくても……」
思わず遠慮しかけた俺に、ミレイユは柔らかく、しかしきっぱりと言った。
「どうぞ、そのままで。お手伝いいたします」
「……はい」
ノーと言える空気ではなかった。
大人の女性には、どうにも勝てない。
俺は大人しく椅子に座ったまま、ミレイユに顔を拭かれることになった。
布は温かく、肌に当たる感触はとても柔らかい。
目元や頬、唇のあたりを丁寧に拭われるたびに、今日自分が化粧をしていたことを改めて思い出す。
そういえば、食事中ずっとこの顔だったんだよな。
皆に見られていたのも、化粧をされた俺だったわけで。
……いや、考えるのはやめよう。
余計に恥ずかしくなる。
化粧を落とした後、今度は香油のようなものをほんの少し手に取られ、頬や額に薄く伸ばされた。
ふわりと甘すぎない香りがする。
花のようでもあり、草のようでもある、落ち着いた匂いだ。
俺の元の世界で言うなら、スキンケアみたいなものだろうか。
まさか異世界に来て、貴族家の使用人に顔の手入れをされる日が来るとは思わなかった。
人生、本当に何が起こるか分からない。
「こちらをお召しください」
そうして最後に用意されたのは、淡い水色の寝間着だった。
ワンピース型のゆったりした服で、胸元と袖口に小さなレースがついている。
生地はとても柔らかそうで、光を受けるとわずかに淡く色を変える。
派手ではない。
色気があるというより、上品で、少し可愛らしい。
いわゆるネグリジェというほど艶っぽいものではないのだが、普段の俺の服装からすれば十分すぎるほど女の子らしい。
……いや、女の子らしいって何だ。
俺は心の中で自分に突っ込みながら、ミレイユに手伝われてその寝間着へ着替えた。
袖を通した瞬間、思わず驚く。軽い。そして、柔らかい。
さっきのドレスとは全然違う。
体を締めつける感じがなく、布が肌に触れても嫌な感触がしない。
たぶん、良い布を使っているのだろう。
「これで終わりになります」
「……あ、ありがとうございます」
俺は反射的に礼を返した。
「それでは、失礼いたします。何かございましたら、備え付けの鈴をお鳴らしくださいませ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「おやすみなさいませ、アウラ様」
「おやすみなさい」
ミレイユは一礼すると、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まり、部屋の中が一気に静かになる。
俺はしばらくその場に立ったまま、自分の姿を見下ろした。
淡い水色の寝間着。
小さなレース。
柔らかく揺れる裾。
……うん。
着心地は良い。それは間違いない。ただ、落ち着かない。
ものすごく落ち着かない。
俺はそろそろと部屋の中にある鏡の前へ歩いた。
そこには、可愛らしい寝間着を着た少女が映っている。
髪飾りを外した髪は自然に肩へ落ち、化粧を落とした顔は少し幼く見えた。
けれど、それでも十分すぎるほど整っている。
鏡の中の少女は、どう見ても貴族の屋敷に泊まっているお嬢様だった。
……いや、誰だよ。
俺だよ。
知ってるよ。
俺は思わず頭を抱えた。
こっちの世界に来てから、俺は何だかんだで普通に生活してきた。
もちろん、女性の体になってしまったことに戸惑いはあった。
周りの目が変わったことも分かっている。
男だった頃とは明らかに扱われ方が違う。
それに、この顔と体だ。
自分で言うのも何だが、かなり可愛い。
いや、かなりどころではない。たぶん、普通にものすごく可愛い。
だから、変に見られたり、妙に丁寧に扱われたりすることもあった。
だが、それでも俺自身は俺のつもりだった。
中身は変わっていない。
俺は俺だ。そう思っていた……けれど。
こうしてドレスを着せられて、髪を飾られて、化粧をされて。
今度は可愛らしい寝間着まで用意されると、どうしても意識してしまう。
俺が、今、女の子の姿をしているということを。
そして、その格好が妙に似合ってしまっているということを。
「……いやいやいや」
俺は小さく首を振った。
落ち着け、俺。
これはあれだ。
ちょっと似合っていたから、テンションが上がっただけだ。
元の世界でも、新しい服を着て、思ったより似合っていたら少し嬉しくなるだろう。
それと同じだ。たぶん同じだ。きっと同じだ。
今の俺の体は可愛い服がよく似合う。
だから、ちょっと良いなと思ってしまっただけだ。
そこに深い意味はない。別に他意はない。
うん。……ないはずだ。
俺は鏡から目を逸らし、ベッドの端に腰を下ろした。
ふかり、と体が沈む。
……ベッド、すごいな。
思考が一瞬で現実に戻された。
柔らかい。宿のベッドとは全然違う。これは別格だ。
背中を預けたら、そのまま吸い込まれそうになる。
良い寝具というものは、人間を駄目にする力があるのかもしれない。
そんなことを考えながら、しばらくぼんやりしていた。
部屋の中は静かだった。
外からは時折、風が木々を揺らす音が聞こえる。
貴族の屋敷の離れ。
柔らかい寝間着。
ふかふかのベッド。
つい昨日までとは違いすぎる環境に、どこか現実感がない。
そうして、うとうとして意識が何度か飛んで、どれくらい時間が過ぎただろうか。
ふと、思い出した。
「……そういや、マルルゥは?」
俺は顔を上げた。
あいつ、どこに行ったんだ。
確か、菓子を買いに行くようなことを言っていたはずだが、それにしたって遅すぎる。
マルルゥのことだから、ただ菓子を買って終わり、ということはないだろう。
何か他のものを買っていたり、何か企んでいるのかもしれない。
だが、それにしても遅すぎる。
今、何時だ?
正確な時間は分からないが、食事が終わってからかなり経っている。
外はすっかり夜だし、離れの中も静かだ。
もしかすると、戻ってきているのに俺が気づいていないだけかもしれない。
「……ちょっと見てくるか」
俺はベッドから立ち上がった。
本当ならこのまま寝ても良かった。
マルルゥは強い。あいつがそう簡単にどうにかなるとは思えない。
むしろ、何かに巻き込まれたとしても、巻き込まれた相手の方を心配した方がいいくらいだ。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
遅くなること自体は、まあ、あいつならありえそうだ。
だが、何の連絡もなく、この時間まで戻らないというのは少し妙な気がする。
俺は部屋の扉をそっと開けた。
廊下は静かだった。
灯りは落とされているが、完全な暗闇ではない。
壁に取り付けられた小さな灯りが、廊下を淡く照らしている。
俺は足音を立てないように、マルルゥに用意された部屋へ向かった。
といっても、すぐ近くだ。
離れの中で、俺たちの部屋はそれぞれ近い位置にまとめられている。
マルルゥの部屋の前に立ち、軽く扉を叩いた。
「マルルゥ?」
返事はない。
もう一度、少しだけ強めに叩く。
「おーい、いるか?」
やはり返事はなかった。
俺は少し迷った。
勝手に開けるのはどうなんだろう。
いや、でも友人が戻ってきているか確認するだけだ。
中にいたら謝ればいい。
「……開けるぞ」
一応そう声をかけてから、扉を開ける。
部屋の中は暗かった。
用意された寝台は整えられたまま。
荷物らしいものもほとんど動いた様子がない。
誰もいない。
「やっぱり、まだ戻ってないのか……」
俺は小さく息を吐いた。
何をしているんだ、あいつは。
不安、というほどではない。
けれど、気にならないわけでもない。
廊下に戻ろうとした、その時だった。
「どうかなさいましたか?」
「うわっ!?」
背後から声をかけられ、俺は思わず肩を跳ねさせた。
慌てて振り返ると、廊下に一人の男性が立っていた。
落ち着いた声に整った顔立ち。
鋭い目つきに黒い上着。
そして、腰の剣。
さっき食堂の端に立っていた男性だ。
……いつの間に。
足音がまったく聞こえなかったのだが。
俺が驚いていると、男性は表情をほとんど変えないまま、丁寧に頭を下げた。
「驚かせてしまい、申し訳ございません」
「あ、いえ。こちらこそ、すみません」
なぜか俺も謝ってしまう。
悪いことをしていたわけではないはずなのに、夜中に他人の部屋を覗いていたところを見られると、妙に気まずい。
「友人が出かけたままだったので、そろそろ戻ってきているか確認していただけです」
「そうでしたか」
男性は一度、マルルゥの部屋の方へ視線を向けた。
「離れの周辺は見ておりますが、今のところ、その方のお姿は確認しておりません。戻られましたら、こちらでも分かるよう気を配っておきます」
「あ、ありがとうございます。申し訳ないですが、よろしくお願いします」
「いえ。仕事ですので、お気になさらないでください」
短く、きっぱりとした返事だった。
丁寧ではある。
だが、使用人の人たちとは違う。
柔らかく包み込むような感じではなく、どこか張り詰めたものがある。
立っているだけなのに、周囲を警戒しているような雰囲気があった。
鞘に収まった剣みたいな人だ。
そんな印象を受けた。
「あの」
「はい」
「俺……じゃなくて、私はアウラと申します。失礼ですが、あなたは?」
一瞬、いつもの調子で俺と言いかけてしまい、慌てて言い直す。
貴族の家だと、どこまでフランクに接して良いのかよくわからない。
余計な面倒を起こすくらいなら、とりあえず丁寧に対応したほうが良いだろう。
男性は特にそこへ触れることなく、静かに一礼した。
「失礼いたしました。ブルム家に仕える騎士、カルスと申します」
「騎士……」
カルスは30代くらいだろうか。
整った顔立ちだが、どこか鋭さがある。
立ち姿からして、相当な実力者だと分かる。
「はい。今夜はこちらの離れを担当しております。何かございましたら、遠慮なくお呼びください」
そう言って、カルスはもう一度頭を下げる。
やはり騎士だったらしい。
門番をしていた騎士の人は鎧を着ていたが、屋敷の中ではこういう軽装なのだろうか。
来客を迎える時や門に立つ時は正装として鎧を着るのかもしれない。
それとも、屋内で動きやすいように、あえて軽装にしているのか。
どちらにしても、腰に剣を帯びている時点で、ただの使用人ではないことは分かる。
「分かりました。ありがとうございます」
「では、失礼いたします」
カルスは静かに一礼すると、廊下の奥へ歩いていった。
その足音は、やはりほとんど聞こえなかった。
俺はしばらくその背中を見送る。
「……ちゃんとしてるなぁ」
思わずそんな言葉が漏れた。
当たり前といえば当たり前なのかもしれない。
ここは貴族の屋敷で、しかも要塞都市を治めるブルム家の屋敷だ。
警備が甘いはずがない。
だが、実際にこうして夜の離れまで見回ってくれているのを見ると、改めて守られているのだと感じる。
ありがたい。
この世界に来てから、色々ととんでもない目に遭ってきた。
だが、こうして安心して眠れる場所があるというのは、それだけでかなり大きい。
……まあ、マルルゥが戻ってこないのは気になるが。
「本当に、どこで何をしてるんだか」
気にはなるが、スマホもない世界では連絡手段がない。
探しに行くにしても、この時間に屋敷を抜け出すのはどう考えても迷惑だ。
それに、マルルゥがどこに行って何をしているのか、見当も付かない俺が探して見つけられるとも思えない。
あいつなら、大丈夫だろ。
そう思うことにした。
俺は自室に戻り、扉を閉める。
そして、ベッドへ向かって歩き、そのまま体を投げ出した。
「はわぁ……」
ふかっ、と体が沈む。
やっぱこれ最高だ。
風呂とベッド。
人間に必要なものは、最終的にこの二つなのではないだろうか。
いや、食事も必要だ。
美味い飯、良い風呂、良いベッド。
これが揃えば、人はかなり幸せになれる。
俺は布団にくるまりながら、そんなくだらないことを考えた。
淡い水色の寝間着は、布団の中でも邪魔にならず、肌触りが良かった。
可愛くて落ち着かないのは事実だ。
けれど、着心地が良いのも事実だった。
……まあ、似合うんだしいいか。
そう思ったところで、意識が少しずつ沈んでいく。
疲れていたのだろう。
俺はそのまま、夢の世界へ落ちていった。
翌朝。
ふと、目が覚めた。
まだ部屋の中は薄暗い。
窓の外から差し込む光は淡く、朝になりきる少し前の時間らしかった。
いつもならもう少し眠っていそうなものだが、今日はなぜか目が冴えている。
「ん……」
俺は布団の中で大きく伸びをした。
体が軽い。良いベッドのおかげだろうか。
昨日までの疲れが全部抜けた、とまでは言わないが、少なくとも背中や肩の重さはほとんどない。
恐ろしいな、高級寝具。
一度これに慣れたら、普通の宿のベッドに戻れなくなるのではないだろうか。
そんなことを考えながら、俺は起き上がった。
寝間着のまま廊下へ出るわけにもいかないので、アイテムボックスから取り出した普段着に着替える。
髪を軽く整え、顔を洗い、身だしなみを確認する。
昨日、ミレイユに色々してもらったせいか、少しだけ自分の格好に気を遣ってしまう。
……いや、別にいいだろ。
身だしなみは大事だ。
俺は自分にそう言い聞かせてから、部屋の扉を開けた。
離れの中は、まだ静かだった。
廊下には人の気配が少ない。
使用人の人たちはもう動き始めているのかもしれないが、客室のあるこの辺りはまだひっそりとしている。
窓の外には、朝の庭が見えた。
夜の間は黒い影にしか見えなかった木々が、薄い光の中で少しずつ輪郭を取り戻している。
草葉には露がついているのか、ところどころがきらりと光っていた。
静かで、冷たくて、澄んだ空気。
思わず深呼吸したくなるような朝だった。
その時。
遠くから、かすかな足音が聞こえた。
誰かが一階から上がってくる。
使用人の人だろうか。
そう思って廊下の先へ視線を向ける。
しばらくして、階段のところに姿を現したのは──マルルゥだった。
「マルルゥ」
思わず名前を呼びかけそうになって、俺は少しだけ言葉を止めた。
いつもと違った。
普段のマルルゥは、どこか人を小馬鹿にしたような余裕をまとって歩く。
ふわりとしているようで、足取りには妙な自信がある。
だが、今のマルルゥにはそれがなかった。
銀色の髪は、いつものように綺麗に整っていない。
ところどころが乱れ、毛先が少し跳ねている。
青を基調にした服の裾には、薄く土のようなものがついていた。
ひどく汚れているわけではない。
怪我をしているようにも見えない。
けれど、顔色が悪かった。
そして何より、いつもの笑みがない。
俺に気づいたマルルゥは、一瞬だけこちらを見た。
だが、すぐに目を逸らす。
その仕草に、胸の奥がざわりとした。
「おいおい、遅いおかえりじゃないか」
俺はできるだけ軽い調子で声をかけた。
いつものように返してくると思ったのだ。
たとえば、
「あれ、ボクのこと待っていてくれたの~? ボクのこと好きすぎじゃない」
とか。
「ふふ、ちょっと夜遊びしてきただけだよ」
とか。
いつものマルルゥなら、そんなふうに人をからかうように笑うはずだった。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
だが、マルルゥは立ち止まらなかった。
俺の横を通り過ぎ、自分の部屋の前まで歩いていく。
その背中が、いつもより小さく見えた。
部屋の前でようやく足を止めたマルルゥは、面倒くさそうに顔だけこちらへ向けた。
「別に、なんでもいいでしょ」
声が低い。
怒っている、というより疲れ切っている声だった。
「寝るから、ほっといて」
そう言って、マルルゥは扉を開けた。
「おい、マルルゥ──」
呼び止めようとしたが、その前に扉が閉まる。
ぱたん、という小さな音が廊下に響いた。
俺はその場に立ち尽くした。
何だ、今の。
いつものマルルゥじゃなかった。
余裕があって、ふざけていて、何を考えているのか分からなくて、こちらをからかうようなあのエルフではなかった。
今のマルルゥは、まるで──
泣きそうな子どものように見えた。
「……あいつがあんな顔をするところ、初めて見たぞ」
扉の向こうからは、もう何の音もしなかった。