【TS】神様のミスで死にましたが、補償内容が羞恥プレイなんですけど 作:もろきゅー
閉じられた扉を、しばらく見つめていた。
廊下は静かだった。
扉の向こうからは物音ひとつ聞こえない。
もう寝ているのか、それとも起きているのかも分からない。
気にはなる。
何があったのか。
どこへ行っていたのか。
なぜ、あんな顔をしていたのか。
聞きたいことはいくらでもあった。
だが、今この扉を叩いて、「何があったんだ」と無理に聞き出すのは、何か違う気がした。
マルルゥは、普段なら嫌というほど喋る。
聞いてもいないことを話すし、人の反応を見て楽しそうに笑うし、こっちが困るような冗談も平気で言ってくる。
そのマルルゥが、何も言わなかった。
それはたぶん、今は話したくないということなのだろう。
なら、無理にこじ開けるべきではないのかもしれない。
とはいえ放っておいていいのか、と言われると、それはそれで引っかかる。
あいつがただ疲れているだけだったり、機嫌が悪いだけなら、まあ、後でいつものように面倒くさい絡み方をしてくるだろうが……。
「……うーん」
廊下で一人、腕を組んで考え込む。
どうするべきだろうか。
聞けそうなタイミングがあれば聞いてみるとか……?
しかしマルルゥが本当に話したくないのなら、無理に聞かない方がいいのかもしれない。
俺だって、話したくないことを無理に聞かれたら困る。
俺は小さく息を吐いた。
今ここで考え込んでいても答えは出ない。
扉は閉じている。
マルルゥは今、こちらを拒んでいる。
なら、今は待つしかない。
「……また後で、様子を見るか」
誰に言うでもなく、そう呟く。
それでも胸の奥に残った引っかかりは消えなかったが、ずっと廊下に立っていても仕方がない。
せっかく早く目が覚めたのだ。
気持ちを切り替えて、外の空気でも吸ってこよう。
そう思い、俺は静かな廊下を歩き出した。
離れの玄関から外へ出ると、朝の空気が肌に触れた。
ひんやりとしている。
けれど、不快な寒さではない。
むしろ、眠気の残った頭をすっと冷ましてくれるような、心地よい冷たさだった。
空はまだ完全には明るくなっていない。
夜の色が薄く残った青い空に、東の方から少しずつ淡い光が混じり始めている。
庭の草葉には露が降りていて、朝の光を受ける前から、薄く白くきらめいていた。
木々の葉はほとんど動いていないが、時折、弱い風が通るたびに小さく揺れる。
静かだ。
街の中心にある屋敷のはずなのに、この時間の庭は不思議なくらい静かだった。
遠くで鳥の声が聞こえる。
それ以外には、ほとんど音がない。
「……気持ちいいな」
思わず声が漏れた。
こういう朝は嫌いではない。
元の世界でも、早起きして外へ出た時の、まだ街が動き出す前の空気は少し好きだった。
まあ、実際にはそんな優雅な朝を過ごすことはほとんどなかったが。
仕事に行くために眠い目をこすりながら起きて、コンビニのコーヒーを買って、半分死んだ顔で駅へ向かう。
そんな朝の方が多かった気がする。
……コンビニのコーヒー、懐かしいな。
ふと、そんなことを思い出した。
ゆったり座れる椅子があって、手元に温かいコーヒーでもあれば最高なのだが。
この世界に来てから、まだコーヒーらしいものは見ていない。
お茶はある。香草を使った飲み物もある。
けれど、あの苦みと香ばしさを持った飲み物には、まだ出会っていない。
ドゥル=ブルムくらい大きな街なら、探せばあるかもしれない。
あとで誰かに聞いてみよう。
そんなことを考えながら、俺は庭をゆっくり歩いた。
整えられた小道の脇には低い植え込みが並んでいる。
派手な花は少ないが、葉の色や形が違う植物がうまく配置されていて、落ち着いた雰囲気があった。
貴族の庭というと、もっとこれ見よがしな噴水とか、巨大な彫像とか、迷路みたいな植木とかを想像していた。
だが、ブルム家の庭はそこまで派手ではない。
見栄えは良い。だが、それ以上に歩きやすく、見通しもいい庭だ。
そんなことを思っていると、庭の端の方から、かすかな音が聞こえた。
風の音ではない。
人の気配だ。
こんな朝早くに誰だろう。
使用人の人たちだろうか。
それとも、カルスの見回りか。
気になった俺は、音のする方へ足を向けた。
植え込みの間を抜け、少し開けた場所へ出る。
そこは、昨日カイトと剣の訓練をしていた場所だった。
踏み固められた地面。
端に置かれた木剣や訓練用の道具。
庭の一角ではあるが、明らかに稽古場として使われている場所だ。
そこに、ラルフがいた。
昨日の食卓で見たような貴族らしい服装ではない。
今は動きやすそうな訓練着を身に着け、手には木剣を握っている。
朝の薄い光の中で、ラルフは一人、剣を振っていた。
「ふっ」
短く息を吐き、木剣が振り下ろされる。
足を引き、構えを変え、次は横薙ぎ。
さらに一歩踏み込み、突き。
その一つ一つが、丁寧だった。
速いだけではない。
力任せでもない。
足の位置、腰の落とし方、剣を振った後の戻し。
どれもきちんと形になっている。
かなり訓練している動きだ。
たぶん、幼い頃から剣を習っているのだろう。
「はっ!」
木剣が空気を裂く。
朝の静けさの中に、その音だけが鋭く響いた。
俺は邪魔にならないように、少し離れた場所で足を止める。
どうやらラルフは完全に集中しているらしい。
俺が近くにいることには気づいていない。
声をかけるべきか迷ったが、あれだけ真剣にやっているところへ割って入るのも悪い気がした。
しばらく見ているだけにしよう。
そう思って、俺は静かに眺めることにした。
ラルフは同じ動きを何度も繰り返していた。
上段から振り下ろす。横に払う。
足を入れ替えて、突く。引いて、構え直す。
単純な動きに見えるが、繰り返すごとに少しずつ速度が上がっていく。
だが、速くなっても崩れない。
肩や腕だけで振っているのではなく、足から腰、腰から腕へ力がきちんと流れている。
うーん、綺麗だ。
「せいっ!」
ラルフが踏み込む。
木剣が斜めに走り、そこから返すように二撃目。
さらに体を回して三撃目。
連続した動きは流れるようで、無駄が少ない。
……かっこいいな。
素直にそう思った。
剣を振る姿というのは、やはりどこか憧れがある。
男子なら一度は木の棒を拾って剣のつもりで振り回したことがあるはずだ。
いや、女の子でもあるかもしれない。
ティナとか普通にやりそうだし。
とにかく、剣というのは格好いい。
木剣ですら、ちゃんと使える人が持つと格好いい。
本物の剣だったら、もっと絵になるんだろうな。
そんなことをぼんやり考えていると、ラルフの動きが少し変わった。
それまでの反復とは違う。
構えたまま、少し呼吸を整えている。
木剣を握る手に力がこもったのが分かった。
空気がわずかに張り詰める。
魔力だ。
俺にも、何となく分かった。
ラルフの体の周囲に、うっすらと力が巡っていくような感覚がある。
身体強化だろうか。
そう思った次の瞬間、ラルフの足が地面を蹴った。
「オラァッ!」
朝の静けさを破るような声。
ラルフの体が、一気に前へ出る。
速い。
さっきまでとは明らかに違う。
木剣が目で追いきれないほどの速度で振り抜かれた。
だが、その瞬間。
すぽん、と。
何とも間の抜けた音がした気がした。
「……え?」
ラルフの手から、木剣が消えていた。
いや、違う。
消えたのではない。
何かが俺のすぐ横を通り過ぎた。
びゅん、と風が頬を撫でる。
遅れて、背後で鈍い音がした。
俺は固まった。完全に固まった。
ゆっくりと振り返ると、庭の石壁に木剣が突き刺さっていた。
木剣が石壁にめり込むように刺さっている。
あと三十センチ。
いや、もしかすると二十センチくらい横に立っていたら、俺に当たっていたかもしれない。
腹に刺さっていたかもしれない。
というか、完全に油断していた。
危険が来ると思っていなかったから、反応も遅れた。
「ヒェッ……!」
こっわ!!
脳が理解した瞬間、ちびるかと思った。
「アウラ殿!?」
ラルフの慌てた声が響く。
どうやら、そこでようやく俺の存在に気づいたらしい。
ラルフは一瞬、手元を見て、飛んでいった木剣を見て、そして俺を見た。
見る見るうちに顔色が変わる。
「す、すまない! 怪我はないか!?」
ラルフはばたばたと駆け寄ってきた。
さっきまでの綺麗な足運びはどこへ行ったのかというくらい、焦った動きだった。
「大丈夫か!? 当たっていないか!? どこか痛むところは!?」
「あ、いや……。大丈夫です。木剣が飛んできたのでびっくりしましたが、当たってはいませんので……」
「本当にか!?」
「ほ、本当です。大丈夫です」
俺が両手を軽く上げて無事を示すと、ラルフは大きく息を吐いた。
心底ほっとしたような顔だった。
そして、すぐに表情を引き締め、深く頭を下げる。
「申し訳ない。俺の不注意で、君を傷つけるところだった。どうか許してもらえないだろうか」
「いえいえ、そんな。俺……私が勝手に近くに来て見ていただけですので、ラルフ様に落ち度はありません。こちらこそ、訓練の邪魔をしてしまい申し訳ありません」
しかし、ラルフは俺の言葉にすぐ首を振った。
「いや、俺がもっと周囲に気を配るべきだった。訓練とはいえ、ここは屋敷の庭だ。誰かが通る可能性を考えていなかった俺が悪い」
「いえ、でも、集中して訓練しているところに近づいたのは私ですし」
「それでも、武器を扱う者が周囲を確認しないなど、あってはならないことだ」
「でも、私も声をかけずに見ていましたから」
「いや、俺が──」
「いえ、私が──」
そこで、ふと自分たちが妙なやりとりをしていることに気づいた。
互いに自分が悪いと言い合っている。
何だこれ。謝罪合戦か。
思わず、口元が緩んだ。
「ふふ」
小さく笑うと、ラルフがぽかんとした顔をした。
「アウラ殿?」
「いえ。ラルフ様は、なかなか強情な方なんですね」
「強情……だろうか?」
「ええ、結構」
「いや、そんなことはないと思うが……」
真面目な顔でそう言うので、余計におかしくなる。
この人、かなり真面目だ。
そして、自分が悪いと思ったことは絶対に譲らないタイプらしい。
「このままここでお互いに自分が悪かったと言っていても、何も進みませんし……お互い、今後は気をつけるということにしませんか?」
俺がそう言うと、ラルフは少しだけ目を瞬かせた。
そして、困ったように笑う。
「……ああ。そうしてもらえるなら助かる」
「はい。では、それで」
「本当にすまなかった」
「いえ、大丈夫です」
ようやく謝罪合戦が終わった。
俺もラルフも、少しだけ肩の力が抜ける。
ラルフは気まずそうに、自分の手を見下ろした。
「どうも、自分は魔法が苦手でな」
「魔法、ですか?」
「ああ。剣そのものは嫌いではないし、訓練も続けている。だが、身体強化を使うと、必要以上に力が入ってしまうことがあるんだ。今のように、制御しきれずに握りが甘くなることもある」
ラルフは苦笑する。
「本来なら、あってはならない失敗だ。まして、客人の前で……恥ずかしいところを見られてしまった」
ラルフはふと視線を落とし、小さく言った。
「どうも兄上のようには上手くいかなくてな……。だから、せめて人のいない時間にでも振っておこうと思っているんだ」
そう悔しそうに言うラルフ。
俺はラルフを見た。
「でも、真剣に剣の訓練をしている姿は、すごくかっこ良かったですよ」
思ったことをそのまま言った。
別に慰めるつもりだけではない。
本当にそう思ったからだ。
朝早くから一人で庭に出て、黙々と剣を振る。
基本を繰り返し、少しでも良くしようとしている。
そういう姿は、普通にかっこいい。
剣って男の子の憧れみたいなところがある。
いや、女の子でも憧れる人はいるだろうが、少なくとも俺は昔から剣に弱い。
木の棒を拾えば剣に見立てるし、傘を持てば構えたくなるのが男子だろう。
ゲームでも剣士系のキャラはだいたい格好いい。
木剣ですら、ちゃんと振れる人が持つと格好いいのだ。
本物の剣だったら、もっと絵になるに違いない。
そういう意味で言った。
「か……」
ラルフの動きが止まった。
「か?」
「かっこ……」
顔が赤くなっていく。
ラルフは視線を泳がせ、口元を押さえるようにしてから、少しだけ咳払いをした。
「ア、アウラ殿。その……ありがとう」
「え、あ、はい。……はい?」
何だか妙に照れている。
……あれ?
もしかして、変な受け取り方をされた?
いや、でも、真剣に訓練している姿がかっこいいというのは事実だ。
別に変なことは言っていないはず。
ただ、今の俺の見た目は美少女である。
その美少女に「かっこ良かった」と言われたら、もしかすると少し意味が変わって聞こえるのかもしれない。
いやいや、考えすぎだろう。……たぶん。
俺は軽く咳払いした。
「えっと、訓練の邪魔をしてしまっても悪いですし、私はそろそろ戻りますね」
「あ、ああ。そうだな」
「訓練、頑張ってください」
「ありがとう……」
ラルフは少しぎこちなく頷いた。
その様子を見て、俺は首をかしげつつも、来た道を戻ることにした。
まあ、何にせよ、怪我がなくてよかった。
もう少し立つ位置には気をつけよう。
訓練場の近くでは油断しない。
これは今日の教訓だ。
そう考えながら歩いていると、ふと視界の端に何かが見えた。
庭の石壁。
そこに、先ほど飛んでいった木剣が刺さっている。
改めて見ると、かなり深くめり込んでいた。
木剣だよな、あれ。
それが石壁にぶっ刺さっている。
俺は無言でそれを見つめた。
そして、自分の腹に刺さっているところを想像してしまった。
「……こっわ」
背筋が冷える。
やっぱり、あれ俺に刺さってたら普通にやばかったのでは?
この世界、何気ない朝の庭ですら命の危険があるのか。
異世界、油断ならない。
俺は恐怖で身体をぶるりと震わせると、少し早足で離れへ戻ることにした。
離れの中に戻ると、ちょうどティナが自室から出てきたところだった。
まだ少し眠そうな顔をしている。
髪もいつもより少しだけ跳ねていた。
「あら、おはよう。早いわね」
「ああ、おはよう」
「どうしたの? もう外に出てたの?」
「ちょっと早く目が覚めたからな。外の空気でも吸おうかと思って、庭に出てたんだよ」
「へぇ、いいわね。私も眠気覚ましに外の空気吸ってこようかしら」
ティナが軽く伸びをしながらそう言った。
俺は一瞬、庭の方を振り返る。
ラルフはまだ訓練を続けるつもりなのだろうか。
木剣が飛ぶ可能性がある場所へティナを送り出すのは、少し危険な気がする。
「あー……いや、今はやめておいた方がいいかもしれない」
「何でよ」
「身体に穴が開くかもしれないからな」
ティナの動きが止まった。
眠そうだった目が、少しずつ細くなる。
「……身体に穴って、何があったの」
「いやぁ、うん。とりあえず早朝の庭はやめておいたほうがいいってことだ」
「何よそれ。余計に気になるじゃない」
「気にするな。朝の庭には危険がある。それだけ覚えておけばいい」
「絶対何かあったでしょ」
ティナは疑わしそうに目を細めたが、俺はそれ以上何も言わないことにした。
ラルフの悔しそうな顔を思い出すと、さすがに軽々しく話す気にはなれなかった。
早朝の庭で木剣が飛んできた、なんて話は、少なくとも今は秘密にしておいてやろう。