眉間を撃ち抜いた。
銃声は風に流れ、耳鳴りだけが静かに残った。
スコッチはスコープ越しに、沈む標的を見下ろす。
反動で揺れた指先は、そのままトリガーから滑り落ちていた。
殺しは慣れない。
慣れたふりをしているだけで、毎回、内臓のどこかが冷たくなる。
殺したくないのに、また殺してしまった。それでも銃は手放せない。
殺さなければ、ここにはいられないからだ。
――けれど。
それとは別の理由で、次の瞬間を待っている自分がいた。
イヤホン越しの足音。
乾いた靴音が、廃工場の奥に響く。
ああ、来たな。
視界の端に映った女。
黒い作業服に、手袋、表情はない。感情もない。
だが彼女は、死体の前に立った瞬間だけ、ほんのわずかに頬を緩めた。
「……掃除屋の女が来たぞ」
無線越しに誰かが呟く。
「掃除屋の彼女」――組織ではそう呼ばれていた。
彼女には名前がない。
誰も訊かないし、誰も付けようともしない。
「掃除屋」で済む。仕事さえ果たせば、呼び名はそれで充分だ。
スコッチにとっても、最初はそれだけの存在だった。
標的を撃ち、現場から離れたあと、どこからともなく現れて、痕跡を消す。
役割の一部。任務のシステムに組み込まれた、無機質な歯車。
――そのはずだったのに。
今は、視線がそこから離れない。
彼女は死体に触れる。
手順は迅速で、的確で、どこまでも冷たい。
血の広がり方を確認し、弾の侵入口をなぞり、倒れた体を仰向けに直す。
潰れた顔面を整え、衣服を直し、関節をまっすぐにする。
まるで大切なものを扱おうとするような、その丁寧さ。
(……なにを考えてる?)
問いが浮かぶ。だが声には出さない。
彼女はいつも遠くにいて、ただスコープ越しに見つめていることしか許されていなかった。
――なのに、自分は見ている。
撃ち終えたあとの現場を長居する理由も、任務終了後すぐにその場を離れない理由も、全部、もう分かっていた。
スコッチは彼女を見ている。
見続けてしまっている。
(これは――なんだ?)
彼女は死体にしか微笑まない。
そしてその死体を作っているのは、自分だ。
引き金の向こう側にある彼女の笑み。
それをまた見たいと思ってしまったら――
もう、元には戻れない気がしていた。
⸻
似た夜が、いくつも続いた。
廃ビルの屋上。港のコンテナの影。崩れかけた高架下。
どこでも同じように、スコッチは撃ち、彼女は片付ける。
最初の頃、スコッチは終わった瞬間、ほとんど反射で撤収していた。
長居すれば危険だし、銃を持っている限り、その場の空気はずっと自分の罪で濁ったままだ。
だが、彼女を見るようになってから、撤退のタイミングが少しずつ遅くなった。
「スコッチ、そろそろ移動だ」
無線越しに別のスナイパーが声をかけてくる。
「……ああ」
口では返事をしながら、足はすぐには動かない。
スコープの倍率を落として、彼女の手元を追う。
死体の髪に付いた埃を払う指先。
脱臼した肩をはめ直すときの、必要最低限の強さ。
顔に落ちた血を、ガーゼで拭き取る慎重な手つき。
そのどれもが、ヤケに静かで、綺麗だった。
(……俺がやったんだよな)
奪った命を、美しく整えられるたびに、自分がしたことの輪郭が反転する感覚があった。
汚れを生むはずの仕事が、彼女の手を通して「整えられて」いく。
嫌悪と、安堵と、どうしようもない興味と。
それらが全部ごちゃ混ぜになって、胸の中に沈殿していく。
そのどれにも、名前はつけられなかった。
⸻
「次の現場、掃除屋も同行させる。処理が雑になると面倒だ」
ジンの声は、いつも通り冷たい。
命令だけを、銃口のように突きつけてくる。
スコッチは何も言わずに頷いた。
横で、ウォッカが苦笑混じりに肩をすくめる。
「すまねぇな、今回は少人数で動くから、あの女はお前が連れて行ってくれ」
「……了解」
スコッチは短く答え、ふと天井を見上げる。
彼女のラボ。
アジト内部にある、死体処理専用の区画。
組織の誰もが避ける場所。
薬品の匂いと低い温度が、他の部屋とは明らかに違う空気を作っている空間。
そこは、彼女の家だった。
スコッチは、そこに足を踏み入れた。
――迎えに行くという名目で。
ドアを叩くと、しばらくの沈黙。
カチャ、とロックが外れ、細い隙間が開く。
彼女はただ、ドアを開けてくれるだけだった。
無言で、感情の欠片も見せずに。
それでも、スコッチはそれを「許可」だと思った。
許されたのだと、勝手に思った。
中に一歩踏み入れるたび、白い蛍光灯の光に、彼女の輪郭が浮かび上がる。
ステンレスの台。薬品棚。冷却装置。
どれも、彼女にはよく似合っていた。
生きた人間の生活の匂いが、ほとんどしない部屋だ。
「……行こうか」
そう声をかけても、返事はない。
ただ、彼女は作業用の手袋を引き抜いて、腕を通す。
――それだけで十分だと、スコッチは思っていた。
⸻
その夜も、彼はトリガーを引いた。
その銃声の向こうに、あの微笑みがあることを、もう知ってしまっていたから。
⸻
別の夜。別の路地。
スコッチは暗い路地裏の上階に伏せていた。
手にしたライフル、その先にいる標的は、すでに射線に入っている。
引き金を引くのに、これ以上の準備はいらない。
照準は合っている。風向きも計算済み。距離も問題ない。
けれど、彼の指はすぐには動かなかった。
視界の端に、彼女がいた。
掃除屋の女。
死体掃除専門の、感情のない、名前すらない女。
標的から少し離れた暗がりに立ち、まだ何も起きていないその場所を、ただ静かに見ている。
(……見てるだけだ。いつも、そうだった)
最初は偶然だった。
同じ任務、たまたま射線の先にいた死体処理班。
彼女が現れるたび、無意識にスコープが追っていた。
何を考えているのか。
なぜ、死体にだけ、あんなに静かな手を向けるのか。
知りたくて見ていたわけじゃない。
ただ、目を逸らせなかった。
だが、今夜は違った。
射線の出口に、彼女がいた。
任務の構造上、彼も処理班と合流せざるを得ない。
つまり今夜、彼女と“同じ空気”を吸うことになる。
(……近すぎるな)
そう思いながらも、身体は拒まなかった。
引き金を引く。
標的が倒れる。血の匂いが、遅れて風に乗ってくる。
スコッチが階段を駆け下りる頃には、彼女はすでに死体の傍にいた。
手袋をした指が、潰れた顔を撫でる。
手順通り。無駄のない動き。
でも、やはりそこには“温度”があった。
「……なんで、そんなに丁寧に扱うんだ?」
スコッチは、自分の口から出た言葉に、すぐ後悔した。
彼女は返事をしないタイプだと、とうに分かっていたからだ。
下手をすれば無視される。それが当然の存在だと思っていた。
けれど――
彼女は、動きを止めた。
ゆっくりと、こちらを向く。
「……私は」
いつも通りの、抑揚のない声。
なのに、その視線の奥が、かすかに揺れていた。
「この状態が――いちばん、美しいと思う」
一拍。
そのまま、視線を逸らした。
けれど、そのわずかに伏せた目元が、少しだけ歪んでいた。
拗ねていた。
表情がないはずの彼女が、確かに――拗ねていた。
(……なんで)
怒っているわけでもない。笑っているわけでもない。
説明しようとしたわけでも、理解されようとしたわけでもない。
ただ、「分かってもらえないこと」に、ほんの少しだけ苛立っていた。
その感情が、スコッチには――
誰よりも人間らしく見えた。
異常者。理解不能。死体しか愛せない女。
誰からも怖がられ、気味悪がられ、名すら持たない彼女。
その彼女が、人間だった。
たった一瞬。
たったそれだけ。
スコッチはその一瞬に、恋をした。
崇拝じゃない。盲信でもない。
ただ、惚れたのだ。
自分の殺しが、意味を持った気がした。
この人にとってだけ、自分の行為が「美しいもの」に変わるのなら。
スナイパーであることすら、肯定される気がした。
⸻
任務を終えて戻る道すがら。
スコッチは後ろを振り返る。
彼女の姿はもう見えなかった。
だが、あの目。あの拗ねた表情だけが、焼きついて離れなかった。
(……見ていたい)
気づけば、そんな言葉が胸の奥に落ちていた。
⸻
仕事帰りのアジトの廊下。
スコッチの背後から、聞き慣れた鋭い革靴の音が追いついてきた。
「スコッチ。またあの女と一緒だったのか?」
よく組むスナイパー仲間の一人が、半ば呆れたように声をかけてくる。
何度目かのやりとりだ。
スコッチはいつものように、肩を竦めて受け流す。
「後処理してもらってるだけだよ」
「終わったあと現場にちょっと長居するだろ。スコープ越しに見とれてるやつ。そのうち俺以外にもバレるぞ?」
茶化しは軽い。けれど、鋭い。
スコッチは鼻で笑って、手を振る。
「……気のせいだよ」
否定はする。けれど、本気の否定ではない。
それを分かっていて、からかいは止まらない。
「まあいいけどよ。……あんま綺麗に殺しすぎんなよ?」
スコッチが一瞬、足を止める。
「どういう意味だ?」
「最近お前の死体、形がいいんだよ。撃たれ方が。頭も胸も、妙に保ってんだ。……あの女、嬉しそうに片付けてんぞ」
冗談めかした声。
だが内側だけが、妙に冷えた。
(……気づかれてる)
自分でも言葉にしなかった変化。
頭部の破損は避け、姿勢が保たれる角度で撃ち、体液の広がりを最小限に抑える。
そうすれば、彼女の手間が減る。
綺麗に整えやすいだろうと、自然と考えるようになっていた。
だからこそ、誰かにそれを言語化されるのが、ひどく気まずかった。
「……ただの職業病だよ」
スコッチはそう言って歩き出す。
だが「職業病」にしては、あまりに個人的すぎる偏りだと、自分で分かっていた。
⸻
その後、ブリーフィングルーム。
ジンとウォッカ、掃除屋の彼女もいる。
今日の仕事は成功。
だが、ジンはしばらく無言でスコッチを見つめていた。
沈黙が長い。スコッチは身構える。
そして、ジンが口を開いた。
「……殺しに迷いがなくなってきたな」
事実だけを述べる声。
褒めているわけではない。だが、確かに変化を察している目だった。
隣で、ウォッカがふっと笑う。
「お前がやった後の死体、毎回妙に丁寧に片付けてあんだわ。……掃除屋、お前スコッチのこと気に入ってんじゃねぇの?」
一瞬、空気が揺れた。
その場にいた誰もが、すぐに誰のことを指しているか分かっていた。
掃除屋の女。
名前のない異常者。死体しか愛せない、あの“彼女”。
スコッチは平静を装う。
だが、内心では脈が跳ねた。
視線を感じて、スコッチはちらと部屋の隅を見る。
そこに、彼女がいた。
無言で立っていた。
まるで気配も呼吸もない。
ウォッカの言葉が届いたのかどうかすら分からない。
けれど――
彼女の目が、スコッチを見た。
それは、ただの確認だった。
誰の殺しだったのかを、事実として整理しただけの、無感情な視線。
だがその直後、ほんの一瞬、口元が揺れたように見えた。
微笑みにも、苦笑にも届かない。
でもそこにあったのは、彼女の中での、明確な“認識”だった。
(ああ、気づいたな)
自分が、彼女のために殺し方を変えていたこと。
死体が綺麗に仕上がるように、無意識に最適化していたこと。
誰にも言わなかった。
自分でも言葉にしなかった。
けれど――彼女は、理解した。
彼女はただ一言、返答を口にした。
「とても綺麗な死体を作るの」
表情は動かない。感情もない。
でもその声は――
ほんのわずかに、息を呑むように聞こえた。
スコッチは何も言えなかった。
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
⸻
その日の夜。
スコッチは一人、空になった部屋の隅で煙草に火をつけた。
何本目かも分からない。
ただただ、彼女の声が耳に残っていた。
――とても綺麗な死体を作るの。
誉め言葉なのか、評価なのか。
それともただの事実確認なのか。
(……俺は、まだ大丈夫か?)
煙を吐き出しながら、自分に問う。
けれど答えは出なかった。
⸻
数日後。
安室透が、人のいない通路でそっと肩を叩いてくる。
「最近、疲れてるように見える」
言い方は控えめだが、目は真剣だった。
「大丈夫だよ、俺は……」
スコッチは笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
安室は、それでも一瞬だけ信じる顔をする。
彼の核が、まだ警察官であることを。
そうであってほしいと、願うように。
――けれど、その核はもう、静かに溶けはじめていた。
スコッチは思う。
死ぬときには――
あの人に、見られながら死にたい。
⸻
深夜、公安部の一室。
蛍光灯の明かりが白く、机の上には何も置かれていない。
「……最近、諸伏の様子、気になりませんか」
若い捜査官が、対面の上司に声を落とす。
上司は紙をめくるふりすらしない。
面倒そうに片眉を上げる。
「仕事はできてるだろ。潜入維持できていて、情報も落としてる。――問題あるか?」
「表面上はそうです。でも、感覚の話になりますが……最近の報告、妙に淡々としてるんです」
「感情にブレがないってことか?」
「いいえ。逆です。……感情が消えてるように感じるんです」
上司が鼻で笑う。
「潜入捜査官に感情なんて要るか? むしろ最適化されてるってことだろう」
若手は口を閉じかける。
だが、意を決して言った。
「……あいつ、組織の側に馴染んでるように見えます」
数秒の沈黙。
やがて、上司はぽつりと呟く。
「……お前の所感だな?」
「はい。正式な報告には……しません」
「……まあいい。
もし判断が外れたら責任はお前が取れ。
――で、流すのは?」
「……ええ。組織側に、使い終わりの印、送っておきます」
「勝手にやれ。ただし俺の名前は出すなよ」
それだけで、決まった。
諸伏景光の命運は、誰にも知られず、音もなく処理された。