※彼女視点
スコッチはノックだから殺せ、っていうメールが来てすぐ、彼は私のラボに訪れた。
「死にに来たの?」
彼は、私の言葉にただ頷いた。
生きてここに来たがる人がいるなんて思っていなかった。
生きている人は、目を見てくる。
言葉をくれる。
何かを期待してくる。
そういうの、全部、苦手だった。
でも――彼は今、「死にに来た」と言った。
なら、私は。
「……3日間だけ、一緒にいて。死ぬ前提で」
それが、私の条件。
これまでの誰よりも、完成する前から綺麗になる予感があった。
彼には。
より綺麗にするための前処理を、初めてしようと思った。
仕上がる瞬間を待っている。
殺すのはゴールじゃない。完成を待っている。
肉体を弔う前の、儀式の時間。
*
1日目、私は彼の歩き方を見た。
癖があるかどうか。筋肉のつき方。
死んだとき、どこに重さが落ちるか、想像する。
話は、しない。
私から振ることはない。
彼は少しだけ話そうとして、やめた。
それも、観察した。
2日目、彼は少し退屈そうに、器具を並べる手元を眺めていた。
「……手伝おうか」
そう言われたので、私は簡単な仕事を渡した。
ガーゼを三枚ずつに揃えるだけの作業。
雑ではなかった。
綺麗に揃えていた。
こういう性質は、死んだあとにも残る。
丁寧に生きていた死体は、どこか綺麗だ。
3日目。
準備の音を立てているとき、彼はよく笑った。
怖れではない。諦めでもない。
私の手元を見て、少しだけ安堵したように笑っていた。
「保存容器なんて、初めて見たよ」
そう言われたとき、私は答えた。
「……あなたは、保存したいなって」
本当のことを言っただけ。
でも、彼の目は少し熱くなった。
*
3日後。
私は彼を殺した。
ようやく、手が届いた。
ずっと欲しかった。
欲しくて、欲しくて、手を伸ばし続けてた。
今、あなたは、ここにいる。
冷たくなった彼の身体は、信じられないほど美しかった。
いつも少し熱すぎたその皮膚が、ちょうどいい温度になった。
私は髪を梳き、指を整え、まぶたを閉じさせた。
「……綺麗だよ」
生きていたときには言えなかった。
今ようやく、心から言える。
やっと言えた言葉だった。
*
廃工場の吹き溜まり。
ジンは壁にもたれ、煙草を口にくわえたまま、黙って彼女の作業を眺めていた。
死体が一つ。
彼女はいつも通り、ただそれを整えていた。
ジンはひとつ息を吐き、煙を流した。
「……闇に沈むアジトに、燃える花がひとつ。
植えたのは、逃げた亡霊か――」
彼女は作業を止めない。
それでも、ゆっくりとまぶたを上げた。
「……植えたんじゃない。
彼が、自分で根を下ろしたの」
ジンは鼻で笑う。
「……自分で根を下ろした?
――お前は墓守気取りってわけか」
煙を吐き、視線を落とす。
足元のアスファルトに焦点を合わせたまま、声だけを落とす。
「死体もねぇのに、埋めた気でいるのか?」
彼女の指が止まる。
そして、ごく短く言った。
「……見せるものじゃない。……あなたにも」
一瞬だけ、感情が混ざった気がした。
諦めとも、拗ねともつかない、けれど確かな温度。
ジンは肩で笑った。
「……惚れたか? それとも、囁きを真に受けたか」
「違う。ただ、私のものになっただけ。
それだけ」
「……死んで、ようやくお前のものか」
彼女は黙って頷く。
「うん。とても綺麗」
一拍。
ジンはまっすぐ彼女を見た。
「……変わったな。お前の目」
彼女は、しばらく迷ったように言葉を探し、
「……私だけのもの」
ジンは、火のついた煙草をアスファルトに落とした。
ゆっくりと踵で踏みつける。
「……死んでるなら、それでいい。
それだけ分かれば、もう追わねぇ」
彼女は何も言わなかった。
けれどジンは、その沈黙を「了承」と受け取った。
その背中が遠ざかる。
静寂が戻る。
彼女は、その中で、黙々と死体を整え続けた。
*
廃ビルの地下。
血の匂いと薬品の匂いが混ざった現場を片付けて、私はアジトに戻る。
廊下には、いつも通りの靴音。
すれ違う構成員は私を見ない。私も、誰も見ない。
私の居場所は、ラボだけだ。
ドアの前に立つ。
カードキーをかざすと、短い電子音。
カチャ、とロックが外れる。
中は、静かだった。
温度は一定。湿度も一定。
薬品の匂いと、冷却装置の低い唸りだけが、ここに空気があることを教えてくれる。
まず、照明を半分だけ点ける。
明るくしすぎると、余計なものまで見えてしまうから。
私は、いつも通りの順番で視線を動かす。
器具の棚。
冷却装置。
保存用の薬品タンク。
――そして、その奥。
彼のいる場所。
透明な壁越しに、彼はそこにいた。
薬品の中で、崩れないように支えられて、静かに沈んでいる。
「……ただいま」
私は、そう言った。
声は小さい。
自分でも聞き取れるかどうかの音量で。
彼は何も言わない。
当然だ。もう、何も言わない。
でも、「おかえり」と言われるよりは、この静けさの方がいい。
私の「ただいま」に、何も返さない。
逃げもしない。目も逸らさない。
どこにも行かない。
私は、保存容器の側まで歩み寄る。
薬品の表面に、指先をそっと触れた。
温度を確かめる。
数字ではなく、感覚で。
「……今日は、死体の作られ方が雑だった」
現場の話をする。
誰にも聞かせるつもりのない報告。
弾の抜け方。血の拡がり方。
骨の砕け方。筋肉の裂け方。
生きている誰かに話せば、きっと引かれる内容。
でも、彼は引かない。
私は、少しだけ笑う。
彼に向ける笑いは、いつも短い。
頬が動いているかどうか、自分ではよく分からない。
でも、ここでだけは、息をするのが楽だった。
「丁寧なのもあった。」
その死体は、老人だった。
恐怖に歪んで、顔は見れたものじゃなかった。
でも、銃弾の入り方は悪くなかった。
私は、彼を見上げる。
「……でも、やっぱり、あなたほどじゃない」
事実を言っただけ。
感想ではない。比較評価。
それでも、胸の奥は少しだけ温かかった。
ここに戻ってきて、彼を見て、「ただいま」と言う。
それが、私にとっての「日常」になっていた。
組織の仕事も、死体の片付けも、
彼へのただいまも、私の生きる意味だ。
仕事に行く。死体を整える。
ラボに帰る。彼を見る。
ただいま、と言う。
その繰り返しが、積み重なっていく。
彼が保存されている限り、時間はそこで止まる。
私は照明を落とし、椅子に腰を下ろす。
保存容器を手でなぞる。
目で見るのは、浮かぶ彼の輪郭。
――生きていた彼ではなく。
ここにいる、私だけの彼。
*
ラボの外に出るのは、必要がある時だけだった。
器具の補充。薬品の受け取り。
仕事の連絡。
そのうちのひとつで、私は廊下を歩いていた。
エレベーターホールの前。
角を曲がったところで、安室透とすれ違った。
彼は、いつも通りの笑顔をしていた。
「珍しいですね、ここで会うなんて」
軽い声。
視線は柔らかい。
手には書類。
私は立ち止まる。
「……備品の補充」
それだけ言って通り過ぎる。
けれど安室は、呼び止めるように言葉を続けた。
「ラボは、変わりないですか?」
意味のない問い。
ラボはいつも、変わらない。
温度も、匂いも、置かれているものも。
私は、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……変化が必要な部屋じゃない」
「そうだね」
安室は笑った。
けれど、その目は笑っていなかった。
沈黙が落ちる。
廊下を通る他の構成員の足音だけが、遠くを流れていく。
しばらくしてから、安室は、何気ないような口調で言った。
「スコッチって、覚えてますか?」
私は、表情を変えない。
「……スナイパー」
事実だけを答える。
「そう。元スナイパーの、NOC。
僕は結局見つけられなかったんですが、処理されたと聞きました。
誰が持ち込んだんですか?」
彼は壁にもたれ、薄く微笑みを保つように彼女を見た。
少しだけ目を伏せる。
スコッチ。
……彼はもう私のものなのに、この人は何が知りたいんだろう。
「……仕事は、した」
それだけ言う。
安室の目が、わずかに細くなった。
「彼のこと、どう思いますか?」
簡単な質問。
けれど、選択肢は多い。
私は、すぐには答えない。
思い浮かんだのは、死ぬ前の三日間と、
保存容器の中の彼。
彼は視線を私から外す。
廊下の一点を見つめ、悲しさを装うように言葉を続けた。
「生前、何回か彼と仕事をしたんです。いい人でした。
NOCとは言え、最後が気になるのも、分かるでしょう?」
彼は自分から死にに来た。
死ぬ前提で過ごした三日間の彼が、どのような表情をしていたかを、私はもう覚えていない。
薬品の中で、静かに沈んでいる今の彼が、私の唯一の彼。
でも、どれも、誰かに教えるつもりは無かった。
だから、私は首を横に振った。
「……興味ない」
安室の表情が、ほんの少しだけ揺れる。
「あなたの知っている彼は、あなたのもの」
私は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「私が知っているのは……仕事の結果だけ」
死体。
死ぬ前提でラボに来た彼。
保存されている彼。
それを「結果」と呼ぶのは、少しだけ乱暴かもしれない。でも、私の中では、それが正しい。
「仕事の結果、ね」
安室は、言葉を反芻するように繰り返した。
「ねえ。もし――もしですよ」
ゆっくりと安室は彼女へと向き直る。
「もし、彼が、あなたの事を好きだと、そう告白していたら、どうしてました?」
視線が揺れた。
……今の彼になる前の「スコッチ」は私を見ていた。
好かれていたと、そう思う。
でも彼は、言わなかった。
私も知りたくなかった。
「……何も。」
探るような目。
踏み込みたいのに、踏み込めない境界線を前にした目。
「あなた、冷たいんですね」
そう言いながらも、その声には本当の非難はなかった。
彼が何を知りたかったのかは分からない。
でも彼は、自分でも分かっていた。
どこかで、諦めていた。
私は、まばたきを一度だけ挟んでから、静かに言う。
「あなたが知っている彼は、あなたの中にいればいい。
……ここには、いない」
ここにいるのは、私の三日間と、その完成だけ。
それを言葉にすれば、きっと彼には伝わらない。
理解されなくていい。
理解されたくない。
安室は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……失礼しました」
いつもの柔らかい笑みを、形だけ浮かべる。
それから、通り過ぎていった。
靴音が遠ざかる。
私は、しばらくその場に立ち尽くす。
安室が口にする「スコッチ」は、別の誰かだ。
それを奪うつもりはない。
だってそれは私のものではないから。
踵を返す。
ラボに戻る。
ドアを閉める。
照明をつけずに、そのまま彼の前に立つ。
薬品越しに、彼の顔を見る。
「……ただいま」