TS娘「これはデートじゃない。あいつに復讐するための作戦だ」 作:負け犬ぅ
フライ返しで目玉焼きを掬い、皿の上に置いた。黄身には白く薄い膜が張っていて、半熟になっている。焦げているということもない。
「完璧。」
思わずそう呟くほどの出来だった。隣のコンロでは鍋から湯気が出てきていた。昨日の夕食で余ったみそ汁を温め直している。沸騰する前に火を止めて、目玉焼きの隣に添える予定のレタスを私は手に取った。
朝や夜などの食事の準備は兄妹2人の当番制で回している。昼はそれぞれが自由に食べる(休日で何も予定がない場合は一緒に食べたりもする)。兄が高校に入ってからこの生活をしているため慣れたものだ。面倒だと思ってしまうことも少なくはないが、もはや生活のルーティンになっていて、やり始めるとむしろ私のメンタルを落ち着かせてくれるような気さえもする。特に昨日は兄の変貌ぶりを間近に見たことで気持ちが落ち着かず、だから家事に集中できるこの時間が一際心地よいように思えた。
リビングのドアが開く音が聞こえた。兄が入ってきたのだろう。反射的に振り返る。兄と挨拶をして話すことに何の抵抗もない。少しは自分の感情を消化できたのかもしれない。
「おはよ、おにいちゃ…」
言葉はそこで止まってしまった。兄の姿を見て、止まってしまった。
「どう、かな。これ。似合うか?」
こいつ…髪巻いてやがる…
・・・・・・
兄は身だしなみに元々気を遣うタイプで、普段からファッションにもこだわりがあるタイプだった。女になってから服のサイズが合わなくなったことを嘆いていたし(たまにオーバーサイズの服として着ている。そこそこ似合っている。)、引きこもりを脱却してから髪は美容院で切って手入れもしていたし。
ただ、髪をヘアアイロンで巻いているとこは初めて見た。サラサラとした髪はそのままでも十分に美しかったし、たまにポニーテールで後ろにまとめているのを見るぐらいにしか見たことがなかった。流石の兄も踏みとどまっていたんだ。今日までは。
それを解禁してしまうほどにこのデートは兄にとって重要なんだろう。重要度を表すように兄の髪はフワフワになっていた。
…いったいいつ練習していたのだろうか。
「薫さんさぁ。次いつ来るって言ってたっけ。」
兄はそう言うと、コップに注がれていた麦茶を飲み干す。茶碗や皿に盛られた食事は既に空になっている。
薫さんというのは両親が雇っている家政婦のことだ。毎週日曜に家に訪れると掃除などの家事をしてくれて、頼めば料理なども教えてくれる初老の優しそうな女性である。
髪や服からして別人のような気すらしていたが、その口から薫さんという言葉を聞くと少し安心した。本当に兄なんだな、と。
「今週はお孫さんの劇見に行くから来れない。来週の日曜に来るって。」
「だよな。」
知っていたような口ぶりで兄はそう言う。実際それを知っていたはずだし、何故わざわざ明日薫さんがこないことを確認するのだろうか。
「薫さんに朝帰り見られたらやばいからってこと…?」
「は?」兄は持っていたコップを強めにテーブルに置いた。
「いや、え…?泊まってくるの…?お兄ちゃん?」
「んなわけないだろ。俺は復讐がしたいんだぞ!」
そういう兄の顔は赤みを帯びている。
流石に浮かれて頭の中も外もフワフワになったとはいえど、兄がそんなすぐに体を許すなんてことあるだろうか。目の前の女は私に聞かれていることを誤魔化しているようにしか見えないが、そんなことあって欲しくなかった。
「…だよね。」
思考と会話を打ち止めるようそう言ってみた。兄は何か意外そうにこちらの顔を見た後
「わかればいいんだよわかれば」
と言って席を立つ。
「食器は私が片づけるからお兄ちゃんは早く行きなよ。復讐が待ちきれないんでしょ?」
「ん。あーそう。ありがとな。」
兄は持とうとした食器を置いて、リビングから出ていく。
私は食器を流しまで持っていったあと、それを一枚一枚洗っていった。
昨日押し込んでいた感情が暴れているようだった。気分は良くない。そこにある食器を全て割ってしまいそうだ。
あの男が兄を救った。私ではないあの男が救ってしまった。兄があの男と一緒に居れば幸福というのなら、後押ししてやればいい。なのに私はそれが出来ない。
兄は気持ち悪くないのか。兄はあの男のせいで狂って、壊れて、復讐したいとおもうほどに憎んでいたのに。どうしてあんな顔が出来るんだ。
私は佐原が本当に兄を外に連れ出してくれると思って中に通したわけじゃない。でもこうなってしまっては後悔している。あんな兄を見たかったわけじゃないと何度も後悔する。そしてその度に自分のことを嫌いになるんだ。
気持ち悪い。過去にいじめた相手に対して寂しいなんて臭いセリフを言える佐原も、そんな言葉にころりと転がされる兄も、この状況を受け入れられない私も。全部が全部気持ち悪い。
「いってくるー」
兄の声が廊下から聞こえてハッとした。続いて玄関を開ける音も聞こえてくる。兄がデートに行ったようだった。
少しの間の後、自嘲するような笑いが自らの口から勝手に出た。
「気持ち悪いからなんなんだよ。」
私がそんなことを言っても意味はない。私が何を言おうと、何を考えようと、あの2人は付き合うのだろう。私の意思はそこに関係ない。モヤモヤとしたこの気持ちを抱えながら兄を見守ることしか出来ない。それくらいの立ち位置だ。
皿を全て仕舞ったあと、ぼうっとテレビを眺めた。電源のついていないテレビには私の姿が反射されて映っている。女になった兄と私の姿はそこそこ似ている。男だった時から顔のパーツは近いものがあって、特にアーモンド形の大きい目はほとんどそののままだって薫さんもよく言っていた。性別も同じになって、背丈もほとんど違いはない。
「これはデートじゃない」
兄の声や表情を真似してみる。少し面白いように思えて、笑えてきた。
デートじゃないわけないでしょ。一生懸命おしゃれして、ヘアアイロンで髪まで巻いて、あんな嬉しそうな顔して。デートじゃないわけがないんだ。
「私、結局ひとりぼっちか。」
充分に笑ったあとそんな呟きが口から出ると、自分が無様に思えて仕方がなかった。
・・・・・・・
お昼は外で食べることにした。私一人ということもあったし、家にいると気持ちが不安定になってしまって仕方がなかった。駅の近くにはお気に入りのパン屋さんがある。あまりパンの種類は多くないが店内で食べることも出来て、なによりメロンパンが絶品だ。
コーヒーの中サイズとメロンパン。薫さんが見てたら怒りだしそうな栄養スカスカの昼食だが、こういう日があっても良いだろう。
「いやー面白い映画だったな。」
私が1人メロンパンにかぶりついていると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえてくる。私の耳に間違いがなければそれは兄の声だった。
私は兄のことを頭から引き剥がすために外へ出たというのに、その元凶がそこにいる。天才的に運が悪い。今、席を立ったとして兄と佐原にバレる可能性もある(あとメロンパンもあと半分残っている)。私は彼らが離れるまでそこの席に居座ることを決めた。
「そうかぁ?オチがちょっと…」
「いやわかってねえなぁ。あそこは~」
兄たちの雑談を聞いていると特に気負ってる様子もなく、普通に話している。デートだろうとなんだろうと、いつも話している間柄だから変に気まずくなることもないのかもしれない。元々は男同士で友人だったわけだし。
「そういえばさ。相談ってなんだよ。」
映画の話がひと段落した後、兄がそう切り出した。
「あー…えっと…」
佐原は少し考えるように声を上げる。とても言いにくそうで、何か重大なことのようだった。
ただ、私としてはメロンパンを食べ終え早くこの場から去ってしまいたかったし、佐原の相談の内容など興味もなかったので早く言えよというのが正直な気持ちだった。
「好きな人が出来たんだ」
佐原のその言葉にドキリとした。この男もしかしてこのまま兄に告白する気だったりするのか、と私は思った。普通に考えて他に好きな娘がいるのに女と二人きりで出かけるとは考え辛いし。
兄も同じ考えに至ったのか、
「おう」
小さな声で何かを待つようにそう返事をした。振り向けないからわからないが、多分兄の顔は真っ赤になっている。それが容易に想像できる。
私はまだ兄の現状に対して感情の整理が出来ていない。それがどうして告白の場面に出くわさなければいけないのか。
「驚かないんだな。」
「…まあな。なんとなく察してたし。」
「そうか。全部、わかってるんだな。」
佐原は覚悟を決めるように数秒口を閉じたあと、こう言った。
「先に兄であるシンヤに話を通すべきだと思ってな。俺は綾香ちゃんが好きになっちまったみたいだ。協力してくれ。」