東洋における多種多様な武術をその身に宿し、山河に勝る鍛錬の果てに積み重なった膨大な功夫は、底知れぬ対応力を見せる。
色彩豊かな技術と闘法で縁取られた、攻守ともに隙の無い立ち姿は、いっそ残酷なほどに敵を挫くだろう。
私の運が悪いのだろうか。
厄神であるはずの雛がそんな錯覚を覚えてしまうほど、理由の分からない隙が生まれてばかりだった。
綾取りのように、こちらが作ろうとした形を絡めとられ、相手の有利な型に導かれているであろうことは実感している。
しかし渾身の一撃を拳一つ分ずらされただけで、落ち葉にでも滑ったかのように踏み込んだ足が浮かんでしまうのは、自らの体で経験したとしてもどうにも納得がいかないものである。
追撃の掌打を無理やり避けた先で、たまたま置いてあったかのような膝に迎えられ、こんなことばかりだと憤る。
自分から飛び込んでしまっているのではと勘違いしてしまうほど唐突に訪れる不利は、相手の自然体も相まって、自分の不運を疑ってしまう程のものだった。
強かに打たれた鼻を抑え、振り向こうとした拍子にズキリと痛んだ体がすくむ。
そんな半端な格好で止まった顔を削るかのように、何かが豪と掠めたのを感じ、下がった目線に当たり前のように映る布靴が、ぞくりと悪寒を抱かせた。
「ごっ……ふ」
奇跡的に避けた後隙を逃がす間もなく半身にくらった衝撃は、吹き飛ばすのではなく地に縫い付けるような重みが加えられていた。
微かに都合の悪い回転を加えられた当身は、自ら飛んで衝撃を逃がすことも、転がって距離を空けることもできない。
背中からもろに叩きつけられ、押し潰された肺に呼吸が止まり、明滅する視界に夕焼け空の赤が染みた。
仰向けで眺めることになった空と木の間から、拳がぬっと差し出される。
斜光によってかやけに紅く色づいた、研鑽が良く見える拳だった。
傷付くことを厭わず、むしろ日常になっていることが伝わる、歪で美しい拳だ。
先の攻防で付いた大小の傷も、すでにその研鑽の中に組み込まれているようにも見えるほどに。
折れた指をものともせずに固められていた拳は、少しして、草臥れた厄神様をねぎらうように開かれた。
その手を取り、立ち上がって深呼吸を一つ。
向かい合った二人は、腫れた顔も乱れた髪も気にせず笑う。
「もう一度」
「はい」
厄神様から声をかけ、門番が答える。
当然のように両者が構え、厄神様が飛び込む。
先手を避けられ、追うように出した裏拳が全く同じ力で返され、拮抗したと考えた矢先に、踵を軽く押されていることを悟る。
足先の方向がずれただけで、力がうまく伝わらない。
押し負けまいと咄嗟に踏み直した足を軸にするように手を引かれ、体が振り回されそうになったところを、目の前の中華服を掴んで体をずらすことで避ける。
しかし、手を離す前に掴んだ服ごと包むように手を取られ、ぐいと引き込まれる勢いを迎えるように突き出された膝で横腹を打たれた。
手を取られたままでは離れることもできない。
打たれた隙に腕が極められたが、それを追うように躊躇せず前転して宙を回り、間髪入れずその回転ごと押し付けるように、服を掴んでいた手のまま逆手の掌底を放つ。
着地の勢いもしっかりと載った掌は寸勁紛いの力で内臓を打ち、捩じれた服が引っかかったこともあって、門番もうまく衝撃を逃がせなかったようだ。
痛みで次への準備が止まった体に、振り上げるような蹴りを浴びせる。
(「量」が違う)
距離を置き、蹴りを受け止めた腕を払う様子を見ながら、厄神様はようやく少し悟る。
拳を出しながら、踏み込む足でこちらの体制を崩す。
受け止めながら、追撃をされない位置に足を進ませる。
一つ行動する間に、異なる意図を持つ行動がいくつも混ざっている。
こちらが一手動く間に、あちらは二手三手と動いているようなものだ。
それをごく自然に当たり前のように見せるものだから、気づかない間に自分が不利な位置にいて、相手の準備は整っているように見えるのだろう。
特別なことをしているわけでもなく、ただ一瞬の交錯の間に行う行動の量が違う。
(「歴」が違う)
膨大な功夫のなせる技なのか、とにかく理解と対応が早い。
少々奇を衒っても気にされず、どんなに力や速さに任せても冷静に、こちらが不利になる形で受け止められる。
決定打まで辿り着く前に行動量の違いで先手と有利を作られて、手痛い一撃を返される。
そんなことを繰り返していると、こちらばかり息が上がり、相手の余裕にさらに焦りが生まれてくる。
焦って放った一撃は、丁寧に整えられた反撃を食らい、勝負を決めてしまうのだろう。
(……もっと、知りたい)
解決策など浮かんでいない。
それでも、限界の近い体が悔しい。
もう何度もできないだろう攻防に焦がれる想いを感じながら、厄神様は受けたくない位置に飛んでくる拳を受け止めた。
――
「学びの多い時間だったでしょう。私にとっても、あの方にとっても」
滝行を終えた華人は答える。
直近で妹様と遊んでいたと聞くが、鍛えた拳を後ろ手に組み、背筋を伸ばした立ち姿からは怪我の影響も感じない。
あの容赦の欠片もない攻防からは考えられないような穏やかな笑顔ではあるが、相対して分かる隙の無さは、彼女が番人であることを如実に示していた。
何かはっきりと動いているわけではないのに、一歩近づく足運びに、何気ない握手の動きに、機先を制されているような圧がある。
どれだけ速さに自身があったとしても、不意を突く、というイメージが浮かばないほどに。
準備されている……いや、そうは言っても厄神様だって何度か有効打は入れていた。
磨くべきは更なる速さなのだろうか、それとも――。
質の高い武に充てられてしまったのだろう、取材として訪れておきながらつい勝機を探してしまった。
そんな算段を立てていることが悟られたのだろうか。
気付けば顎に当てた手からペンは消えていて、逆の手に持っていた手帳に向けて、器用に軽やかに、さかさまから何かが書き加えられていた。
『いつでもお待ちしています』
にっこりとペンが差し出されている。
盛大に引き攣っているとは思うが、笑顔を返して受け取るしかないだろう。
不意を突かれて出た慄きを誤魔化すように最後に総評を聞けば、一つ頷いた門番は楽し気に答えてくれた。
「良い鍛錬を感じました。できればまた、機会を見つけて手合わせ願いたいですね」
「勿論、貴方とも」とでも言うように傾げられた首は、見なかったことにしたい。
一先ずは、早めに記事に起こしたいからと、暇乞いをしてみよう。
大丈夫だ。
煙に巻く弁舌ならば、目の前の偉丈夫よりもよっぽど功夫を積んでいるはずだから。