TSよわよわVtuberはバズっても外には出ません ~かわいくなったら余計他人が怖くなったんだけど!~ 作:あずももも
【こはねちゃん】
【X月Y日前後に多発したボイチェンソフトの不具合に巻き込まれた被害者の1人。頻繁に活動していたのはこの3年だが、それ以前から男声(時期的にギリ販売されてた大学生男子風ボイチェンモデル<URL>? なお本人は地声と主張)で「昼夜逆転引きこもりニート男」の趣味勢として配信をしていた疑惑のある個人勢Vtuber】
【上記の日の配信で(恐らくはソフトの自動アプデポップアップを無自覚で押してしまったと思われる)普段通りに配信したらボイチェン前のロリヴォイスで数十分配信してしまった&弱小個人勢Vを応援していた中の裏切り者が即座に切り抜いてアップしたことによりバズってしまった哀れな被害者】
【――――――というドッキリをかまし、登録者300人のところからとんでもない大バズをした猛者】
【声はVtuberとしてのアバターそのものを想像させるかわいい系のロリ。柔らかめでありつつ気を遣わない気安さな口調に脱力したひとり言、数十分の間に何度も水分補給をしたときの声が非常に可愛らしいと、僕っ子口調のロリなその声とのギャップでバズりにバズったが、配信の中で「ドッキリ大成功」と宣言し、声バレを否定】
【ボイチェンでありながら数十分のマジ泣きなギャン泣きで視聴者たちの多くが父母性に目覚め、チャンネルの方向性が一気に子育て父母会な介護配信になった模様】
【本人は「こちらの声こそがボイチェンで、今回のバレはあくまでボイチェンソフトの不具合多発を先に知り、逆手に取ってのドッキリ」と明言しており、怪しむ声も多いものの、以降はロリヴォイスで配信をするようになっているため「もうどちらでも良いや」と……】
【ネナベしてた個人勢V、まさかの女の子バレで大炎上!?】
【ネナベドッキリに引っかかったY民たち】
【「ネナベでもネカマでもそれはそれで」と性癖を破壊された末路】
【バ美肉に対する議論で燃える界隈】
【流れ弾で飛び火した「引きこもりは男女どちらが過酷か」論争】
【「そんなことよりTSっ子が良いよ」と、にわかに活気づく市場】
などなど、などななと。
「……はぁ……半信半疑なのは変わりないか……」
エゴサ――エゴサーチ、あるいは自分の名前を検索欄に入れるという行為。
表に出たことのない一般人、あるいは勉強やスポーツなどで少し秀でたことがあれば顔と名前が――良い意味でネットに残った人が、思い出したときににやにやしながら眺めるための行為。
それか「配信者」という、たとえ同接が0人で再生数が0回であったとしても、自分の評判が気になって仕方のない種族が自信の人気を知りたくて行ってしまう行為。
――そして、過去にやらかしたことのある咎人が、そっと自分の傷をえぐって悶絶するために行う行為。
配信を始めてから今まで1度もしたことのなかった行為で、僕は深く傷ついた。
なお、配信者になる前の学生時代は学校でパソコンを使った授業中にヒマだから検索したこともあったけども……当然ながら何も成し遂げていなかったし、当然ながら今でも成し遂げていない僕の本名は、どこか別の立派な「綾瀬直羽」君と知って、安堵と悲しみを覚えた記憶がある。
まぁなんにもせずに学生生活を終えることすらできずに引きこもっているダメニートだ、僕自身の名前が売れるとしたらニュースでお縄に着いている映像と共にだろう。
そんなことするつもりはないけど、ほら、今どきは怪しいってだけでとりあえず逮捕される恐ろしい時代だって言うし?
「……ひ、ひより大先生のほわほわした『こはね』が……」
画像投稿サイトにてタグをつけられるまでもないらくがき――そこには絶望顔だったり虹色の滝を口からまき散らしていたり、ドッキリを笑う僕の姿がいくつか存在した。
かわいらしいけど、どう見てもヨゴレ役――ゲロインとかそういう系統の扱い。
……僕の扱いとしては悪くはないって思えちゃうのが悲しいね。
「ま、まあ、思ったよりは好意的な反応だよな……うん。……あっ」
「R18」タグのついたピンクと肌色主体のそれら――なぜかパーカー1枚しか着てない「僕」がすっころび、下半身が画面に映っているという――あとは普通にセンシティブなことを非常にセンシティブしている、かつ、やたらと反応の多いイラストが。
「………………………………」
……ひより先生、見てないと良いなぁ……や、僕みたいな成人男性なら笑って済ませられるけど、多感な時期の――たぶん女性でピュアな彼女には影響ありそうだし。
「………………………………」
僕は悩んだ。
……そのイラストと、奇しくも同じ――そらそうだ、アバターの立ち絵と同じくぶかぶかのパーカーで、違うのはぱんつを穿いてることだけ――格好で、イスの上あぐらをかいているのが全身鏡に映っているのを見て。
毎回自然と本能として悲しいことに、なんとなく脚をもぞもぞとさせてぱんつがちらりと見えるようにしちゃっていて、股のところをのぞき込もうとしていたのを発見して罪悪感を覚えて。
その下にある、男にはないっていうか男からなくなった場所っていう――男に生まれてしまったらどうしても求めてしまう、その、毎日お風呂で見ることになっている、ぱんつの中身を思い出しちゃって。
「……男どもはしょうがない……そして僕も男だから本能で、それは諦めるしかない……うん、動物だってみんな本能的に好きになる場所だし……僕も男だから、他人のそれも大目に見るとして……」
――今後を、どうするか。
「……調子に乗って配信しすぎたなぁ……」
僕は動画投稿サイトの過去のアーカイブ一覧を眺める。
――あの日、この体になった直後に僕の声が配信に載っちゃった日。
それ以降は、その前までの視聴回数とは文字通りにケタが――2ケタから4ケタ、100倍から1万倍は違う。
すごいよね。
やってることはまったく同じなのにね。
アバターもまったく同じなのにね。
――ばらばらな時間なのもまったく同じ、しゃべってる内容もまったく同じ、プレイの腕もゲームのチョイスも、なにもかもがまったく変わらずに、その前までと変わっていない。
なのに、
「たかが、女の子『疑惑』ってだけで。………………………………」
――こんな僕でも、ときどきは人気を模索したりもした。
その過程で、やっぱりこの界隈の需要的に女性は女性というだけで――同じことをしようとも、男性よりも得だと理解はしていた。
女性は――よほど酷くない限り、最初から一定数のファンが確実につく。
最初期の――常識人なら自分の録画した音声を再生して悶えるあの状況な初心者ボイスでも、たどたどしくても黙りがちでも、男なら「うわ、キツいな」で即離脱でも女性――若いほどに「ういういしいのが良いな」って評価になる。
男女の違いは、生物学的で本能的なんだからしょうがないんだ。
それに、それ以降はコンテンツとトークがうまくないと伸びないのは同じだし。
もっとも――女の子、あるいはその疑惑がある時点で、ファンの一定数は「この子に気に入られたらリアルで会って彼女になってくれるかも」っていう欲望が原動力だから、それが良いかどうかはともかくとして。
スタートダッシュが男のそれより2ケタくらい良好だから、早々に収益化も可能、収益化すれば、おひねり――投げ銭が来る。
何割か盛大なピンハネをされたとしても、充分なお金が手元に残る。
メンバーシップにも――ちょっとでも配信外の会話とか個別会話とかを入れれば、月額で、それだけで大学生のバイト代くらいはもらえるようになることもあるらしい。
ずるい?
ずるくはない。
需要と供給の問題だ。
あとは、生物としての価値。
何があろうと適齢期の女性は、それだけで男性が群がるもの。
生物とは男女に分かれた瞬間から、1人の雌を何十何百の雄が取り合うものなんだから。
それはもう夏場に必死なセミたちの声を聞けば、生きるためにエネルギーを燃やす哀れな存在を認識して悲しんでやれるんだ。
それに、顔や声を出しての――つまりは男と分かっての配信者界隈では男も上位層にも中位層にも普通に存在するし、つまりは需要の満たし方と場所さえ選べば男でもやりようはある。
というか中身があるのなら、性別はそこまで関係ないだろうし。
ただそれをVtuberっていうアイドル的な属性のあるコンテンツ、楽しむのが男が大半な界隈でやる以上、不利は覚悟で挑め――的なアドバイスを知っているだけ。
「まぁ、今は僕も得してる側なんだけど……」
数年間、収益化ライン――登録者1000人、累計視聴時間4000時間という壁――なんてのは雲の上だったはずなのに、ボイチェン事件から1週間くらいで軽々と突破。
ボイチェン事件の配信だけ再生数が10万を超えてるし、遅らせた切り抜きはもはや意味不明な再生速度で加速している。
「うぇっ……再生数こわい……」
それを見て、僕は涙ぐんだ。
「んくんく……ふぅ」
で。
おそるおそるで申請した収益化は――たぶん、通る。
特別にえっちな配信をしているわけでも意図的な炎上系をしているわけでもないんだし。
そんな画面を眺め、僕は非常に複雑な気持ちを抱えていた。
「騙してはいるんだよな……そして騙しているともはっきり、何回も、毎回言ってる……」
そう――勝手に自分から騙されたり騙されたフリをして乗っているのは視聴者たちだ。
僕は真実しか言っていない――この体が「以前は」男で、ある日に変わって……「TS」ってのをして、「今は」女の子になっていること以外は。
「つまり、僕は悪くはない。……けども、この人気は『僕』を見てのものじゃ……」
――そうだ。
今の僕の――なぜかまだ続いているフィーバータイムは、あくまで「もしかしたら中身は女の子かも」っていう、男たちの悲しい性質による妄想の産物。
あるいは「ボイチェンでも良いから、配信がかわいければなんでもいい」っていう、これまた男の悲しい需要によるもの。
――「僕自身」が人気になったわけじゃない。
それだけは断言できる。
「……こういう考え方、もったいないとか昔、優花が言ってたけど……」
悲しいかな、人の性質っていうのは子供のころからだいたい変わらない。
そして僕は悲しいかな、こんなめんどくさいことを理解しながらも否定できない性格なんだ。
「………………………………」
僕は配信ソフト、マイク、ボイチェンソフト――はもう起動しない――、立ち絵ソフト、立ち絵ソフトを動かすカメラ、そして鏡を見てなんとなくで前髪を整え――配信開始ボタンを押す。
【お】
【こはねちゃんが順調に生活リズムをずらしていっている】
【草】
【綺麗に30分とか1時間とかずつ遅れてくのな】
【これはこれでおもしろい】
【分かる】
【時間が決まってないのはもどかしいけど、逆に考えたらどうしてもリアタイできない人にとっては一定周期で配信開始から居られる天国】
「……んんっ。こんにちはぁ」
僕は、今の僕の――少しだけ甘えたような声を――だってその方がウケが良いし、なんとなく気分が良くなるから――で、世界へ語りかける。
その同接数は、いつものごとくに予告をしなくても最初から2ケタ――以前の数人から格段に多くて。
【かわいい】
【かわいい】
【こびっこびなのもいいよいいよー】
【このロリ声なら無愛想もそれはそれで】
【分かる】
【投げ銭……】
【その機会を待って貯めとけ】
【大丈夫、配信聞きながらバイトしてる】
【えらい】
「収益化は、まだ手続きと審査中かな。調べた限りだと、早ければ今週中には……ってとこだけど」
画面の中、右下の隅っこで――今の僕を二次元にしただけのイラストが話している。
していることは、なんにも変わっていない。
しゃべり方も――多少は媚びている自覚が出てきちゃったけども、それでも僕のリアルを追及する声とかを無視して、徹底的に男らしい口調。
それでも、みんなは喜んでいる。
――それなら、このくらいなら。
謎の少女ボディーになっちゃったけども、その声くらいなら届けても――ちょっとちやほやされても、良いんじゃないかなって。
一生のうちに1回くらいは、いい夢を見たって良いんじゃないかな。
そう、思った。
◇
【ねぇねぇ、TSした醍醐味の感想は?】
【お前……】
【なんで古参の中にこんな裏切り者が……】
【しかも完璧にこじらせて業の深いことになっている】
【かわいそうに……】
【こいつ、アーカイブ観ると挨拶を普通にするだけのリスナーだったんだよな】
【もしかして:こはねちゃんに脳焼かれた】
【草】
【あー】
【それだ】
【ガチ恋ならまだしも、どうしてTSした妄想とかおかしな方向に……】
【それが、脳を焼かれるということだ】
【草】
【こはねちゃんも軽く流すだけだし、反応しないでやれ】
【だな】
「……TSは創作のスパイスとしては好きだけど、リアルでなったら大変そうだし、僕は良いかなぁ。理想ならともかく、現実としては」
うん。
大変なんだから、本当に。
【それな】
【リアルで考えると戸籍とかな】
【学校とか会社とか……ねぇ?】
【そもそも家族に信じてもらえるか議論からだしな】
【異性の家族が超絶美形で、その家族そっくりになる場合以外は信じてもらえるまでが地獄だわな】
【家族から「お前は誰だ!」って詰められて警察呼ばれるとかになったらもう……】
【その時点でトラウマ必至だよなぁ】
「ねー。僕なら絶対……いや、妹が美人さんだからそういう意味ではチャンスはあるか……? DNA的に、母さんに似たならあるいは……」
優花譲りの美形さんならあるいはね。
もっとも、その実の兄の僕は微妙な顔だったけども。
そういう意味では、父さんはよく美人な母さんをゲットできたよね。
男として尊敬するよ、父さん……スネしかかじってないニートになっちゃったし、なんなら息子どころかDNA的には父さんの子供でもなくなってるけども。
【草】
【出たよお兄ちゃん節】
【そんなに美人さんなのか】
【家族のひいき目もあるだろうけど、ちらちら話す限りだとマジでかわいいらしい】
【おっぱい……お兄様、おっぱいのサイズを……】
「誰が教えるかバカ、そもそも妹はやらん。妹が見定めた人にしかやらないぞ。ていうか引きこもりニートが口出せる話か、それ」
【草】
【草】
【それはそう】
【妹ちゃんとひより先生にだけはガチなのが草】
【こはねちゃんにとって大切な人たちだからね】
そうして僕は今までどおりに、なのに反応のまったく違う配信を楽しむ。
――本当、男と女の価値の差って、この界隈では残酷なまでに違うんだなって思いながら。
◇
「――――――――兄さん。何かありましたか」
「ひゅっ」
僕の心臓はびくっと跳ね、体も危うく爆発四散するところだった。
バレた?
何で?
優花とは直接顔を合わせていない。
廊下でも――トイレは、その、人類の叡智というか……うん、明らかに危険そうなときは漏斗を使っての……うん……で、それ以外は気配を完全に察知し、うっかりトイレへ出て顔を合わせるのも回避している。
それ以外で部屋から出るのは、優花が居ない時間帯。
それはドアを開けたときのセキュリティーの音で完全に把握しているはず。
なら、なんで?
まさか、このボイチェンを使ったスピーカー越しの声とか、あるいは他のなにか――
「あ、ごめんなさい……兄さんを詰問するとかで兄さんのメンタルを危うくすることが目的ではありません。そうではなく、単純に食事の量が多いので……私の作り置きとか、消費するペースが……」
「……あ、ああ……ごめん、優花」
僕は正常に戻った。
TSを、バレていない。
そう分かれば、落ち着けるんだ。
「兄さんは……兄さん自身が拒否したので無かったことにしていますが、歴とした心的外傷後――ごめんなさいっ! 呼吸に異常があったら、すぐに救急車を――」
「え?」
「えっ」
あっ。
………………………………。
そ、そうだよね……?
僕、こういう気まずいことがあるたびに――最低でも過呼吸にはなってたはずで、酸素飽和度次第ではかかりつけの病院に救急車で。
いや、そんなことは後回し。
今は、優花を安心させないと。
――僕を、唯一見捨てていない――優しすぎる妹を、安心させないと。
「……ああ、いや、大丈夫。優花に『そう』言われてもパニックを起こさない程度には健康……だと思う。こう話せている時点でそうだろうし、マップルウォッチも緊急なんとかとか出してないでしょ?」
「……本当ですし、そこまで落ち着いているなら。配慮に欠く物言いでした」
「優花は少し優しすぎるよ……けど、とにかく大丈夫。ちょっと汗がにじんだだけだから」
妹は分かってくれたらしい。
……恐らくは緊急通報しようとしていただろうその手を止めてくれていると信じる。
止めていなかったら?
………………………………。
……いっそのこと別人になったことがバレたら、大変だけど楽になったはずだけども。
それを願っている僕が居る。
それを願っていない僕が居る。
――ああ、いつも僕はこうだ。
部屋の中に1人引きこもり、うじうじしているのを許してもらってそのまま放っておいてほしい僕が居て。
部屋の中に1人引きこもり、うじうじしているのを許さないで引っ張り出してほしい僕が居て。
そうだ。
――――――「僕は、誰かから引っ張り出してほしかったんだ」。
「……この前のカゼで胃の調子が悪いみたいで。大丈夫、いつも僕は春と夏と秋と冬にそこそこ重いカゼを引くけど、なんならインフルとかにもなるけど、運ばれるほどのにはなったことはない。これまでの経験以上のがあったら、ちゃんと知らせるよ。優花の友達みたいにはならないように、でしょ?」
「……分かりました。小学校のころの私の友達のこと、忘れないでくれて――っ、ご、ごめんなさ――」
「大丈夫。流行病でのあの子のことは、忘れてないよ。……安心して、優花。顔は見せられないけど――僕は、元気だよ」
優花の叫び声。
――彼女と仲の良かった友達が、流行病で。
それもあって、彼女は僕の体調に神経質だ。
まぁ致命打は僕がひとりすっ転んで後頭部を酒瓶で強打して伸びてたのを発見されたからなんだろうけども……ごめんね優花、トラウマをしょうもないことでさらにひどいものにしちゃって。
「少しばかり……たぶん、朝の散歩中にすれ違った学生に――咳をしてたから、それに引っかかったんじゃないかな。食欲不振……っていうのかな、それ以外はなんにもない。睡眠も多めに取ってる。なによりも」
僕は、ドア越しの――3センチだけ開けてあるだけで、けどもこんな状態でも開けてこないように自制してくれている身内へ、語りかける。
「優花を、もう、心配させたくはないから。だから、健康にだけは気を付けてる。……悪くなったなら、吐いてでもタクシーを呼んでかかりつけの先生のところに行くよ。もっと悪かったら、救急車も呼ぶ」
「……吐く前に頼ってほしいのが本音ですけど。分かりました、兄さん。安心しました」
ドアの前で、深いため息。
「……でも、何か不安なことがあったら……あのときは役に立てなかった私も、来年には大学生です」
「うん、優花のことは信じてる。……だから、僕みたいにならないように――」
――ばんっ。
僕は僕の顔を思いっ切り殴った。
……あ、「これまで」よりも柔らかい感触。
そっか。
女の子、しかも子供の顔だもんね。
……ごめん。
「――――兄さん!?」
「ごめん、またやっちゃった――けど、大丈夫。それよりも」
――パニック障害からの、「他人」へ迷惑を掛けないための、自傷癖。
僕自身が嫌いだから、感情が昂ぶると制御ができなくなる。
そうして僕の体を引っかき、つねり、刺し――あるいは顔面を何度も思いっ切り殴って鼻血が止まらないほどに出て――脳震盪をやっちゃってる、悪癖。
大半は見られていないところまで我慢できるんだけど、どうしてもダメなときはある。
家族へ――優花へ心配をかける、悪癖。
それ以上のことをしようとしても、その経験のおかげでセーブが掛かってる――悪癖。
幸いなことに、そうなっても他人に――両親や優花へ向いたことは1度たりともないから、それだけでも安心できはするんだけども。
それも、この「小さな女の子の体」を傷つけないようにって、前よりはかなり制御できてるんだ……ほっぺたひりひりしてるけど。
「――優花にとって、優花が最も大切な存在だ。僕たち家族にとっても、優花は――僕たち以外に、世界に2番目に大切な存在なんだ。お願いだから、僕みたいにはならないで。優花は、優花自身の人生を――――――っ……ごめん」
「……いいえ。体調が悪ければ、思ってもいないことを口にしてしまうことはあります」
ドアが、2センチ開いた――けども、それ以上は開かず。
「……兄さんは、私の、大好きな兄さんです。たとえ兄さん自身がどれだけ嫌いでも」
「……うん」
「だから、……いえ。これを聞いてくれているなら、充分です」
ドアから1歩離れる気配。
――引きこもり生活も長ければ、人の気配には敏感になるんだ。
「優花」
「はい」
「高校生活は、楽しい?」
「はい」
「受験勉強は、大変?」
「はい、人並みには」
断言。
妹は、僕へ――嘘は、つかない。
なら。
「――僕が知らなかった、楽しめなかった分まで楽しんでくれ。教えてくれ。わがままだけど、そう、お願いして良い?」
「……はい。……では、兄さん。行ってきます」
「うん。あ、今夜は日本酒が呑みたい……かな」
「……くすっ」
引きこもりでろくでなしでごくつぶしで汚点の兄の、理不尽な要求。
それでも彼女は――楽しそうに。
「……分かりました。いつものお高いスーパーの棚に並んでいたら買ってきますね♪」
「うん。あったらで良いけど――」
僕は、情けない気持ちを覚えつつも――子供のころのかくれんぼをしていたときみたいな感情で、言う。
「あったら、買ってきてくれると嬉しいな。アルコールは――現実を忘れる以外にも、楽しいことを楽しむってことに……楽しいから」
「ふふっ、もうお酒を飲んでいるんですか? ……けど、ええ。あったら、買ってきますね?」
心なしか弾んでいる、優花のハスキーボイス。
それは、まるで――恋する乙女のようだった。