ガコン、と頭上で石の擦れる音がした。
見上げた先、天井の一角が口を開け──影がひとつ、落ちてきた。
本来なら響くはずの落下音も、膝をつく衝撃音もない。
猫のように床へ降り立った袈裟の男を見て、レオリオがぎょっと肩を跳ねさせる。背後で石の擦れる音がして、穴が閉じた。
「うわっ……またお前か」
埃ひとつ立てずに顔を上げたのは袈裟の男、
「やあ、久しいね。──そういえば、正式には名乗っていなかった。私はスグル=ゲトウ。以後よろしく」
袈裟の男は穏やかに微笑んだ。
「二次試験も通過できたんだ、大したものだよ」
「げ……なんで俺の心配してんだよ。誰も名前なんか聞いてねーし」
レオリオが半歩引くのと対照的に、ゴンは屈託なく駆け寄った。
近づくにつれ、ゴンの息はわずかに浅くなる。海の深いところへ潜った時の、あの水圧に似た重さが、この男の周りにはいつもある。
それでも、ゴンの足は止まらなかった。
「ゲトウさんっていうんだ!オレはゴン!ゲトウさんも、あの料理試験、最初にクリアしたんでしょ!?オレ、寿司の作り方なんて全然思いつかなかったよ」
「ああ、あれはまあ……前世の知恵だよ」
「前世って何だよ」
キルアがジト目で横から差し込む。
羂索は問いには答えず、ただ、その視線をすっとキルアへ滑らせた。──で、君は? とでも言いたげに。
「……キルア」
問われる前に、吐き捨てるように付け足した。名乗らない、という選択肢が消えたことへの不服を隠しもしない。
「ふふ、よろしくキルア君」
「気安く呼ぶんじゃねーよ」
レオリオは、袈裟の男を睨んだまま顎をしゃくった。
「……レオリオだ。恩はあるが、別にアンタと仲良くする気はねえからな」
「クラピカだ」
最後の一人は、短くそれだけを言った。余計な言葉は一切足さない。ただ、名を告げる間も、視線は袈裟の男から外れなかった。
「ゴン君、キルア君、レオリオ君に、クラピカ君。うん、覚えたよ」
羂索は一人ずつ確かめるように頷いた。
その律儀さが、かえって薄気味悪かった。
そこでふと、羂索は思い出したように、自分が落ちてきた天井を見上げた。
「それにしても、確か常連受験者の……トンパ君だっけ? 彼が本当は、ここに落ちてくる隠し扉の仕掛けを見つけたんだけどね。私が声をかけたら、逃げてしまって」
肩をすくめる。
「そんなこんなで、私が代わりというわけだよ」
「……それはいいけどよ」
レオリオが腕を組み、じろりと男を睨め上げた。
「アンタ、本当に俺たちと協力する気あんだろうな?イマイチ信用なんねーっつうか……」
「こう見えて、大抵の荒事は解決できる自信がある。まあ大丈夫だと思うよ」
質問の答えになっていない。だがそれを指摘するより早く、クラピカが静かに割って入った。
「こうやって会話している間にも、時間は押している。まずは、そのタイマーを着けてもらおう」
壁の窪みには、五つ目のタイマーが残されていた。○と✕のボタンが付いた、多数決用の装置らしい。
四人の腕には、すでに同じものが嵌まっている。
羂索が右腕にタイマーを着けた──その瞬間。
重い駆動音とともに、石壁の一部がゆっくりとせり上がっていく。
現れたのは、一枚の鉄扉。その中央に、標識と電光掲示板が掲げられていた。
「なるほど。五人揃ってタイマーを嵌めると、ドアが現れる仕組みか」
クラピカが得心したように頷く。
五人の視線が、自然と扉の中央に書かれた文章へと集まった。
『このドアを開ける? ○=開ける ✕=開けない』
「……こんなとこから始まってんのか」
レオリオが呆れたように鼻を鳴らす。
「んなモン、答えは決まってるだろ」
五人分の○が揃い、扉が軋みながら開いた。
その先は、すぐ壁だった。通路は左右へ二股に裂け、どちらの道も数歩先で鉄格子に阻まれている。壁には、次の設問。
『どっちに進む? ○=右 ✕=左』
五人がタイマーを操作する。
電子音とともに、結果が表示された──○が三、✕が二。
ゴゴ、という音と共に、右の通路の鉄格子が上がる。
「迷ったら左だろ、普通!」
✕を押したレオリオが吠える。ゴンも「あ、オレも左押した」と手を挙げた。
「迷った人間は、左を選びがちだ」
クラピカが涼しい顔で答える。
「だから私は、その逆をついて右を選んだ」
羂索は愉快そうに肩をすくめる。
「ごめんね。私は右が面白くなりそうだから、右を選んだよ」
「どっちでも同じだろ」
「お前らなぁー!」
レオリオの声が通路に反響し──そして、ふっつりと途切れた。
静寂が落ちる。冷えた空気が薄く流れ出していた。
その静けさに染み込ませるように、クラピカが口を開く。
「……ゲトウ。今、『面白くなりそう』と言ったな」
声は静かだった。だが、目は逸らさない。
「このタワー、貴方はもう構造を把握しているのか」
「だいたいはね」
羂索は悪びれもせず頷いた。
「ハンター試験の情報収集は、試験前から始まっているものだよ」
そして、思い出したように付け加える。
袈裟の袖の陰では、いつの間にか取り出された黒いスマホが、淡く明滅していた。
「ちなみに、この先の分岐──どこかで囚人と戦わなければならないかもしれなくてね」
「……それが本当だとして」
レオリオが腕を組み、探るように目を細めた。
「なんで教えてくれんだ」
「理由かい?」
羂索は少しだけ首を傾げ、微笑んだ。
「君たちがどう選ぶか、少し興味があってね。──あとは強いて言えば、二次試験前のマラソンで、得体の知れない男の水を飲んでくれたお礼かな」
レオリオは一瞬、言葉に詰まった。
あの薄暗い地下道。限界だった足。転がされたペットボトル。
……たしかに、あの水に救われた。それは事実だ。
「……チッ」
舌打ちして、視線を逸らす。
「気に入らねぇが、恩は恩だ」
「もちろん。どういたしまして」
羂索はスマホを袈裟の内側へしまうと、開かれた右の通路へ、先んじて歩き出した。
その背中を見送りながら、ゴンがぽつりと呟く。
「……やっぱりあの人、不思議だよね」
「不思議、じゃなくて」
キルアが低く言った。
「ヤバい、だろ。あのスマホ、さっき……こっちを見られた気がした」
ゴンが瞬きする。だがキルアはそれ以上言わず、通路の先を睨んだままだった。
やがて、通路が開ける。
五人の眼前に現れたのは、巨大な地下空洞だった。
空洞は、塔の内部とは思えないほどの広がりを持っていた。
吹き抜けの闇の中央に、石の舞台がぽつんと浮かんでいる。四隅の篝火が炎を揺らし、敷き詰められたタイルの目地に赤い影を刻んでいた。舞台の一辺には、○✕の表示装置らしき大型のディスプレイが据え付けられている。
だが──橋がない。
ゴンたちの立つ足場から舞台へ渡る道は、どこにも見当たらなかった。舞台は四方をぐるりと闇に囲まれ、覗き込んでも底の知れない深みが口を開けているだけだ。
「……なあ、あっち」
キルアが顎で示した。
舞台を挟んだ対岸。ちょうど真向かいに、複数の人影がひしめいている。彼らの側にも、渡り道はない。
人影の一つが、壁際の監視カメラへ向かって何事かを告げた。
直後、かしゃん、と乾いた音。男の手首から手錠が落ち、粗末な貫頭衣が脱ぎ捨てられる。
現れたのは、剃り上げた頭に無数の古傷を刻んだ大男だった。立ち姿に無駄がない。鍛え方に、規律の匂いがある。
男は空洞全体へ轟くように声を張った。
「我々は、この試験の審査を任された『試練官』──ま、要するに長期刑の死刑囚どもだ!」
悪びれもせず言い放ち、男は五本の指を立てる。
「お前たちは、俺を含めた五人の試練官と戦ってもらう。勝負は一対一、出られるのは各自一度きり、順番はそちらの自由!三勝した側の言い分が通る──多数決だからな!」
「戦い方も自由だ。ただし引き分けはない。決着は、どちらかが負けを認めた時だ!」
そして男は、自らの厚い胸板を親指で叩いた。
「一人目の試練官は、この俺だ。さあ、そっちも選べ!」
声の残響が、奈落へ吸い込まれて消える。
五人は自然と輪になった。口火を切ったのはクラピカだ。
「初戦は、できれば取っておきたい。三勝先取である以上、先行した側が心理的に優位に立つ。……もっとも、それは向こうも同じ考えだろうが」
「で、誰が行くんだ? 一番腕に自信あんのは──」
「んー……じゃあ、オレ行くよ!」
ゴンが元気よく手を挙げる。それを、白い手がひょいと押し下げた。
「やめとけって。あの手のやつは、オレ向きだ」
「キルア?」
「別にお前を信用してないわけじゃねーよ。ただ、ああいう筋肉と場数で来るタイプはさ──慣れてんだよ、オレ」
クラピカがキルアの目を覗き込む。
「……任せていいのだな?」
「さあね。ま、負ける気はないよ」
「おいおい、大丈夫かよ? なんならここは年長者の俺が──」
レオリオが言い終わる前に、キルアは首を振った。
「無理無理。あれ多分、元軍人か傭兵崩れだぜ? あんたじゃ荷が重いって」
「ま、まじかよ。……っておい、お前はその相手に行く気か!?」
「へーきだって。見てなよ」
そう言うとキルアは輪を離れ、舞台側へと歩き出した。
──が、数歩で足を止め、くるりと振り返る。
視線の先には、袈裟の男。
「……あと、あんたの出番はないから」
「じゃあ、お手並み拝見といこうかな」
羂索は、へらりと笑ってそう返した。
その顔を一瞥し、キルアは小さく鼻を鳴らす。
(──その余裕ぶった面が気に入らねーんだよ。一発で度肝抜いてやる)
ゴゴ、と石の軋む音がして、奈落の上へ細い橋が渡された。
キルアは両手をポケットに突っ込んだまま、散歩のような足取りでそれを渡っていく。舞台に上がると、対岸から同じく渡ってきた大男を見上げた。
「ルール、どうする?」
「ガキの相手とはな……気は乗らんが、これも試練官の務めだ」
男は首をごきりと鳴らした。
「デスマッチを提案する。どちらかが死ぬか、降参するまでだ」
「おっけー。……ねえ、あんたも犯罪者なんでしょ? 何やったの?」
「ふっ──強盗殺人。刑期は199年だ。満足したか?」
男は腰を落とし、両腕を広げて低く構えた。
「では──勝負!!」
♦︎
自信過剰。身の程知らず。世間を知らんクソガキ。
ベンドットが目の前の少年に下した査定は、その程度のものだった。
なるほど、所作に無駄はない。だがそんなものは、武術をひと通り齧れば誰にでも身につく。本物の殺し合いを知らない小僧が、習い事の延長で戦場に立った──そう見えた。
刑期をわざわざ明かしてやったのも、余興のためだ。すぐに転がして、それから存分に泣かせてやる。時間はこちらの味方なのだから、ゆっくり、たっぷりと。
その見立ての誤りを、彼は思考ではなく──胸の熱で知った。
「……な、に……?」
駆け出したはずだった。少年に向かって、確かに一歩目を踏み込んだはずだった。
だが、視界に少年がいない。
振り返る。
少年はそこにいた。ベンドットの背後に、静かに。
その白い手に──どくん、どくん、と脈打つ赤黒い塊を載せて。
どっ、と全身から汗が噴き出す。
胸の中心を貫く鈍い熱。足元へ滴り落ちていく自分の血。そして少年の手の上で、まだ健気に動き続けている臓器。
(オレの……心臓──)
理解が追いついた時には、体はもう指一本動かなかった。
少年が、笑った。
年相応のあどけない顔に、まるで似合わない──刃物のような笑みだった。
ぐしゃり。
白い指が、握り込まれた。
ベンドットは崩れ落ち、二、三度痙攣して、動かなくなった。
強盗殺人犯ベンドット。残刑期199年──執行完了。
♦︎
「あいつ……一体、何者なんだ……」
レオリオの声が掠れる。ゴンが、あ、と口を開いた。
「そっか、みんなは知らないんだね。キルアんち、代々暗殺者の一家なんだって」
「あ、暗殺一家のエリートォ!?」
素っ頓狂な声を上げるレオリオ。その騒ぎの中を、キルアは橋を渡って戻ってくる。
ふと、視線が合った。
ゴンは目を丸くしていた。頬に、一筋汗が伝っている。──驚いてはいる。当然だ、目の前で人が死んだのだから。
それでも。
「キルア、すごいね。全然見えなかった」
その声に、怯えの色はなかった。探るような遠慮も、殺人者を見る目もない。ただ、いつも通りの真っ直ぐさだけが、そこにあった。
キルアは、きょとんと目の強張りを解く。
胸の奥が、少しだけくすぐったくなった。
「……ふん。当たり前だろ」
そっけなく返して、キルアは壁際へ歩き出す。口元に滲んだものを、誰にも見られないように。
そして壁際に腰を下ろした──その時、ふと、視線を感じた。
顔を上げる。
袈裟の男が、こちらを見ていた。
いつも通りの、穏やかな微笑。何も言わない。からかいもしない。ただ、目が合っただけ。
それだけで、キルアには十分だった。
──見られてた。今の、全部。
ゴンの言葉に目元が緩んだことも。口元に滲んだものを隠そうと俯いたことも。
耳の先まで熱が駆け上がる。
キルアは眦をキッと吊り上げ、音が鳴りそうな勢いで顔を背けた。
(……コイツ、オレの様子を全部見てニヤつきやがった!!)
袈裟の男は、何事もなかったように視線を舞台へと戻した。
その横顔は、やはり笑っていた。