奈落は、どこまでも黒かった。
舞台の縁から一瞬見た
「あちゃー……これは回収は無理そうかなぁ。もう、リリースだね」
「……何をぶつぶつ言っている」
タロスが血の混じった唾を吐き捨て、拳を構え直した。
「貴様が何をしてこようが、同じことだ。耐えて、反撃するだけだ」
「そうかもね。……じゃあ、攻め方を変えようかな」
羂索の指が、スマホの画面を滑る。
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キリヒトノセガメを、リリースしますか?
▷はい
いいえ
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迷いなく、「はい」。
(まあ、あの程度の死後念獣だし、ネテロのいるハンター協会ならどうとでもできるでしょ)
画面が短く明滅し──奈落の底との繋がりが、ふつりと切れた。
入れ替わりに、新たな影がひとつ、画面から零れ落ちる。
死霊、ナマズ。
ボタリ。
黒い泥のようなそれは、石畳に触れた瞬間、まるで水面に沈むように吸い込まれ──消えた。
「ジャポンではその昔、大きな
語りながら、羂索は思う。
(切り札を開示させるために、あえて亀への攻撃は見逃したけど──もう、隠し種はなさそうだね)
そう言いながらスマホを操作する、その一瞬。
羂索の構えが、緩んだ。
隙。
タロスは迷わなかった。石畳を蹴り、最短距離を一直線に詰める。
その、二歩目だった。
踏み込んだ足の先で──地面が、大きく傾いた。
「なにっ!?」
踏ん張れない。落ちる──体が勝手に仰け反り、均衡が砕け、タロスは背中から石畳へ叩きつけられた。
……固い。地面は、少しも傾いてなどいない。
「足場が崩れたと思っただろう」
羂索が、教え諭すように言った。
「
起き上がるタロス。だが羂索は、すでに次の操作を終えていた。
重い金属音とともに、画面から「それ」が降り立つ。
頭部は潰れ、顔は無い。一本きりの足。腕だけが、異様に太い。
死霊、イッポンダタラ。
それがずる、と足を引き摺るたび、石畳が焦げたように黒ずんでいく。
羂索は手の中の
「そうそう。君が打ったこの游雲、よく働いてくれているよ」
潰れた頭が、僅かに揺れた。頷いたようにも、見えた。
そこからは──嵐だった。
正面から、游雲による変則的な連打。足元からは、断続的な揺さぶり。そして、いつの間にか背後へ回り込んでいた太い腕が、背中にがしりと組みついた。
途端、体表からごっそりと何かが抜けた。
(オーラが……吸われて──!?)
「この能力の利点はね、手数の多さだ」
游雲の一撃が、また脇腹を打つ。
「一体を攻略されようと、次の一体を放てばいい。もっとも」
背中の剛腕が、ぐっと食い込んだ。
「攻略する間も与えず、こうして畳み掛けるのが一番いいんだけどね」
視界が揺れる。足場が傾く。背中から顕在オーラが抜けていく。正面からは、重さを増した絶え間ない打撃。
──どれか一つなら、耐えられた。
だが、全部が同時に来る。
「……君、勝つ気がないね?」
打撃の合間に、袈裟の男が言った。声だけが、変わらず穏やかだった。
「時間を稼いでいるだろう。……そうはいかないな」
図星だった。
(だったら、何だ)
タロスは奥歯を噛み締める。
(そうだとしても──降参だけは、せん……!)
全身の神字が、一斉に灯った。
底をつきかけていた自身のオーラへ──神字に蓄えた全てを、注ぎ込む。開幕の頃の守りには遠く及ばない。それでも、防御に残る全てを賭けた。そして、これが最後の補給だった。
光の鎧を纏い、タロスは正面の男へ真っ直ぐに突っ込んだ。
もう駆け引きは要らない。何発貰おうが構わない。捕まえて、潰す。それだけだ。
──それこそが、思う壺だとも知らずに。
♦︎
来る、と分かっていた。
退路を塞がれた獣は、直進しかできなくなる。
羂索は大きく後方へ跳び退きながら、スマホに指を走らせた。足元が、激しく揺らぐ。突進の勢いのままタロスの体が泳ぐ。それでも、倒れない。歯を食いしばり、耐え、踏み止まる。
その、硬直の一瞬。
翻った黒衣の裾から、鈍色の金属が覗いた。
左腕に装着された、小型のスリンガー。
そして、乾いた射出音。
黒い小さな塊が緩い弧を描いて飛び──タロスの首筋で、爆ぜた。
(──命中)
「ぐ、ああぁぁっ!?」
絶叫が、空洞を貫いた。
(喉が……眼が……肌が、灼けるっ……!!)
♦︎
「ば、爆弾かよ!? さっきから何なんだ、勝手に転んだと思ったら今度は爆発って……なんつーモン持ち込んでんだあの縫い目野郎!」
対岸で、レオリオが仰け反る。
「……煙?風に乗ってきて、目がピリピリする」
ゴンが目元を擦った。対岸まで流れてきたのは、薄い余波にすぎない。それでも、粘膜を刺激する。
「あの悲鳴……致命傷の声ではない。爆発そのものが目的ではなく──痛みを与えるための爆弾、という事か……?」
クラピカの声が、硬い。
キルアだけが、口を開かなかった。
(……毒だ。それも、痛めつけるためだけの。──趣味わりーな)
♦︎
舞台の上。
羂索は游雲をゆるく振るい、その風で残った粉塵を払っていた。
「火ぶくれ弾……とでも、呼ぼうかな」
のたうつタロスを眺めながら、世間話のように続ける。
「昔読んだ物語に、似たようなものがあってね」
その目が、すっと細まった。
(首筋の神字が焼けたね。……オーラを神字のタトゥーに封じ込めるなら──あの部位に蓄える事は、おそらくもうできない)
タロスは、まだ立とうとしていた。
だが、もう何もかもが噛み合っていなかった。
灼けつく激痛。焼け落ちた神字。底をついた神字の蓄え。守るべきか、攻めるべきか。──判断が、一拍ずつ遅れる。慌てて全身へ張り直したオーラの膜は、背中の死霊に吸い上げられ、これまでのどの瞬間よりも荒く歪だった。そして、あれほど淀みなかった『流』が、乱れ、千切れる。
補給のない籠城戦は、兵糧が尽きた。
あとは、落城を待つだけだった。
背後にしがみつき、なおも吸い続ける剛腕。正面から迫る、唸りを上げる游雲。防ぐ腕はもう上がらず、打撃だけが規則正しく続いた。鍛冶場で、鉄を打つように。
やがて、タロスの巨体が膝から崩れた。
うつ伏せに倒れ、指先が二度、三度、石畳を掻く。それでも、降参の言葉だけは、最後まで口にしなかった。
地中から、タロスの背中から。死霊達が、音もなくスマホへと吸い込まれていく。
羂索は、動かなくなった男の傍らに立っていた。
「惜しかったよ。君の守りは、見事だった」
独り言のような声だった。
「でもね。亀のように閉じこもっていては、新しい地平を拝むことはできないよ」
空洞に、静寂が戻った。
勝敗の条件は──三分以上、まともに動けなくなること。
裏を返せば、三分以内に立てば、勝負はまだ終わらない。
羂索は急かさなかった。倒れた男の傍らで両手を袖の中へ仕舞い、静かに待つ。
一分。
タロスの指が、石畳を掴もうとして、滑った。
二分。
片肘がほんの少し浮く。震えながら、上体がわずかに持ち上がり──崩れた。
二分半。倒れたまま、タロスの拳が、まだ握られようとしている。開いて、僅かに閉じようとして……形にならない拳を、それでも作ろうとしている。
対岸の四人は、声もなくそれを見ていた。誰の目にも、勝敗はとうに明らかだった。それでも倒れた男の身体は、まだ諦めていなかった。レオリオが何かを言いかけて、やめた。
三分。
指先の動きが、止まった。
微かな呼吸音だけが、石舞台に残った。
(……いい執念だ。この魂なら、死の先でも形を残せるかもしれないね)
立ち上がり、頭上の監視カメラ──その向こうの試験官へと、ひらりと手を振る。
受験者側の通路入り口上部、勝数表示が『2』に切り替わった。
勝者、スグル=ゲトウ。
タロス=ストーン、戦闘不能。
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【ナマズ】
地中に潜航。敵の真下に到達後、その足元のオーラを振動させ、敵の平衡感覚を狂わせる。
その結果「地面が傾いている」と錯覚させる。敵は体勢を崩して、転倒する。
【イッポンダタラ】
頭部の潰れた、一本の足を持つ死霊。元鍛冶屋で、念具の作成も可能。
接触した相手の顕在オーラ(体外に出ているオーラ)を吸い上げる。
【火ぶくれ弾】
小型の爆弾。中身には魔獣の猛毒が仕込まれており、飛び散った毒素が肌を焼け爛れさせ、火の粉を浴びたかのような灼熱痛をもたらす。毒素は体内に数日間残留し、激しい疼痛と倦怠感を引き起こす。爆発の威力よりも毒素によるダメージの蓄積に重きを置いたもの。
連射できず再装填までに僅かに時間が必要。
左腕のスリンガーから放たれる。
弾速は銃弾より遅く、念能力熟練者に対して当てるには工夫が必要。
余波の粉塵を浴びるだけでも効果がある。
元ネタはデルトラクエスト。