ようこそ『喫茶キヴォトス』へ   作:ホットミルクしか勝たん

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03 黒見セリカの悩み事

──『喫茶キヴォトス』公式アカウントフォロワー数、十万人突破記念! 全メニュー半額!

 

『喫茶キヴォトス』公式SNSの運用を開始した翌朝。キヴォトス一のバリスタを志す私は、掛け布団を蹴り飛ばす勢いで高らかと豪語した。

 

「……騒音。せ……店長、朝からお元気ですね」

「聞いてくれアロナ! 昨日開設した公式アカウントのフォロワー数がもう十万人を突破したんだ!!」

「…………え、あ〜……なるほど。店長は今、寝ぼけていられるのですね」

「……ぁえ?」

 

 私の隣で寝ていたアロナがもぞもぞと布団に潜り、身体の下敷きになっていたスマホの画面をつけて私に差し出す。

 

「…………おかしいな」

「フォロワー総数、3」

「早瀬さんと先生と……おかしいな、あと十万人近くはいたはず……」

「……良い夢が見られたようで、何よりです。ちなみに、三人目のフォロワーは私です」

「…………もう一回、寝ようかな」

「開店時間が差し迫っています。推奨はしませんが、どうしてもとおっしゃるのであれば……」

「……ありがとう。でも、大丈夫だ」

 

 盛大な夢オチに頭を抱えた私は、寝ぼけ眼を擦りつつその場から立ち上がる。

 

「おはよう、アロナ」

「……はい。おはようございます、店長」

「朝ごはんは何にしようか」

「店長が作って下さるものであれば、何でも」

「じゃあ……今日は黒見さんも来るし、少し豪勢なメニューにしよう」

 

『喫茶キヴォトス』の朝は早い。

 

 午前七時のモーニング営業開始に向け、私達は各々の身支度を進めるのであった。

 

 

 

***

 

 

 

──『喫茶キヴォトス』はアットホームな職場です。私と一緒に温かいお店を作っていきましょう! 未経験大歓迎、交通手当支給、研修期間あり、昇給あり……。

 

 これは、私が『喫茶キヴォトス』開業後に求人SNSへ掲載した文章の一部抜粋である。

 

 決して盛況な人気店とは言えない『喫茶キヴォトス』にも、人手が欲しいと感じる瞬間はしばしば存在する。

 

 喫茶店が最も繁盛する時間帯であるピークタイムはもちろん、最近では不定期なシャーレバブルを視野に入れて営業していく必要があると感じている。

 

 しかし残念なことに、無名の個人経営店である『喫茶キヴォトス』が求人広告を掲載したとしても、SNSを利用する生徒達の目に留まることはほとんどなかった。

 

 目に留まるような工夫はした。

 

 アットホーム──家のような居心地の良さ──な職場であることを全面に押し出し、十分な研修期間──店長によるコーヒー美学の免許皆伝──を設けることで未経験でも安心して働けるような準備を整えた。

 

 私の求人広告を見て早瀬さんは頭を抱えていたが、現在では幸運にも二人のアルバイト人材を確保することが出来ている。

 

 アルバイトの一人であるアビドス高等学校『対策委員会』所属の黒見セリカさんは、今や『喫茶キヴォトス』における主力カフェスタッフである。

 

 黒見さんは元々アビドス自治区に所在する『柴崎ラーメン』で看板娘を務めており、二店の掛け持ちを希望する形式でアルバイトに応募してくれた。

 

 黒見さんは高等部一年生でありながら、勉学とアルバイトを両立させたいと意気込む熱心な生徒だったが……一応、面接時には掛け持ちしてでもアルバイトを探す理由を問うた。

 

 曰く──学校存続のために借金を返済しなければならない、と。

 

 黒見さんは非常に警戒心の強い性格であったが故に、当時はアビドスが抱える事情を何一つ教えてくれることは無かった。

 

 だがしかし……私の長年培った巧みな話術と接客術を駆使すれば、彼女の警戒心の隙間を掻い潜ることなどあまりに容易い。

 

 調教済みの黒見さんは今や、私がお願いせずともアビドスの事情や年頃の悩みを打ち明けてくれるようになった。

 

 当たり前の話であるが、一喫茶店の店主である私は自治区の問題に干渉することが出来ない。

 

 それでも。

 

 うら若き生徒達が背負うにはあまりにも重すぎる苦悩を、少しでも吐き出させてあげたら良いなと私は思う。

 

 開店時刻が差し迫った休日の午前六時。

 

 入り口の扉に取り付けられたドアベルが、チリリンと軽快な音を立てて店内に響き渡る。

 

「──店長、おはようございます!」

 

 陽気な笑顔で『喫茶キヴォトス』へやって来たのはアビドス高等学校一年生兼、主力カフェスタッフの黒見さん。今日も元気な挨拶が素晴らしい。

 

「おはようございます、黒見さん」

「……おはようございます、黒見さん」

「アロナちゃんもおはよう! 今日もよろしくね!」

 

 制服姿の黒見さんは挨拶を返すと、染み付いた流れでスタッフルームに駆け込む。

 

 しばらくすると、『喫茶キヴォトス』の制服に身を包んだ可愛らしい黒見さんが顔を見せる。

 

「朝早くからありがとうございます。朝食を用意していますので、よろしければご一緒にいかがでしょう?」

「ありがとうございますっ、店長!」

 

 黒見さんは私の提案に淀むことなく即答し、ひと足先にカウンター席へ着席していたアロナの隣に腰掛ける。

 

「それにしても、良いんですか? 毎回朝食をご馳走になっちゃって……」

「休日の早朝から主力カフェスタッフのお力をお借りするのです。この程度は当然の待遇といえます」

「ふ、ふ〜ん……そういうことなら、遠慮なく!」

 

 黒見さんと軽口を挟む間にも、朝食のため用意していたトーストがこんがりと焼き上がった。

 

 トーストしたパンにペースト状の卵やハム、レタス、トマトといった新鮮な野菜を挟み、綺麗な断面が見えるよう三角状にカット。

 

 完成したトーストサンドと一緒に、ポテトサラダと果実入りヨーグルトの小皿を一つのプレートに盛り付ける。

 

 最後に滑らかな舌触りになるまでじっくりと煮込んだコーンスープをカップにすくい、彩りのパセリをまぶして完成だ。

 

「──お待たせしました。スタッフ専用“キヴォトスプレート”です」

 

『喫茶キヴォトス』看板メニューの一つである“キヴォトスプレート”は、道行く人々の空腹を一皿で満たせる自慢のスナックだ。

 

 顧客の好みに応じて複数のバリエーションを用意している“キヴォトスプレート”だが、黒見さんに提供した朝食はスタッフ専用。黒見さんの好みに合わせてカスタマイズした、彼女専用の一皿だ。

 

 アロナに用意したプレートも同様で、サンドイッチがブレッドかつ、中身には厚焼き卵を採用している。盛り付けたサラダも、千切りキャベツを主とした彩りのある野菜達だ。

 

「飲み物はいかがなさいますか?」

「私、オレンジジュース!」

「……ホットミルクで、お願いします」

 

 最後に二人が希望する飲み物を用意して、今日の朝食は完成だ。

 

 ちなみに私の朝食は、メニューの下ごしらえの際に出た“余り物の寄せ集めプレート“である。廃棄食材を減らしつつ、様々なメニューを少しずつ味わえるので意外と気に入っている。

 

 飲み物は先日特売で購入したインスタントコーヒー。格安かつお湯さえあれば即席で作れるインスタントは、忙しい朝の救世主だ。

 

 開店時刻、五十分前。

 

 私達は三人揃って手を合わし、声を揃える。

 

「「「いただきます」」」

 

 BGMのない静謐な店内にその言葉が響く瞬間は、心が一つになっているような感覚に包まれる。

 

 共に食卓を囲みながら他愛無い雑談に興じる。そんなありふれた日常の一コマが、私はとても気に入っている。

 

……ちなみに、当初非常に警戒心の強かった黒見さんが朝食を共にしてくれるようになるまでの信頼値を獲得した方法に関してだが。

 

「んん……っ! やっぱり店長の作ってくれるサンドイッチは最高です! 私の好きしか詰まってないし!」

「……んん、同意」

「それは何よりです。おかわりも用意していますので、どうぞ遠慮なく」

「もう最高です店長!」

 

 

 

 

 

 見ての通り──()()()だ。

 

 

 

 

 

 私はこの二ヶ月で、黒見さんの胃袋へアプローチを仕掛けたのだ。

 

 洗練された接客術や、相手の隙に付け入る話術など。信頼関係の構築において強力な武器となるスキルも存在するが、彼女相手にそのような小細工は必要なかった。

 

 お腹を空かせた子猫を自慢の料理で誘い出し、徹底的に、それはもう完膚なきまでに胃袋を調教する。

 

 その結果、悪い大人に捕まってしまった黒見さんは『喫茶キヴォトス』の主力カフェスタッフとして、早朝から馬車馬のように働く存在となってしまったのだ……!

 

 格安インスタントコーヒーを静かに嗜む大人の前で、黒見さんは美味しそうにサンドイッチを頬張る。

 

「……あ、アロナちゃん。口元にケチャップ付いてる。拭いてあげるからじっとしてて」

「はい…………んっ。ありがとう、ございます」

「いえいえ、どういたしまして」

 

 身の丈に合わない苦悩や使命を抱える彼女が、少しでも穏やかな時間を過ごしてくれているのだとしたら……アプローチを続けた甲斐があるというもの。

 

「あっ、店長、聞いて下さいよ!」

「はい、いかがなさいましたか?」

 

 サンドイッチの一切れをぺろりと平らげた黒見さんが、二人のやり取りを微笑ましく眺めていた私に声をかけてきた。

 

「数日前、私達の学校にシャーレの先生が来たんです」

 

 私は、先生は先日アビドスへ出張に向かうと言っていたことを思い出す。

 

 数日前ということは、来店の翌日にはすでにアビドスへ向かったということか。

 

 シャーレの先生は非常に行動力があるなと感心していると、黒見さんは次のように続けた。

 

「すごく優秀な先生だって聞いてたのに……ウチの先輩に担がれながら学校にやって来たんです」

「……それは中々、大胆なお出迎えですね」

「それがなんでも、街のど真ん中で遭難して死にかけてたらしくて」

「…………」

 

 遭難した挙句、米俵のように生徒に担がれる先生の姿を想像してしまい……私は何だか居た堪れない気持ちになった。

 

「店長って、先生と面識はありますか?」

「ええ。先日こちらに顔を出されてましたので、世間話を少々」

「……ふぅ〜ん」

 

 私の返事を受けて、黒見さんが訝しげに目を細める。

 

……少し、イヤな予感がする。

 

「もしかして……先生に借金のことを話したの、店長ですか?」

「…………申し訳ありません。先生が黒見さん達の力になりたいとおっしゃっていましたので、私の聞きかじった知識を少し……」

「べっ、別に怒っているわけじゃないですけど……っ。アビドスの借金は周知の事実だし……それに店長だって、()()()()()想ってのことだろうし……」

 

 先生に対してアビドスの事情を共有したのは……少々、時期尚早だったか。

 

「先生は、非常に信頼できる方であると認識しています。彼女は必ず、黒見さん達の苦悩に寄り添ってくれることでしょう」

「……確かに、先生は優秀だった。見た目はなんだかふわふわしてて抜けてる印象だったけど……戦術指揮は的確で、物資の支援もしてくれた」

 

 先生がアビドスの校舎にやって来た際、彼女達は不運にも地域暴力団の襲撃に遭ったそうだ。

 

 黒見さん曰く、校舎に残る物資が底をつきかけていた状態であったため、先生の支援が無ければ撃退は困難だったとのこと。

 

「すぐに優しい先生だって分かった。他の同級生や先輩達も先生に感謝してた。学校の借金に関しても、一緒に解決しようって言ってくれて……でも、私は……」

「先生を、信じても良いのか分からない……でしょうか?」

「…………はい」

 

 黒見さんはオレンジジュースを一口啜る。コップの中身が空になっていたことに気付いたのは、ストローから間の抜けた音が響いた後だった。

 

 少し恥ずかしそうにコップを端に退け、黒見さんは自身の胸中を打ち明けてくれる。

 

「今まで、誰も助けてくれなかったんです。連邦生徒会に現状を訴えても見向きもされず、借金の返済も、暴力団の迎撃も……今までは私達だけで、ずっと頑張ってきた」

「…………」

「学校のみんなは、先生を信じたいって……でもそれって結局、失敗した過去の繰り返しじゃない……っ」

 

 廃校寸前の現状を改善しようと在校生で結束してきた黒見さん達にとっては、キヴォトスの生徒達へ向ける先生の厚意が“手のひら返し"に見えてしまっているのかもしれない。

 

──もしかしたら、"先生"という存在も私達のことを騙そうとしているのかもしれない。

 

 食事をする黒見さんの手が止まる。

 

「……みたいな感じで、週末にみんなと揉めちゃって。頻繁に先生が来るのも相まって……ちょっと今、教室に居づらくて…………」

 

 黒見さんの懐疑的な訴えとは裏腹に、不安に揺れ動く彼女の瞳が、私には助けを求めるように見えた。

 

 私はインスタントコーヒーを一口啜る。

 

「……今の黒見さんを見ると、なんだか懐かしい気持ちになりますね」

「なっ、懐かしいってどういうことですか!?」

「ふふっ、黒見さんと()()()()()()記憶を思い出しまして」

「……私たち、まだ出会って2ヶ月なんだけど」

 

 言われてみれば確かに。

 

 しかし、私は思う。

 

「正直、私は驚いています。当時の私は、こうして黒見さんと食事を共にできる日が来るとは思いませんでしたから」

「…………」

「少し、私達が精通する飲食界隈に関する話をしましょう。黒見さんは、アルバイト先の店主から”まかない”を提供していただく機会があると思います」

「は、はい。今みたいなこと、ですよね?」

「ええ。そうです」

 

 飲食界隈に身をおく人間であれば、”まかない”という言葉を知らない者はいないだろう。

 

「まかないとは一般的に、従業員の労働に対する感謝……つまり、福利厚生の一つに該当します」

 

 飲食店が従業員に対してまかないを提供する理由は、黒見さんに伝えた以外にもいくつか存在する。

 

 従業員のモチベーションの向上、既存メニューに対する改善案や、新メニュー開発に対する意見など。

 

「黒見さんは、まかないに対してどのような印象を抱かれているでしょうか?

「まかないの印象……お店の美味しい料理を手頃に食べられて嬉しい、とか? 食費も浮くし、私達にとってはありがたいかも」

「それは何よりです。店舗側としてもフードロスの削減に貢献して下さるので、非常に助かっています」

 

 以上のことから、まかないは店舗側と従業員側の双方に利点をもたらしてくれる優秀な福利厚生であると言える。

 

「そして私の場合、まかないは単なる従業員に対する労いではなく、円滑なコミュニケーションを図るツールであると考えています」

「コミュニケーション、ですか?」

 

 

 

 胃袋を掴む、という言葉がある。

 

 

 

 これは単に美味しい料理を振る舞い、相手を魅了するという意味であるが……。

 

 私は胃袋を掴む行為こそ、警戒心の強い相手と対話に持ち込むための切り札であると捉えている。

 

「見ず知らずの相手を理解することは、私であっても困難を極めます。相手が一体何を考えていて、どのような目的や意図が潜んでいるのか。それらがもたらす未知はまさしく、恐怖という感情そのもの。黒見さんは、その事実を痛いほど理解されていると思います」

「…………はい」

「ですが……たとえ初対面の方であったとしても、これだけは絶対に間違えないという()()()()()が存在します」

「……共通の、認識?」

「例えどのような方であったとしても──”絶対にお腹が空く”、という当たり前の真理です」

 

 

 

 

 

 誰であっても、お腹が空く。

 

 

 

 

 

 食欲とは、人間の根底に存在する三大欲求の一つ。ゆえに、例外などは決して存在しない。

 

「私たち人間は、お腹が空くとネガティブな感情が増幅します。対して、満腹時には非常にリラックスした気分に浸ることができます。食事で空腹を満たすことはすなわち、心身の緊張をほぐすことと同義です」

 

 警戒心の強い黒猫を手懐ける上で有効打となったのは、従業員を労うわずかな”まかない”。

 

 当然、一筋縄では行かなかった。

 

 黒見さんをアルバイトとして迎え入れた直後は、残念なことにまかないを口にしてくれることすらなかった。

 

 しかし、どれだけ頑なな黒見さんであれど、空腹時の誘惑には抗えなかったようだ。

 

 元来の善良な性格も相まったのかもしれない。私の善意を断り続けることに罪悪感を覚えたのか、根負けするような形で彼女はまかないを口にした。

 

 そこからは早かった。

 

 まかないを通して少しずつ会話を続け、時間をかけて互いを理解し、今では同じ食卓を囲むに至る。

 

 その過程こそがまさしく、”まかない”という要素がコミュニケーションを円滑にした証拠と言えるだろう。

 

「私達の会話は、一食のまかないから始まりましたね。今となっては懐かしいですが……このサンドイッチがまさしく、私達の()()()()でした」

 

 美味しい、美味しいと私が作った料理を頬張ってくれる姿を見るだけで、私は心が満たされるような感覚になる。

 

 この温もりは、どれだけ美味しいコーヒーを淹れたとしても決して代替することはできないだろう。

 

 とはいえ。

 

 円滑なコミュニケーションの切り口として作用するまかないは、あくまでも信頼関係構築の”きっかけ”に過ぎない。

 

「アルバイトとして黒見さんを迎え入れた直後は『絶対に食べないから』と、啖呵を切っていましたね。ふふっ、懐かしいです」

「あっ、あの時はその……若気の至りって言うか、店長が信頼できる大人なのか分からなかったからで…………ぁ」

 

 顔を真っ赤に染めながらあたふたする黒見さんだったが、彼女は自身の発言の中で一つの気付きを得たようだ。

 

「信頼関係は、一朝一夕で築き上げれるものではありません。会話を続け、共に業務に従事し、同じ食卓を囲む。それらの過程には必ず、”時間”という概念が伴います」

「…………」

「今すぐ大人を信頼する必要はありません。それが例え、生徒達を導く『先生』であったとしても」

 

 黒見さんは『大人』という存在に対して強い警戒心を抱いているが、彼女の境遇を踏まえるとそれはむしろ賢明と言える。

 

「今後、黒見さんは先生と顔を合わせる機会が増えてくると思います。彼女の言葉や行動を見て、『先生』が本当に信頼に足る人物なのか……黒見さん自身で判断すると良いでしょう」

 

 一喫茶店の店主である私には、黒見さんと先生の関係性をカウンターの奥から見守ることしか出来ない。

 

「あらゆる出来事を経験しても、『変化』という予測出来ない事象には恐れを抱くものです。けれど、今では黒見さんと一緒に朝食を食べています。それはきっと、お互いが歩み寄れた証だと私は思います」

 

 どれだけ時間をかけても良い。表面的な厚意のみに囚われず、削ぎ落とされる形で磨かれた観察眼を駆使して、相手の本質を慎重に見極めて欲しい。

 

 事を急いでしまっては。誰かのようにいつか、大切なものを取りこぼしてしまうから……。

 

「……分かりました。私、学校のみんなと……先生ともう一度話をしてみようと思います」

「ええ、それが良いと思いますよ。その際に温かい飲み物を添えれば、きっとお互いの緊張をほぐすことが出来ると思います」

「はい……でもやっぱり、先生のことはまだちょっと、怖いから……」

 

 黒見さんは自身の瞳を不安で揺らしながら、それでも決して逸らすことなく『大人』の私を射抜き、言葉を続ける。

 

 

 

 

 

「もしアビドスが……もし、私が危ない目に遭ったら…………店長は、助けてくれますか?」

 

 

 

 

 

……一瞬。“俺”の脳裏に鋭いノイズが駆け巡った。

 

 

 

 

 

「……ええ、もちろんです。黒見さんのことは、私の命にかえてでも、必ず」

「……っ! も、もぉ……っ、大袈裟すぎ! 私、これでも結構強いんだけど!」

 

 私の返答を受け、黒見さんの中で張り詰めていた緊張の糸が解けたのだろう。

 

 頬がニヤけてしまうのを我慢できないといった様子で、照れ隠しのように声を発した。

 

「……安心して下さい、黒見さん。私も、ついていますよ」

「……っ、ありがとう、アロナちゃん!」

 

 私と黒見さんのやり取りを静観していたアロナが、サンドイッチを頬張りながら親指を強かに突き立てる。

 

 そんな微笑ましい彼女達のやりとりを眺めつつ、カップの底に残ったインスタントコーヒーの残りを啜った。

 

「……さて。私は開店の準備をするので厨房へ戻ります」

「承知しました……食器は、私が片付けておきます」

「ありがとう、アロナ。それじゃあ二人とも、今日はよろしくね」

「はいっ、店長!」

 

 慎ましくも心温まる朝食のひと時。

 

 それはキヴォトスで喫茶店を営む私にとっての日常で、当たり前の時間だった。

 

 厨房へと戻った私は昨日の仕込みに不備が無いかを確認し、姿見の前で身なりを丁寧に整える。

 

 一張羅のネクタイを首元までしっかり締めて、私は『喫茶キヴォトス』のカウンターに立った。

 

 黒見さんは既にドアの前で待機しており、彼女と視線が静かに交わる。

 

 それは、すべての開店準備が整ったことを示す暗黙の了解──。

 

 

 

 

 

 午前七時──『喫茶キヴォトス』開店。

 

 

 

 

 

『喫茶キヴォトス』の開店を告げるのは、はつらつとした看板娘の一声で。

 

 

 

 

 

「──いらっしゃいませ!ようこそ『喫茶キヴォトス』へ!」

 

 

 

 

 




Tips:黒見セリカ
『喫茶キヴォトス』の主力バイト戦士一号。
 悪い大人に餌付けされてしまった、かわいそうなツンデレ猫娘。
 アビドスのみんなには時々、練習として淹れた店長直伝のコーヒーを振る舞っている。

Tips:アロナ
『喫茶キヴォトス』の一流バリスタ。
 大好物はホットミルク。
 寝る時は店長の布団に潜り込んで、腕を勝手に枕にしている。
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