ようこそ『喫茶キヴォトス』へ 作:ホットミルクしか勝たん
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作者のモチベーションになります!
個人経営店の『喫茶キヴォトス』は、チェーンやフランチャイズといったブランドを持たない零細店舗である。
新規顧客の獲得を目指して奔走を続け、開設当初は慣れなかった公式SNSの運用も、早瀬さんやアロナによる助力のおかげで段々と板に付いてきた。
しかし残念なことに、それらの試行錯誤は現状、集客に対する直接的な効果をもたらしているとは言い難かった。
顧客獲得を目標に掲げる『喫茶キヴォトス』に立ちはだかるのは、一朝一夕では決して得られることのない”知名度”の壁。
キヴォトス全土で圧倒的な知名度と顧客数を獲得している『カイザーコーポレーション』を例に挙げるとしよう。ブランドに対する信頼性や新情報の拡散力、事業規模の優位性がもたらすコスト削減や、大手企業ならではの低価格戦略を武器に、彼らは日々顧客層の拡大を図っている。
比較するのも烏滸がましい相手ではあるのだが……『喫茶キヴォトス』が所在するD.U.の外郭地区にカイザー系列の新店舗がオープンしたともなれば、事情は変わってくる。
D.U.外郭地区は『喫茶キヴォトス』と同業態の店舗が、まるで群を成すように顧客を取り合う激戦区だ。
過酷な生存競争を生き抜くために、各々の店舗は様々な工夫や差別化を繰り返すことで顧客獲得へと繋げている。
十代の学生を主な顧客層に定めている『喫茶キヴォトス』だが、不運にも早瀬さんと共に偵察した新店舗のスイーツカフェのそれと丸かぶりしてしまったのである。付け加えると、件のスイーツカフェはカイザー系列による顧客層拡大を目的とした新事業だ。
うら若き乙女達はトレンドに敏感だ。可愛いもの、美味しいもの、話題になるものに目がない十代の女子をターゲットに据えるのであれば、カイザーコーポレーションの戦略は非常に鋭い一手と言える。
ものの見事に話題と新規顧客を奪われてしまった、零細店舗の『喫茶キヴォトス』。だがしかし、私は幾千もの修羅場を乗り越えてきたキヴォトスが誇る期待の新星。
『喫茶キヴォトス』を取り巻く現状は、D.U.という飲食激戦区に店舗を構えた時点で想定済み。
そしてもう間もなく、この逆境を打破する切り札が形になろうとしていた……。
「…………よし、これで完成だ。アロナ、味見をお願いしてもいいかな?」
「承知」
現在の時刻は『喫茶キヴォトス』のラストオーダーである、午後八時三十分を回ったところ。
静謐で落ち着きが満ちた店内に、お客様の姿はない。優雅なジャズ音楽と、コーヒーカップを丁寧に磨く慈愛の音だけが響く、少しだけ退屈で愛おしい日常のひと時。
『喫茶キヴォトス』の場合、ラストオーダー間際の時間帯はすでに、お客様が退店済みであることが大半だ。そんな現状に一抹の寂しさを覚えることはあれど、私はこの瞬間も喫茶店を経営する醍醐味の一つだと考えている。
『喫茶キヴォトス』では基本的に私とアロナが交代でカウンター業務を担う”当番制”を採用しており、現在は従業員のアロナが店番の役割についている。
この休憩時間を利用し、私は起死回生の一手となる新メニュー『スフレパンケーキ』の開発に尽力していた。
もはや数えきれない試作品の中から数種類のレシピを厳選し、早瀬さんとの偵察で得た情報を組み合わせ、更なる試行錯誤に明け暮れる。
そして私はついに、パンケーキの到達点といっても過言ではない作品を生み出すことに成功したのである!
喫茶店で提供するスイーツは鮮度が命。店内にお客様の姿が無いことを再度確認し、期待と不安がないまぜになった足取りで厨房を飛び出す。そして私は、店番を担ってくれていたアロナに試作品の審査を求めた。
『喫茶キヴォトス』で提供されるメニューの全ては、相棒のアロナによる厳格な試食試験を突破した選りすぐりの精鋭部隊によって構成されている。
アロナは私の言葉に応じて場所を移す。身に付けていたエプロンを丁寧に畳みつつ、カウンター席に腰を下ろした。
審査は実際にお客様へメニューを提供する瞬間から開始されるので、店主たる私の一挙手一投足も厳格な評価の対象となる。
「──お待たせしました。こちら、当店新メニューの“キヴォトスパンケーキ”になります」
「ありがとうございます」
「それと……ホットミルクも冷めないうちに。今日も一日、お疲れ様」
「…………はい」
表情の変化に乏しいアロナの口元が微かに緩むと、彼女はスカートのポケットからスマホを取り出し、画角を定めてパシャリとシャッターを切る。
完成に至った試作品“キヴォトスパンケーキ”のコンセプトは『幸せの共有』。
「…………見た目はとても、可愛らしいと思います」
端的に還元すると──『SNS映え』だ。
“キヴォトスパンケーキ”は三段重ねのスフレ生地によって構成されており、雪崩のようにこぼれ落ちるクリームとフルーツによって装飾されたそれはまさしく、幸福という言葉の体現。
頂点に『喫茶キヴォトス』のロゴであるクジラのチョコプレートを添え、作品としての引き締めと店舗の宣伝も忘れない。
“キヴォトスパンケーキ“のコンセプトや食べ方や、楽しみ方を一通り説明し、アロナがフォークとナイフを手に取った瞬間……。
──チリン、チリンと、お客様の来店を示す軽快なドアベルの音が店内に響き渡る。
「──あ、あの……」
遠慮がちに入口の扉を開いたのは、伸縮性のある翼を小さく折りたたんだ小柄な学生であった。
キヴォトスにおける三大学園が一つ。「自由と混沌」を校風として掲げ、破天荒の概念そのものを体現したようなゲヘナ学園に在籍し、学内の治安維持に尽力する風紀委員会の彼女のことは『喫茶キヴォトス』店主の私もよく存じ上げている。
なぜなら彼女は、『喫茶キヴォトス』が開店して間もない頃から足繁く訪れてくれる常連客の一人なのだから。
珍しく乱れた呼吸を整えつつ、女子生徒は伏し目がちにこちらへ視線を向けておずおずと口を開く。
「こんな時間に、ごめんなさい。店長、まだ……注文は間に合うかしら?」
彼女の懸念通り、現時刻午後八時四十分と、すでにラストオーダーの時間を過ぎてしまっている。
しかし、『喫茶キヴォトス』のコンセプトは学園都市に暮らす生徒達に居場所と安息を提供すること。
窮屈で不合理な現代を強かに生き抜く生徒達が、心を落ち着かせる羽休めの場として私の店を選んでくれたのだ。
『喫茶キヴォトス』はいついかなる時も、悩みを抱える生徒達の拠り所として在り続けなければならない。
「──ええ、もちろんです。いらっしゃいませ、空崎さん」
***
「今更言うのもあれなのだけど……本当に良かったの?」
カウンターの一席に腰を下ろした空崎さんは、申し訳なさいっぱいといった表情で私に問うた。
「問題ありません。『喫茶キヴォトス』は決して、来店して下さったお客様の足労を無碍にはいたしません」
「……ありがとう。なら今日は、私も店長の厚意に甘えさせていただくわ」
「ええ……それに本日はお客様の姿が少なく、とても寂しいと感じていたのです……っ」
「……売り上げ目標に達していないのね」
「…………」
「ふふっ、冗談よ」
私は空崎さんの心労が少しでも和らぐよう、会話の中に軽口を混ぜつつ彼女の反応を窺った。お冷とおしぼりを差し出し、私はお客様をもてなす準備を始める。
「……こんばんは、空崎さん」
空崎さんから一席離れた位置に座るアロナが、もちゃもちゃとパンケーキを頬張る口を休めて挨拶する。
「こんな時間にごめんなさい。迷惑にならないよう、長居はしないようにするわ」
「……いえ、お気になさらず。むしろ店長は普段から、空崎さんの来店を心待ちにしていますので」
「えっ……そ、そうなの?」
「はい、そうです」
人の心情を勝手に代弁するアロナ。
「……ご馳走様でした。審査結果については、また後ほど。私は、厨房の清掃と締め作業を行ってきます」
「了解。今日もありがとう、アロナ」
「……こちらこそ。ホットミルクも、ありがとうございます」
おそらく、アロナは私と空崎さんに気を遣ってくれたのだろう。完食されたパンケーキの皿と食器をまとめ、静かに厨房の奥へと戻っていった。
「……気を遣わせてしまったかしら」
「彼女の思慮深さには、私も助けられてばかりです」
優秀な従業員に感謝しつつ、私は空崎さんに提供するサービスの準備を始める。
空崎さんは席に置かれたメニュー表を手に取り、しばらく悩む。普段は即断即決の空崎さんだが、今日に限ってははらりはらりとページを捲っている。
「店長。少し気になっていることがあるのだけど、良いかしら?」
「いかがなさいましたか?」
「さっき、彼女が食べていたパンケーキ。先週店長が言ってた新作よね。あれはもう食べられるのかしら?」
なるほど、空崎さんが珍しくメニュー表を右往左往していたのはそういうことか。
しかし彼女が気になるのも無理はない。隣の席で、無表情のアロナが微笑みを浮かべるほど美味しそうにパンケーキを頬張っていたのだから。
さすがは『喫茶キヴォトス』の看板娘、顧客に対するマーケティング技術も完璧だ。
「……申し訳ありません。新メニューは現在試作中でして。提供まではもう少々お時間を頂戴します」
「分かったわ、新作がメニューに並ぶ時を楽しみにしてる……じゃあえっと、いつもの“キヴォトスコーヒー“をお願いするわ」
「かしこまりました……あ、空崎さん」
「うん? 何かしら?」
空崎さんの言葉から察するに、“キヴォトスパンケーキ”の反響はかなり期待できるだろう。
興味を抱いてくれた空崎さんには申し訳ないが、『喫茶キヴォトス』の看板を担う新作がメニューに追加される日をどうか楽しみにしていて欲しい。
……しかし、『喫茶キヴォトス』は固有のブランドに属さない個人経営店。当店をご愛顧いただく常連客の方々へ提供するサービスは全て、店長たる私の匙加減によって決められる。
「まだまだ試作段階ではあるのですが……もしよろしければ、この場で
「……良いの?」
「もちろんです。私としても、興味を持っていただいたお客様から直接フィードバックをいただける貴重な機会になりますので」
「……そう。それじゃあ、お言葉に甘えさせて頂こうかしら」
空崎さんから試食の許可を頂いたので、私は“キヴォトスコーヒー”と並行して“キヴォトスパンケーキ”の用意に取り掛かる。
……と、その前に。
「試作段階の“キヴォトスパンケーキ”なのですが、注文の段階で四種類のトッピングを自由に選んでいただきます」
試作段階のメニュー表──デザイン担当:アロナ──を空崎さんが座るカウンターの前に並べ、説明を行う。
「ストロベリー、ブルーベリー、チョコ、メープル……なるほど、盛り付けのフルーツも変わってくるのね」
空崎さんはメニュー表の写真を興味深く見比べる。
「……それじゃあ、ブルーベリーにしようかしら」
「かしこまりました」
空崎さんから注文を承り、私は早速パンケーキの調理から取り掛かった。
先ほど試作したばかりなので、必要な道具と材料は全て手元に揃っている。
事前準備として濡らした状態の布巾と油を塗ったフライパンを極弱火で温めておき、素早くパンケーキを焼くための心構えを整えておく。
まずは新鮮な卵を割って卵黄と卵白に分離し、メレンゲの制作に必要な卵白を冷蔵庫に入れて少し冷やす。卵黄のボウルに牛乳を入れて馴染ませた後、正確に計量した薄力粉とベーキングパウダーを振るいながら加え、粉気が無くなるまでかき混ぜれば卵黄ベースの生地は完成だ。
「……相変わらず、凄まじい速度ね。所作も洗練されていて、とても絵になるわ」
「ありがとうございます、空崎さん。そう仰っていただけると、夜な夜な練習した甲斐があるというものです」
お客様にスナックを提供する飲食店は、常に”提供スピード”や”仕上がりの均一性”が要求される過酷な戦場だ。
しかし、私は不定期なシャーレ・バブルをアロナと二人で捌き切った歴戦の一流バリスタ。いかなる状況においても、優雅で淀みない所作は決して崩さない。それこそが、一流の矜持というもの。
卵黄ベースの生地に引き続き、事前に冷やしておいた卵白を使ってメレンゲの制作に取り掛かった。
卵白にレモン汁とグラニュー糖を加え、電動ホイッパーで白身のコシが切れるまでかき混ぜる。その後、生地に空気を含ませるため数回に分けて砂糖を投入することで出来上がった丈夫なメレンゲを卵黄生地と混ぜ合わせる。
ちょうど良いタイミングで煙が立ち始めたフライパンを濡れ布巾にあてて温度を調節し、生地を焼く工程に移る。
絞り袋に移した生地を等間隔で三つ、それぞれ高さが出るようにフライパンへ絞り出す。小さじ二杯の水をフライパンの表面に落とし、しっかりと蓋をして弱火で二分間蒸し焼きにする。
しっかりとタイマーで計測しながら、私は同時に”キヴォトスコーヒー”を提供するための準備に取り掛かった。
「…………」
時おり視線を上げると、カウンターに腰掛ける空崎さんがうつらうつらと船を漕いでいる様子が目にとまった。
「…………っ。あ、ご、ごめんなさいっ。せっかく時間を取ってもらったのに、失礼なことを……」
「いえ、問題ありませんよ。空崎さんも風紀委員会の活動でお疲れでしょうし、羽を伸ばしてごゆっくりなさって下さい」
「……優しいのね。なら少しだけ、言葉に甘えさせていただくわ」
空崎さんは申し訳なさそうに一言入れた後、その場で背筋をぐいっと、文字通りに羽根を伸ばした。
「ひと足先にコーヒーをお出ししますね。もう少々お待ち下さい」
「ありがとう、店長」
会話が終わるのと同時にパンケーキのタイマーが鳴り、私はフライパンの蓋を開けて生地の様子を確認する。特に問題なく火が通りつつあったため、上から生地を重ねてさらに五分間蒸していく。
再度タイマーが鳴るまでの間にコーヒーの抽出が終了したので、保温したコーヒーカップに注いで提供の準備を整えた。
「お待たせしました。こちら、ご注文の“キヴォトスコーヒー”になります」
『喫茶キヴォトス』の看板メニューである“キヴォトスコーヒー”の温もりは、疲弊した身体を労るように包み込んでくれる。
空崎さんがカップを手に取り一口啜ると、緊張で強張っていた彼女の表情がふっと和らいだ。
「…………はぁ。この一杯を飲むと、今週もなんとか乗り切ったって実感が湧いてくるわ」
『喫茶キヴォトス』の常連客である空崎さんが来店されるのは毎週末、風紀委員会の仕事を終えた金曜日の放課後。
生徒達の問題行動が絶えないと噂のゲヘナ学園で風紀委員長を務めるとなれば、その責務や業務量は私の想像をはるかに上回ることだろう。
多忙を極める学園生活の中で時間を捻出し、わざわざD.U.に立地する『喫茶キヴォトス』を訪れてくれるのだから、空崎さんには感謝してもしきれない。
……っと。カップに手を添えて一服する空崎さんに思わず見惚れていたが、もうすぐパンケーキの片面が焼き上がる時間だ。
蒸した生地の底面がきちんと焼けていることを確認し、私はフライ返しを手に取る。
パンケーキを制作する過程において、生地をひっくり返す段階は最も神経を酷使する瞬間だ。少しでも集中や手首のスナップが乱れてしまったら、これまでの作業が全て水の泡とかしてしまう。
だかしかし、一流バリスタである私の辞書に失敗の二文字は存在しない。
生地の底面にフライ返しをスッと差し込み、流れるような所作でそれらを返していく。生地の表面が食欲をそそる狐色に変化していることを確認し、最後に三分間蓋をする。
パンケーキの提供には現状、生地の作成から焼き終えるまでに約十一分。盛り付けて提供に至るまでを含めると、大体十二分ほどを要する計算だ。
スイーツのクオリティに焦点を当てて試作を進めてきたが、今後は提供速度を意識して作業工程の短縮を図る必要があると感じた。
“何事も迅速に!”と、私の中にいる早瀬さんが口をすっぱくして唱えてくる。
時短の方法を模索するのは当面の課題だとして、そうだな……今度、アルバイトの二人に厨房の調理を一部担ってもらえないか打診してみよう。『喫茶キヴォトス』の看板娘はとても優秀な子たちだから、きっとすぐにレシピを習得してくれることだろう。
もちろん、技術の習得具合に応じて時給には色をつけさせてもらう所存だ。返済費や活動資金の工面に奔走する黒見さんと鬼方さんであれば、喜んで了承してくれるに違いない。
そんなことを考えているうちに焼き上がりを示す最後のタイマーが鳴り、私は生地の焼き具合を確認する。
完璧な焼き色がついた生地を手早く盛り皿に移し替え、ハチミツを効かせたブルーベリーのヨーグルトクリームに爽やかなヨーグルトアイス、ブルーベリーの味を贅沢にあしらう。
最後に飾りつけのミントとチョコプレート、特製ブルーベリーソースをシロップピッチャーに注いで、準備は完了だ。
「──大変お待たせいたしました。こちら、店長一押しの新メニュー“キヴォトスパンケーキ”になります」
『幸せの共有』をコンセプトに生まれた“キヴォトスパンケーキ”は、経営不振の現状を打破すべく生まれた起死回生の一皿。零細店舗を営む店主の進退がかかった、とっておきの
「召し上がる際は、ブルーベリーソースをお好みの量で調整してお楽しみ下さい」
私の言葉に従い、空崎さんはピッチャーに満ちたソースを丁寧に注いでいく。
ブルーベリーソースの深く鮮やかな紫紺の装飾をお客様自身が施すことによって、”キヴォトスパンケーキ”は完璧な姿へと至るのだ。
「とても綺麗で美しいわ。これを発売前に試食できるなんて、思わずアコに自慢したくなってしまいそう」
「ふふっ。ええ、ぜひしてあげて下さい」
「でも、良かったの? 試食だからてっきり、一口大の大きさだと思っていたのだけれど」
「問題ありません。
「…………分かったわ。ちゃんと、みんなに共有しておくわね」
「ありがとうございます、空崎さん♪」
完成した”キヴォトスパンケーキ”を写真に収めた空崎さんは、もう待ちきれないといった様子でフォークとナイフを手に取った。
鋭利なナイフの先端が溶かすように生地を割り、飾り付けられたブルーベリーソースがその隙間になだれ込む。
一口大に切った生地にソース、クリーム、果実をまとめ、空崎さんはフォークからこぼれ落ちないよう慎重な所作で口元へ運ぶ。
その瞬間、普段から少し強面な空崎さんが綻びを隠しきれないといった様子で、彼女の表情に笑みが浮かび上がった。
「………………とっても、美味しいわ」
比較的口数の少ない空崎さんが、今は生地を口に運ぶたびに感嘆の言葉を漏らしている。相当気に入ってくれたのだろう。それだけで、私の苦労が報われたような気分になる。
以降、空崎さんがパンケーキを堪能している最中に会話はなく、私は調理に使用した器具の片付けに専念する。
そして全ての器具を片付け終える頃にはすでに皿の上が綺麗になっており、空崎さんは優雅な所作で白磁のコーヒーカップに口をつけていた。
「ご馳走様でした、最高に美味しかったわ。メニュー表に並んだら、絶対に全ての味を制覇してみせる」
「お粗末さまです。審査が通ればいいのですが……ぜひ、期待していて下さい」
「絶対通るわ。さっきのアロナちゃんの表情を見れば分かるもの」
空腹を満たしたことで緊張がほぐれたのだろう。以降は来店時から少し饒舌になった空崎さんと他愛のない雑談を楽しみながら、ゆったりとした時間を過ごした。
「よろしければ、コーヒーをおかわりされますか?」
「え、いいの? でも、もう閉店時間も過ぎちゃってるし、さすがに申し訳ないなって……」
「……なんと、もうこんな時間でしたか。空崎さんさえよろしければ、ぜひ近況などもお聞きしたかったのですが仕方ありません……名残惜しいですが、今日はこの辺りでお開きにしま──」
「──のむ! 飲むわ! 何杯でもおかわりする。私ももっとっ、店長とお話し……し、したいし…………」
私の言葉を遮って、珍しく空崎さんが食い気味な反応を見せる。そして、言っている最中に我に返って恥ずかしくなってしまったのだろう。自覚した途端に、空崎さんの言葉が尻すぼみになっていった。
私は赤面する空崎さんから空のカップを受け取り、雑談に興じる中で既に抽出を終えていたコーヒーを注ぐ。
「……あ、ありがとう」
俯きがちにおかわりを受け取った彼女は、羞恥心を誤魔化すようにコーヒーを啜る。
なんとも私好みのいじらしい反応を前に、あ、あぁっ、いけない……っ! 平静を装っていても
「それでは、お話の続きなのですが……」
「え、ええっ……何かしら」
しかしさすがに可哀想になってきたので、喫茶店の頼れる店主として表情を切り替え、空崎さんに話題を提供する。
「空崎さんは先ほど、風紀委員の仕事が山積みで大変だとおっしゃっていましたが……きちんと休息は取れていますか?」
「……問題ないわ。毎週末に足を運ぶこのお店が、私にとって何よりの休息で…………何でもないわ。今のは忘れてちょうだい」
「そうですか、それは良かったです」
羞恥心を誤魔化すように、空崎さんが強い咳払いを一つ挟む。
「……最近のゲヘナは、そうね。緊張の糸が学園全土に張り巡らされているような、そんな息苦しさがあるわ」
「息苦しさ、ですか?」
「ええ。店長は、『エデン条約』という言葉を聞いたことがあるかしら?」
「ここ最近はSNSなどでよく目にしますが…………申し訳ありません。詳しい内容までは、私もあまり」
空崎さんの説明曰く、エデン条約とは古来からゲヘナ学園と深い確執関係にあるトリニティ総合学園の対立に終止符を打ち、衝突を防ぐための中立組織『
「学園間の争いが無くなることは良いことだと、私は思う。けれど、ゲヘナ学園に通う大半の生徒は、エデン条約に対して難色を示しているわ」
「…………」
「でも、そんな子たちの気持ちが分からないわけでもないの。変化することを恐れる気持ち、先入観が邪魔をして他者の理解を本能的に拒む感覚……
ただでさえ普段から治安が崩壊しているにも関わらず、エデン条約に対する抵抗感が生徒達の攻撃性を増長させ、風紀委員会だけではもう手に負えなくなってきていると空崎さんは語る。
「……少し前に、キヴォトスに”先生”が就任したでしょう。彼女の活躍は、SNSやアコを通してよく耳にしていたし……先生なら、ゲヘナの現状を改善することが出来るんじゃないかと思って、今日アポを取って会いにいってきたの」
なるほど……空崎さんが珍しく普段より遅い時間に来店したのは、そういうことか。
「アポと言っても、先生とは今日が初対面だったし。自己紹介とか、所属のこととか……あとは『
空崎さんとしても、先生がどのような人物であるか正しく把握しておきたかったのだろう。エデン条約の締結までまだまだ時間に余裕があるのだから、互いに信頼関係を築いてからでも遅くはない。
そして、エデン条約に関する相談を見送った理由は他にもあると空崎さんは語った。
「今日、シャーレの当番をしていたアビドスの生徒……黒見さん、だったかしら。彼女が色々と教えてくれたのだけど……先生は今、アビドスの問題に注力しているそうね」
『喫茶キヴォトス』の常連客である空崎さんだが、意外にもアルバイトを務める黒見さんとの間に面識はない。というのも、空崎さんが『喫茶キヴォトス』に訪れるのは毎週金曜日の放課後。対して黒見さんがアルバイトとして勤務する時間帯は、毎週土日の開店から閉店まで。
「ゲヘナの問題も深刻ではあるけれど……アビドスの現状を知る身としては少しだけ、同情してしまうわ」
「空崎さんは、アビドスの事情にお詳しいのですね。先生や黒見さんからお聞きしたのでしょうか?」
「それもあるけど……昔、情報部に所属していた頃に色々と調べていたから」
コーヒーカップの中で揺らぐ水面を静かに見つめながら、空崎さんは過去の記憶を呼び覚ますように続ける。
「突然発生した自然災害、それに伴う極度の過疎化。悪徳企業に謀られて膨大な借金を背負わされ、おまけに自治区の大半すら奪われた状態で…………今でも生徒が残っているなんて、正直思わなかったわ」
「…………」
「助けてあげたい気持ちもあるけど、私は風紀委員会の仕事で手一杯だし……何より、
小鳥遊さん、か……確かに、彼女は筋金入りの天邪鬼でいつもツンケンしていたし、どちらかといえばドジっ子の先輩を常に助ける側で…………。
「…………店長? 少しぼーっとしてるけど、大丈夫?」
「……っ! え、ええっ。申し訳ありません、お気遣いありがとうございます」
…………いけない。空崎さんとの会話に興じるあまり、“
「ごめんなさい。これ以上私が長居してしまうと店長の時間を奪ってしまうことになるし、今日はこの辺りで帰ることにするわ」
気を抜いてしまった挙句、お客様に気を遣わせてしまうことになるとは……キヴォトス一のバリスタを志す者として言語道断だ。
「今日は本当にありがとう。パンケーキ、とても美味しかったわ。こんなに充実した時間が過ごせたのは久しぶりだった」
「私も、空崎さんのお話をたくさんお聞きできてとても嬉しかったです。よろしければまた
「い、いやいやっ、さすがにそれは申し訳ないし……」
そんなやり取りを交わしながら会計を済ませた空崎さんは、パタパタと背中から生える羽を忙しなくはためかせながら、足早に出入り口へと向かっていく。
そそくさと扉の取手に手を伸ばす、空崎さん。
退店間際。
彼女はその場でしばし立ち止まると、意を決したように身を翻してこちらを見上げ、今にも消え入りそうな声音で、ひっそりと。
「……………………………………いいの?」
『喫茶キヴォトス』の経営理念は、学園都市に暮らす生徒達に居場所と安息を提供すること。
「ええ、もちろん」
窮屈で不合理な現代を強かに生き抜く生徒達にとって、『喫茶キヴォトス』がどうか、肩の荷を下ろして心を落ち着かせられる拠り所となれるように。
「私はいつでも──『
みんなの頼れる”店長”として、心に葛藤を抱く者達の来店を私は静かに待ち侘びている。
***
「…………つ、疲れた」
先程、シャーレでの当番を終えた私──黒見セリカは、疲労困憊の身体に何とか鞭を打って自宅への帰路についていた。
連邦捜査部
「なんなのよあの書類の山は……先生ひとりで捌き切れるわけないじゃない。キヴォトスの治安悪すぎ……まぁ、これは今に始まったことじゃないわね」
キヴォトスに先生が就任して以降、連邦生徒会長の失踪によって大混乱に陥っていた情勢は比較的落ち着きを取り戻してきているように感じる。
そしてこれは、私個人としては少々不本意なのだが……学園都市に数多として存在する教育機関の中でも、アビドス高等学校は先生就任による恩恵をかなり享受している部類に該当するだろう。
アビドスに先生が現れた当初、私は彼女の言動に対して疑心暗鬼な姿勢を見せていた。このままではいけないという自覚もあったが、私の性格上、他人に対して盲目的な信頼を置くことがどうしても出来なかった。
……けれど、バイト先である『喫茶キヴォトス』の店長からもらった助言をお守りがわりにすることで、少しづつではあるが先生の存在を受け入れられるようになってきた感覚がある。
以前に学校のみんなや先生と一悶着あってから、私は勇気を出して話し合いの場を設けてほしいとお願いした。先生には私から連絡して、素直に自身の気持ちを打ち明けたのだ。
──私はまだ、先生のことを信用できない。
この発言だけを切り取ると嫌味な生徒に思われても仕方のない話なのだが、お互いに歩み寄る必要がある中で本心を隠すのは……なんだか違うような気がしたから。
私はまだ、先生のことを何も知らない。先生だけじゃない。もしかしたら、これまで一緒に過ごしてきたアビドスのみんなのことだって、本当の意味で理解することができていないのかもしれない。
だから私はまず、自分のことを知ってもらう必要があると感じた。
度重なる理不尽な仕打ちの連続で疑心暗鬼に成り果てた私に寄り添ってくれた、店長のように。今度は私が、みんなに歩み寄る姿勢を見せなければならない。
お互いを理解する第一歩として、私は『喫茶キヴォトス』のカフェスタッフとして培ったコーヒーとサンドイッチを振る舞った。
私はあまり賢い人間ではないから、店長が私にしてくれた処世術をそのまま流用しただけだったけれど……それが意外にも、会話のきっかけに繋がったのだ。
先生は手作りの料理を振る舞った私にとても感謝してくれて、私と先生の間には”店長”という共通の話題で盛り上がれることに気が付いた。
また、アビドスのみんなからも料理の味は好評で、『喫茶キヴォトス』の存在に興味を持ってくれたのだ。
興味を持ってくれたからといってバイト先に押しかけられると、それはそれで気まずいからイヤだけど……。
アビドスが抱える借金問題の解決に直結するわけではないが、少なくともその土台となる人間関係に関しては、比較的良い方向に進んできているんじゃないかと思う。
どれもこれも、可愛げのない私をアルバイトとして雇用してくれた店長のおかげだ。せっかくだから今度、休憩時間に手作りラーメンを作ってあげようかな……日頃の感謝も込めて。
「…………って。店長のこと考えてたらなんか、駅じゃなくて『
間違えて寄ってしまった、と言っても『喫茶キヴォトス』はシャーレの部室棟から最寄駅に向かう途中に位置しているため、一つ手前の交差点を曲がってしまっただけだ。
「この時間だと……もう閉店しちゃってるか。どうせ明日バイトだし、今日は大人しく帰ろうかな」
想像以上にシャーレ当番の業務が過酷だったこともあり、現在時刻はすでに午後九時を回っている。
本来であれば当番を終えたあとに客として『喫茶キヴォトス』へ足を運ぼうと考えていたが、書類の山に埋もれる先生の背中があまりも不憫で居た堪れなかったので、手伝っていたら時間に……。
明日も変わらず開店から閉店までシフトを組んでいるし、遅刻しないためにも早く家に帰ろう。
足早にD.U市街地の通路を進んでいると……視界の先にふと、『喫茶キヴォトス』の店内から照明の光が溢れていることに気が付いた。
まだ営業しているのかと思いスマホで時刻を確認するが、閉店の時刻はすでに過ぎている。
「……さては店長、締め作業に気を取られてシャッターを閉め忘れているんじゃない?」
まぁでも、店長が閉店業務の一部が後回しになってしまうのも無理はない。なぜならシャッターの開閉やホールの清掃はアルバイトが担当することになっているし、平日シフトに入っていることが多い鬼方先輩も、週末は便利屋としての活動に専念していると聞いている。
店長やアロナちゃんだけで締め作業をするのは大変だろう。たまたま主力カフェスタッフの私が近くを通りかかったことだし、ちょっくら顔を出してお手伝いをしてあげようかな……ふふん。
店長も私の顔を見たら喜んでくれるに違いない……無意識にそんなことを考えながら、らしくもなく浮かれた気持ちで出入り口の扉に手をかけた時のことである。
「………………え?」
閉店時間を迎えているにも関わらず……店内から
……いったい私はなぜ、反射的に身体を隠してしまったのか。別に普通に入ればよかったのに、やましい気持ちなんて何もないはずなのに。
私は姿勢を低くしたまま、窓の隙間から店内の様子を盗み見る。
(あの制服は確か、今日シャーレの部室に来ていたゲヘナ学園の空崎先輩……)
空崎先輩とは先程、シャーレでの当番中に少し会話をしたから多少なりとも人となりを知ってはいるのだが……店長と会話する雰囲気から察するに、私と同じ『喫茶キヴォトス』の常連客のようだ。
……でも、一体どうして、閉店時間を迎えた店内に空崎先輩がいるのだろうか。
業務時間外の店長とあんなに楽しそうに話して、笑って……あんな穏やかな店長の表情、私だって見たことないのに…………っ。
──ずるい。
仲睦まじい二人の様子を覗き見ることに耐えられなくなった私は、胸に込み上げてきたイヤな気持ちを振り払うようにその場から走り去る。
足早に最寄駅の改札をくぐり、出発直前の電車に駆け込んで、モヤモヤとした感情を抱えたまま揺られることしばらく。
突如発生した自然災害に伴う過疎化ですっかりと衰退したアビドス自治区の住宅街を歩きながら、私は
私はきっと今、やきもちを焼いているのだろう。
本来であれば、あの場所に座っているのは私だったはずなのに。
閉店後の静謐な空間に立ち入ることができるのは、アルバイトとして店を支える私だけの特権なのに……っ。
「…………ダメ、疲れ過ぎて頭が回らないわ。早く家に帰って、お風呂入って寝よう」
そうすれば、この胸にちくちくと刺さる感情も落ち着いてくれるはず。
「…………? 今度は何よ?」
最寄駅を出てからしばらく進み、もう少しで家に到着するといったところで。
──ガサ、ガサガサガサ……っ。
背後からふと、複数人のまとまった足音がこちらへ近づいて来ることに気が付いた。
それらは足音を殺して気配を隠しているのだが、耳が良い私にとっては通用しない。むしろ、何か良からぬことを企てていると自らが証明してくれているようなものだ。
足音の数から逆算して……相手は五、十…………いや、もっといる?
「──ねぇ、あんたたち。私に何か用? つけてきてるのは分かってるんだから、大人しく顔を出しなさい」
私が不躾なストーカーたちを牽制すると、奴らは存外素直に暗闇の中から姿を現した。
素顔を隠すようにダサいヘルメットやガスマスクを着用した素行不良の集団には、生憎と心当たりがある。
キヴォトス各地で活動するカタカタヘルメット団の末端。とりわけ荒廃したアビドス自治区周辺にたむろするならず者たちで……幾度となく私の学校に襲撃を仕掛けてきた因縁のある存在だ。
そんな奴らを統率する親玉の一人がおもむろに前へ出てきて、沈黙を破るように私へ問うてきた。
「黒見セリカ……だな?」
「だったらなに? また返り討ちにあいにきたわけ? まったく……あんた達も懲りないわね」
アビドスの先輩達が揃っていると勝てないから、一人になった新入生を集団で闇討ちだなんて……随分と立派な負け犬根性じゃない。
私は愛銃『
…………あぁ、さいあく。
せっかく明日店長に会えるっていうのに。元気な姿を見せなきゃ、店長に心配されちゃう。
身体の怪我、ちゃんと隠せるかな……。
「……まぁいいわ。ちょうど虫の居所が悪かったの。私にちょっかいかけたこと、全員まとめて後悔させてあげる」
Tips:空崎ヒナ
常連客No.2。
疲労困憊のシナシナ状態で偶然立ち寄ってしまったが最後、悪い大人につけ込まれてしまった可哀想な風紀委員長。
最近、ラストオーダー間際に来店すれば店長を独り占めできるという、あまりよろしくない学習をしてしまった模様。
Tips:黒見セリカ
店長の助言もあって、先生とは比較的良好な関係性を築けている。
最近はラテ・アートの練習に精進しており、次回のバイトでその実力を店長に披露し、昇給を画策している。
本当はただ、店長に「頑張ったね」と褒めてほしいだけ。