Overlord: Blood Dominion ―血の王と死の王―   作:シュエル

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第2章:影の胎動
第1話 血の噂


 

 北風が村の屋根を撫で、角灯に火を吸い込んでいくように揺らした。

 辺境の居酒屋〈フクロウ〉は夕刻を過ぎても客が少ない。酒の匂いより、濡れた木の匂いが勝っているのは、今日に限ったことではない。誰もが声を潜め、耳ばかりが大きくなる――噂の夜だった。

 

「……聞いたかい、トバの森のことを」

 女将が壺酒を注ぎながら、カウンター越しにささやく。

「冒険者が十人、丸ごと消えたって」

 

「獣じゃねぇだろ」

 髭の老人が杯を握り直す。

「獣なら骨でも残る。森番の甥っ子が見たって言う。足跡が、途中から影のほうへ沈んでるって」

 

「影の……ほう?」

 若い荷運びが肩をすくめ、入口の暗がりをちらと見る。

「影が地面より濃い夜なんて、あるものか」

 

「あるさ」

 老人の声は低い。「夜は、いつでも一つじゃない」

 

 笑いは起こらなかった。

 壁にかけられた古い鼠捕りが、風にこすれてチリと鳴る。外を黒いものが横切った――鳥か、別の何かか、誰も確かめない。確かめる勇気を、酒は与えない。

 

「“血の王”は本当にいるの」

 女将は壺を抱えたまま、周りを見回す。

「名前だけが先に歩いてないかい。王様なら王冠があるはずだろ」

 

「王冠は影だ」

 隅の卓で、旅の神官らしい男がぽつりと漏らした。

「噂が冠だ。恐怖が玉座だ。――人は、名付けることで災いの形を作る」

 

「神官様、神の名で追い払ってはくれないのかい」

 女将の冗談は、冗談に聞こえなかった。

 

 神官は杯を傾け、少しだけ微笑んだ。「神が沈黙する夜もある」

 

 沈黙が店を満たす。

 扉の上の鈴が、誰にも触れられていないのにチ……と鳴った。気のせいだ、と誰もが思おうとした。

 

 外の空を、一羽の蝙蝠が円を描く。

 その黒い点は次第に増え、やがて夜の布の縫い目になった。見上げる者はいない。見上げてしまえば、噂が目を持つからだ。

 

          ◇

 

 ナザリック地下大墳墓・玉座の間。

 光は計算され、影は支配されている。秩序の空気は冷たく澄み、噂の粒子は一つも入り込めないはずだった。

 

 だが、世界の端のささやきは、別の経路でここに届く。

 使い魔の視界。密偵の報。恐怖が生む統計――それらが今、半透明の魔導投影として宙に浮かんでいた。

 

「各国の市井で“血の王”の名称出現頻度が急上昇。王国北部、帝国南縁、法国辺境で顕著――」

 デミウルゴスが眼鏡の脚を指先で押し上げる。

「特筆すべきは、噂の伝播速度が人の移動速度を上回っていること。これは“恐怖そのもの”が情報の運び手になっている可能性を示唆します」

 

「よく燃える薪は、風を待たぬというわけだ」

 赤いコートが玉座の間の側廊から姿を見せる。

 アーカードは投影の周りを、音楽を聴くような足取りで一周した。

「名は血だ。血は温かいほど、速く流れる」

 

 玉座の上の王――アインズ・ウール・ゴウンは、静かに杖を取り、投影を一点だけ拡大させる。

 酒場。蝙蝠。角灯。震える指。

 どれも取るに足らぬ断片――だが、世界の温度はそこに宿る。

 

「……我らの存在が、形になって届いている」

 アインズの声は深く、微かに響いた。

「届き方は制御できるか?」

 

「制御という語の選びは難しいですね、アインズ様」

 デミウルゴスは唇の端に穏やかな微笑を乗せる。

「“恐怖”は枠に入れると別の名になります――“威光”や“畏敬”といった。ですが、アーカード様の示す恐怖は構造上、枠を撥ねます。枠が彼の舞台装置ですから」

 

「枠は舞台装置、か。良い」

 アーカードが帽子のつばに触れ、紅の瞳を王へ傾けた。

「王よ、噂は礼だ。世界がこちらへ視線を寄越した。視線には返礼が必要だ」

 

「返礼?」

 アルベドの眉がわずかに動く。「具体的には?」

 

「静かに、だ」

 アーカードは指を一本立てる。

「こちらはただ、在る。

 息遣いを聞かせ、足音だけを落とし、名の匂いを残す。

 人間は空白を恐れ、空白に物語を塗る。その物語が、やがて現実を作る。――私の名は、彼らの恐怖が練り上げる」

 

「放置ではないか」

 アルベドの声音に氷が混じる。「秩序には輪郭が必要です」

 

「輪郭なら、君の主が与える」

 アーカードの笑みは礼節的で、しかし血の味を含んでいる。

「私は輪郭の外をなぞるだけだ。線は二本あったほうが、強い」

 

 アインズは短く考え、答えを一つだけ置いた。

「――よかろう。当面、噂の自走を観察する。だが逸脱が出る前に、こちらの“形”も配っておく」

 

 杖の先が床石に触れ、魔導印が花のように開く。

 投影が揺らぎ、象が増える。

 “支配者の紋章”。

 “王の掟”。

 “ナザリックの名”。

 世界に与える最小限の輪郭――秩序の糸口だ。

 

「王国は動くでしょう」

 デミウルゴスが静かに結ぶ。

「北方軍は士気を試す好機と見ます。“噂に実体なし”を証明するため、偵察――もしくは小隊規模の討伐を」

 

「来るがいい」

 アーカードは軽く笑い、投影の一点に人差し指を置いた。

 指先に吸い寄せられるように、黒い染みが地図の森へ沈む。

「歓迎は、静かに手厚く」

 

「歓迎とは、命を落とさせることか」

 アルベドの視線が針になる。

 しかしアインズが手を上げた。「よい」

 

 王の言葉は短く、確かな重みで落ちる。

「“最小の動きで最大の理解を得る”――それが我の望む返礼だ。アーカード」

 

「御意」

 吸血鬼は一礼した。

 皮肉の曲線はなく、純粋な礼。

「王の静寂に、呼吸だけ置いておこう」

 

          ◇

 

 王都の執務室。

 毛皮の敷物の上に、地図が広がる。

 紙は新しく、鉛筆の黒がまだ乾ききっていない。

 将軍と書記官、宰相代理。三つの頭が、同じ一点を睨んでいた。

 

「――“影の領域”?」

 宰相代理が繰り返す。

「詩ではないのか。斥候の報告に形容は要らん」

 

「形容ではありません」

 書記官が報告書をめくり、唇を乾かすように吸った。

「影が濃密で、灯りが吸い込まれる、との証言が複数。樹々の葉は赤い。風音が消える。足跡が途中で見えなくなる。……特に、最後の一点は重い」

 

「足跡が消えることの何が重い」

 将軍が鼻で笑う。

「降ったのだ、影の雨でも砂でも。辺境の兵はすぐに詩人ぶる」

 

 そのとき、窓辺の鳥止まりがカタリと鳴った。

 夜雀が一羽、誰にも見られない動きで羽を震わせ、外へ消える。

 将軍の笑いは喉で止まった。理由のない寒気が背で細くなる。

 

「偵察を出す」

 宰相代理が結論を置く。「十人。速やかに。――証明するのだ、影がただの名であると」

 

 誰も異を唱えない。

 名は、事実の前にまず行進する。

 そして、ときに事実を押し出す。

 それを止める術を、彼らは持たない。

 

          ◇

 

 〈フクロウ〉の扉に、いつの間にか札が打ちつけられている。

 “夜間閉店”。

 風が札の端を揺らすたび、鈴がひと鳴きする。

 

「神官様、もう一杯」

 女将の声は低い。「安くしとくよ。帰り道に……何も、出ませんように」

 

「祈ろう」

 神官は杯を伏せ、指先で静かに印を切る。

「夜に礼節がありますように。

 そして、我らに耳がありますように」

 

 外の路地を、兵の靴音が通り過ぎる。

 十、九、八――数えた者はいないが、だいたい十。

 噂は耳を閉じた者の背中にも乗る。

 

 空をまた、一羽、黒い点が渡った。

 もう一つ。もう一つ。

 やがてそれは、見上げる者がいれば気づいてしまうほどの、模様になる。

 

          ◇

 

 玉座の間。

 アインズは立ち上がり、魔法投影の光を一つ、落とした。

 静寂が深くなる。

 静寂は王の楽器だ。張るほど、奏でる音は小さくてすむ。

 

「始まる」

 王は言い、誰にも命じないまま命じた。

「――観よ」

 

 アーカードは微笑む。

 紅の瞳が、遠い夜の端を撫でた。

「承知。……世界、聞こえるか。お前の鼓動を」

 

 彼は踵を返し、影へ溶ける。

 その足跡は残らない。残るのは、噂の形だけだ。

 

 デミウルゴスは胸に手を当て、眼鏡の奥で火を細くする。

(恐怖は秩序を補う。王は輪郭を与え、夜は陰影を与える)

(均衡――だが、胎動でもある)

 

 アルベドは玉座の階の下で目を閉じた。

 忠誠は剣。恐怖は錆。

 錆は、美を損ねるが、時間を見せもする。

 彼女は静かに息を整えた。王の美を守るために。

 

          ◇

 

 辺境の森へ、十の影が入っていく。

 彼らが踏み入れたのは、地図の緑ではない。噂の黒だ。

 地面は柔らかく、風は言葉を飲み込み、灯りは影へ吸われる――

 

 その様子を、誰かが見ていた。

 蝙蝠か。森か。夜そのものか。

 いずれにせよ、目があった。

 噂は、目を得ると現実になる。

 

 居酒屋〈フクロウ〉の札が風に鳴る。

 神官は祈り、女将は扉に閂を降ろす。

 老人は杯を逆さにして、しばし黙る。

 若者は眠れず、窓の外の黒い模様を見つめた。

 

 その夜、王国の北では、

 **“血の王”**という名が初めて祈りの言葉に混ざった。

 脅しでも呪いでもない、純粋な祈り――

 どうか、我らの夜に礼節を。

 どうか、命が形を保ちますように。

 どうか、朝が来ますように。

 

 祈りは、届く。

 祈りが届く先が、神か、王か、夜かは――

 まだ、誰にも、わからない。

 

噂は足を得た。

次に血が、足を得るだろう。

そして世界は、静かに傾き始める。

影の胎動は、もう始まっているのだから。

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