Overlord: Blood Dominion ―血の王と死の王― 作:シュエル
第1話 血の噂
北風が村の屋根を撫で、角灯に火を吸い込んでいくように揺らした。
辺境の居酒屋〈フクロウ〉は夕刻を過ぎても客が少ない。酒の匂いより、濡れた木の匂いが勝っているのは、今日に限ったことではない。誰もが声を潜め、耳ばかりが大きくなる――噂の夜だった。
「……聞いたかい、トバの森のことを」
女将が壺酒を注ぎながら、カウンター越しにささやく。
「冒険者が十人、丸ごと消えたって」
「獣じゃねぇだろ」
髭の老人が杯を握り直す。
「獣なら骨でも残る。森番の甥っ子が見たって言う。足跡が、途中から影のほうへ沈んでるって」
「影の……ほう?」
若い荷運びが肩をすくめ、入口の暗がりをちらと見る。
「影が地面より濃い夜なんて、あるものか」
「あるさ」
老人の声は低い。「夜は、いつでも一つじゃない」
笑いは起こらなかった。
壁にかけられた古い鼠捕りが、風にこすれてチリと鳴る。外を黒いものが横切った――鳥か、別の何かか、誰も確かめない。確かめる勇気を、酒は与えない。
「“血の王”は本当にいるの」
女将は壺を抱えたまま、周りを見回す。
「名前だけが先に歩いてないかい。王様なら王冠があるはずだろ」
「王冠は影だ」
隅の卓で、旅の神官らしい男がぽつりと漏らした。
「噂が冠だ。恐怖が玉座だ。――人は、名付けることで災いの形を作る」
「神官様、神の名で追い払ってはくれないのかい」
女将の冗談は、冗談に聞こえなかった。
神官は杯を傾け、少しだけ微笑んだ。「神が沈黙する夜もある」
沈黙が店を満たす。
扉の上の鈴が、誰にも触れられていないのにチ……と鳴った。気のせいだ、と誰もが思おうとした。
外の空を、一羽の蝙蝠が円を描く。
その黒い点は次第に増え、やがて夜の布の縫い目になった。見上げる者はいない。見上げてしまえば、噂が目を持つからだ。
◇
ナザリック地下大墳墓・玉座の間。
光は計算され、影は支配されている。秩序の空気は冷たく澄み、噂の粒子は一つも入り込めないはずだった。
だが、世界の端のささやきは、別の経路でここに届く。
使い魔の視界。密偵の報。恐怖が生む統計――それらが今、半透明の魔導投影として宙に浮かんでいた。
「各国の市井で“血の王”の名称出現頻度が急上昇。王国北部、帝国南縁、法国辺境で顕著――」
デミウルゴスが眼鏡の脚を指先で押し上げる。
「特筆すべきは、噂の伝播速度が人の移動速度を上回っていること。これは“恐怖そのもの”が情報の運び手になっている可能性を示唆します」
「よく燃える薪は、風を待たぬというわけだ」
赤いコートが玉座の間の側廊から姿を見せる。
アーカードは投影の周りを、音楽を聴くような足取りで一周した。
「名は血だ。血は温かいほど、速く流れる」
玉座の上の王――アインズ・ウール・ゴウンは、静かに杖を取り、投影を一点だけ拡大させる。
酒場。蝙蝠。角灯。震える指。
どれも取るに足らぬ断片――だが、世界の温度はそこに宿る。
「……我らの存在が、形になって届いている」
アインズの声は深く、微かに響いた。
「届き方は制御できるか?」
「制御という語の選びは難しいですね、アインズ様」
デミウルゴスは唇の端に穏やかな微笑を乗せる。
「“恐怖”は枠に入れると別の名になります――“威光”や“畏敬”といった。ですが、アーカード様の示す恐怖は構造上、枠を撥ねます。枠が彼の舞台装置ですから」
「枠は舞台装置、か。良い」
アーカードが帽子のつばに触れ、紅の瞳を王へ傾けた。
「王よ、噂は礼だ。世界がこちらへ視線を寄越した。視線には返礼が必要だ」
「返礼?」
アルベドの眉がわずかに動く。「具体的には?」
「静かに、だ」
アーカードは指を一本立てる。
「こちらはただ、在る。
息遣いを聞かせ、足音だけを落とし、名の匂いを残す。
人間は空白を恐れ、空白に物語を塗る。その物語が、やがて現実を作る。――私の名は、彼らの恐怖が練り上げる」
「放置ではないか」
アルベドの声音に氷が混じる。「秩序には輪郭が必要です」
「輪郭なら、君の主が与える」
アーカードの笑みは礼節的で、しかし血の味を含んでいる。
「私は輪郭の外をなぞるだけだ。線は二本あったほうが、強い」
アインズは短く考え、答えを一つだけ置いた。
「――よかろう。当面、噂の自走を観察する。だが逸脱が出る前に、こちらの“形”も配っておく」
杖の先が床石に触れ、魔導印が花のように開く。
投影が揺らぎ、象が増える。
“支配者の紋章”。
“王の掟”。
“ナザリックの名”。
世界に与える最小限の輪郭――秩序の糸口だ。
「王国は動くでしょう」
デミウルゴスが静かに結ぶ。
「北方軍は士気を試す好機と見ます。“噂に実体なし”を証明するため、偵察――もしくは小隊規模の討伐を」
「来るがいい」
アーカードは軽く笑い、投影の一点に人差し指を置いた。
指先に吸い寄せられるように、黒い染みが地図の森へ沈む。
「歓迎は、静かに手厚く」
「歓迎とは、命を落とさせることか」
アルベドの視線が針になる。
しかしアインズが手を上げた。「よい」
王の言葉は短く、確かな重みで落ちる。
「“最小の動きで最大の理解を得る”――それが我の望む返礼だ。アーカード」
「御意」
吸血鬼は一礼した。
皮肉の曲線はなく、純粋な礼。
「王の静寂に、呼吸だけ置いておこう」
◇
王都の執務室。
毛皮の敷物の上に、地図が広がる。
紙は新しく、鉛筆の黒がまだ乾ききっていない。
将軍と書記官、宰相代理。三つの頭が、同じ一点を睨んでいた。
「――“影の領域”?」
宰相代理が繰り返す。
「詩ではないのか。斥候の報告に形容は要らん」
「形容ではありません」
書記官が報告書をめくり、唇を乾かすように吸った。
「影が濃密で、灯りが吸い込まれる、との証言が複数。樹々の葉は赤い。風音が消える。足跡が途中で見えなくなる。……特に、最後の一点は重い」
「足跡が消えることの何が重い」
将軍が鼻で笑う。
「降ったのだ、影の雨でも砂でも。辺境の兵はすぐに詩人ぶる」
そのとき、窓辺の鳥止まりがカタリと鳴った。
夜雀が一羽、誰にも見られない動きで羽を震わせ、外へ消える。
将軍の笑いは喉で止まった。理由のない寒気が背で細くなる。
「偵察を出す」
宰相代理が結論を置く。「十人。速やかに。――証明するのだ、影がただの名であると」
誰も異を唱えない。
名は、事実の前にまず行進する。
そして、ときに事実を押し出す。
それを止める術を、彼らは持たない。
◇
〈フクロウ〉の扉に、いつの間にか札が打ちつけられている。
“夜間閉店”。
風が札の端を揺らすたび、鈴がひと鳴きする。
「神官様、もう一杯」
女将の声は低い。「安くしとくよ。帰り道に……何も、出ませんように」
「祈ろう」
神官は杯を伏せ、指先で静かに印を切る。
「夜に礼節がありますように。
そして、我らに耳がありますように」
外の路地を、兵の靴音が通り過ぎる。
十、九、八――数えた者はいないが、だいたい十。
噂は耳を閉じた者の背中にも乗る。
空をまた、一羽、黒い点が渡った。
もう一つ。もう一つ。
やがてそれは、見上げる者がいれば気づいてしまうほどの、模様になる。
◇
玉座の間。
アインズは立ち上がり、魔法投影の光を一つ、落とした。
静寂が深くなる。
静寂は王の楽器だ。張るほど、奏でる音は小さくてすむ。
「始まる」
王は言い、誰にも命じないまま命じた。
「――観よ」
アーカードは微笑む。
紅の瞳が、遠い夜の端を撫でた。
「承知。……世界、聞こえるか。お前の鼓動を」
彼は踵を返し、影へ溶ける。
その足跡は残らない。残るのは、噂の形だけだ。
デミウルゴスは胸に手を当て、眼鏡の奥で火を細くする。
(恐怖は秩序を補う。王は輪郭を与え、夜は陰影を与える)
(均衡――だが、胎動でもある)
アルベドは玉座の階の下で目を閉じた。
忠誠は剣。恐怖は錆。
錆は、美を損ねるが、時間を見せもする。
彼女は静かに息を整えた。王の美を守るために。
◇
辺境の森へ、十の影が入っていく。
彼らが踏み入れたのは、地図の緑ではない。噂の黒だ。
地面は柔らかく、風は言葉を飲み込み、灯りは影へ吸われる――
その様子を、誰かが見ていた。
蝙蝠か。森か。夜そのものか。
いずれにせよ、目があった。
噂は、目を得ると現実になる。
居酒屋〈フクロウ〉の札が風に鳴る。
神官は祈り、女将は扉に閂を降ろす。
老人は杯を逆さにして、しばし黙る。
若者は眠れず、窓の外の黒い模様を見つめた。
その夜、王国の北では、
**“血の王”**という名が初めて祈りの言葉に混ざった。
脅しでも呪いでもない、純粋な祈り――
どうか、我らの夜に礼節を。
どうか、命が形を保ちますように。
どうか、朝が来ますように。
祈りは、届く。
祈りが届く先が、神か、王か、夜かは――
まだ、誰にも、わからない。
噂は足を得た。
次に血が、足を得るだろう。
そして世界は、静かに傾き始める。
影の胎動は、もう始まっているのだから。